その日の夜、9時近く。
 小一時間ほど前に、『これから行く』と、神岡からメッセージが届いた。
 そろそろこの部屋に着く頃だろう。

 俺はその日、社長面接を受け、その場で採用をもらい——神岡に、ここで待っていてほしいと言われていた。
 今日の彼の様子からは、まだその本心のようなものがよく見えてこない。

 夕食は……どうしよう。ここで食べるつもりだろうか。彼は、仕事を終えたらすぐ行く、と言っていたが。
 俺は、よく分からないまま——最低限の食材を買って米を炊き、ビールを冷蔵庫に入れ、ごく普通のカレーだけ準備した。
 一体、彼がどんな話をするのか……不安で居ても立ってもいられない気持ちを、キッチンに立つことでなんとか紛らわしていた。

「こんばんは、柊くん……お邪魔するよ」

 神岡は、なんだか久々に会う友人の家にでも来たように、遠慮がちに玄関を開けた。

「……お疲れ様でした」

 これまでと同じように、彼のビジネスバッグを受け取る。

「——あ、少しだけ、夕食の準備したんですけど……あと、ビールも」
「ほんと? それは嬉しいな……でも、食事は少し話をしてからにしようか」

 俺の言葉に、彼は変わらぬ美しい微笑を浮かべた。


 リビングのソファに、向かい合わせに座る。

 何度も思い出して、その度に胸が痛くて。
 ……そんな、何気ないシーン。

 ただこれだけのことが、これほどに幸せだったなんて——そんな思いに、胸がじわじわと熱くなる。


「あの——神岡さん」
「ん?」

「急にあなたの前からいなくなって、済みませんでした。
 ——今まで、ありがとうございました」

「…………」

「今日は——俺との関係をきちんと終わらせるために、俺をここへ連れて来たんでしょう?
 これからは、ただの社員と副社長になる。……そういうことですよね?

 だって、あなたには、この会社も婚約者も——力を注ぐべきものが既に揃っているじゃないですか。
 どう考えても、あなたの側にはこれ以上、俺のいる場所があるとは思えない」

 神岡は、いつになく穏やかに落ち着いた瞳で、俺を見つめた。

「——柊くん。
 これから僕が話すことを、聞いて欲しい。
 僕も、君のように——自分の道を、自分で作ってみたんだ。
 ……何よりも大切なものを、失わないためにね」

 それからの時間は——
 彼の口から次々に出てくる事実は、何もかもが信じがたいことだった。

 婚約を解消すると申し出た、美月さんの心の奥の優しさ……そして苦しさ。
 神岡に思い切り殴り飛ばされた宮田の痛み。

 俺がいない間に……そんなにも大きな変化が起こっていたなんて。


「美月さんが背中を押してくれなければ——多分僕は、君を諦めていた。
 最後に会った彼女は、強くて温かくて……まるで別人のようだった」

「——そうですか……」

 美月さんが——別人のように、強く温かく。

 ……何だろう。
 何だか、すごく嬉しい。


「それから……君の居場所がわかったのは、沢木さんのおかげなんだ」

「えっ……あんなに約束しておいたのに……」

 俺のリアクションに、彼はちょっと可笑しそうにクスッと微笑んで続ける。

「彼を責めないでくれ。
 ——僕が今日君を迎えに行けたのは、彼がいてくれたからだ。

 4月の半ば——君がここからいなくなったことを知ってすぐに、僕は沢木さんに連絡を取った。
 彼なら、君のことを何か知っているかもしれないと思った。……すぐにでも、君を探したかった。
 けれど、その時に言われたんだ。
『あなたには、彼を幸せにできる保証があるのか』——と。

 ——雷が頭に落ちたかと思うほどに、ショックだった。
 僕が、君に甘え、依存してばかりだったことに気づかせてくれたのは、彼だ。

 僕は、君の将来のことを保証するための手段を考え、半ば力ずくでもぎ取った。
 そして、沢木さんに、その証拠を示した。——僕が君を幸せにできることを彼に証明すれば、君についての情報を伝える、と約束してくれていたから。
 君のアルバイト先の場所を教えてもらったのは、そんな経緯からだ。……少し前、君と飲んだ時の話で見当がついたらしい。
 これは断じて約束違反ではない!と沢木さん言ってたよ。
『息子の幸せのために行動するのは、父親の当然の権利だ』ってね」

 微妙な顔をして聞いている俺の顔を、神岡は覗き込む。
「納得した?」

「——はい……」

 怒っているんじゃない。
 こんなにもたくさんの人の思いが動いて、俺をここに導いてくれた——そのことに、どんな顔をして、何を言えばいいのか、分からなかった。

「あの、それで……力ずくでもぎ取って、沢木さんに証明したって……何をやったんですか?」

 俺のそんな質問に、彼は急にどこか居心地の悪そうな表情になった。

「一番大事なのは——その話だ」
 そう呟くと、何やら文書らしいものを俺に手渡す。

「……我が社の社内規定に、新たな規定を加えることにした。
 僕が社内アンケートを実施し、賛成多数により通過させたものだ」

 その文書のタイトルに——俺はとんでもなく動揺した。

「……あの……これ……」

「そう。——社内での同性婚を認める規定を、目下作成中だ。施行までには、まだしばらく時間はかかるだろうけどね。
 これを使って、君とのことに反対しようとする親父を黙らせた。——こうなれば実力行使だ。

 それから、この新規定についてはすでに社内にも周知した。今後は僕の恋人が君だと誰が知っても、社内では異論を唱える者はいないはずだ。
 そして——この形ならば、君と僕の関係が大企業の力に守られたものだということを、社会的にも堂々と示すことができる。
 ——君の存在を非難することは、もう誰にもできない」


 ——彼の意図が、わかった。

 彼は、全力で俺の立場を守ろうとしてくれているのだ。
 周囲の目を一切憂うことなく、彼の側にいられるように。

 思わず、目がじわっと潤みそうになる。

「……あ」
 涙が抑えきれない——そう思った瞬間、俺は不意に思い出し笑いに襲われた。
「ん?」
「面接で、社長が仰ってたので……息子が散々駄々をこねた、って」
「笑い事じゃない」
 神岡は、急に照れたように、ぶっきらぼうに呟く。

 そして——意を決したように視線をぐっと上げると、俺をまっすぐに見つめた。

「柊くん。
これからは、雇用契約じゃなく——僕の恋人として、側にいて欲しい。
……いずれは、僕のパートナーとして」

「……あの……」
「何?」

「……俺なんかで、いいんですか……?
 俺、ほんとに何も持ってないんですけど……」

 神岡は、溢れるような笑顔で答える。
「——君は、全部持ってる。
 僕が今まで探し続けていたものを——それよりずっとたくさんのものを」


 ——やっと。
 彼の腕が、俺をきつく抱きしめた。

 ついでに、花嫁のように抱き上げられ——お互いに引き合うように、唇を重ねる。

「——全力で、君を幸せにする」

「……全力で、あなたを幸せにします」

 再び、柔らかく、唇が重なり——
 その温かさに、目の前のものが夢ではないと感じ合う。


 そして——

 その日俺たちは、初めて本当のお互いを深く確かめ合った。









「——そういえば先日、あのマンションへ三崎さんが入って行くところを、偶然お見かけしたんです。
 何やらたくさんお買い物をされていましたよ」

 よく晴れた、9月上旬の朝。
 車の運転をしながら、ミラー越しに野田が美月に話しかけた。

「——そうなの?」
 窓の外を眺めていた美月は、その言葉に一瞬はっとしたように、瞳を輝かせてミラーの野田を見つめた。

「…………」
 自分自身の分かりやすいリアクションが少し恥ずかしかったのか、彼女は慌てたように視線をそらす。
 そんな美月の様子に、野田は優しく微笑む。

「良かったですね」

「……ええ。そうね。——本当に」

 美月は、再び窓の外を見るふりをしながら、嬉しそうに微笑んだ。









「いらっしゃいませ。お待ちしてました、三崎様」

 俺の顔を見て、宮田は以前と変わらぬ美しい笑みを浮かべた。

「——随分幸せそうだな、その顔からすると」
 そして俺の耳元に顔を寄せると、ニヤニヤしながらそう呟く。

「……別に、今まで通りだ」
「そんなことないだろう?神岡さんに目の前で跪《ひざまず》かれて、エンゲージリングでも捧げられて『ずっと僕の側にいてくれ』とか言われちゃったやつだろ? 神岡さん、あの時すっげーマジだったからなー。
 ……美月さんとの婚約もなくなったんだし、もうそれしかないじゃん?」

「…………リングらしきものはもらった」

「ああ〜〜そうですか、それはごちそうさま!! 何だか腹立ってきた!」
「あんたがしつこく聞くからだろ」

 そんな会話をしながら、俺と宮田はくくっと小さく笑い合った。

「……まあ、お幸せに。
 また君がここに来てくれて、嬉しいよ。
 ——今日もいつものスタイリングでよろしかったですね? 三崎様」









「……ねえ、柊くん」
「何ですか?」

 9月下旬の、金曜の夜。
 仕事を終えて部屋に来た神岡が、キッチンで夕食の準備をする俺の後ろでぽつりと切り出した。

「——一緒に暮らさないか、僕たち」
「……っ!!」

 その唐突な提案に、味見の肉じゃがを箸から取り落としそうになりながら俺はアワアワと動揺する。

「……どうしたんですか、急にそんなこと!?」
「急じゃないだろ?……だって、10月からは君もウチの社員だ。これまでなど比較にならないくらい忙しくなる。
 こんな風にゆっくり会うのだって、きっと難しくなるじゃないか」
「……そう言われれば……確かに……」
「だろ?いちいち会いに来て、また帰って……なんて、全くの無意味だ。
 だからさ……どうだろう?」

「…………
そうできたら……俺も嬉しいです」
「ほんと!?
 よしっ!! そうと決まれば来月から早速……あ、その時は僕がこの部屋に引っ越すよ」
「え!?……そうなんですか?」
「僕の今の部屋なんかより、こっちの方がずっと居心地がいい。僕の持ち物なんてたかが知れてるしね。
 それから——もう一つ」
「はい?」
「——これから、僕のことを名前で呼んで欲しい」
「……っっっダメです! そんなの無理です!!」
「だって、恋人にいつまでも『神岡さん』って……味気なさすぎる。——頼むよ、柊くん」
「……じゃあ……なんて呼んだらいいんですか」
「君の好きでいい」
「…………いっくん」
「……嬉しすぎてむしろまずいから、別のにしよう」
「……樹……さん??」
「ん〜〜〜、最高だ! 好きだ柊くん!!」
「んっ…………ちょ、神岡さん、まだ料理中……」
「料理なんて後でいい。それに、『樹さん』だろ?」
「ん……今はまだダメですって……だめです、樹さん……」
「ああ、もう無理だ」

 俺はエプロンをつけたまま、軽々と抱き上げられる。
 ベッドに組み伏せられ、逃げ場もない。キスは一層深く、甘くなる。

 溶けるようなキスの心地よさと、ホワイトムスクの甘い香りと……シャツの下へ滑り込んでくる彼の繊細な指の動きに、俺の抵抗力が次第に奪われていく。

「……ん…………」

「——柊……」

 その時——溶け始めたお互いの意識に、スマホの呼び出し音が鳴り響いた。

「樹さん……鳴ってます」
「いいから」

 しつこく鳴り続ける呼び出し音に、しびれを切らした神岡はガバッと立ち上がり、イライラとテーブルのスマホを掴む。

「——って、親父??」

『樹か。もう帰宅した頃だろ。三崎くんと一緒だよな?
 今夜は、久々に母さんの手料理をうちに食べに来ないか』

「……どうしたんですか急に」
『いや、狙いはお前よりむしろ三崎くんなんだけどな。
 母さんが、三崎くんに会いたいとうるさくてね。お前をやっとやる気にさせてくれた可愛い彼に、お礼が言いたいらしい。——お前には悪いが、彼を独り占めできると思ったら大間違いだぞ。ははっ。じゃ、待ってるからな』

「————」

「……どうしたんですか?」
「——君と二人で夕食に来いってさ。母さんが君に会いたいらしい……全くどういうタイミングだよっ!!?」
 神岡の苛立ちっぷりに、俺はクスクス笑いが止まらない。

「……でも、なんだかんだ言って、ご家族仲良さそうじゃないですか?」

「……そう見えるなら、きっと君のおかげだ。
 せっかく夕食準備してくれたのに、ほんとごめん」
「お母さんの手料理、楽しみです。
 それに——肉じゃがは、明日二人で食べればいいでしょう?
 ……明日は、あなたが帰ってくるの、待ってますから」
「——ああ。
 やっぱり、今食べたい……」
「だからっ今はダメですってば! お父さんに怒られます!!」

 そんなことを言いながら、笑い合う。

 誰かのための夕食の準備の最中に、誰かから食事に招かれる……こんな幸せなことは、きっとない。




✳︎




 10月2日。爽やかな秋晴れの、月曜の朝。
 記念すべき、俺の初出勤だ。


 社長室に、辞令を受けに行く。
 配属先は、設計部門だ。

「これから頑張ってくれ。——君と働けるのが、楽しみだ」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
 社長から辞令を受け取り、俺は深く一礼する。

「この前は楽しかった。君は思ったより酒が強いな。あいつと3人で、また飲もう」
「はい——喜んで」

 そんな、初出勤らしからぬやりとりが挟まったりする。



 社長室を出ると、神岡の秘書の菱木さくらさんが待っていた。
 俺を見ると、ぱっと嬉しそうな顔になり——輝くような微笑みを零した。

「三崎さん。またきっとお会いできると思ってました。
 ——今日から、どうぞよろしくお願いします」

 俺も、少し照れながらも、微笑んで挨拶を返す。
「菱木さん——俺も、嬉しいです。
 こちらこそ、よろしくお願いいたします」



 今日のこの一歩が、俺の進む新しい道の第一歩だ。
 そして——彼と一緒に歩き出す、第一歩。


 この道で、これから一体どんな景色が見られるのだろう。
 楽しみだ。


                   〈了〉