✳




 桜の花びらが、風に乗って病室へと舞い込んできた。
 季節は、もう春。

 「はーい、空ちゃん。診察の時間ですよ」

 看護師さんが病室に入ってくる。
 私は窓の外を見ていた顔を、彼女の方へ向けた。

 「あら、今日は顔色がいいんじゃない?」

 看護師さんはクスッと笑いながら、ベッドの脇に車椅子を寄せた。

 「今日は、空が青いから」

 小さくそう呟くと、看護師さんはふわりと笑った。
 それから、私の身体を支えてゆっくりと車椅子に座らせてくれる。

 「じゃあ、行きますよ」

 ゆっくりと押される車椅子。病室の扉が開き、私は診察室へ向かっていた——。

 青、ごめんね。
 何も言わずに、急に姿を消してしまって。

 でも、きっと——。
 青なら、私がいなくても大丈夫だって、思えたから。

  青なら、私がいなくなっても、夢を追い続けられる強さがあるって、信じてるから。

 青と離れて、もう半年。
 青は高校二年生になった。
 私も本当は、一緒に進級したかった。けれど、それは叶わなかった。

 神様は——私たちに少しだけ、残酷だった。

 あの時、青が私を守ってくれたように、
 次は、私が青を守りたい。

 青は青の道を。
 私は、私の道を。

 たとえ、それが別々でも——。




 ✳




 「うん。薬が効いているようだね。数値も安定してる」

 担当の大内先生は、柔らかく笑う。
 私はほっと胸をなでおろす。

 死と隣り合わせの今。
 生きることが、こんなにも大変だったなんて、知らなかった。

 看護師さんは再び、車いすを私の病室へと向かわせる。

 「あっ、そうだ!空ちゃん、この調子だと、1か月もすれば学校行けるってっ」

 看護師さんが満面の笑みで後ろから私に話しかけてきていることがわかる。

 「学校……」
 「そうよっ!よかったわねっ」

 私は引っ越してまだ学校には一度も行っていない。
 手術とかでバタバタしていたから。

 青のいない学校は……。嫌だな。

 だけどこれが私の選んだ道。
 これ以上わがままは言えない。
 私は、ばれない様に小さくため息をついた。





 ✳





 ___半年前。

 「肺と肝臓への転移が見られました。今すぐ入院の必要があるかと……」

 私の当時の担当医、五十嵐先生は真剣な顔でそう言った。
 そして、訳の分からない今後のことを淡々と話す。

 お母さんは、涙を流して。私は、ただ唖然としていた。

 せっかく青が目を覚ましてこれから、頑張っていこうと思っていたのに。

 神様は______私達に残酷だ。

 私は、病気のことを青に話していなかった。
 余計な心配をさせたくはなかったから。

 青を私のことでつぶしてはいけない。
 これ以上、私は青の足を引っ張ってはいけない。
 青は、私の生きる希望だから________。
 そう考えると、私の取るべき行動が見えてきた。

 「お母さん。1つ我儘言っていいかな」

 先生が、一生懸命お母さんに私の病状を説明していたところへ私が口をはさむ。

 「……何?」

 優しいお母さんの声が返ってくる。
 私は顔を伏せて、静かに言った。

 「……学校を、転校したい」

 その一言にお母さんはびっくりしたのか、しばらく目を見開いたまま何も言わなかった。
 数秒の沈黙が続く。そこからゆっくりとお母さんはうなずいた。

 「わかったわ……。お父さんとも相談しないとね」

 すると、先生はすかさず、一枚の紙を私に差し出した。

 「もし、引っ越し先が決まっていないのなら、ここの病院に近いところへいくといい。ここは君と同じような症状の子がたくさんいるところだから。空ちゃん、頭いいって聞いてるし、この病院近くの学校なら余裕で編入試験合格すると思うよ」

 先生が提示してきたのは、樺橋総合病院(かきょうそうごうびょういん)
 写真に写っていたその病院はできたばかりなのか、とても新しく見えた。

 「空。ごめんね。丈夫な身体に産んでやれなくてごめん」

 お母さんが泣きながら私に謝る。

 「お母さん。大丈夫、私負けないから」

 私、まだ死んでない。
 だから、私は負けないよ。

 お母さんは、私のその言葉にハッと顔をあげ、涙をぬぐっていた。

 ここから始まる、私の戦い。
 そんな今日_________診察室から見える空は、どんよりと曇っていた。

 家に着けば、お父さんがいつもより仕事を早く終わらせてきたのか、家にいた。7才の妹の瑠璃(るり)も、小学校から帰ってきていた。
 お母さんが今日のことを、始めからお父さんと瑠璃に説明する。瑠璃は、?マークを頭上に浮かべながら聞いていた。もちろん、私が転校したいといったことも。
 全てを聞き終えたお父さんは、私と視線を合わせてきた。

 「お前が転校したい理由は青?」
 「うん」

 お父さんの単刀直入な質問に私は小さくうなずくしかなかった。

 「青はお前がいなくなったら絶対に寂しがるぞ」

 お父さんの語気が少し強くなる。
 だけど、私はもう決めてるから。お父さんが何と言おうと、この気持ちは変わらない。

 「青が事故にあって、私はずっとそばにいた。でも……何もできなかった。無力な自分が悔しくて仕方なかった。そんな想いを、今度は青にさせたくない。」

 やっと目覚めた今、野球できなかった時間を青には取り戻してもらいたい。
 私のことで、今の青を引き止めてはいけない。
 青は走り続けなければならない。
 どこまでも、どこまでも。
 例え、青の視界から私が消えようとも。

 お母さんは鼻をすすっている。
 お父さんは、黙りこくっている。
 瑠璃は、相変わらず頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
 しばらく沈黙が続く。

 「ねぇねぇ。ねーちゃんの好きな人ってあーちゃんなの?」

 一番最初に口を開いたのは幼い瑠璃だった。
 瑠璃は昔から青のことをあーちゃんと呼ぶ。
 青は瑠璃に呼ばれるたびに照れていたのを思い出す。

 「うん」

 私は首を縦にふる。
 すると、瑠璃はあどけない笑顔を見せた。

 「じゃあ、あーちゃんをねーちゃんが守ってあげないとね!」

 そう、瑠璃は純粋無垢なその笑顔を私に向けた。
 瑠璃の無邪気な言葉に、胸の奥に熱いものがこみ上げた。

 「わかった。転校の手続きをしよう」

 瑠璃の言葉を聞いたからなのかなんなのか。
 お父さんが静かにそういった。
 その言葉に、私の心臓は高鳴った。

 _______また始まる。青のいない時間。
 だけど、この道は私が選んだから後悔はない。前を向いていける。
 きっと、それは——青。
 あなたが私にくれた、あの強さがあるから。
 あなたが教えてくれた、自分の道の見つけ方を、私はもう知っているから。

 「ありがとう」

 私の頬を涙が伝う。
 それを見て両親は、いつものように笑ってくれた_______。





 ✳





 「空!引っ越しの場所が決まったぞ!」

 引っ越しの準備をしていると、お父さんが一枚の紙を手に現れた。

 「え。ここって……」
 「甲子園が行われる会場の近く。しかも、あの、五十嵐先生の言っていた樺橋総合病院も近い」

 こんな偶然って、と思うと同時にある光景が脳裏をよぎる。
 それは以前、私が一人で診察を受けにきたときのこと。突然先生が聞いてきたことがあった。

 『空ちゃんは彼氏がいるのかな?』

 それは私が青と想いが通じ合って間もないころ。

 『へっ!?』

 変な声が出た私。

 『ははははっ!そんな顔もするんだね空ちゃんは』

 私は恥ずかしくなって、顔を伏せた。

 『からかわないでください』

 私は顔を真っ赤にしながら小さくそういった。
 ごめん、といいながらも、先生はまだ笑っている。

 『彼氏は部活とか、何をしてるの?』

 先生はにこっと笑いながら聞いてくる。
 
 『野球、です』

 私の返答を聞いて、先生は少し驚いた顔をした。

 『え、確か空ちゃんって藤青学園でしょ?野球強かったよね。あの期待の1年生は夏出られなかったみたいだけど』
 『……私の彼氏……。その出られなかった1年生です』

 こんなことを言ってもよかったのか。
 こんなプライベートな話。
 先生は私の返答を聞いてまた驚いた顔をしている。
 総合病院とは言えど、この病院で青は入院していたのだから、青のことを知っていてもおかしくはない。

 『もしかして……。相原青君の彼女さん!?』

 ほら、やっぱり知っていた。

 『……はい』

 先生は私の返答を待ってから、『やっぱり……』小さくとつぶやいた。そして、何かを思いついたように話し出した。

 『相原君は僕の担当ではもちろんなかったけれど、話は聞いていたよ。1年にしてあの藤青高校のエースだっていうんだからね。……そうか、そうだったのか。でも君たちの名前は素敵だね』
 『私たちの名前……?』
 『君たちの名前、くっつけたら”青空”だろ?2人がいれば雨知らずだな』

 そういって、先生は笑っていた。

 私と青で青空。
 空にはどうしても、青という色が必要で。
 青にはどうしても空という居場所が必要で。
 ______それを運命という人もいれば、偶然という人もいる。

 もしかしたら、先生は私と青のことを考えてこの病院を進めてきたのかもしれない。
 これは運命なのか。
 偶然なのか。
 それを私が知ることになるのは、もう少し後のことになる。

 誰かが言っていた。
 ――――神様は乗り越えられる試練しか与えない。

 この言葉を実証できたものはいないだろう。
 現にこの言葉を信じて、亡くなった人だってごまんといる。だけど、私は信じてみようって思う。

 明日の道を見定めて。
 大丈夫、私の隣には私を支えてくれる人がいる。
 瑠璃も、お父さんも、お母さんも、仕事場や学校が変わるっていうのに、文句ひとつ言ってこなかった。
 _____ありがとう。
 単純な言葉だけれど、温かい言葉。
 今から始まる私の新しいスタートラインに一緒に並んでくれた人たち。
 一緒に走ろう。そういってくれた。手を貸してくれた。
 だから、私はあきらめない。
 精一杯自分の道を行くって決めたから_______。





 ✳





 あれから編入試験を実施。先生の言った通り余裕で合格した。
 そして今日は引っ越し日のため平日だが学校は行かない。そのため、私はいつもより遅めに起きる。もう、荷物はまとめ終わり、あとは、移動だけとなっていた。
 そんな中家のチャイムが鳴り響く。

 「はーい」

 私は一応返事をして玄関のドアを開けた。
 そこには、変わらない青の姿があった。

 「青っ!」

 私は思わず叫んでしまう。
 あ……そうか。私いつもなら青を迎えに行っている時間だ。

 「お前、いつもの時間にこねぇから……。学校……行くだろ?」

 もう私はこの家を出ていく。
 だけど、そんなこと言えない。ここで言ったら、青に引き止められて、私はきっと立ち止まってしまう。

 私は、必死に頭を回転させる。
 なんとかここを上手く切り抜ける嘘を。

 「……ごめん。今日体調悪くて。青、今日先学校行って」

 私は青の顔を見られなかった。

 「わかった……」

 だけど、青はそれ以上何も聞かず、静かにそう言ってくれた。

 ああ、青とこうやって話せるのは最後になる。
 でも、きっとこのまま私がいなくなったら青は……。

 「青」

 口角をぐっと上げて私はその名を呼ぶ。
 青は少し驚いた顔をしていた。

 「もし、青の前から私が消えても……」

 どうか、彼の目に映る最後の私が笑顔でありますように。

 「探さないでね」

 そして、彼が前だけを向いて歩いていけますように。

 「……約束、だから」

 私はそれだけ一方的にいうと、ドアを閉めた。

 もう、この扉を開けることは許されなくて。
 私は自らその扉にガチャリと鍵をかけた。
 もう、青がこっちの世界に来ないように。来られないように。

 青、バイバイ。
 私はそっと心の中で呟いた。





 ✳





 「えー。転校生を紹介します」

 病状が安定して、腫瘍の摘出手術を終えた私は、学校に行けるまでに回復した。
 そして今日、久しぶりの学校に行く。青がいない学校。

 正直私は不安で押し潰されそうな中、私は小さく深呼吸をした。
 大丈夫、大丈夫。
 私はひたすら自分にそう言い聞かせる。
 そして、教室の扉を開けた。

 「うっわ……めっちゃ美人っ!」
 「めっちゃかわいーっ!」

 一番に聞こえた声は、そんな声だった。

 「水木!自己紹介頼むなっ」

 先生はそういって、一歩下がる。
 自己紹介は……。苦手分野。
 クラスの皆の目は私に向いているのがわかる。

 『空!困ったときは笑えば何とかなるから』

 いつかの青の声がふと脳裏をよぎる。
 そうだ。笑顔。
 私は口角を無理やり上げた。
 そうすると、不思議となんだか心が落ち着いた。

 「水木空です。藤青学園から来ました。入院とかで学校に来ることが出来ないときもあるかと思いますが1年よろしくお願いします」

 私はそう言って、軽くお辞儀をする。拍手が聞こえてきた。

 「じゃあ、水木の席は……、西村(にしむら)の隣な。あの窓際の……」

 すると、一人の女の子が手を挙げた。

 「はいはーいっ!私が西村だよ、空っ!こっちこっち!」

 ……いきなり呼び捨て!?という、状況に驚きを隠せない中、その子は立ち上がって、私に近づいてきた。
 そして、私の持っていた重い荷物を軽々と持ち上げた。

 「空、可愛いから私からの大サービスね?」
 「あ……ありがと。に、西村さん」
 「西村さんなんて……そんないいよ!美和(みわ)ってよんでっ」

 そういって、美和はにこっと笑った。
 見かけはとてもボーイッシュなのに、笑うと一気に女の子っぽくなる。目じりが下がる、可愛い笑顔。

 「美和……。ありがと」

 私は美和に聞こえるか聞こえないかぐらいの声でお礼を言った。

 聞こえた……かな?

 「ふふふっ。なんだが照れるねっ」

 美和は笑いながら、荷物をストンと置いた。
 私は少し戸惑いながら、その席に腰を下ろす。

 なんだか、落ち着かない。そわそわする。
 なんだろ……このくすぐったい感じ。

 「おい美和!お前、いきなり空ちゃんのこと呼び捨てかよっ」

 クラスの男子の誰かが美和に叫んできた。

 「何、羨ましいの?自分たちもそうやって呼べばいいじゃん。ね、空」

 もう、完全に美和ペースだった。
 そんな中、美和はそういって私の肩に腕をまわしてきた。

 女の子とこんなにくっついたの久々かも、なんて考えが頭に浮かび、苦笑が漏れる。

 「あ、空っ。赤くなってる!?まじ可愛いっ。え、付き合っちゃう?」

 美和は私の表情をみて楽しんでる。
 美和の作る空気感に思わず笑みが溢れた。
 クラスの皆は大爆笑だった。
 先生はもう、呆れながら、HR終了といい、教室を出て行った。その瞬間クラスの皆が私の机を取り囲み、私は質問攻めにあう。

 「彼氏いるの?」
 「病気の状態大丈夫?」
 「誕生日いつ?」
 「カラオケとか好き?」
 「彼氏今まで何人いた?」
 「血液型は何型?」
 「好きな食べ物は?」
 「空って呼んでいい?」

 私は暗記が得意な方で、人より少し耳はいい方で、こんな質問ぐらい聞き取ることは朝飯前だった。

 「彼氏はいないし、病気は今のところ大丈夫。誕生日は4月10日。カラオケは苦手。彼氏は今まで……1人。血液型はAB型。好きな食べ物はみかん。私のことは好きに呼んでいいよ」

 私が淡々と質問に答えると、私の机を囲んでいた皆は唖然としてから、皆は一瞬にして目をキラキラと輝かせた。

 「空かっこいい!今の聞き取れるとか天才?」
 「4月10日??今日だよっ」
 「マジで?じゃあ、放課後歓迎パーティー決行だな」
 「じゃあ、民宿西村でやろうよ。空カラオケ苦手みたいだし」
 「おーいっ!美和。おまえんち今日行ってもいいか?」

 ……なんか勝手に話進んでいるような……。

 「えー……私んち?……いいよ!!大歓迎っ」

 美和がそういうと、クラスはさらに盛り上がる。
 何、このクラス。前の学校とあまりにも違いすぎる。
 私は不思議に思って、隣にいた一人の女の子に声をかけた。

 「あの……ちょっといいかな?」
 「ん、何?」

 その子はとても柔らかく笑った。ふわふわとした雰囲気のとても可愛らしい子。

 「なんで、皆こんなに仲いいの?」

 すると、女の子はふふふっと可愛らしく笑った。

 「ああ、そうか。空はまだ知らないんだね。私たち特進コースは皆小学校から一緒なの。だから皆幼馴染みたいなものなんだよね」
 「そう……なんだ……」

 幼馴染とは言えど、人間合う合わないがあるわけで。それでも、皆仲が良いというのは、偶然の産物もあるのだろう。

 「空ーっ、今日の放課後空いてる??」

 そんなこんな考えていると、美和の声が、どこからか私に向かって飛んできた。

 「うん」

 私は美和に聞こえるようにできるだけ大きな声で返事を返す。
 放課後に誰かと遊ぶなんて、青と愛梨以外なかった。
 そこで、1限目の授業を知らせるベルが鳴り、皆は慌てて自分の席に着く。
 バタバタと始まった新生活。

 私はふと、窓から空を見あげた。
 雲の隙間からふと見える青空。私の口元が少し緩む。なんだか、青空を見たら思う。私と青は繋がっているんだって。
 この空を通して______この、青空を通して。

 「何、空。なんか嬉しいことでもあった?」

 隣の席にいた美和が不思議そうに私を見てくる。

 「うん。まぁね」

 私は空を見ながらそう返す。美和は少し微笑んでから、前を見る。
 _______ここで精一杯生きてみよう。この命がある限り。
 




 ✳





 「そーらーっ!早く!」

 私の荷物を持つ美和が叫ぶ。

 「はぁ、はぁ。ちょっ……待って」

 私たちは今、美和の家に向かって移動中だ。しかもクラス皆で。本当は隣のクラスの人達も来たがっていたらしいが、私が人見知りなのを美和が悟って、今回は諦めてもらったらしい。

 「お、空。もうへばったか?」

 男子も私に普通に話しかけてくる。
 正直、青以外の男子に「空」と呼ばれるのは少し照れくさい。けれど、なぜか嫌じゃなかった。胸にすっと染み込んでくるような、そんな感じだった。

 「だ、大丈夫っ!」

 私が、そういうと、その男子はにこっと笑って私の前をゆく。

 「ほら、空っ!あと少しだから」

 そういって私の手をとって引っ張ってくれる女の子もいる。なんだか、心が温かくなった。私は自然と笑顔になっていた。
 青と一緒にいなきゃ、私は自然に笑える日は来ないだろうと思っていた。
 だけど、私は今笑えてる。
 私は今、心の底から笑っている。

 青。私笑えてるよ。
 あなたがいなくても。
 私は大丈夫だから。私はそう、心のなかで上に広がる青空に言ってみた_____。




 ✳





 「あ、あ、マイクテストマイクテスト。えー。本日は青空に恵まれー我がクラスも最近結成したばかり。見慣れた顔で、俺以外相変わらずのバカ揃いメンバーです。そして、今日、新しいメンバーが加わりました。な、なななんと、超絶美人の……水木空っ!!」

 その掛け声とともに最高に盛り上がるクラスの皆。
 広い座敷の中心に大きな長テーブル。その上にはには美味しそうな沢山のオードブル。それを囲うようにして私たちは席につく。ステージでは、マイクを持って、場を仕切るクラスの会長。

 「このクラスに……いや、学年全体を見渡しても! これほど美しい女性がいたでしょうかっ!」

 会長が再びマイクで語りだす。
 その瞬間キッと会長を睨むクラスの女子。おなかを抱えて笑っている男子。

 「……っと……。これ以上言うと、命が危ないのでやめておきましょう。ではでは、美味しそうなご馳走を食べる前にもう一度、空から一言頂きましょうか」

 そういって、会長は私のところまでやって来て、マイクを差し出してきた。

 「大丈夫、こいつら、なんか言ったら何とかしてくれるから」

 私が困っているのを察したのか、会長は、私にだけに聞こえるように、小さな声でそう言った。
 不安ながらも私はゆっくりと立ち上がった。
 そして、マイクを口の前に持っていく。

 「えっと……。私はある病気が原因でこの高校に転校してきました。前の学校では、野球部のマネをしていました」

 皆は真剣に聞いてくれている。
 私は話を続けた。

 「初めてこの学校に来たとき、教室に入るのが本当に怖かったです。不安でいっぱいで……。だけど、このクラスの皆は明るくて、優しくて、正直今も驚いています。こんな私ですが、よろしくお願いします」

 私は軽く皆に向かって頭を下げた。本日2回目の拍手の音が聞こえる。
 会長は私の隣で、にっこりと笑ってお疲れといい、私からマイクを受け取った。そして私はゆっくりと再び座る。

 「ではではお待たせしました。皆さん手を合わせてっ。美和のお母さんお父さんに聞こえるように大きな声で言いましょう。……合掌っ」
 「「「いただきます」」」

 大きな一室に大きな声が響き渡る。
 その瞬間、うわぁっと我先にと箸がものすごい速さで机の上を行き交う。まるで野生の動物のよう。
 私は唖然としていた。
 すると、隣に座っていた美和が素早く私の取り皿の上にから揚げを置いた。

 「空っ!なにぼーっとしてんの?こいつら、まじで遠慮ないから急がないとなくなるよっ」

 そういって、美和は次々と食べ物を口に放り込んでいた。
 ここは早食い競争の大会会場でしょうか。
 女子も男子も、もうお互い張り合っている。
 私は、よしっと気合を入れて、皆に負けないように次々と料理を取り皿の上に乗せていく。
 美和の言った通り、ものの30分で机の上にあった沢山の料理はなくなった。
 皆、お腹を十分に満たして満足そうな顔をしている。

 「ふふふっ、今日は楽しかったねっ」

 美和が独り言のように呟く。

 「ああ……。楽しかった。空のおかげだな」
 「本当に、空がこっちに転校してくれてよかったよ」
 「これから、よろしくなっ」

 美和に続いてクラスの皆は口々にそういってくれた。
 私……ここにいていいんだ。
 私の居場所……ここにはあるんだ。
 胸がぐっと熱くなるのがわかる。

 「ではでは皆さん、お腹は満たされましたでしょうか」

 そんな中、会長は再びマイクをもって1人立ち上がって喋りだした。
 あちこちから、イエーイだとかそんな叫び声が聞こえる。

 「今日は何の日か知ってるかぁー?」

 再び会長が皆に呼びかける。

 「「空の誕生日っ!」」

 クラス全員の声が重なる。

 「では、皆で歌いましょう。音痴の人も、今日は歌うことを許しましょう。では、せーのっ」

 会長がクラスの中心に立って指揮をとり、大きな歌声が部屋に響き渡った。私はどうやら、最高の学校に転校してきてしまったらしい。

 青、私はここで生きていくよ。
 あなたがいなくても。私は、もう大丈夫。
 だから見ていて。ここから、私の物語が始まるんだ。





 ✳





 「そーらーっ!ほら早く早くっ。移動教室遅れるって!」
 「ちょ、ちょっと美和、早すぎ!」

 私は不思議なくらいにクラスに馴染んでいた。
 あれ以来、よく笑うようになった私。
 前の学校にいた私が聞いたらきっと驚くと思う。こんなに笑える日が来るなんて思ってもみなかったあの時。青さえいればよかったあの時。
 日に日に私の表情が豊かになっていくのが自分でもわかる。だけど……1つだけまだ慣れないことがある。

 「なぁなぁ、藤青学園の野球部、今年やばくね?」

 移動教室先で同じグループの野球部2人が騒いでいる。

 「おうおう、あのなんだっけ……あい……なんとかをんー。あ、わかった!相原あきだっ」

 ……あき、って。きっと、青のことだ。
 気づけば、私の口元が緩んでいた。

 「お、何々?空俺らの話に興味ある?」

 その男子は、私に話を振ってくる。

 「相原青。『あき』じゃなくて、『あお』だよ」

 私は、思わず笑ってしまった。懐かしい響きだった。

 その男子はそうだそうだと、私の話を聞いて納得している。隣の美和は不思議そうな顔をしていた。

 「あ、そっか!……空、藤青野球部のマネしてたもんね?もしかしてさ______その青って子と空、付き合ってたとか?」

 美和の言葉に頭が真っ白になり、口をつぐむ。

 ……え?なんでそんなことわかるの?
 言うべき?言わないべき?

 「え、まじかよっ。今高校野球してるやつなら誰でも知ってるぜ?注目の選手だよ」
 「同じ2年でマジ尊敬してるやつだよ。今年の甲子園は絶対に藤青くるって皆言ってるし」

 野球部2人も興味津々のようだ。

 でも、青の話はしたくない。
 だって、声を聴きたくなってしまうから。青の温もりに触れたくなってしまうから。

 そう思い、それ以上何かを口に出すことはできずに、私はだんまりに入ってしまう。

 「なるほどねー」

 だが、美和はそんな私に構わず、ニタニタと笑う。絶対に何か企んでいるこの顔。

 「「ふ~ん……」」

 その近くで、双子かと思うくらい息ぴったりに頷く野球部の2人。この2人もきっと何かを企んでいる。

 きっと、もうバレてる。付き合ってたって。何も言ってないのに、この人たちには伝わってしまった気がした_____。




 ✳





 「そーらっ!今日ちょっと付き合ってほしいところあるんだけど……」

 放課後。美和が帰りの支度を済ませ、満面の笑みで言ってきた。

 「うん」

 私はそう返事をすると、美和は私のてを引っ張って、行こっと言う。今では当たり前に一緒に帰る私と美和。周りからは、お前ら付き合ってるのか?なんてからかわれるけど、そんなの気にしない。
 美和が向かった先はとあるカフェだった。

 「ここ、めっちゃ美味しいのっ」

 そういって、美和は私の手を引っ張ってズンズンとカフェの中へ入っていく。
 いらっしゃいませーと店内に響く店員さんの高い声。
 木の温もりとほんのり甘い香りが漂う、レトロな雰囲気のカフェ。
 美和は一番奥の席に座る。

 「ほら、空も座りなっ」

 美和はにこっと笑い、私にメニュー表を渡す。私は美和の正面に座り、メニュー表を眺めた。

 窓際の心地よい席。春の気持ち良い風が店内に入ってくる。

 「空……決まった?」

 美和は私の顔を覗き込んでくる。

 「あ、うん。この抹茶パフェで」

 私がそういうと、美和はにこっと笑う。

 「了解っ!」

 そういって、美和は店員さんを呼び、私の分も注文してくれた。
 私は無意識に窓の外に目をやる。

 青、今どうしてるかな。ちゃんと野球頑張ってるかな……。
 今日の空は、青空一つ見えない。曇りだった。

 「そーらっ」

 美和が、不思議そうな顔で話しかけてくる。

 「あ……ごめん。何?」

 私は、はっとして、美和の方を向く。

 「空って、暇さえあれば、空見てるよね?何か意味あるの?」

 私……そんなにも見てたのか。

 「あ……昔の癖が抜けなくて……」
 「もしかして、野球部のマネが関係あるの?」
 「あ、うん。ほら、野球って天気で左右されるスポーツだから……」

 私がそういうと、美和は納得したようにうなずいた。

 「青くんのこと想っているのかと思った。付き合ってたんでしょ?」

 そういって、美和は優しく微笑む。
 一瞬私の心臓がドキッとなる。

 「ねぇ……。なんでわかったの?」

 すると、美和は意地悪そうにニヤッと笑ってから私の目を見つめてきた。
 その目は何もかもを見通せるように私は思えた。

 「それはね……。私昔からそういうことには鋭かったの。人一倍ね。空が、青って子の名前を言ったとき、なんだか表情が変わったから。……もしかしたらっと思ってねっ」

 案の定当たっていたし
 と、囁くように付け加えて、自信たっぷりに美和は言った。

 「空はまだ、青君のこと好きなんだね」
 「……うん」

 心が返事をしてしまった。頭ではまだ、言ってはいけないと思っていたのに。

 美和は真剣にこちらを見ている。

 「会ってきなよ。空」
 「え……」

 美和のまっすぐな瞳が私を見てくる。
 青に……会う?それは無理。そんなの残酷すぎる。
 別れを告げたのは私からなのに。そんなの、できっこない。

 「はーい。お待たせしました。抹茶パフェとチョコパフェです」

 丁度そこへ、注文のものが運ばれてきた。
 その瞬間美和の真剣な顔は一瞬にして崩れ、子どものようにはしゃぎだす。

 「うっわぁー、おいしそう。空、話は後にして、食べよ食べよ!」

 美和の切り替わり方に驚きながらも、私は抹茶パフェを口に運ぶ。

 「……んっ!美味しい……」

 私は思わずそう口にすると、美和はでしょでしょ?と言いながら2人で目の前のパフェを食べる。
 そして、美和はものの1分で大きなパフェを完食。私のはまだ3分の2以上残っているのに。なんという早さ……。
 美和は満足そうにお腹をさすっている。私はその姿に唖然としていた。

 「あ!空今、私のことがさつだと思ったでしょ?いやぁー。あのクラスにいたらこうなんのよ……」

 美和は、はははっと笑い出した。
 そして、美和は自分のスプーンで私のパフェを少しすくい、ぱくりと食べてしまった。

 「あ……私の……!」
 「ふふふっ!早く食べないと、私に食べられちゃうよ?」

 そういって、美和は意地悪そうに笑う。私までつられて笑ってしまう。

 「美和にはあげないっ」

 私はそういって、大きな口で、パフェをあっという間に食べてる。

 「なんか、今日は空の素が見れてよかったよ」

 そういって、美和は優しく笑う。

 「あのね。前の学校で空が何にあったか、私たちにはわかんないし、空が言いたくないのなら、無理やり聞こうとはしないよ。だけど、私たちの前では、空は空でいていいんだよ。誰も嫌ったりはしないし、一人ぼっちにはさせないから。……絶対に」

 私は私でいていい。
 一人ぼっちには、もうならなくていいの?
 ……そう思えた瞬間、遠い記憶の扉が開いた。

 12年前の忘れたくても忘れられない……あの記憶_______。










 家の近くの公園で一人砂遊びをしていたら、同じ年くらいの男の子に声をかけられたことが始まりだった。幼稚園でも、一人遊びばかりしていた私。人の前で話すことに、とても抵抗を感じていた。だから、いつも一人だった。
 男の子たちは、話しかけても何も言わない私が気にくわなかったのだろう。
 言葉は暴言へと変わり、私を取り囲み、あげくの果てには、蹴ったり、殴ったりしてきた。

 夕方の公園に響き渡る声。
 夕日だけが、私達を見ていた。

 「おい、お前なんで笑わねぇんだよっ」
 「笑えよ、泣けよ!」
 「お前人間か?ロボットじゃねぇの」
 「おいおい、ロボットが人間のふりしてんじゃねぇよ」

 誰か、誰か、助けて。

 「おい……。何してんだよっ!」

 遠くから聞こえる声。
 誰かと思い、私は傷だらけの顔をそっとあげた。

 野球の格好をしている。
 確かこの子は……隣の家にすんでる子。
 お父さんがこの前、自慢げにすごい子見つけたって言ってた子。

 「こいつ、笑わねぇし、泣かねぇから、ちょっといじめてたんだよ」

 私を殴っていた1人がそう答える。

 「女の子1人に男5人ってお前らどんだけ弱虫なんだよ」

 野球少年はそう言い放つと、私を取り囲んでいた子たちは一斉に野球少年に飛びかかった。だけど、あっという間に、私をいじめていた子達は、野球少年にボコボコにされ、泣きながら帰っていく。私はその光景をただ唖然と見ていた。

 「大丈夫?」

 野球少年は優しく手を差し伸べてくれた。
 私はその手をつかまず一人で立ち上がる。
 
 どうせこの子だって私のこと、面白くないとか言っていじめてくるに決まってる。
 きっと……そうだ。

 私はそう思って、服に着いた泥を払い、その場を立ち去ろうとした。

 「ねぇ君、名前は?俺、相原青。友達になろうよ」

 何も言わず、立ち去ろうとしている私に、その子は構わず大声で後ろから私に話しかけてくる。

 「あ……お?」

 私は小さく青の名前を呼ぶ。
 すると、青は私の方に駆けてきて、にこっと可愛らしく笑った。

 「君の名前は?」
 「水木……空」

 そういうと、青は私の手を握ってくれた。
 一緒に帰ろうって言ってくれた。

 その日から私は一人じゃなくなった。隣には青がいたから。青の隣には私の居場所があったから_______。

 なんで……こんな時にこんなこと。もう、ここに青はいないのに。もう、あの時みたいに突然現れて私を助けに来ることはないのに。私から青を手放したのに……。
 気づいたときは私の目からは、一滴の涙がこぼれていた。

 「空……?」

 美和は驚いた顔をして私を見ている。

 「あ、ごめん……昔のこと思い出してつい……」

 すると、美和は私の頭をくしゃくしゃっと撫でてくれた。
 泣きたいときは泣いていいよって言ってくれた。
 その瞬間、私の目からは涙が止めどなくあふれ出してきた。

 「空」

 美和は私の頭をなでながら優しい声で言ってくる。

 「空は幸せになっていいんだよ。我慢しなくていいんだよ。青くんに会いたいって思ったら会いに行ってもいいんだよ」

 私が幸せになってもいい?青に会いってもいってもいい?

 だけど、きっと青の傍私がいたら青は……だからこの気持ちは胸の奥にしまうってあの日決めたんだ――――引っ越しを決めたあの日から。

 「うんん。私、青には会いにいかない」

 私は涙をぬぐい、顔を上げた。

 決めたんだよ、あの日。私が青を守るんだって。
 私は私の道を行くんだって……あの日、あの時、ちゃんと決めたから……。
 だから、立ち止まるわけにはいかない。後戻りするわけにはいかない。

 美和は、泣きそうな顔をしていた。
 私の周りにはこんなにやさしい人がいるんだ。
 これ以上わがままは言えない。
 これ以上の幸せを私は望んではいけない。

 「それで、空はいいの?」

 美和は、真剣な目で私を見てくる。

 「うん。私には美和やクラスの皆がいてくれるから。私は十分恵まれているから。幸せだから」

 私はそういって笑顔を作ってみる。
 美和には笑っていてほしい。美和に泣き顔は似合わないから。すると、美和はにっこりと可愛らしく笑った。

 私と美和が店を出るころには、空には青空が広がっていた。私は空を見上げてにっこりと笑った。

 ――――ねぇ、青。
 あなたは今どうしていますか。
 野球を頑張っていますか。
 授業中寝ていないですか、と聞くのは野暮だね。私がいなくなって、きっと青は授業中爆睡しているのだろう。
 私は元気にやってるから。
 青がいなくてもちゃんとやっていけてるから。
 青はもう、好きな子とかできたかな。
 青はモテたからきっと、可愛い子から毎日告白受けているだろうね。私よりずっと可愛くて、彼女らしい人見つけているだろうね。
 それでいい。
 青は青の道を。私はこの青空を通して、あなたを一生応援してるから。

 「私、何があってもずーっと空の味方だから!」

 私の隣で、美和がいきなり青空に向かって叫びだした。
 町のド真ん中にいた私たちは、一瞬にして注目の的となった。私は不思議と恥ずかしさは感じられなかった。単純にうれしかった。

 「美和。ありがと」

 私が小さな声でそういうと、美和は私の手を握り、行こっ!といってその場を離れる。私は美和に引っ張られるまま、走り出す。そして、美和は、私の家の近くの公園で手を離し、息を整える私も膝に手を着き、息を整える。

 「うはははっ。私マジで気違いだよっ」

 そういって美和は一人おなかを抱えて笑い出した。

 「ほんとだよっ。あはははっ」

 私もつられて笑う。こんなに笑ったのはいつ振りだろうか。空はもう、青から茜色へと変化していた。

 「空。今日は私に付き合ってくれてありがとね」

 美和は、満面の笑みで私に笑いかけてくる。

 「私こそ」

 私も美和に笑い返す。

 「じゃあ、明日ね」

 そういって、美和は私に手を振り、公園を出ようとした。

 「うん。じゃあ、まっ……」

 突然目の前の景色が揺れる。そして、だんだんぼやけてくる。

 「……っ!」

 手足に力が入らない。意識が薄れて行く……。
 あ……あの時と同じだ……。

 「空っ!」

 美和の泣きそうな叫びか微かに聞こえた。

 これが、私の道なんだ。
 これが、私の選んだ道なんだよ。