8月初めの朝。
 GSのバイトへ出かける準備をしながら、明るい日差しが注ぐ窓を全開にした。

 まだ少し涼しさのある海風が、心地よく流れ込んでくる。

 沢木さんと話してから、色々考えた。
 そして、思い至った。
 このまま、ここでこうしているわけにはいかないのだと。

 時期外れではあるが——就活を始めてみよう。
 自分が学んできたことを生かせそうな求人を、片っ端から探してみよう。

 もちろん、新卒生の就活のようにスムーズに進まないことはわかっている。
 しかも——
 なぜ、新卒の時期に就活をしていないのか。なぜ卒業から今までアルバイトなのか——。
 その部分は、おそらく履歴書の印象にも影響するだろうし、面接でもまずそう聞かれることは間違いない。

 それでも——やっぱり俺は、家を建てる仕事をしたい。
 神岡の会社を見学した時の高揚感が、俺の中で熱を持ち始めていた。
 それを叶えるために……今できる事は、何でもやりたい。
 いつまでも立ち止まっていては、何一つ物事は進まないのだ。

 そして——傍目からは微妙に映るであろうそのアルバイト期間で、自分が何を得たのか……それを隠すことなく、自信を持って伝えてみよう。
 誰が何と思おうと、それは俺にとって、今までのどの時代よりも大切な時間だったのだから。

 就活と並行して、公務員試験の勉強も始めようか。
 試験の点数なども選考に含まれるし……新卒が断然有利な民間企業への応募よりも、道の開ける可能性が大きいかもしれない。
 ただ、自分が本当にやりたかった「家を建てる」仕事がそこでできるかどうか……それはわからないが。


 学生時代を終えた段階で、自分の意思で自分の道を選んでみて……とりあえず思った。
 実際に足を踏み入れて経験しなければ理解できないことが、人生にはたくさんあるのだ、と。

 自分の選んだ道が予定と違う。振り返れば、そんなことだらけにもなりそうな気がする。

 でも……予定通りの道しか歩けないと言われたら、それもまたつまらない。
 自分の思ったことを、思うようにやってみたい。そうでなければ、せっかく生きている意味がない。

 だから——どんな状況の時も。
 今、目の前にあることに全力で向き合う。
 自分の選んだ道を後悔しない方法は、それ以外にないのかもしれない。


 この月末に、ここの部屋も出ようと思う。
 これからどう動くにしても、とりあえずアクセスの良さは確保しなければ。
 アルバイト先にも、月末で辞めたい旨を伝えた。——短い期間で、先方には申し訳ないのだが。

 深呼吸を一度して、窓を閉める。
 アパートの外階段を駆け下り、いつものGSへ向かった。

 一日の始まりの海は、まだその色も淡く、なんとも爽やかだ。
 この海とも、またしばらくお別れだ。

 次に来るのは、いつだろう——そんなことを、漠然と思った。



 給油機の点検などをしていると、今日最初の車が入ってきた。

 シルバーの、美しく輝くメルセデス・ベンツだ。

 ——ここでも、この車に乗ってる人いるのか。
 懐かしい。

 車は、駐車スペースに滑らかに止まった。

「いらっしゃいませ」
 車に走り寄ろうとすると——持ち主が静かにドアを開けた。
 品の良い物腰で、座席を降りる。

 すらりと長身の、誰の目をも惹きつけるハイクラスなオーラを纏う男が、ドアの外に立った。


「—————」

「見つけた——柊くん」


 最初に会った時のように——彼は、大股に俺へ向かって歩いてくる。
 喜びと、痛みと、苦さと……様々なものが入り混じった、この上なく複雑な表情で。

 ——なぜ、ここが……?
 ここへ、何をしに?

 一気に疑問が溢れ出るが、思考は全くまとまらず……声にすらならない。

 その時——完全に停止した脳を甘く溶かすように、何かが俺の感覚を強く刺激した。

 ——ああ。
 これは……ホワイトムスクだ。

 彼の匂い。
 たまらなく甘く、懐かしい匂い。


 めちゃくちゃに混乱した俺の手首をぐっと掴むと、神岡は店舗へと向かって歩く。

 店のドアを入ると、彼は美しい微笑と艶のある声で礼儀正しく店長へ会釈する。
「——店長。このように突然お邪魔しまして申し訳ありません。
 私は、こういうものです」
「いらっしゃいませ……は?」
 状況がよくわからないままに神岡に渡された名刺を見て、店長の目はみるみる丸くなる。

「あの……神岡工務店の、副社長様……?
 私どもに、一体どのような……? あ、うちのスタッフが、何か粗相でも!!?」
「いえ、そうではありません。
 こちらのスタッフの三崎 柊くんに用がありまして。
 実は……彼は、当方と結んでいた雇用契約をまだ終了しておりません。
 つきましては、大変身勝手なお願いなのですが……その件について彼と早急に話し合う必要がありますので、今日一日、彼をお借りすることはできないでしょうか? 残念ながら、本日中にはこちらへは戻ってこられないと思うのですが……
 このお詫びは、私から充分にさせていただきますので」

「え……雇用契約がまだ?
 いえいえこちらこそ、そうとは知らず……三崎くん! そういうことなら、きちんとこの方とお話をしなきゃいかんだろ!?
 もちろんです、どうぞこちらのことはお気になさらず……!」
「えっ、あ……雇用契約って……あれはもう……」
「僕はまだ、君のあの申し出を受理した訳じゃない」
 俺のわずかな反論に、神岡は冷静な横目で俺を制す。

 うあ、やばい……
 もしかして、怒ってる……??

 ロッカールームに戻って急いで作業服を着替え、リュックをひっつかむ。
 ああ……もしかして、これからすっごい怒られるんだろうか、俺……??
 会えて嬉しいどころか……ものすごいペナルティ背負わされる、とか……?

 わたわたと混乱したまま神岡の元へ戻り、慌ただしく店長に謝罪する。
「あの……そういうことみたいなんで……店長、すみません……なんかご迷惑をお掛けして……」
「店長、ご配慮深く感謝いたします。じゃ、三崎くん、行こう」

 俺はびくびくと縮こまりながら、神岡に連行されるように店舗の外へ出た。

「君も乗ってくれ」
 車に乗り込み、俺を助手席に着かせると、彼はすぐにスマホを取り出し、誰かと通話を始めた。

「……はい。見つけました。これからすぐに戻ります。
 ——では、着いたらすぐに面談ということですね。……はい。よろしくお願いいたします」

 通話を終え、ビジネスバッグへスマホを戻すと、彼はすぐにブレーキレバーを下げて車を発進させる。
 
「あの……神岡さん」 
「会いたかった」

「…………」

「君に話したいことが……まとめきれないくらい、たくさんある。
 けれど……今はまだ、何も話す気にならない」

「————」

「いきなりで、本当にごめん。
 でも……君を迎えに来るための準備が、やっとできたんだ。
 これから、君を連れて会社へ戻る。
 そこで、親父……社長と会ってほしい」

「……は?」

「——君を、ウチの会社の設計部門に採用したい。
 もちろん、君に来る気があれば、の話だが。
 そして——父が君と会って、採用という結果を出せば」

「…………」

「父は、今日君と面接をして、すぐに採否を出すと言っている。
 その結果を、まず聞いてから……それから、全部説明したいんだ。

 そして……僕との雇用契約は、今を以て解除する。
 僕と君の繋がりは、これで一切なくなった。
 これなら、君がウチに入社しても何の問題もないはずだ」

「…………わかりました。
 ならば、お受けします。神岡工務店の採用面接」

「——ありがとう」

 そのまま俺たちは、ほとんど何の会話も交わすことなく——ただ神岡工務店までの道をひた走った。