✳
――空。
俺、ここまで来たよ。
一昨日、俺たちは――甲子園を懸けた決勝戦への切符を手にした。
去年は、届かなかった場所。
そして今日、その決勝戦が、いよいよ始まろうとしている。
真夏の太陽が照りつける球場。
スタンドには応援団の姿。
俺たちの戦いを、たくさんの人が見に来てくれている。
――絶対に勝つ。
絶対に、甲子園に行く。
この青空の下で、力を出し切るんだ。
「おい、整列だ」
キャプテンのひと声で、気持ちが引き締まる。
俺はベンチから立ち上がり、青空の下へ歩き出した。
「青、思いっきりやれよ。楽しめ!」
隣にいた町先輩が、勢いよく俺の背中を叩いた。
「うっす!」
自然と笑顔になる。
頑張るから、見ててくれ。
どこにいてもいい。俺の姿を見ててくれ、空。
「ただいまより、藤青学園高校と日成学園高校の試合を開始します。礼!」
「「お願いしますっ!」」
両校の声が、球場に響き渡る。
始まるんだ。熱くて、眩しい夏が――。
✳
五回裏、俺たちの攻撃。
2アウト三塁、スコアは1対1の同点。
「3番、ショート、山口くん」
アナウンスが響き、応援席がどっと沸く。
山口は俺と同じ二年。小柄だが俊敏で、三番ショートという藤青の要。
そのバッドは、頼りになる。
俺はベンチの前に立ち、深く息を吸った。
「先輩、背中、叩いてください」
背後にいた舟橋先輩に声をかけると、無言で立ち上がった先輩が俺の肩に手を置く。
「青、かっ飛ばしてこい!」
ズンと響く一撃が背中に届いた。
「うっしっ……!」
気合がみなぎる。
俺はネクストサークルに向かい、腰を落ち着けた。
山口がバッドを構え、相手投手を鋭く睨む。
そして――
__カコーン!
快音が響く。
打球はショートの左を破り、外野へと転がった!
「っしゃぁああ!!」
俺の声と、ベンチの歓声が重なる。
三塁ランナーが生還し、山口は二塁で力強くガッツポーズ。
やるじゃん、山口。
自然と笑みがこぼれる。
「かっ飛ばせー、あーおっ!」
スタンドからも応援の声が飛ぶ。
俺はもう一度、深呼吸した。
――そのとき、空の声が脳裏に浮かぶ。
『青っ! かっ飛ばさなかったらぶっ飛ばすっ!』
ふっと笑みが漏れる。
ピッチャーが振りかぶった。
そして――
__カキーン!
乾いた音とともに、白球は高く舞い上がる。
青空へ、吸い込まれるように。
「わぁぁぁあ!!!」
ボールはレフトスタンドへ突き刺さった。
「回れ回れっ!」
ベンチの声が飛ぶ。
すべてが気持ちよかった。
青空が、まるで俺の味方をしてくれているみたいだった。
ホームを踏み、ベンチに戻ると――背中にまた一撃。
「いってぇ……なんすかっ!」
振り返ると、笑顔の町先輩がいた。
「おう、青! ナイスだ。これで3対1。けど、油断すんなよ」
そう言って、もう一度バシッと叩かれる。
「油断しませんよ! この試合、絶対勝ちますから!」
前を行く町先輩に声をかけると、先輩は振り返り、真剣な表情でうなずいた。
『5番、キャッチャー、町くん』
町先輩がバッターボックスへ向かう。
その背中は、誰よりも頼もしい。
俺の相棒――俺を一番理解してくれている人。
「かっ飛ばせぇー! 町先輩っ!」
ベンチから声を張る。
このメンバーで、甲子園へ行きたい。
__カキーン!
再び快音が響く。
「わぁぁぁあ!!」
藤青、本日2本目のホームラン。
町先輩が高く片手を上げ、ダイヤモンドを駆け抜ける。
その背中が、まぶしかった。
スコアは5対1。
――勝てる。そう思った。
けれど、その油断が命取りになった。
次の回、俺たちは三者凡退。
守備に入ると、相手の猛攻が始まった。
__カキーン……
打球がセンターとレフトの間に落ちる。
「……っ!」
気がつけば、5対4。ノーアウト。
焦りだけが募っていく。
「タイム!」
町先輩がマウンドに向かう。
険しい表情。でも、声は――
「青。ここで負けていいのか?」
怒鳴られると思った。
でもその声は、優しかった。
「……絶対に負けたくないっす!」
俺は、目を見て答えた。
町先輩は、しっかりうなずく。
「しっかりやれ!」
そう言って、持ち場へ戻っていった。
俺は深く息を吸い、町先輩のサインにうなずいた。
そして――
「ストライク! バッターアウト!」
続く2人も連続三振で斬る。
ピンチを脱し、5対4で抑えた。
ベンチに戻ろうとすると、また背中に手が。
「青、よく抑えたなっ」
町先輩だった。穏やかな声と笑顔。
「……すいません。俺、油断してました……」
うつむいた俺に、町先輩は笑って言った。
「何言ってんだ。切り替えただろ? それで十分だ」
顔を上げると、先輩の背中がやっぱりまぶしかった。
――もう、気を抜かない。
俺は心に誓って、その背中を追った。
「青、お前、よく抑えたじゃねぇか!」
ベンチに腰を下ろした瞬間、また背中に一発。
「いってぇ……って、夏樹かよ!」
笑いながら、その手をはたく。
「青、お前、いいとこ持ってくなぁ!」
「まあな」
「羨ましいぜ。あの舞台でプレーできるなんてさ」
夏樹は俺の隣に腰を下ろし、前を見据える。
彼は、町先輩の後継として期待されているキャッチャー。
けど今は、ベンチにいる。
「夏樹なら、絶対立てるさ。お前、いい奴だし」
そう言って、俺は夏樹の背中をバシッと叩いた。
「……ったぁ。いい奴って、試合に関係あるか?」
少し笑いながら、夏樹が言う。
「知らねっ」
俺も笑いながら、そう答えた。
「俺の分も楽しんでこいよ」
夏樹が小さくつぶやいた。
――その横顔は、少し悔しそうだった。
俺には、試合に出ていない仲間の分までプレーする責任がある。
野球を、心から楽しむ義務がある。
夏樹の言葉が、それを思い出させてくれた。
「もちろん」
そう言って、俺は笑った。
そして、青空を見上げる。
『青、頑張れっ』
どこからか、空の声が聞こえた気がした。
空のいる空から――。
「何1人で笑ってんだよ、青。気持ち悪ぃ」
夏樹が不思議そうに言う。
「なんでもねぇよ。ただ……勝たなきゃなって思ってさ」
俺は静かに答えた。
――空。そうだよな。
ここで負けたら、お前に笑われちまう。
絶対に勝つ。
何があっても、甲子園に行くんだ。
✳
九回裏、2アウト満塁。
俺たちの最後の攻撃。スコアは6対7。
逆転の可能性は、まだある。
『4番、ピッチャー、相原君』
アナウンスが俺の名を呼ぶ。
次も、かっ飛ばす。
勝つために――かっ飛ばしてやる。
「青、お前ならできる!」
背後から夏樹の声が聞こえた。
こんな最高の仲間が、俺にはいる。
俺は打席に立ち、バットを構える。
相手ピッチャーは、大分球数が増えていた。
握るバットが、手のひらにしっくりくる。
俺は構えを取り、相手を睨みつけた。
「プレイ!」
球審の声とともに、勝負が始まる。
相手の投手が振りかぶり、ボールが――
__ストライク!
「くっ……!」
速い。でも、見えてる。
俺は構え直し、次を待つ。
二球目。
低めいっぱいのストレート。
「ストライク!」
ツーストライク。
追い込まれた。でも――
まだ、終わらせねぇ。
俺はもう一度、空を見上げる。
青空は、どこまでも続いていた。
「――かっ飛ばせ、青っ!」
夏樹の声が背中を押してくれる。
町先輩も、ベンチで拳を握ってる。
スタンドからも、空からも、声が聞こえる気がする。
『青、信じてるよ』
俺は、バットを強く握った。
ピッチャーが振りかぶる。
来い――この一球で、全部ひっくり返してやる!
__カキーン!
乾いた快音が球場に響く。
打球は、高く、高く――ライトの頭上を超えた!
「行けぇぇぇぇえ!!!」
全員が叫ぶ。
走れ。走れ俺! 一塁、二塁、三塁――!
「青っ! ホームだ!!」
コーチャーの腕が回る。
俺は、息を切らしながらホームベースを踏み込んだ。
「……っしゃぁぁぁああああ!!!」
球場が沸き立つ。
スコアボードに「8-7」の数字が刻まれた。
逆転。
サヨナラ勝ち。
藤青、初の――甲子園出場決定。
町先輩が、俺に駆け寄ってきた。
「青……! お前、やりやがったなっ!」
そのまま、力強く抱きしめられる。
「っす……俺、やりましたっ!」
笑いながら、涙がこぼれた。
俺たちは、やっと――この場所に、来られたんだ。
スタンドの歓声、仲間の叫び。
そして、空からの光。
ふと、空を見上げた。
そこには、まぶしいほどの青が広がっていた。
『――青、かっこよかったよ』
聞こえた気がした。
お前の声が、確かに。
――空。
俺たち、夢、叶えたよ。
俺は、前に進むよ。
このメンバーとともに、この最高の仲間とともに……甲子園へ。あの夢の大舞台へ――――。
✳
蝉が鳴く季節。
あの夏が、また巡ってきた。
病室の窓の外にも、蝉たちの声が届いている。
今日は抗がん剤の投与はお休みで、体も心も、少しだけ軽い。
見上げた空には、雲ひとつない青が広がっていた。
そのあまりの眩しさに、思わず笑みがこぼれる。
今ごろ、青は――
甲子園出場をかけて、汗を流している頃だろうか。
私は、あれから学校には戻れず、ずっとこのベッドの上。
髪はすっかり抜けてしまい、季節外れの毛糸の帽子をかぶっている。
「女の子だからね」って、お母さんが編んでくれた、水色の帽子。
ベッドの横には、クラスのみんなが折ってくれた千羽鶴。
先日、美和が「頑張ったご褒美だよ」って届けてくれた。
無理に笑おうとしながらも、今にも泣き出しそうな顔で――
カチャリ、とドアが開く音がした。
顔を向けると、そこにいたのは、息を切らせた美和だった。
……え……?
今って、授業中のはずじゃ――
「なんで……?」
思わず、かすれた声が漏れる。
美和は、しわくちゃになった新聞を握りしめたまま、私の目の前に広げた。
「空! 青くん、甲子園出場決めたよ!」
……甲子園……?
紙面の大見出しには――
「藤青学園、甲子園出場決定」の文字。
思わず目を疑って、何度も見返す。
間違いじゃない。
そこには、汗だくで仲間たちと抱き合う、青の姿が写っていた。
美和の顔は、泣いてるのか笑ってるのか、もう分からない。
涙と笑顔が混ざって、ぐしゃぐしゃだった。
青が――本当に――
あの約束を、叶えてくれたんだ。
頬を伝って、涙がぽろぽろとこぼれた。
「空……青くん、甲子園に行くんだよ……!」
美和の優しい声が、胸の奥まで染みてくる。
私はそっと、窓の外に目を向けた。
青空が、どこまでも澄みきっていた。
――青。
あなたは、ちゃんと、自分の道を進んでいたんだね。
やっぱり、強い人だ。
あのとき、私はそばにいないという選択をした。
それでも、後悔はしていない。
あなたが夢を叶えるのを、ここで見届けられるなら――
たとえ会えなくても、届かなくても、
私は、ずっと応援してる。
この命がある限り。
尽きるその瞬間まで。
「……美和、ありがとう」
涙でぐしゃぐしゃのまま、それでも、私は笑った。
精一杯の、心からの笑顔で。
美和もまた、泣きながら、でもやっぱり笑って、
「うん」と、静かにうなずいてくれた。
甲子園まで、あと――十日。
✳
今日の朝刊を見た瞬間、私は思わず走り出していた。
空がいる、あの病院へ。学校なんて、どうでもいい。
早く、早く……このことを空に知らせなきゃ。
運がいいことに今日は青空で、走る分には気持ちがいい。
まるで青空が、空と私をつないでくれているよう。
病院の廊下を走っているとき、看護師さんになんどか注意されたけど、そんなの知らない。
一刻も早く早く……。
私は勢いよく病室のドアを開けた。
空は予想通り、驚いた顔をする。
いつもなら私は学校で1限目の授業を受けている時間だから。
「なんで……きたの?」
空の声は今にも消えてしまいそうだった。
前来た時よりも、確実に弱ってきている。
私は手に握っていた新聞を広げ、空の前に差し出した。
「空!青くん、甲子園出場決めたよっ」
空は、唖然としていた。
私の目からはなぜかはわからないけど涙があふれて来た。
なんで、こんな時に涙が。
泣きたいのは私じゃなくて、空なのに。
必死に涙をこらえようとするけど、笑おうとするけど、止まらない涙。
そして、空の目からも、涙があふれてきた。
「空、青くんここにくるよっ。あの甲子園球場に……」
甲子園球場はこの病院からとても近い。たぶん徒歩5分くらいのところにある。
空は、何を思ったのか、顔を窓に向けた。
きっと、青くんのこと思ってるんだ。
青くんにこの小さな病室から青空へエールを送っているんだ。
青くんに届くように――――。
「美和。ありがと」
そう言う空の顔は涙でぐしょぐしょだけど、綺麗な笑顔だった。
——そんな笑顔を見せられたら、私まで、笑顔になる。
一瞬、時間が止まったみたいだった。
でも、すぐに私は気を取り直して、空のベッドに新聞を置いた。それから空の病室を出た。
目は、泣いたからちょっと腫れているけど気にしない。
私はゆっくりと、学校へ歩いた_____。
✳
「はい、美和遅刻っ!」
教室に入った瞬間、飛んできた声。
もう4限目が終わり、弁当の時間だった。
「ごめんごめんっ」
私は笑いながら謝る。
すると、クラスの会長が、教卓の前に立った。
「はいはい。皆さん着席っ」
突然のことに、私含め皆、訳が分からないという顔をしているが、言われるがまま自分の席に座った。
「美和、お前、空のところ行ってきたんだろ?」
会長が、ドヤ顔で私に聞いてくる。
「あ、うん」
私は、唖然としていた。
クラスの会長、川崎誠。皆、誠のことは会長って呼ぶ。顔はイケメンと皆は言うけど、私からしてみればどこが?って感じ。
成績はいつも学年トップで頭脳明晰。野球部に所属していて、運動神経は抜群。クラスをまとめる力もあり、皆から信頼されている。だから、クラスの会長なんだけど。
「俺らの将星高校も今年甲子園に出場を決めたわけで。なんと1回戦目は藤青。もちろん俺たちの学校は全校応援ってなわけ……。わかるよな?」
会長がにやっと笑う。
そして、同じ野球部のやつらも同じように笑った。
会長の考えていることはわかった。
「要は、空と青を会わせるってことでしょ?」
クラスの誰かが口にする。
すると、会長は首を縦に振った。
「どうやって?空、外出届け出るかどうかわからないんだよ?」
私がそういうと、会長は待ってましたとばかりに再びしゃべりだした。
「そうなんだ。外出許可が出れば、空を球場へ連れて行けば済む話だが、もし外出許可が出なかったとき、または、空が頑固で見に行かないと言ったとき、相原青に空のいる病院を教える。きっと、相原青は飛んでいくさ」
会長はどうだという顔をしている。
果たして、このまま2人を会わせてもいいのだろうか。
空は、青くんと会うことを望んではいない。
だけど、会いたいとは思ってる。
でも、青くんは?
空に会いたいって思ってるのか。
「会長。青くんの気持ちは?青くん、空に会いたくないって思っているかも……」
私は静かにそういった。
すると、会長は口角を片方上げて笑う。
「相原青も、空に会いたいと思っている」
そして、そう確信しているように話した。
「本人に聞いたのか?」
クラスの誰かが会長に質問する。
「ああ。俺の従兄弟が藤青で野球してんだよ」
サラリと、クラスの誰も知らなかったであろう情報が開示される。
クラスがざわめき出した。
しかし会長は、構わず淡々と話してゆく。
「そいつと久々に会ってさ、空の話をしたんだ。そしたら驚いてた。『青に手紙だけ残して消えたうちのマネージャーだ』って」
クラスの皆の頭の上にクエスチョンマークが浮かぶのが見える。
つまり、空と青くんはここに来る、ぎりぎりまでは付き合ってたってことなのか。
青くんに空から別れを言ったってことなのか。
そういえば前______。
『私には美和やクラスの皆がいてくれるから。私は十分恵まれているから。幸せだから』
空の言葉が脳裏に蘇る。
「……ここからは俺の推測なんだけど」
会長はざわつきを沈めるように、そう聴衆の気を引く。
「多分空がここに来た理由は、相原が事故にあったからなんじゃないかって思う」
クラスみんなのざわめきは収まり、みんなが会長の言葉を待つ。
「相原が事故に遭ってから、半年間眠ったままだった。その間、空はずっとそばにいたらしい。空は相原の傍にずっといて、何もできない自分を無力に感じて、相原にも同じ気持ちさせたくないとかで、ここに来たんじゃないかなって」
会長の推理はすべて筋が通っていた。
「空の了解なしに、結構空のこと探っちまったな……。美和あとで謝っといてくれよ」
そういって、会長は意地悪そうにふっと笑う。
私は笑いながら、わかったよと返事をする。
「じゃあ_______この話に乗る人っ!挙手っ」
会長が教卓から周りを見渡して、そういうとクラス全員の手があがった。
「じゃあ、この話は秘密だぞっ!特に空には!美和、お前が一番危ないっ!」
そういって、会長がキッと私を睨んでくる。
そして、クラスの皆の注目の的になる私。
「え、私??」
私がそういった瞬間、クラスに大きな笑い声が響いた。
_______空が、私たちのもとに来てくれた。
その意味と、感謝を込めて。
この青空の下、私たちが奇跡を起こしてみせる——。
✳
「おーい青っ! もう上がるぞっ」
向こうで町先輩の声がする。
練習を一通り終え、帰る部員たち。
甲子園まで、あと3日。
不安で不安で仕方がない。
空に、俺の気持ち、ちゃんと届いたのかな。
……なんでかわからないけど、今、無性に会いたい。
「おい、夏樹っ」
部室に戻ろうとしていた夏樹を呼び止める。
「ん? なんだよ?」
不思議そうに振り向く夏樹に、俺はボールを見せながら笑った。
「ちょっとだけ、付き合ってくれよ」
夏樹は肩をすくめ、にやっと笑う。
「しゃーなし、だな」
グローブを構えてくれる夏樹に向かって、俺は思い切りボールを投げた。
野球をしてる時だけ、ボールを投げてる時だけ、俺は“俺”になれる。
この感覚が、ただただ気持ちいい。
空は茜色に染まり始めていた。
「青、調子上がってきたんじゃねぇか?」
夏樹が笑いながら言う。
「当たり前だっ」
俺はそう言って、もう一球、渾身の力でボールを投げた。
「……っ! はぁ、はぁ……」
全力で投げ続けた疲労が、一気に押し寄せる。
俺はその場に倒れ込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ。試合、三日前だぞ?」
夏樹が心配そうに駆け寄ってくる。
グラウンドの真ん中で、俺は空を仰ぐように寝転んだ。
吹き抜ける風が気持ちいい。
夏樹も、黙って隣に寝転がる。
「なぁ、青」
夏樹が空を見上げたまま、静かに言った。
「ん?」
「絶対、勝つぞ」
それだけ言って、夏樹は空に向かって笑う。
俺も、同じように空に笑いかけた。
「おう。ここまで来たんだ。目指すは――優勝しかねぇだろ」
空。
お前のためにも、絶対に。
✳
「おい、忘れもんとかないな?」
キャプテンがバスの中で最終チェックをする。
「「ういっす」」
バスの中に響く男たちの声。
今日の天気は青空。俺たちは、明日にある試合に備え、前日に会場に向かう。バスの周りには全校生徒が見送りに出てきていた。
「じゃあ、出発するぞ」
そういって、キャプテンは席に着く。
「お願いしますっ」
「「お願いしますっ」」
キャプテンの掛け声とともに再び響く男たちの声。
その声とともに動き出すバス。全校生徒は俺たちに手を振っている。
俺たちの夢と未来を乗せたバスがゆっくりと俺らを夢の舞台へと連れてゆく。
「なあ、青。お前、今もし空に会ったらなんていう?」
隣に座っていた巧が、俺にしか聞こえないような小さな声で話しかけてくる。
「は?」
空?なんで、今そんな話を……。
「例えばだよ」
そう言って巧は笑っている。
「んー……会ってみないと正直わかんねぇけど、まずは……“甲子園、見に来いよ”って言うと思う」
そういうと、巧は「そっか」と言って、笑い、窓の外に視線を移した。
甲子園の試合前はお前のこと考えないように考えないようにしようって思ってここまでは来た。たけど、やっぱり、無理だった。
お前がいたから、今の俺がいる。
お前がいたから、ここまで来られた。
だから――俺の中から、お前を消すなんて不可能だった。
_____会いたい。
何度思っただろう。
もう一度抱きしめたい。
何度願っただろう。
もう一度お前の笑顔が見たい。
何度我慢しただろう________。
「おい、着いたぞ。青」
隣の巧に起こされる俺。
「っ……」
俺は小さく背伸びをする。
「おいおい、先輩待たせるんじゃねぇよ」
巧に頭を叩かれて、目が覚める俺。
「……った!……あ、甲子園!」
そうだ、俺、バスで甲子園球場に向かってたんだった。
「そうだ、ほら、青降りるぞ」
そういって、巧は俺をせかす。
俺は荷物をつかみ、バスを飛び降りた。
バスを降りた先にあったのは、圧倒されるような大きなホテル。
「でっか」
その大きさに唖然とする俺。
「試合中ここのホテルに泊まることになる。部屋割りは前決めた通り。鍵は事前に配ってあっただろう。明日に備えて今日は各自、練習はほどほどにすること。ホテルを出る際は、俺か、監督に許可をもらうこと。いいな!」
キャプテンは説明を終えると、「解散!」と言って、ホテルの中へ入っていく。
俺たちも、ホテルに入り、自分の部屋へ向かった。
俺と同じ部屋は巧だった。
「……っしょっと」
俺は自分の荷物を、部屋に置くと、トレーニングウェアに着替えた。
「ちょ、お前どこ行くんだよ」
巧は俺を見て、荷解きしていた手を止める。
「ちょっと走ってくる!あ、巧。キャプテンと監督には内緒だぞ?」
そういって、俺は、巧の返事も待たずに部屋を飛び出した。
じっとはしていられない。
じっとして居ろって言う方が無理な話。
明日、甲子園で試合できるっていうのに……。
体を動かしたくて動かしたくて仕方がない。
俺は、野球部の部員にばれないように、遠回りをして、外に出た。
空には青空が広がっている。
「うっし……」
俺は気合を入れて走り出す。
前へ前へ。
俺の向かう先は____甲子園球場。
明日のお楽しみなんてできなくて、あっという間についてしまった。意外と近かった。
「ここか……」
立ち止まって、見上げる。
どうやら、試合までは入ることが許されていないらしい。
でも、会場の規模感は確認できたから、まぁ、よしとするか。
俺は球場に踵を返し帰り道を走った。
その帰り道、グラウンドで野球をする球児たちの姿が目に入る。
俺は、その様子を立ち止まって、フェンス越しに眺めていた。
確か、あのユニホームは_____将星高校。
俺らが1回戦目であたる高校。
同じ2年で、“頭の切れるキャッチャー”がいるって、どこかで聞いた覚えがある。。
名前は確か______川崎誠っていったっけ。
すると、キャッチボールをしていたうちの一人がゆっくりとこちらにやってきて、丁寧にキャップを脱いで軽く頭を下げてくる。
「練習の邪魔したならすいません」
俺も、軽く頭を下げる。
「いやいや。君、相原青くん?」
そいつは満面の笑みで話しかけてくる。
「俺の名前……なんで?」
俺が不思議な顔で、問いかけると、そいつは、あはははっと笑い出した。
「君さ、高校野球の中だったら有名人だよ?」
「はぁ……。そうなんすか……」
「おう!俺の名前は川崎誠。よろしくな」
こいつが……明日の初戦、最初の敵になる男。
胸の奥が、ざわつくのがわかった。
「あの、キャッチャーの……」
俺が小さな声で言うと、そうそう!といって、嬉しそうにうなずいてみせる。人懐っこい人だと思った。人との距離感をとるのがうまい。
「明日はお手柔らかにな?」
そういって、川崎は再び笑う。
「ああ、こちらこそ」
俺がそういうと、川崎が急に空を仰いだ。
俺もつられて空を仰ぐ。
「明日、青空になるといいな。……空も喜ぶ」
そういって、川崎は、意味ありげに少しニヤリと笑ったかと思うと、急に俺に背を向けて練習に戻っていく。
な、なんだよ。今の。
空って……まさか……あの空のことなのか。
……いや、偶然だろ。
でも……なんで、そんなタイミングで……。
呆然と立ち尽くす、俺の肩を誰かがたたき、振り向く。
そこには、短髪な女の子が立っていた。
「こんにちは。相原青くん」
そういって、その子はにこっと笑う。
何でこいつも俺の名前……。
「なんで……」
俺は訳も分からずそう聞き返す。
「ちょっと、ついてきてほしいところがあるの。時間は大丈夫よね?」
そういって、彼女は俺の返事も待たずに俺の前を歩き出す。
俺は不思議に思いながらも、彼女についていくことにした。こんな怪しいやつについていく俺は、どうかしていると思う。だけど、なんとなく、ついていかなきゃいけない気がした。
まるで_____青空が、俺についていけって言っているような気がした。
✳
彼女が立ち止まったのは、大きな総合病院の前だった。
そのまま、迷うことなく中へ入っていく。
「ちょっと待てよ」
俺は足を止めた。
彼女は振り返り、まっすぐこちらを見る。
「なんで、こんなとこに俺を連れてくんだよ」
「ついてくればわかる」
それだけを言って、再び歩き出す。
彼女は何も答えてはくれなかった。
疑問を抱えながらも、俺は彼女の背中を追う。
やがて、ある病室の前で彼女が立ち止まった。
病室前のプレートに書かれていたのは――
俺が探し続けた人の名前。
……ま、まさかな。
きっと同姓同名だ。珍しい名前じゃないし、そう、きっと――。
彼女はひとつ息をついてから、そっと扉を開けた。
「あ……美和」
か細く、今にも消えそうな声が中から聞こえてきた。
間違いない。この声を、俺が忘れるはずがない。
「今日、空に会わせたい人を連れてきた」
彼女はそう言って、病室に入っていく。
俺も意を決して、後を追った。
そこには――変わり果てた空の姿があった。
けれど、間違いなく、空だった。
元々細かった体は、さらに痩せていた。
疲れきった顔をしていた。
そして――俺が大好きだった、あの黒髪はもうなかった。
「……っ!」
空は俺の姿を見るなり、ベッドにもぐりこんだ。
「空、ごめん。何も言わなくて、勝手なことして……。でも、どうしてもあなたに青くんを会わせたかったの」
彼女――美和はそう言って、静かに涙を流したまま、病室を後にした。
俺と空、ふたりきりの時間が流れ出す。
この瞬間を、どれだけ待ち望んだか。
話したいことも、伝えたい想いも山ほどあるはずなのに。
時間だけが止まったように感じた。
俺はその場に立ち尽くす。
空は、ベッドの中から出てくる気配を見せない。
どうすればいい……?
お前は、また笑ってくれる?
俺はベッドの傍にある丸椅子に腰を下ろした。
止まった時間を、自分から動かしてみる。
「……なぁ、空。俺、甲子園出場決まったんだけど」
返事はない。空はまだ布団の中だ。
「お前さ、俺と別れるって言ったけど、俺、納得してねぇから。俺、お前じゃないと無理なんだよ」
涙が一滴、頬を伝う。
視界がぼやけていく。
「青が泣くなんて……」
空の声だ。
気づけば、空はベッドから顔を出し、そして――笑っていた。
どんなに痩せても、あの笑顔だけは変わらなかった。
俺が、大好きな空の笑顔。
「泣いてねぇよ。これは、汗だって」
俺はそう言いながら、涙をぬぐう。
こんなにも胸が温かくなるのは、いつ以来だろう。
「ごめんな、空」
「なんで青が謝るの?」
空は、まっすぐな瞳で俺を見つめてくる。
「お前が苦しんでるとき、そばにいてやれなかったから」
こみ上げてくる涙を、必死でこらえる。
すると――
空の手が、俺の大きくて豆だらけの手を、そっと包み込んだ。
「青は悪くないのに」
空はそう言って、優しく笑う。
……強くなったな。
俺は、空の肩にそっと腕をまわし、細くて壊れそうな身体を、静かに抱きしめた。
「青?」
「ん?」
「明日の試合、勝たなかったら――ぶっ飛ばすからね」
いつも通りの口調に、思わず笑みがこぼれる。
「ぶっ飛ばされないように頑張るよ」
空。
今日、ようやくお前と再会できた。
お前の声が聞けた。
お前を抱きしめられた。
そして――お前の笑顔を見ることができた。
病室の窓の外に、青空が広がっていた。
お前の夢を叶えよう。
空、お前との約束を守ろう。
「空、明日――俺に惚れるなよ?」
俺は腕を解き、ニヤッと笑う。
「バカじゃないの?」
空は照れくさそうに笑った。
そのとき、病室のドアが開く音がした。
入ってきたのは、美和と――川崎誠。
「よっ。上手くいったみたいだな」
川崎は人懐っこく笑いながらそう言った。
「私のおかげだよ?」
川崎の隣でクスクスと笑う美和。
「会長と美和が仕組んだんでしょ?」
空がちょっと怒ったように言う。
「私たちだけじゃないよ?共犯者まだまだいるし~。ね?」
「いやぁ……マジで焦ったわ……。巧から連絡きたとき、本当にっ!」
ふたりは笑い合っていた。
――まてまて。今、気になる名前が出てきた。
「なぁ、その巧って……」
俺が口を挟むと、川崎はあっさりと答えた。
「俺の従兄弟」
……え?ちょっと待て。
俺の脳みそは情報過多でパンクしそうだった。
「会長、青にわかるように説明お願い。私も詳しく知らないし」
空がそう言うと、川崎は笑いながら話し始めた。
「明日の試合に備えて、バッテリー組んでる先輩と、甲子園近くのグラウンドでキャッチボールしてたんだ。その時に、巧から、青が今1人で出かけたから、空と会わせるなら今がチャンスだぞって連絡が来た。俺は、球児が出かけるのはきっと甲子園球場だろうと推測し、お前が通るであろう甲子園近くのグラウンドで待ち伏せをしていた。からの、準備の良い俺は、相原青を特定次第、美和に声をかけさせ、ここまでお前を案内させた。で、今に至るって感じ」
川崎はそう言い切って、口角をぐっと上げた。
「じゃあ、私と青のことは巧から聞いてたってこと?」
空がそういうと、川崎は首をうんうんと縦に振ってから、「あ、そうそう、空。外出許可どうだった?」と、思いついたようにそういう。
「ん……ごめん……。だめだった」
だけど、空は声のトーンを落としてそう残念そうに俯いた。川崎は「そっか……」とこちらもうつむく。
目の前でどんどん進んでいく会話。
どんどんおいていかれているような気がしていた。
そして未だに状況がいまいち読めない。
まず、こいつらは空のなんなのか。
そして、巧は、ずっと前から空がこうなってるってのを知っていたのか。
空はなんで、俺に何も言わずに、こんな所へ来たのか。
なんで……俺に言ってくれなかったのか。
疑問だけが、どんどん募っていく。
何で……何で……。
「青」
空の優しい声が聞こえ、俺ははっと顔を上げる。
すると、川崎と美和と呼ばれる彼女が、俺の前に手を差し出して来ていた。
「改めて、空の同級生でクラスの会長の川崎誠。よろしくな、相原」
そういって、川崎はにこっと笑う。
「えっと、空の親友の西村美和。無理やり連れてきてごめんね」
そういって、西村は優しく笑った。
一つの疑問が解消され、自分でも少し表情が和らぐのが分かった。俺は2人の手を握った。
事実、こいつらのおかげで、俺と空は出会えた。そして、こいつらのお陰で今俺は空と同じ空間にいる。
「ありがとう」
ひとまず俺はお礼を言う。
空、お前はいい仲間を見つけたんだな。
空は俺の後ろで満足そうに笑っていた。
空、お前に聞きたいことはまだ山ほどあるけど、それは試合が終わったらゆっくり聞こう。
もう、日が落ちそうだった。
俺は、明日のこともあるため、空の病室をでて、川崎と西村とも別れた。
そして、近くの河原で俺は座り込みスマートフォンを取り出し、ある人物に電話を掛ける。
『おう、青。会えたか?』
電話の様子からすると、やはり巧はすべてわかっていたらしい。
なんで言ってくれなかったのか。
俺が今までどんな気持ちで______。
言いたいことは山々あったが何から話せばいいかわからず、口籠る。
『ごめん、青……。本当は言いたかった。でも、誠に止められてたんだ。言ったら、お前が野球を捨てて空に走っちゃうって』
俺の状況を察してか、巧はそう説明をしだす。
巧の声は少し悲しそうだった。
「……空のあんな姿見たら……俺……!」
ツーンと鼻筋に痛みが走る。
再び溢れそうになる俺の涙。
情けない……今とても自分が情けない……。
『でもお前は空の夢をひとつ叶えた。空……どんな顔してた?』
空の顔。あいつ……最後は……。
「笑ってた」
『誠曰く、空はお前の邪魔はしたくなかったんだろうって。自分が病気になって、無駄な心配をさせてお前をつぶしたくはなかったんだろうって。空は、お前を守ったんだよ。青』
「空が俺を守った?」
『ああ。そうだ。だからお前明日勝たないと、マジで空を泣かすことになるぞ?』
絶対にそんなことはさせない。あいつはもうきっと十分泣いた。苦しんだ。
「絶対に勝つ。……空のためにも」
俺は力強くそういった。
『ああ、その意気だ。ってか、早く戻ってこい青。もうちょっとで夕食だ』
「了解っ」
俺はそういって電話を切り、スマートフォンをポケットにしまい、勢いよく駆け出した_______。
✳
「今日がどういう舞台か、わかってるな。ここまで来たからには――目指すのは優勝だ」
キャプテンがグラウンドに声を響かせる。
「「うっすっ!」」
力強く返す、藤青ナインの声。
相手は地元の強豪・将星高校。
目指すのはただひとつ、勝利。それ以外はいらない。
「空のことには協力したけど、明日の試合は全力で勝ちに行く。そこは協力できないからな」
昨日の帰り際、川崎がそう言った。
当たり前だ。本気で来い。
――こっちも全力で叩き潰す。
「整列だ! 引き締めろ!」
キャプテンの号令が飛ぶ。
いよいよ、勝負の火蓋が切って落とされた。
「今から、藤青学園高校と将星高校の試合を始めます。礼!」
「「お願いしますっ!」」
球場に響く、両校の声。
一瞬だけ、川崎と目が合った。けれどすぐに視線を外す。
それぞれの場所で、戦うだけだ。
__火蓋は切られた。
「青、誠となんかあったか?」
ベンチに戻る途中、心配そうに巧が聞いてきた。
俺は首を横に振り、「なにも」とだけ返す。
快晴の空。まさに野球日和だ。
試合開始を告げるサイレンが、球場に鳴り響く。
――空。病室から、見てるか?
俺は、絶対に負けない。
「青、わかってるな?」
町先輩にバシッと背中を叩かれる。
油断するな――あの決勝で、痛いほど思い知った。
「はい!」
「うっし。行ってこい。全国に、お前の実力、見せてやれ」
先輩は笑って送り出してくれた。
✳
1回表、1アウト一塁。
『4番、ピッチャー、相原くん』
アナウンスが俺の名前を呼ぶ。
ここは甲子園。誰もが憧れる夢の舞台に、今、俺は立っている。
後ろを見れば、仲間の姿。
見上げれば、広がる青空。
――大丈夫。俺は、強い。
「よう、相原。かっ飛ばせるもんなら、かっ飛ばしてみろ」
マスク越しに川崎が、俺だけに聞こえるように挑発してくる。
思わず笑みがこぼれた。
「言われなくても、かっ飛ばしてやるよ」
バットを強く握り、ピッチャーを睨む。
ピッチャーが大きく振りかぶり、ボールが俺に向かってくる。
カキーン!
乾いた音を残して、白球は青空へと舞い上がった。
バットを放り投げた俺は走り出す。
一塁を余裕で駆け抜け、目指すは三塁!
レフトとセンターの間に落ちた打球に、野手がすばやく反応。
だが、もう俺は二塁を回っている。
前のランナーも、必死に本塁を目指している。
走れ――もがけ。息を切らしても、走れ!
「……サードッ!!」
ショートから三塁へ送球される。
俺は迷わずスライディングに入った。
「くっ……!」
ずざざっと音を立てて滑り込み、サードのグローブが俺を迎え撃つ。
――ほぼ同時だった。
「……セーフッ!!」
審判の声に、藤青アルプスが沸き立つ。
俺は立ち上がり、ガッツポーズを突き上げた。
1対0。試合は初回から大きく動き出す。
結果は――誰にもわからない。
✳
5回裏、守備。1アウト三塁。
依然としてスコアは1対0。
次の打者の名が告げられる。
『2番、キャッチャー、川崎くん』
こいつだけには、打たせない――打たせてたまるか。
川崎がバッターボックスに立ち、鋭く睨んでくる。
俺は振りかぶって、投げた。
「ストライク!」
バットは振られず、見送られた。
もう一球――振りかぶって、投げる。
「ストライク!」
空振り。あと1球――あと1球で、アウト。
__『油断するな』
頭の中に、町先輩の声がよぎる。
油断はしない。全力で――抑える!
構えた川崎の目が、ギラリと光った。
投げたボールが一直線にミットに吸い込まれる……その瞬間、
カキーン!
バットが空気を切り裂く。
打球はショート方向へ鋭く飛んだ!
「ショートッ!」
俺の声に、岡田が反応。
飛びつくように捕球し、そのまま町先輩へ送球!
三塁ランナーもスライディングで突っ込んでくる。
ほとんど同時!
「……アウトッ!!」
審判の声に、藤青アルプスが歓声を上げる。
俺はふぅっと大きく息を吐いた。
今の球は、きっと自己ベストに近い速さ。
狙ったコース、思い通りの球だった。
……それでも、打ち返された。
川崎誠――やはり簡単には打ち取らせてくれない。
甲子園には、こんな奴がゴロゴロいるのかもしれない。
けれど――
俺の口元に、自然と笑みが浮かぶ。
……楽しい。わくわくする。
ここで戦えることが、たまらなく、嬉しい。
「ふぅ……」
息を整えて、気持ちを切り替える。
この舞台で、俺たちはまだ何も終わっていない。
✳
『いやぁ、この試合の注目は、やはりこの2年生でしょう』
『藤青の相原、そして将星の川崎ですね』
テレビから実況の声が流れてくる。
甲子園が始まった。
あの夢の舞台に、今、青が立っている。
幼いころから憧れ続けてきたあの場所に、自分の足で立ち、戦っている。
今日は家族全員で、私の病室に集まり、テレビ越しに青の姿を見守っていた。
昨日、突然私の前に現れた青。
最初は幻かと思った。
だけど――声を聞いて、確信した。
あ……青だって……。
何度も、何度も心の底から会いたいと願っていた、あの青だって……。
会った瞬間、心の奥に封じていた気持ちがあふれ出した。
青は、何ひとつ変わっていなかった。
あの笑顔も、声も、すべて――私が、大好きだったまま。
でもね、青――
あなたは変わった。強くなっていた。大きくなっていた。
そして今、あなたは、青空の下で戦っている。
私はここから、あなたを応援しているから。
――がんばれ、青。
✳
_____9回表、青たちの攻撃。
2アウト1塁にランナー。得点は4対1。
藤青が3点リードしているが、油断はできない。
ここで、できるだけ得点をとりたいところ。
「あ、あーちゃんだっ!」
そういって私の隣に座ってた瑠璃は、テレビ画面を指差す。その先には、大人びた青の真剣な姿があった。
「ここが勝負だな」
お父さんが、真剣にテレビ画面に映る青をみる。
「青くん。成長したわね」
お母さんが、懐かしそうにそういった。
青の野球をする姿を見たのは本当に久しぶりだった。
私がそばにいた時よりも格段にレベルアップしている。
青はちゃんと私がいなくても、前進していた。
『いやぁ……。いきなり相原はかっ飛ばしてくれましたからね。次はどんなプレイを私たちに見せてくれるんでしょうか』
実況の声が、私をより興奮させる。
試合の冒頭、全国に藤青のエースの力を見せつけた。
バッターボックスに立つ青は、深く深呼吸をしたように見えた。自分の最大限の力を出すために、緊張を和らげる。
もう一度、この大空へ。この青空へ。
白球をかっ飛ばせ。
ピッチャーが大きく振りかぶる。
「ストライク!」
空振り――それでも、青の表情に焦りはなかった。
再び大きく振りかぶるピッチャー。
「……打てっ!」
思わず小さく、願うように呟く。
――カキーン。
白球が、再び空へと放たれる。
行け、どこまでも。
青に。藤青に、勝利を。
「わああああぁぁぁあ!」
本日初のホームラン。
青は、甲子園で初めてのホームランを打った。
気持ちよさそうに、ダイヤモンドを駆け抜けていく。
『ホームランですっ! 相原、甲子園の舞台で見事な一発! いやぁ……やっぱりすごいですね、今、注目ナンバーワンの選手です』
実況も興奮を隠せない様子。
私も……できるなら見たかった、この景色を、球場で、青と一緒に。
だけど――もし行ってしまえば、もう引き返せなくなる。
この試合で最後と、私は決めていた。
時間は、もう、残されていない。
✳
本当は大内先生から外出許可はもらっていた。会長には嘘をついた。会長はきっと、私を甲子園球場に連れて行こうとしていたんだろう。
今、会えてよかった。
青のたくましい姿を今こんなに堂々と見れるから。
だから、今私と青を会わせてくれた、会長をはじめとするクラスの皆には本当に感謝している。
だけど______この試合が終わった後ちゃんとお別れをしよう。
私と青がもう二度と、会わないように。
明日を生きるキミがちゃんと前に進めるように。
もう、希望は抱けない。
……私は知ってしまった。
あの日のことを――。
1か月前の、あの日。
お父さんとお母さんが病室をあとにして、しばらくして気づいた。
お母さんの財布が、置き忘れられていたことに。
私は重たい身体を引きずって、駐車場へ向かった。
まさか、あんな話を聞いてしまうなんて――。
「なんで……なんで、あの子だけ……っ!」
駐車場に着いた瞬間、聞こえたのはお母さんの泣きそうな声だった。
私は立ち止まり、身を柱に隠した。
「大丈夫だ。俺たちの子だ。きっと……なんとかなる」
お父さんも、泣きそうな声でそう言った。
「……でも、余命1年なんて……あまりにも短すぎるわ……。空の命が、あと1年だなんて……」
お母さんはそう言って、その場に崩れ落ちた。
――血の気が引くのが分かった。
鼓動が速くなり、体が震える。
私の命は……あと1年?
あの日から、私の中で静かに、命のカウントダウンが始まった。
✳
「……空。青は立派になったな」
お父さんが、しみじみと言う。
私は小さく、「うん」とだけ答えた。
青は、明日も、そしてその先も、生きていく。
私がいた時間よりも、もっとずっと長く、この世界で。
「うわあああああぁ!」
再び響く、甲子園の歓声。
『藤青、久しぶりの甲子園で、見事に初勝利を挙げました!』
頬を涙が伝う。
――青、やったね。
あなたは、私の分まで。
どうか、強く――生きて。
この球場の歓声を、あなたの力に変えて。
どうか、生きて。
✳
甲子園球場に響く、藤青学園の校歌。グラウンドではチームメイトが涙を流し、スタンドでは応援団が歓喜に沸いている。
俺たちは、甲子園という大舞台で――勝った。一勝を掴み取った。
「青、お前、本当にやるときはやるやつだなっ」
ベンチを片付けていたとは、町先輩がそう言って俺の頭を撫でて立ち去っていった。
勝った嬉しさはもちろんあるが、あの決勝の時よりも落ち着いている自分自身に驚いていた。
「おい、相原」
片付けを済ませ、球場を後にしようとしたとき、球場裏の倉庫近くで誰かに俺は呼び止めれる。
振り返るとそこには、川崎の姿。あの、くしゃっとした笑顔で手招きしてくる。
俺は側にいた後輩に先にホテルに戻るよう告げ、手招きされるまま川崎の方へ足を進めた。
「まずは、一勝おめでとうな」
川崎は昨日と何ら変わらないテンションでそう話し出す。
「ああ。さんきゅ」
「次の試合の相手はどこか知ってるか?」
「ああ、南聖だろ?さっきキャプテンが言ってた」
俺が先ほどキャプテンに言われたことを思いしながら言うと、川崎はふっと笑った。
「お前、南聖のこと、ちょっと甘く見てないか?」
「いや、そんなことは……ないつもりだけど」
南聖の情報は簡単だが頭に入っている。
今年初出場かつ、野球部創立一年目のチーム。甲子園の初戦、南聖は相手チームのエラーに漬け込んだような勝ち方をしていた。
舐めてはいないが、将星ほど手強い相手ではないと、そう思ってはいた。
「南聖には、そんなに球は速くはないが、コントロールがすげぇ岩崎っていうピッチャーがいる。俺らと同じ2年。だから、決してなめてかかるなよ」
そういって、川崎はそのまま俺に背を向ける。
「なんで、お前が俺にそんな情報を俺に……?」
恐らくそのまま立ち去ろうとした川崎。しかし、俺は呼び止める。川崎は半歩振り返り、俺の目をまっすぐ見てきた。
「勝ってほしいからに決まってんだろ。お前が負けたら、俺ら将星の実力もその程度ってことになるじゃんか」
そういって、いつものように笑う川崎。
俺も、つられるように笑みがこぼれた。
「もちろん。お前らとの試合わくわくした。楽しかった。お前らが、甲子園での一番最初の相手でよかった」
「俺も。負けて悔しいけど、お前と出会えてよかった。俺もお前との野球楽しかった」
そう言って、どちらからともなく、お互い豆だらけの手を差し出し握手を交わす。
そして、俺等は互いにそれぞれの道に戻った。
川崎誠。きっと他のチームの詳細なデータも頭の中に入っているのだろう。
あれほど徹底的に相手を研究するのは、空の役目だった。空はいつも、相手チームの情報を徹底的に調べてくれた。練習試合を見に行って、選手一人一人の癖まで記録していた。成績も体調も、全部把握していて、まるで“分析の鬼”だった。
でも、空がいなくなってからの半年――俺たちは、空が遺してくれたデータを頼りに、ここまでやってきた。 甲子園まで来た。もう一度、お前と会うために。空
もう二度も失いたくない。
もう二度と離したくない。
そんなことを考えている間に、俺はいつの間にか空のいる病院の前に来ていた。
俺は気持ちを切り替えて、空のもとへ向おう、と思ったが、そこで勝利の余韻をまとったままの汗と土のにおいがこびりついたユニフォームの存在に気づく。
俺は近くのトイレでさっと着替え、改めて空のもとへ向かった_____。
✳
「なんででしょうねぇ……。空ちゃん」
病院の廊下を歩いていた時、ふと聞こえた空という名前。
もしかしたら、違う空かもしれないが、一応俺は足を止めて、壁に身を隠しながら、誰が話をしているかのぞいてみる。
そこにいたのは、おじさんと空の担当医である大内先生。二人は、真剣な顔で、空について話しているようだった。
「私も、その理由が聞きづらくて。本当は行きたいと思うんですがね」
おじさんが、頭を抱えている。
「五十嵐先生からは話は聞いていました。相原青くんのことは」
俺の名前が出てきて心臓が高鳴る。
生唾を飲むのが分かった。
「ああ、そうなんですか。いや、それにしても一度空と青はここで顔を合わしているわけですし、一度会ってしまえばもう我慢する必要はないのかなとは思うのですが。如何せんやっぱり意味が分からない……。外出許可が出ているのになんで甲子園を見に行かないのか……」
そういって、おじさんは「はぁ……」と小さくため息をついた。
俺を守る?
なんでだよ。なんであいつは_____。
俺は、それ以上の話は聞かずに、空の病室へ急いだ。
「空っ!」
俺は病室に入るなり、叫ぶ。
空は一度身体をビクッと硬直させてからゆっくりとこちらをむいた。
俺は、カバンを無動作に床に置き、空のベッドに両手をついて空の顔をうかがう。
空の顔は、どこかさびしそうだった。
どこか悲しそうだった。
「青、ここ病院。声のトーン落して」
か弱い声で、反抗してくる空。その声は冷たかった。
「なぁ……空。お前、本当は外出許可出てたんだってな?」
俺の声は、いらだっていた。
なんでだよ。俺たちの約束、お前忘れたのかよ。
「うん。出てたよ」
空は、顔をそらさずはっきりと悪びれもなくそう言う。
そして、空は上体をゆっくりと、おこした。
俺は、頭を冷やすように一度空から目線をそらし、そばにあった丸椅子に腰を掛ける。
「なんで……甲子園見に来なかったんだよ」
できるだけ、感情を出さないようにそう口に出す。
答えろよ、空。
お前、子どものころ俺に甲子園に連れていけっていってたよな。俺が納得するような答え出してくれよ。
「見たくなかったから」
空の言葉は、ナイフのように突き刺さった。
けれど、その声はどこか震えていた。
強がりか、それとも――。
「なんでだよ」
誰よりも俺のそばにいて、俺の野球する姿を間近で見てきた空が……なんでだよ。
自然と握った拳が震えるのがわかった。
「私、好きな人ができた。だから……」
一瞬、空の瞳が揺れたように見えた。
「誰?」
「……今日、青と戦った――川崎誠」
空は名前を言う前に、ほんの一瞬だけ躊躇したように見えた。
俺は唇をかみしめる。
「川崎も今日試合出てたぞ。なんであいつの姿見に行かなかったんだよ」
「私が行ったら、青、調子乗っちゃうでしょ?」
そういって、空はまたもや俺を突き放す。
「俺になんで勝たないとぶっ飛ばすって言ったんだよ。なんで俺を応援したんだよ」
どうか、嘘だと言って。冗談だと、いつもみたいに、笑って。そんな冷たい目で俺を見ないで。
「そ、それは……」
言葉が詰まる空。
「……昔の癖」
そういって、空は俺から顔をそらす。
そして、空はもう話すことはないというように布団の中に潜り込んだ。
「……帰って。今日は、ちょっと……体調が、悪いの」
俺は、それ以上は何も言えず、ゆっくりと空に背を向けた。そして、重たいカバンを持ち上げ、空の病室を後にする。
帰りは、いつの間にか夕日は沈み、あたりは暗くなっていた。
甲子園で一勝したのに。
どうして、こんなにも虚しいんだろう。
どうして、こんなにも……胸が、空っぽなんだ_______。
✳
「ただいま……」
俺は力なくホテルの部屋のドアを開けた。
そこには、風呂を入り終えて部屋着に着替えた巧の姿。巧は椅子に座ってくつろいでいる。
「おお、青遅かったな!って……なんかあったか?」
そういって巧は心配そうな顔をする。俺は持っていたカバンを床に無動作に投げつけ、巧の正面に座った。
「まぁ、何から話せばいいんだか」
「お前、空に会って来たんだろ?」
巧が不思議そうな顔をする。俺は、仏頂面で「ああ」とだけ答えた。
「なのになんで、そんな顔してんだよ」
なんでだって。そりゃあ。
「空に振られた」
短い言葉のあと、沈黙が落ちた。
巧は俺の目をじっと見つめたまま、動かない。
「本当に空は、そう言ったのか?」
頷く俺に、巧は俯き加減で言った。
「……悪い。俺のせいだな。こんなタイミングで、空に会わせちまって……」
「違う。感謝してる。空の……笑顔が見れたから」
言ってから、自分の言葉に気づく。
――そうだ、それだけで十分だ。
あいつの笑顔を、もう一度見られたんだ。それだけでも、ここに来た意味はあった。
「気持ち、切り替えられるか?」
「……明日までには」
無理やり作った笑顔に、巧も釣られて笑ってくれた。
俺は勝ちに来た。チームのためにも、気持ちを立て直さないと。
「藤青のエースはお前だ、青」
「さんきゅ」
その時、ノックの音が響いた。
「誰?」
「ああ、誠だよ。なんか青に言い残したことがあるって言うから、俺が呼んだ」
巧が言い終えると、さっとドアを開ける。
現れたのは――今、一番会いたくない奴。
「ちーっす!お、相原。元気そうだなー?」
川崎は、軽々しく俺の名前を呼んで手を振ってくる。
「かーわーさーきーっ!!お前、どうやって空を誘惑したんだよっ!!」
思わず立ち上がり、飛びかかろうとする俺を、巧が必死に押しとどめる。
「おいっ、巧やめろっ!こいつ一発殴らねえと、俺の気がっ!」
川崎はぽかんとしていたが、巧が口を開く。
「……もしかして、空の好きな人って……」
「そうだよ!空の好きな人は川崎誠、お前なんだよ!」
言ってから、自分の行動の浅はかさに気づいた。
元カレとして最低の暴露だ。
だが、目の前のふたりは――顔を見合わせて、爆笑しだした。
「あははっ!お前、マジで野球以外はポンコツだな!」
「ほんとそれ。巧、こいつ面白すぎるだろ!」
俺は呆然とふたりを見ていた。
「空が何を考えてるかは知らないけど、少なくとも、俺のことはそういう目では見てないよ」
川崎は真顔に戻って、ベッドに腰を下ろす。
「そんなの、なんで言い切れるんだよ」
「俺、好きな子いるし。空じゃない。空もそれを察して、色々助けてくれたりしてる。……だから、空は俺を“友達”としか見てないよ」
……でも。
「空なら、気持ちを隠して笑うくらい、できるだろ」
「それ言い出したら、空がお前に言ったことも本当かわかんないよな?」
川崎が、静かに言う。
「俺の考えだけど……空は、お前を守ろうとしたんじゃないか?」
脳裏に浮かぶのは、病院でのおじさんの言葉。
『……青を守ろうとしているのかもしれないな』
「つまりだ――やっぱ、やめとく」
「おい、そこまで言っといてなんだよ」
「言わない方がいいこともあるんだよ」
わからない。空の本当の気持ちが。
けど、確かに、川崎や巧の言葉は、心に刺さって離れない。
「川崎。なんで空と会って間もないのに、あいつの気持ちがわかるんだよ」
川崎はふっと笑って、口を開いた。
「俺の趣味、人間観察だから。たとえば相原――負けず嫌いで、一度のめり込んだら一直線。誰からも好かれる愛嬌もある。空はね、自分より他人優先。感情は出さないけど、それは臆病なだけで、ほんとは誰よりも優しい……そんな感じ」
その通りだった。
空は、いつも誰かのために動いて、自分を後回しにするやつだ。
病気のことも、転校のことも、全部俺に黙ってた。
それも――俺のためだったのか。
「どうやら、空のことがわかったみたいだな」
巧が俺を見つめる。
「……ああ。でも……」
「受け入れろ。時間がない。やるべきことは、一つだろ?」
巧の目が、まっすぐ俺を貫く。
「……勝つ」
俺は、小さく呟いた。
そんな俺を見て、巧は満足げに笑みをこぼした。
「はいはい。じゃあ、その件はそれで終わりでいい?俺の話していい?」
川崎は、空気を切り替えるようにパンパンと手を叩く。
「「ああ」」
俺と巧の声が重なった。
「俺が今から言うことを、明日、お前らの口から藤青の野球部全員に伝えてほしい。今日来たのは、南聖の情報を伝えるためだ。知っていると思うが、次の藤青の相手は南聖。南聖で一番警戒すべきは、サウスポーのピッチャー・岩崎。俺らと同じ2年生だ。サウスポーってだけでも厄介だが、一番の脅威は、あいつのコントロール能力。球のスピードはそこまで速くないが、制球力が桁違いらしい。しかも、手元でボールが伸びる。気をつけろよ?」
少し間を置いて、川崎はさらに続けた。
「それに、岩崎だけじゃない。他の選手も強豪ぞろい。そして何より驚いたのが、県予選での成績。南聖は、ここまで相手に一点も与えていない。つまり、鉄壁の守りを誇るチームってわけだ。決勝では11対0で圧勝。今年の甲子園、俺の中では優勝候補筆頭だな」
川崎はまるで原稿を読み上げるように、きっぱりと言い切った。
南聖の情報が頭の中をぐるぐると回り、俺の身体にゾクゾクとした緊張が走る。
「なんだ、相原。お前、まさかビビってんじゃねえよな?」
川崎が笑いながら、俺の顔をのぞき込む。
「んなわけねぇだろ。ただ……ゾクゾクっていうか、ワクワクしてる」
「その調子なら、大丈夫そうだな」
そう言って川崎は立ち上がり、俺の背中をバシッと叩いた。
「……ってぇ! 手加減しろよ」
俺は肩をすくめながら、痛みに目を細める。
「あ、もうこんな時間じゃねえか……。俺ら、そろそろ夕食。誠、お前もう帰れ」
巧が時計を見て、慌てたように言う。 たしかに、他校の選手がホテルの部屋にいるのを見られたらまずい。
「よし……じゃあ帰るわ。あとは任せたぞ」
そう言って川崎は勢いよくドアを開けて出ていった。
――嵐みたいなやつだ。
俺の口元がふっとゆるむ。 けれど次の瞬間、空の顔が頭に浮かび、思わず口をきゅっと引き結んだ。
「なぁ……青。お前、空のこと……大丈夫か?」
巧が静かに尋ねてくる。
「わかんねぇよ。なぁ、巧……死ぬって、どういうことなんだろうな」
うつむいたまま、俺はぽつりとつぶやいた。
巧はしばらく黙っていたが、やがてぽつんと一言返してくる。
「さあな」
――きっと、空は自分がもう長くないって、わかってたんだ。 だから、俺をわざと遠ざけた。 俺が悲しみに潰れないように。俺に嫌われるようなことを言って、自分から離れていった。
……バカだよ、お前は。
俺の諦めの悪さ、空はわかってなかった。
この試合に勝って、優勝旗を手にして、お前のもとに駆けつける。
俺が、お前を死なせない。 絶対に守ってみせる。今度は俺が、お前を守る番だ。
空……お前がいなきゃ、俺は野球ができない。
お前がいなきゃ、「青空」にならないんだ。
✳
「空、なんか今、青くんが悲しそうな顔で出て行ったけど……」
青が帰ったあと、お母さんが病室に入ってきた。
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと枕から上げる。
「どうしたの空。……青くんと喧嘩でもしたの?」
お母さんは私の頭を優しく撫でてくれる。
私はただただ何も答えず首を横に振っていた。
そのあとお母さんは何も聞かなかった。
ただ、私の隣で、優しい顔をして私の頭をずっと撫でていてくれた。
青、ごめん……本当にごめん。またあなたを傷つけてしまった。
ありがとうも、おめでとうも言えなかった。
こんな最低な女、もういらないよね。
本当にさようならだよ、青。
あなたにはここから、エールを送り続けるから。
青空を通じて______。
明日は、青の試合がある。新聞には、相手校の名前──南聖──が載っていた。
私の中では優勝候補。きっと勝敗の決定はお互いのピッチャーにかかってくるだろう。
南聖のピッチャーは青と同じ野球の天才。
まだまだキャリアがないため、青よりは知名度は低いが、今後、青と同じくらい注目を集めることになるだろう。
彼の名は_____岩崎直樹《いわさきなおき》。
そんな私の元へ、カラリと病室のドアが開く音が響いた。
「空、元気だったー?」
美和が元気よく病室に入ってくる。
そして、そのたびに、美和はクラスからの手紙を紙袋いっぱいに私に渡してくれる。
「はい、今週の分ねっ!皆早くもってけってうっさいの」
そういって美和は笑う。
私もその笑顔につられて笑ってしまう。
「ありがとね。毎週毎週」
「いいよいいよ!空のためならどこまでも」
そういって、美和は、私のそばにある丸椅子に座った。
私はゆっくりと、上体を起こす。
「ねぇ、青くん明日だね?」
美和が優しく私に微笑んだ。
「うん……そうだね」
「楽しみだね。空、体調は大丈夫そう?」
美和は心配そう顔をしている。
「うん」
私はそう言って、口角を上げた。
「よしっ!じゃあ、明日青くんの試合見に行こうね、空!」
美和は満面の笑みで、急に私の顔を覗き込んできた。
驚いて少し上体を後ろにそらした私。
「だから私外出届が……」
私がそう言い返そうとすると、美和の顔が険しくなった。
「空。私にまで嘘つかないでよ……本当は外出許可出てるんでしょ?私今日、空の病室来る前に空の担当医に、なんで空に外出許可出してやらないんだって言ったら、その担当医が、もう出してるよって言うんだもん。マジびっくりしたから!」
「ああ……そうなんだ……。ごめん。嘘ついて」
私は美和の顔を見れなかった。
私のことこんなに慕ってくれている美和に私は平気で嘘をついた。申し訳なさで、視線が下がる。
「まぁ、わかってるけどね。空の考えてることくらい」
だけど、美和は相変わらずで、特に私を責めることもなく、笑顔を崩さない。
「青くんのためでしょ?青くんを自分から遠ざけるために」
そして、そういいって優しく笑った美和。
「私の考えていることがどうして……」
「さぁー。なんででしょうか?私が空のこと大好きだからかな」
そういって、美和は私の頭を撫でてくれる。
「……私、もうこうするしかなくて……。青を守りたいから」
私の目からは次々と涙がこぼれ落ちてきた。
「私っ……あ、青が……っ」
涙が止まらず、伝えたいことが伝えられない。
「空。大丈夫。わかってるよ。だからね、青君を助けたいのなら、明日私と一緒に甲子園いこう、ね?」
美和は私の背中をさすってくれた。
「で、でも……私、昨日青に…ひどいことを…っく…」
「ああ、知ってる知ってる。昨日の夜会長から聞いた。会長笑ってたよ?空が俺のこと嘘の材料に使いやがったーとか言って」
そういって、美和はくすくすと天井を仰ぎながら笑う。
「……ふぇ……?なんで会長、私が嘘ついたこと知ってるの……?」
「あー、昨日の夜、青くんたちのホテルに行ったらしいの。そこで聞いたんだと思う」
まさかの事態に、涙が止まる。
野球以外はバカだから、あんな子どもだましみたいな嘘をついてもきっと気づかれないと思ってついた嘘。
今、連絡ないってことは、もしかしたら青にはばれてない可能性はある。
「あのさ、空。少し私の思ってること伝えていい?」
美和は姿勢を正して、私をまっすぐ見てくる。
私はゆっくりとそんな美和に対して頷いた。
「私ね、病気の1番の治療法は笑うことにあるって思ってるの。根拠はないけれど、心の底から笑えば、どんなにつらい状況でも、痛みとか軽減されることってあるでしょ?」
美和の瞳は優しげで、窓からの日差しでキラキラとしていた。
「私は空が大事だから言うけど、空の傍には今、青君が必要なんだよ。空にとっての、この世に一つしかない最高の薬が青君なんだよ」
美和はそう言って私の手を握った。
その手はすごく温かかった。
「空って、青くんの前だと本当に柔らかい笑顔になるんだよ?知ってた?」
美和の瞳には、涙が浮かんでいたが、美和は無理やり笑って見せる。
「……柔らかい笑顔?」
「私ね、青くんの前で笑う空の笑顔が、本当に好きなんだ。だから、もう一度──2人が心から笑い合うその瞬間を、私に見せてよ」
美和の私の手を握る手が強くなる。
「……美和。でも、私もう長くないんだよ。……あと1年、生きることができるかもわからない」
抱えていたものがこぼれていく。
堰き止めていたものが、溢れてくるのが自分でもわかった。
「……空。空は自分の病気に負けを認めるの?」
美和の目は涙をこぼしながらも、まっすぐ私の目を見つめてくる。
その強さに、私はもう目をそらすことができなかった。
「……でも……」
「私は嫌だよ。負けるのは嫌いだもん。私は認めないよ。空が空の病気に負けるなんて!」
美和の言葉が、私の心を熱くするのがわかった。
負けたくない……。
「本当は負けたくない……嫌だ!まだ死にたくない。まだ生きたいっ……私、生きたいよ……」
私が叫びに近い、感情剥き出しの声でそういうと、美和は待っていましたというように、笑顔になる。
「だから空。明日、一緒に行こうね?」
そして、美和が私に優しく笑いかけた。
「……ん……。ちょっと考えさせて」
考えたい。
もう一度、何が一番いいのか考えたい。
「わかった。じゃあ、明日迎えにくるね。そのとき……返事を聞かせて」
美和は、少しだけ泣き笑いのような顔で私を見つめていた。
「うん。ありがとう」
私がそういうと、美和は涙を拭って静かに私の病室を出て行った。
何が正しいのか。
何が間違っているのか。
そんなの、神様以外わかるはずがない。
もしかしたら、神様さえもわからないかもしれない。
このまま、私は青に素直になってもいいのだろうか。
青は、私のこと重荷に感じるときが来るかもしれない。
そしたら私は、きっと——
「ねーちゃんっ!」
パタンと病室の扉が開いた。そこにはランドセルを背負った瑠璃の姿があった。
クリクリの目に、少しくせ毛の入った柔らかい長い髪が特徴的な瑠璃。
「なんで、瑠璃がここに?」
私が、びっくりした顔でそういうと、瑠璃はあどけない笑顔を浮かべた。
そして、瑠璃はランドセルを近くにあった机の上に置き、私のベッドに潜り込んできた。
「ちょっと、瑠璃。暑いって……」
「えー。だってねーちゃんと暫く会ってなくて寂しかったんだもんっ!あ、そうそう瑠璃ね、あーちゃんからお手紙もらったの。ねーちゃんに渡してって!」
そういって、瑠璃はポケットに入れていた一枚の手紙を取り出した。
私は幼い手から恐る恐る受け取る。
すこし、くしゃくしゃにはなっていたが、それは綺麗な青空の色をした封筒だった。
私はそっと、その封筒の封を切った。
空へ
俺がお前に手紙を書くのは初めてだな。
ごめんな。
本当は直接話したいけれど、お前にまた追い返されるかと思って手紙を書いた。
あのな、空。
お前、俺との約束忘れてねぇよな?
俺が、お前を甲子園に連れて行くってやつ。
お前が来なきゃ、俺一生その約束守れないんだけど。
どうしてくれるんだよ。
お前は、俺を嫌いでいい。
俺のこと、好きじゃなくていい。
だけど、明日は来い。
甲子園に来い。
来なかったときは、病院に乗り込んでやる。
わかったな!
青より
汚い字で、あまりにも一方的すぎる手紙。
____青らしい。
ふっと口元が緩んだ。
「ねぇ、ねーちゃん、笑ってるの?泣いてるの?」
瑠璃が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
気づけば、また涙が頬を伝っていた。
「嬉しいんだよ、瑠璃。ねーちゃん、笑ってるの」
そう答えると、瑠璃は安心したように口元をほころばせた。
「ねぇ、瑠璃。明日、あーちゃんを見に行こうか?」
私が微笑んで言うと、瑠璃は「やったぁ!」と満面の笑みで喜んだ。
……青に、また病院にまで乗り込まれたら、たまったもんじゃないからね。
あれだけ言われたら、普通なら引くでしょ。
本当に……バカなんだから。
✳
藤青対南聖の試合当日。
私は病室の洗面台でウィッグをつけ、将星の制服に着替える。
こうして鏡の前に立つと、とても病気の患者には見えない。少し痩せたけれど、服を着てしまえば、もうほとんどわからない。
「ねーちゃん、まだ行かないのー?」
瑠璃が私のスカートのひだをつまんで、駄々をこねる。
「もうちょっと待って。ねーちゃんのお友達が、もうすぐ来るからっ!」
そう言うと、瑠璃はぷぅっと頬を膨らませて、椅子にちょこんと座った。
本当はお父さんとお母さんも行くつもりだったけれど、急な仕事が入ってしまい、残念がっていた。
だから今日は、瑠璃と私、それから美和の三人で観戦。
勢いよく、病室のドアが開いた。
「……っ!……はぁ、はぁ……あー、つっかれたぁー!」
美和が息を切らしながら、病室に飛び込んでくる。
「え、そんなに急いでどうしたの?」
私は美和に駆け寄る。まだ試合まで、けっこう時間あるはずなのに。
「はぁ……はぁ……空、窓の外、見てみ?」
「え……?」
わけがわからないまま、私は窓の外をのぞく。
そこには、クラスメイトと思しき大勢の姿が見えた。
「な、なんで……?」
「びっくりした? 空が青くんの試合見に行くって連絡くれたあと、私、クラスのグループSNSに『空に会いたい人、明日病院の入り口に集合ね』って送ったの。そしたら、みんな来ちゃった!」
そう言って、美和がいつもの笑顔でウインクする。
「でも、さすがに全員この病室に入れるわけないし……さ、準備できてる?」
私は、こくんと頷いた。
「瑠璃も行くもんっ!」
ベッドに潜り込んでいた瑠璃が、勢いよく飛び出してきて、私の背後に隠れた。
「え、え? 空の妹?」
美和の目がきらきらと輝く。
あ、そういえば……美和って、かわいいものに目がなかったんだっけ。
「うん、瑠璃っていうの。ほら、瑠璃。私の友達の美和だよ」
挨拶させようと促すが、瑠璃は私の背にぴたりと張りついたまま。
「へぇ〜、瑠璃ちゃんっていうんだ! おねえちゃんね、あめちゃん持ってるんだけど……あげよっか?」
美和はしゃがんで、瑠璃の目の前にキャンディーを差し出す。
すると瑠璃は、警戒心ゼロで飛び出し、あめを両手で握りしめた。
「いいの? 美和おねーちゃん!」
「きゃーっ! めっちゃかわいいっ!」
美和が瑠璃をぎゅっと抱きしめる。
瑠璃は嬉しそうににかっと笑い、全然嫌がらなかった。
「……美和、瑠璃といちゃつくのはいいけど、時間大丈夫?」
私が声をかけると、美和ははっとして立ち上がる。
「そうだったっ! クラスの子たち下で待たせてたんだった! うわぁ、怒られちゃう~。よし、行こっ!」
そう言って、美和は瑠璃の手を引いて、私を待たずに病室を飛び出した。
なんだか……瑠璃に美和を取られたみたい。
ちょっとだけ寂しくなったけど――ふと、窓の外の青空に目をやると、自然と笑みがこぼれた。
私はゆっくりと美和のあとを追う。
今日は、晴れ。きっと、青も喜んでるだろう。
久しぶりの青空の下――この一歩が、間違いじゃないと信じたい。
病院の自動ドアが開く。
その先に見えたのは、懐かしいクラスメイトたちの顔。
「「空、おかえりー!」」
みんなが一斉に声を上げる。
胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
「ふふっ、空、泣きそうな顔してる!」
美和が私の頬をつまんで、笑う。
「ひゃいてひゃひって……っく……」
そう言ったはずなのに、私の目からはぽろりと涙がこぼれた。
「おねーちゃん、また泣いてる〜!」
瑠璃が私のスカートの裾をつかむ。
私は慌てて涙をぬぐい、顔を上げた。
「だ、大丈夫っ!」
空を見上げる。
……まぶしい。そこには、驚くほど真っ青な空が広がっていた。
「よし、行こうか! 会長が、とっておきの席、取ってくれたんだよね~!」
美和が瑠璃と手をつないで駆け出す。
そのあとをみんなが追いかける。
もちろん、私も。
青――
私が行くんだもん、負けるなんて許さないからね。
✳
空――。
お前、今日来てくれるのか。
昨日、瑠璃に託した手紙。
ちゃんと読んでくれただろうか。
_____絶対に勝つ。
お前の目の前で、勝ってみせる。
誰かがベンチに座っていた俺の背中をたたく。
「おう、青。集中してんのか?」
町先輩だ。そして、俺の隣に座る。
「今日の相手、なかなか手強そうです」
ベンチからグラウンドを見つめながら、俺はつぶやいた。
町先輩は俺の頭に手を乗せてくる。
「なぁ青、お前なら大丈夫だ。お前と俺は最高のバッテリーだろ?」
町先輩は俺を落ち着かせるように、そう淡々と話す。
「それに……空と会ってきたんだろ?その顔じゃ、あんまりうまくはいかなかったみたいだがな」
だが、唐突すぎる空の登場に動悸が高鳴るのが分かった。
空と会ったってこと、巧にしか言っていないはずだった。
俺の顔を見てなのか、町先輩はふっと笑う。
「だって、お前、将星との対決の時、まるで空がいたときのように楽しそうに野球やるしよ。いやぁー。バッテリー組んでると、結構お前のこと見え見えなわけよ」
そういって、町先輩はくすくすと笑った。
「まぁ、空と何があったかはわからねぇけど、それは、試合が終わってからにしろよ?」
そういって、町先輩はもう一度バシっと俺の背中をたたいて、グラウンドへ出て行った。
そうだ。
今は勝つことだけを考えるんだ。
勝つことだけ……。
「あ、そうそう」
町先輩が、何か俺に言い残したことがあるらしく足を止めて、俺の方を振り返った。
「勝つことより、楽しめ。そしたらきっと勝てる」
そういって、笑う町先輩。
川崎の言葉が脳裏をよぎる。
『楽しむことの延長線上に勝利ってもんがある』
俺はゆっくりと立ち上がった。
さぁ、行こう。青空の下へ。
「今日の、相手の南聖は、今年創立されたばかりだが油断はするな。特に、あの2年のピッチャーの岩崎には気をつけろ。以上、よし、整列だ」
そういって、キャプテンは声を張り上げる。
「「うっす」」
球児の声が球場に響き渡る。
スタンドは満席に近い。
この中に空がいるかいないかなんてわかるはずがない……。
「今から藤青学園高校と南聖高校の試合を始める。礼っ!」
「「おねがいしますっ」」
再び聞こえる球児たちの声。
始まる。2度目の甲子園での試合。
後悔のないように。俺の野球を。
「青、肩の力を抜け、誠にも言われただろ?」
ベンチの戻ろうとしたとき、巧が、声をかけてきた。
「ああ、サンキュ」
俺はその場で小さく深呼吸をする。
きっと、まだ緊張してる。でも、それ以上に今は……わくわくもしている。
早く投げたい。早く打ってみたい。
早く……早く……。
「青、先に守備だ。いいな!」
町先輩に、ポンと肩をたたかれ、俺は気持ちを切り替える。
マウンドに立つと、正面にはマスク越しの町先輩の目。
その眼差しが、俺を信じてくれていることを物語っていた。
はじめからかっとばす_____全力投球。
試合開始を知らせるサイレンが鳴る。
町先輩が俺にストレートの指示を出す。
いきなり勝負に出る。俺は小さく深呼吸をして、構えた。
そして大きく振りかぶる。
「っ……!」
投げる瞬間ふと漏れる声。
「ストライク!」
審判の声が響く。
初球、見逃し――だが焦りはない。
町先輩からカーブの指示。
俺はその指示に小さく頷き、再び大きく振りかぶる。
俺は相手をにらむ。
「っ……!」
____カキーン
打球音が響き渡る。
ライトフライ。
これくらいなら……。
白球は、グローブの中にしっかりと入った。
「アウト!」
審判の声が響き渡る。
その瞬間盛りあがる藤青アルプス。
あと2回。
俺はもう一度深呼吸をした_______。
7回裏、こちらからの攻撃。
点数は2対3で負けている。
あの1番の岩崎の球はやはり特殊だった。
打てると思ったのに、急にボールが消える。
一体全体どーなんてんだよ……。
なんとか、送りバントやスクイズ、犠牲フライで点数をつないでいた藤青。
でもこのままだと……。
『4番、ピッチャー、相原くん』
アナウンスが俺の名を呼ぶ。
今は、3塁にランナーがいる。
たけど、ツーアウト。
俺に残された選択肢はひとつ_____俺がここでかっ飛ばすのみ!
「打つ」
俺は、ベンチで小さくつぶやく。
そして、俺は青空の下に出て、バッターボックスに立つ。
『かっ飛ばさなかったら、ぶっ飛ばすからね――』
スタンドのざわめきの中、その声だけが真っ直ぐ届いた気がした。
「……っ!」
いた。奥のレフトスタンドにいた。
しかも、川崎とあの西村とも一緒。
……なんでお前の声だけが届くんだよ。
「ストライク」
いつの間にか、ボールは投げられていた。
大丈夫。もう、俺は打てる気しかしない。
岩崎、いい気分なのはここまでだ。
俺はゆっくりと息を吐き、緊張を解きほぐす。
周りの声援は聞こえなくなる。
自分だけの世界に入る。
そして、白球をじっと見つめる。
岩崎は、大きく振りかぶった。
この投げ方。
このボールの動きは……見えた……ここ!
「……っ!」
カキーン――
白球が、空を裂くように舞い上がる。
その先には、空がいる。レフトスタンド。
そして______入った。ホームラン。
岩崎は、驚いた顔をしている。
それと当時に、最高に盛り上がる応援団。
そして、藤青のベンチでは、もう、チームメイトガッツポーズで俺に「回れ、回れ」と叫んでいる。
ほらな。空、お前がいれば、俺は無敵になれる。
お前がいれば、俺はどれだけでも強くなれる。
「さっすが、うちのエースは違うなー!」
そういって、夏樹がバシっとベンチに戻った俺の背中を叩く。
「……った!ああ、まあな!」
そういって、笑顔になる俺。
すると、誰かが、俺の頭に手をのせた。
「空、いたのか?」
町先輩。俺にしか聞こえないように耳元で言う。
「レフトスタンドに」
そう言うと、町先輩は、俺の頭を軽く叩いた。
「青。後は任せろよ」
そういって、町先輩はバッド握った。
今の点数は4対3。
まだまだ油断はできない。
『5番、キャッチャー、町君』
アナウンスの声と共に、青空の下へ出る町先輩。
その背中が俺には大きく見えて、逞しい。
「町先輩、かっ飛ばしてください!」
スタンドを突き抜けるように、俺は声を張り上げた。
この一打で、勝利を掴む。
藤青の夏を、終わらせない。
カキーン
バッドに白球のあたる綺麗な音がする。
ライトへと、ヒットを放った。
「走れぇーーーっ!」
スタンドと、ベンチから一斉に町先輩に飛ぶ声。
「セーフ」
審判の声が、球場に響く。
タイムリーツーベースヒットだった。
野球部ナンバーワンに足が早い町先輩。
確か100mは11秒2とか言ってた。
盛り上がるスタンド。
緊張が走るベンチ。
まだ、負けない。
俺らは最後まで諦めない。
だって、空が見てるから_____。