「どうぞ」
「失礼致します。——三崎 柊と申します」

 微妙に震える手で、社長室のドアを開ける。

 スラリと背の高い、品のいいロマンスグレーの男が自席から立ち上がった。
 物腰も容姿も、神岡によく似ている。

「——三崎 柊くんか。
 私は、神岡工務店社長で樹の父親の、神岡 充だ。どうぞよろしく。
 では、こちらへにかけなさい」

「は、はいっ。よろしくお願いいたします——」

 俺は、促されるままソファの前へ立つと、飛び出しそうな心臓を必死に押さえつけながら深く一礼した。

 会社への道の途中で神岡に履歴書を渡され、ここに着くまでに何とか仕上げた。といっても、車内で慌ただしく準備した、何とも完成度の低いものだが。
 よく考えれば、バイト先から直行だ。服装も、グレーのサマーニットにジーンズ、白のシューズという、我ながら何とも言いようのないものであり……なんだかもう、心細さ以外にない。

 社長は向かい側のソファへ静かに腰を下ろすと、俺の提出したその履歴書を眺めた。
 そうしながら、ごくさらりと呟く。

「——息子が、君を自分の傍に置きたいと散々駄々をこねてね」

 社長のその言葉に、思わずかっと顔が熱くなる。同時に頭の中が真っ白になった。

 えっ……!!
 その辺、聞いてない全然!!
 とっ、とにかく何か答えなければ……!!

「——そっ、そうですか……あ、ありがとうございます……??」

 俺の取り乱しっぷりが面白かったのか、社長が小さく笑う。
「樹は、ずいぶん君に熱を上げてるようだ。……あんな本気のあいつを見るのは、全くもって初めてでね。
 いつもふわふわと、感情が希薄で本心が掴めなかった——そんなあいつを、これほど本気にさせたのがどんな人物なのか。私も、君に大いに興味を持っている。
 ——君にここへ来てもらったのは、そういう理由だ。まあ、最終面接、というところかな。
 君に、いくつか質問をさせてもらいたいのだが……いいかな?」

「はい——よろしくお願いいたします」
 社長の言葉がうまく脳に染み込まないまま、俺は再び深く一礼する。

「さすが、立派な学歴だ——大学院でまとめたという君の研究データも、見せてもらったよ。
 君が大変優秀な頭脳を持っていることは、これらのものを見れば一目瞭然だ。
 けれど——大学院卒業以降、ガソリンスタンドでアルバイトを……。
 ここが面白いね。君なら、トップクラスの求人がいくらでもあっただろうに。——なぜここで急にGSのアルバイトを?」

「……普通に就職するその意味を、不意に見失ったような気がしたからです。……何か、経験したこともない世界を覗いてみたい……漠然と、でも強烈に、そう思いました」

「なるほど。その時間が、このアルバイト期間ということだね。
 で、その中で君が得たものは……何かあったかい?」

「それは……
 一つは、GSでの業務経験——
 そしてもう一つは……
 大切な人のことを、ただ思う……そのことです」

 …………どうしよう。
 この話を、この人にするべきなのか。

 自分の息子に惚れてる男の想いなんか……果たして聞きたいだろうか。

 ——けれど……それでも。

「——あなたにとって、俺の話が楽しいか不愉快かは、わかりません。
 でも——俺にとっては、その時間はこれまでのどの時間よりも意味がありました。……だから、全て話します。

 あるきっかけで、神岡さん……樹さんの側で過ごすことになってから、俺の世界はそれまでと全く変わりました。
 それは俺にとって、生まれて初めての——全く予想すらしなかった経験でした。
 どうしようもないほどに人に惹かれて……自分自身にさえさっぱり訳も分からないまま、なりふり構わずその人のことを想い……その人を支えたいと思う。そんな、抑えがたい気持ち。
 見返りが欲しいのではなくて。
 自分のことなど放り出して、そうせずにはいられない。
 そんな溢れ出すような感情が、自分自身の中にあったこと——樹さんと出会って、俺はそれを初めて知りました」

「……君のその思いは——今も変わらない?」

「はい。変わりません、少しも。
 きっと、変わらないんじゃないかと思います——これからも。
 その人との間に、もし障害が割り込んだとしても……大切な人への想いというのは、ずっと変わらないものみたいです。
 ——俺には、そんな気がします。

 だって……自分が本気で好きになった人だから。
 自分の中に生まれた宝物は、どんなことがあっても……自分のできる限り大切にしたい。
 最近は、ひとりで過ごして——そんなことにも気づきました」

 まるで、今まで胸に溜まり続けたことを誰かに聞いて欲しかったかのように——気づけば社長の目をしっかりと見て、俺はそんなことを必死に伝えていた。

 社長は、とっちらかった思いをまとめながら話す俺の言葉を、静かに聞いていた。
 言いたいことを何とか全部吐き出し、よく分からない汗を拭く俺を、じっと見つめる。

 そして——表情を変えないまま、平坦な声で俺に尋ねた。

「私が、樹の側に戻ることを許さない、と言ったら——君はどうする」

「……自分の進む次の一歩を、俺はもう決めています。——その道でうまくいくのかどうかは、これから散々戦いが待っているんだと思いますが。
 そして……
 先ほども言ったように……彼の側にいられても、いられなくても——俺の気持ちは、変わらない。

 だから——あなたの下す判断は、俺にはどちらでもいいことです」

 その答えに、社長ははっと驚いたような目で俺を見つめた。

「……どちらでもいい……?」
「はい」
「樹は、この会社の後継者だぞ?
 経済的にも社会的にも、大きなものを手にしている。
 そんな相手との関わりがここで切れるとしても、君は一切それに執着しない……というのか?」
「……逆に、お聞きしたいのですが……
 経済的・社会的な力と、人を想う気持ちに、どれほどの関係が?」

「————」

 社長は、俺に向けた険しい目を、やっと柔らかく緩めた。

「……君は、ずいぶんと変わった子みたいだな」
「よく言われます」

 俺の返事に、社長は思わず声を上げて笑った。

「はははっ……!
 ……なるほどな。

 ——樹は、どうやら本当に得難い宝物を見つけたようだ」

「…………はい?」
 社長の小さな呟きがよく聞き取れず、俺は思わず聞き返した。

「いや、何でもない。
 君の気持ちは、しっかり聞かせてもらったよ。——ありがとう。
 私が聞きたいことは、以上だ。……何か質問は?」

「え、あ……特に、ありません……」

 ああ、もう少しマニュアルをしっかり読み込んでおくんだった——!!!
 内心頭を抱えるが、仕方ない。
「では、面接はこれで終了としよう。お疲れ様」
「は、はい——ありがとうございました」

 社長面接なんて、人生初めてのことだ。うまくいったかどうかなんて全く分からない。
 混乱したままソファを立ち、できる限り丁寧な一礼をして部屋を出ようとする俺の背に、社長の声がかかった。

「最終面接の結果だ。
 ——即決で、君を我が社に採用する」


「………………は?」

 恐る恐る振り返る俺に、社長は穏やかに微笑む。
 そして席を立つと、ゆっくりと俺に近づいた。
 俺の手をぐっと握り、静かに呟く。

「樹を——よろしく頼む」


「…………」

 唐突なその言葉の意味を理解しきれずにあわあわ動揺する俺を見て、社長は楽しそうに笑う。

「本当に可愛い人だな、君は。
 柔らかそうなのに、誰よりもしっかりした芯を持っていて——樹が夢中になる訳だ」

「…………あ、あの……」

「君に、樹の手綱を預ける。しっかり頼むよ。
 どうせ私が何と言っても、あいつは君を離さないだろうし——
 君が手綱を握ってくれれば……あいつも自分の道をまっすぐに走れるだろう。

 そして——君ほど樹を幸せにできる相手は、おそらく他にはいない」

「あの——
 どういうことなのか、よく飲み込めないのですが…………
 その、手綱とかなんとか……」

「ん? あいつ、まだ君には話していないのか? まあ、詳しくは樹にじっくり聞いてくれ。
 つまり、君があいつの側にいてくれれば安心だ……そういう意味だよ。
 ——今日は、君と話せてよかった。

 部屋の外に菱木くんを呼んである。彼女に玄関まで案内させるよ。——採用通知と雇用契約書などは改めて渡すので、確認してくれ」

「あの、社長……ありがとうございました」
「——まあ、君もいずれ私の息子……ってことになるのだろうが」
「は??」
「いや、こっちの話だ。お疲れ様」
 社長はそんなことを言うと、どこか親しげに微笑んだ。



 社長室を出ると、ドアの外に待っていたのは菱木さんではなく、神岡だった。

「——神岡さん……」
「面接、どうだった?」
 感情を何とか押し隠しつつも、彼は不安げな目で俺に問いかける。

「……あ、採用だそうです」

「————は?
 もう結果を出したのか?……しかも、直接君に??」
「ええ……社長はそう言ってましたが」

「……あんの性悪親父っ!! 散々不安にさせたくせに……!!
 ああ……やったぞ!!! 柊くん——」

 ずっと不安げに強張っていた彼の表情が、漸く綻び……そこで初めて、輝くような笑顔が溢れ出した。
 思わず俺に抱きつきそうになって——なぜか彼はそこで踏みとどまり、ぐっと堪える。

「……あの……神岡さん?」

「いや……ごめん。
 ——君に、大切な話がある。
 あの部屋、そのままになってるんだ。
 今日、そこで待っててくれる?……仕事終えたら、すぐに行くから」

 部屋の鍵を俺に手渡すと、神岡はどこか緊張したようにそう呟いた。