「おはようございます、副社長」
「おはよう、菱木さん。コーヒーもらえるかな」
「かしこまりました」

 菱木さくらは、神岡工務店副社長である神岡樹の秘書だ。
 この春からこの仕事を担当している。

「設計部門との打ち合わせは何時からだったかな」
「午後2時からの予定です」
「会議の時間までに、最近半年間の当社マンションの売り上げ件数の推移を見たいんだが、調べられるかな?」
「はい、データを集めておきます」
「助かるよ」
 日当たりの良い自室の椅子に姿勢良く着くと、彼はわずかに微笑んだ。

 神岡副社長。実質的な社内の重要業務全般を担い、的確に、無駄なくスマートにこなしていく。
 あまりにもさらりと淡々としていて——時々物足りない。
 物足りない——何が?
 異性として、一切隙のないところが。

 ここまで脳内で自問自答し、ハッと我に帰る。
 何考えてるんだか。
 しかし、これはやむを得ない。
 この規模の会社の副社長で、これだけ仕事ができ、社員への配慮もあり、人目をひく美貌を持ち——
 こんな男のそばで日々働いているのだ。異性として興味を持たない方が異常だ。

 さくらは、神岡より一つ年上、今年30だ。
 これまで数人の社長や取締役などの秘書を務めてきた。
 彼女のキャリアの中で、神岡はダントツに若く、有能で魅力的だ。しかもまだ独身。モテないはずがない。
 にもかかわらず——彼には、異性の気配が一向にない。むしろ不自然なほどに。

 自分で言うのもなんだが、容姿には多少自信がある。すらりとした長身に、水泳で鍛えたメリハリのある身体つき。マニッシュな顔立ちが凛々しいとよく言われる。これまでも、担当したおじさま達の目尻をトロッと下げさせてきた。
 そんな自分のことも、まるで事務用品の一つのような目で見ているし。
 女嫌いなのだろうか?
 そんなことを考えながらコーヒーを淹れ、神岡の席へ運ぶ。

「ありがとう。——あ、それから、菱木さん」
「はい?」
 いつもは、コーヒーを運んだらすぐ出ていけと言わんばかりの冷たい空気になるのだが——珍しく呼び止められた。
「君は、お気に入りのブランドのゴム手袋とか、ある?」
「——は?? あの……ゴム手袋ですか?」
「うん。丈夫で使い心地のいい品を探してるんだけどね」

 ……はあ。
 家事や炊事を、自分でするのだろうか……?
 この人が、ピンクのゴム手袋で?
 一瞬吹き出しそうになるのを堪えた。

「——副社長がお使いになるんですか?」
「いや、プレゼント用だ」
 プレゼント?
 それって……もしかして、彼女に——?
 でも……ゴム手袋??
「それは……どなたへ?」
 うっかり直球で聞いてしまった。
「ん、大学時代の後輩だよ。いつもたくさん洗うことになるから、お礼にね」
 神岡は、何でもないようにさらっとそう答える。

 洗い物? 大学の後輩が?
 ますます意味がわからない。
 だが、あまりプライベートに首をつっこむのはマナー違反だ。

「えー……ゴム手袋は、破れたらどんどん取り替えちゃいますし……消耗品だと思って100均で済ませてますけど……」
「なるほど。……でも、この前はさすがに片付け物が多すぎてムクれてたからなぁ」

 そんなことを呟きつつ、ゴム手袋をネット検索しながら——なんだか、指で覆った口元が笑っている……ような?

 初めてだ。
 仕事以外の話をしながら、なんだか楽しそうにしている彼を見るのは。

「あ、ありがとう菱木さん。参考になったよ」
 そう言って不意に自分に微笑みかけた彼の顔は、やたらに無邪気で、可愛くて——
 さくらは、胸のどこかをぎゅっと鷲掴みにされる感覚を禁じ得なかった。

「……あの、副社長」
「ん?」
「嬉しいです。——そういうご相談を私にしていただけて」
 神岡は、はっとしたように慌てていつもの表情に戻る。
「もし何かお手伝いできることがあれば、何でも私にご相談ください」
「あ——それは嬉しいな。ありがとう」
 彼はちょっとはにかむように、そう呟いた。

 ……なんだかよくわからないが。
 いつもの冷たい壁の奥には、ずいぶん可愛い少年が隠れているようだ。
 さくらは、まるで秘密の宝物を見つけたような、不思議に幸せな気持ちになっていた。




✳︎




 土曜日。
 俺は、昼ごろやっと目覚めた。

 その前日、金曜の夜。初めて神岡から依頼された任務をなんとか乗り切ったのは良かったが——彼の恋の話だけが、モヤモヤと俺の中に残った。

 深く考えれば考えるほど知りたくなる、簡単に踏み込めない領域。
 彼がまだ見せていない秘密が、きっとそこにある気がする。

 そして——俺の中で、彼の恋人に対して一瞬湧き上がった、訳のわからない感情。
 そのことも、どこかに引っかかって……それなのに、その部分をじっと見つめたくない自分がいた。

 自分の胸に溜まった、面倒な何か。

 たっぷり寝た俺の脳は、それらのモヤモヤを大雑把に片付けたがっていた。

 神岡の大学時代の恋人。
 それは男性で。
 とても美しい人で。
 理由はわからないが——おそらく、幸せとは言えない別れ方をして。
 その恋が原因で——彼は簡単に人を愛せなくなって。

 俺が踏み込むのは、今はここまでだ。
 ここからは——見ない、聞かない、知らない、で行こう。

 昨夜、俺が感じた理由のわからない動揺は……美味すぎるワインと肉のせいだ。恐らく。
 普段粗食の人間があんな贅沢なものをたらふく飲み食いするからいけない。

 ……ほんとにそうか?
 ワインに少し酔った彼に、確か見惚れてたよな……オマエ?
 あんな魅力的な男にあんまり可愛がられちゃ、ヤバいんじゃないのか?
 はぁ?? そんなんあるわけねーだろ!
 ヤツは俺の雇い主でハンパないド変人だぞ。見惚れるとかありえねーし。あの時の俺は人生初の高級ワインの酔いが回ってたんだ。
 これ以上騒いだらぶっ飛ばす!!
 以上、この話おしまい!! 失せろ雑念!

 俺は、ざわざわとうるさく騒ぎ出しそうな自分自身の思考に、そうやって無理やり蓋をして胸の奥に放り込んだ。
 超のつく変わり者でしかも男のあいつにそんな感情が湧いてたまるか。冗談にも程がある。
 なのに、こんなことでは気が散って契約通り業務がこなせない。せっかく俺を見込んだ彼にも悪い。
 これほど興味深い仕事を簡単に手離してなるものか。任務の遂行に専念すると決めたからには、くだらぬ雑念は邪魔だ。さあ犬ネコに戻るんだ俺!
 
 犬ネコ気分が復活し始めたら腹が減ってきた。天気もいいし、近くのコンビニにでも行ってこよう。



「あれ、三崎さん?」
 コンビニでサンドイッチなど眺めていると、後ろから声をかけられた。
 振り返ると、華奢な長身を少し傾けて、綺麗な顔の男が俺を覗き込むように笑っている。
 美容室「カルテット」の俺担当の美容師、宮田だ。
「もうそろそろボクのところに来てくれる時期ですね? この前カットしてから1ヶ月になるし。髪が少し伸びて来たみたいですよ」
 そう言って、宮田はいつも通りの笑顔を作る。

『——こんなに可愛い顔してて、色白くて、素直そうで…男の人がほっておかないニオイがしますよ、三崎さんて。——自分のニオイに気づいてます?』
 初めてカットに行った時、こいつは俺の耳元でそんな言葉を囁いた。
 人当たりのいい爽やかな空気をまといつつ、実は結構曲者だ。
 なんだか心の底をざわつかせる彼のその言葉が、ずっと引っかかっていた。

「ああ、そうですね……そのうち行きますよ」
 俺は警戒心を悟られないよう、笑いながら適当に返した。

 宮田は明るい顔のまま俺に話しかける。
「あ、そうだ。ボクもこれから昼の休憩なんです。もしよかったら、どこかでランチでもしませんか? お店では様付けがルールですが、外では普通に呼んでもいいですよね?」
「それは構いませんけど——」
「じゃよかった。これから月一くらい顔合わせるんだし、お近づきになるのにちょうどいい機会だ。なら、その辺の適当な店探しましょうか」
 彼はそう言って、にっこりと微笑む。

 このあくまで自然で親しげな空気が、怪しいのだ。
 なんか嫌な奴にひっかかっちまった。公園のベンチで昼食べて気分転換したかったのに、むしろ逆方向に引っ張られる気がする。

 しかし、コンビニへ昼飯を買いに来たのはバレてるし、ここで変に断るのも不自然だ。
 何より自分がこいつから逃げ出すみたいで嫌だった。

 かかってこい、やたら綺麗な顔した曲者め。
 俺は奇妙な勇気を奮い起こして、軽い足取りで店に向かう彼の後ろを歩いていた。