「……あ、ごめん、いきなり驚いただろ?」
 神岡は、一瞬沈みそうになった視線を俺に戻すと、明るく笑った。

「いいえ……
 あの……もしよかったら、聞かせてもらえませんか?……そのひとのこと」
「……面白くも何ともない話だけどね」
 彼は、ワイングラスの中の美しい液体を見つめるように呟く。

「彼は、僕と同い年でね。とても美しいひとだった。
 北欧とか……どこか異国の血が混じったような、深い灰色の瞳の……華奢で儚げな、繊細な人だった。……僕は一目で恋をしてしまった。
 それまでの僕は、女の子に恋をして、女の子とデートするのが当たり前だった。
 同性に恋をした自分自身に驚いたし、しばらくはその感情を受け入れ難かった。
 けれど……彼へ募る想いは、あまりにも強烈で——
 ひとを愛することに、理路整然とした理由づけなんてなんの意味もないんだと、初めて思い知らされた。

 そして、やがて彼も、僕の想いに応えてくれた。——それはまるで、奇跡のようだった。
 僕は彼に、たくさんのことを教わった。
 料理の楽しさや……人を心から愛すること、相手の思いを大切にすること。
 ——それから、簡単にひとを愛してはいけないこと」

「……愛してはいけないって……どういうことですか?」

「——ごめん。
 君には申し訳ないが……この話は、また今度にしようか?
 ……せっかく初めて君と取る夕食の席でするような話じゃなかった。最初にそんな話をした僕がいけないよな」

 神岡は、空気を変えるように、そう言って笑った。

 うーん。
 うーーーーーん。
 気になる。気になりすぎる。

 このひとが我を忘れて恋してしまう相手って……どんな人だ?
 それはもう透き通るように美しい、別世界の人のような……??
 それに……簡単に人を愛してはいけない……って……?

「……気になる? 柊くん」
「……そうですね……気になりますね。とても」
 変に酒が回ったようだ。なんだか歯止めが効かない。
「率直だね」
 そんな俺に、神岡は少し酔いを含んだような優しい眼で微笑む。
「……芯の通った潔いところや、そんな部分を敢えて隠すようなところが、ちょっと君に似ているかもしれない」

 ……いや。
 似ているなんて、きっと嘘だ。
 そんな美しい人と自分が似ているわけがない。
 どこからともなく湧き出した卑屈な思いがなぜか心を侵食する。

「——貴方の恋人になるような人と俺が、似てるわけないですよ。見かけだって全然違いすぎる」
「……そうかな? 色の白くて綺麗な肌は、よく似てるよ」

 そうなのか。

 このひとは、彼のその白い肌を、狂おしく抱いたのだろう。何度も。
 彼はきっと、華奢な身体を熱くしながら、それに甘く応えたに違いない。

 ……何だ?
 この脳内の変なざわつきは?

 まずい。
 このままでは、自分がおかしな方向へ突っ込んでいってしまいそうだ。
 焦り出した脳に酒の酔いが一層絡みつき、心拍数が急激に跳ね上がる。

 ——落ちつけ俺!!

「……さあ、そろそろ僕も食事にしないと、本当に酔ってしまいそうだ」
 手にしていたワイングラスを置き、神岡がふっと気持ちを緩めたように呟いた。
 ああ、なんという救いのタイミングなんだろう。
「あっ! じゃ俺スープ温めてきますっ!」
 俺は勢いよく立ち上がった。

 あのまま会話を続けていたら——俺は、一体何を言っただろう?
 混乱した思考をなんとかまとめたくて、キッチンへ駆けこんだ。

 ——と。
 その光景は、半端じゃなかった。
 キッチンが大変なことになっている。
 鍋や包丁、フライパン、ボウルや肉のトレーなどが、使ったままがっつり散乱している。
 料理は最高にうまいが——もしかして、後片付けが最低なパターンかこれ!? なんでも完璧な顔して、どういうギャップだよ神岡樹!!?

「……」
 無言でスープを温め、ライスと一緒に神岡の前へ運ぶ。
「ありがとう。柊くん、君はやっぱり素晴らしい。僕のスーツも、ハンガーにちゃんとかけてくれたんだね。なんか感動だなぁ、こういう細やかな気遣い」
「ありがとうございます。——スーツはまあいいとしても、キッチンが半端じゃないですね?」
「うん。実は苦手なんだよね、片付けが。
 君に出会えて、僕は幸せ者だ。——ここに来た時は、こうやって君に甘えてもいいだろうか、柊くん?」
 彼は悪びれる様子もなく、まっすぐに俺を見ると美しく微笑んだ。

 彼の心が垣間見えた気がした。
 この人がこんなありのままの自分を出せる場所は、きっと他にはどこにもないのだろう。

 ペットどころか——俺はどうやら、このド変人の世話係も担当することになるらしい。

「——もちろん、喜んで」
 俺は、いろんなものがごちゃ混ぜになった複雑な気持ちのまま、そう答えて微笑んだ。


 その夜遅く、神岡は帰っていった。
 玄関まで見送る。
「じゃ、おやすみ。また来るよ。柊くん」
「はい。おやすみなさい。気をつけて」
 神岡は玄関に立ったまま、俺に向かって両腕を広げる。
「……何ですか?」
「なにって、おやすみのキス」
「———は!!?」
「……嫌?」
「嫌もなにも——そんな急に契約以外の要求されても!!」
「じゃ、百歩譲ってハグ」
 わたわたと動揺しまくる俺にそんなことを言いながら、彼は可笑しそうにくっくっと笑っている。
 ……完全にからかわれてるぞ俺。
「……今まであなたの履いてたそのスリッパでしばきますよ?」
 悔し紛れに、俺は神岡の顔をぐいっと睨みつけた。
「いつもは冷静で、そんなリアクション絶対しなさそうなのに、柊くんって。可愛いなぁ」
 あーーーーー、むかつく!!!
「ごめん、悪ふざけして。まだ少し酔いが残ってるようだ。……今日は楽しかった。おやすみ」
 彼は心地よさげにそう微笑むと、玄関を静かに出ていった。

 くーー。
 はぁーー……。
 何なんだ、この異常に何かが濃縮された数時間は……。

 ——確かに、いつもあまりいろいろな感情に振り回されない俺が、今日は散々振り回されたこの疲労感……。
 半端ないヘンジンに付き合うって、すげーハードだ。
 でもとりあえず、初仕事は何とか彼を満足させられたようだ。

 なんだか、少し考えなきゃならないことがある気がするんだが……。
 既に脳がオーバーヒート気味だ。
 とりあえず今日は、電源を落とそう。

 モヤモヤしそうな予感をなんとなく抱えながら、俺はベッドに倒れこむとそのまま深い眠りに落ちていった。