7月下旬。
 厚い灰色の雲間から時折強い日差しが差し込む、月曜の朝。

 ドアをノックする音に、神岡工務店社長の神岡 充《みつる》は、デスクの書類から顔を上げた。

「どうぞ」
「社長、おはようございます」
「おお、樹。おはよう。今日も蒸し暑い天気だな。
 かけなさい。——で、私に話があるそうだが?」

「はい。——社内アンケートの実施結果の報告と、もう一つ、非常に重要な報告がありまして」
 樹は、ソファに腰を下ろすと、いくつかの資料をテーブルに置く。

「ああ、あのアンケートの件だな。
 それにしても随分画期的な実施内容だな。私も最初は驚いたが——今の時代に必要な柔軟性や視野の広さが、若い社員たちには随分好印象らしい」
「そのようですね。どのような結果になるかと思っていましたが、実施して良かったです」
「ほう。結果的には——社員の7割以上が、社内の同性カップルについて結婚を容認すると……その際には、パートナーにも配偶者と同程度の待遇を希望する、ということだな?」
「はい。この辺の社内環境整備については、社会的にも注目度が上がっていますし……このような規定を設けることは、今後の優秀な人材確保にも有効に働くのではないかと感じます。
 この結果を踏まえ、今後の社内規定の改正に関する文書を作成いたしましたので、ご確認いただければと」
「……なるほど。この結果であれば、上層部からも批判の出しようがなかろう。
 同性カップルの結婚を認める社内規定の制定について……そうだな。これからはもう、こういうものが必要な時代なんだろうな」

 そう呟きながら、充は文書に社長印を押印する。

「ありがとうございます。——それでは、明日にでも原案の作成に取りかかろうと思います。私の秘書の菱木にも、参考になる資料の収集を進めさせておりますので」
「うん、それがいいな。そのような規定を他社に先んじて制定する意義は大きいだろう」
「承知いたしました」
 樹は社長の承認の下りた文書を受け取ると、穏やかに微笑んだ。

「——そして、もう一つの報告に関してですが……設計部門から希望のあった、新たな設計技術の採用に関する件です」
「藤木設計部長からも聞いたよ。随分優れた研究データをまとめた人物がいるそうじゃないか。——お前が藤木くんにその情報を提供したんだろう?」
「はい。我が社の利益に直結する内容のようです。藤木部長からも、その人物に是非直接会いたいと強い希望がありまして——
 ついては、近いうちに、彼をここへ連れて来たいと思うのですが」

「おお、そうか! その話は、是非早急に進めたいところだ。
 しかし……その人物は、お前とは一体どういう——?」

「——彼は、僕の恋人です」


「————樹。
 今、なんと言った?」

「……彼は、僕が心から愛する人です。
 これから、人生を共に歩みたいと願っている人です」

「…………待て。
 『彼』だと?
 ……それは、何の話なんだ?

 お前——先日、美月さんにも婚約を解消されたのだったな。
 その理由も……
 樹……そうなのか?」

「その通りです」


「…………
 冗談はよせ。

 ——お前は……
 一体、何を考えてるんだ……
 そんなことを許すとは、私は一言も——」

 俄かに動揺を見せる充を、樹は強い視線でぐっと見据える。

「許可できないと?
 社長はつい今しがた、この文書に自ら印を押されたのでは?」

「————!」


「——このような形になってしまい、申し訳ありません。
 ただ、これ以外に、あなたに説明する方法が見つかりませんでした」

 樹は、充から視線を逸らさずに続ける。

「あなたは——何も知らない。
 彼のことも……僕のことも。

 人生を歩む幸せを、僕に初めて味わわせてくれたのは——彼です。

 彼と過ごすようになって、僕は初めて、自分自身を肯定できた。
 今まで呪ってしかこなかった自分の道を、しっかり歩いてみよう——やっと、そう思えました。
 この会社を背負うことも、この仕事に全力を尽くすことも——そこに喜びを感じられるようになったのは、彼がいたからです」

 そうはっきりと話す樹の声は、これまでにない揺るがぬ強さで充に響く。


 ……確かに。
 ある時を境に、樹は変わり始めた。
 喜びや苛立ち——そんな、生き生きとした心の動きを見せるようになった。

 その原因は何なのか……時々不思議だった。

 ——そうさせていたのは——。


 今更のように思いを巡らす充に向けられていた樹の瞳は、不意に力を弱め、俯いた。

「けれど——
 彼は……僕の前から姿を消しました。
 僕の障害にならないように。

 彼の居場所は——今は、わかりません。
 彼を探し出せるのか、本当にここに連れてこられるかも、実際のところわかりません。

 それでも——少なくとも、僕の人生には彼が必要です。
 誰が何と言おうと、この気持ちは変わらない。
 あなたが、僕と彼との間を認めないというならば——その時は、僕もあなたを父親として認めない。
 これだけは、今はっきりとお伝えしておきます。

 そして、もしここであなたの同意が得られなければ、この研究データもそのまま破棄します。
 この内容は、まだ彼のものですから。
 ただ——我が社の重大な損失になるのは免れないかと」

 樹の挑戦的な瞳が、決して消すことのできない新たな炎を揺らし、強く充を捉える。
 その力の凄まじさに、充は思わずたじろいだ。


「…………よかろう。
 お前がそこまで本気なら……私も本気で向き合おう」

 充は、樹の瞳を強く見返し、低く呟いた。

「ならば。
 その人物を必ず探し出し、私の前に連れて来なさい。——これは、社長命令だ」


「————」

「お前は今まで、欲しいものを私に求めたことなど一度もなかった。
 ——しかも、こんな強行手段を使ってまで。

 そこまでお前が強く望むならば、それがどれほど魅力的なものかを、私にきちんと示しなさい。
 ——私の返事は、それからだ」

「…………父さん。
 ——社長。……ありがとうございます。
 必ず、彼をここへ連れて来ます」

 樹は、瞳を強く輝かせて充を見つめた。
 そして深く一礼すると、一時ももどかしいように勢いよく社長室を出ていった。


 充は、しばらく呆気にとられたようにドアを見つめていたが——
 やれやれというように、ふっと微笑んだ。

「……初めてだな。
 お前が、感情を剥き出しにしたのも——そんなに嬉しそうな顔を私に見せたのも。
 強行手段か……
 それでこそ、私の息子だ」

 ゆっくりと窓へ身体を向けてそう呟くと、充はぐっと小さなガッツポーズを作った。



 菱木さくらは、まるで疾走してきたかのように部屋へ駆け込んできた樹に、目を丸くした。

「菱木さん、やった!! 社内規定改正の文書に社長印ゲットだ! 彼を必ずここへ連れてこいってさ——君が力を注いで作ってくれた素晴らしいアンケートのお陰だ!! ありがとうっ」
「いえ、私は何も……副社長のご指示があったからこそです」
「いや。あの文面は、一見あくまで事務的でありながら、誰の感情にも訴えるものだ。君じゃなきゃできなかった。菱木さん、本当にすごいよ!」
「そんな……きゃっ!?」
 言葉も選べないまま、さくらは樹に強く抱きつかれて小さな悲鳴を上げた。
「……っと、ごめん! 許してくれ。
 君には、引き続き社内規定の作成にぜひ力を貸して欲しい。よろしく頼むよ。
さあ、もたもたしてはいられない」
 慌ただしくそんな話をすると、樹は自室へ駆け込んでいった。


「……これを独り占めなんて。
 三崎さん、ちょっとずるいわ」
 思わず吸い込んだ樹の胸元の甘い香りと、強い腕の感覚を拭い切れずに、さくらはふわふわとそう呟く。


 ……副社長。
 新しい道が、拓けそうですね。
 よかった。本当に。

 あとは——

 神様。
 どうか、どうか。
 彼らふたりがもう一度、会えますように……

 さくらは、いつしか繰り返し心で呟き続けていた。









『——沢木店長でいらっしゃいますか。
 私、神岡工務店副社長の、神岡樹です』

「ああ、これは神岡副社長。お元気ですか」
『はい、おかげさまで。ありがとうございます。
 今日お電話したのは……できるだけ早く、あなたにお会いできないかと思いまして』

 7月下旬、蒸し暑い月曜の夜。
 電話の奥から、張りつめたような樹の声が沢木の耳にピリピリと届いた。

「それは——三崎くんの件ですか?」
『そうです。
 以前お話した際に……僕が彼を幸せにできることをあなたに証明しない限り、彼に関する情報は渡せないと——あなたは、僕にそう仰いました。
 覚えていらっしゃいますか?』

「ええ、そうでしたね。覚えています」

『あれから、全力でその手立てを講じました。——そして今日、具体化への準備がやっと整いました。
 あなたに、その証拠をお見せします。

 彼と歩むための道を、何とか自力で切り開くことができたのは、あなたの言葉のおかげです。
 心から、感謝します。
 そして……僕の準備した内容があなたをご満足させるものならば、その時は——彼に関する情報を、詳しくお伺いしたいのです』

「——わかりました。
 早い方が良いのであれば……明日の夜8時頃は、いかがですか? 店舗の方でお待ちしております。
 ただ、あの時私は、『お伝えできることがあるかもしれない』とお話ししただけです。
 あなたが望むような情報は、残念ながらお伝えできない可能性もありますが——」

『構いません。どんなに些細なことでも結構です。それが彼を探す手がかりになるならば。
 それでは、明日の夜8時に、お伺いいたします』

 樹のはっきりとした語調は、どんな状況にもその思いが決して揺るがないことを、ありありと伝えていた。


 樹との通話を終えた沢木は、しばらくじっとスマホの画面を見つめ、ニッと微笑んだ。

「どうやら、本気みたいだな——王子様」