「菱木さん。コーヒーありがとう。
 ところで、少し話があるんだけど……今、ちょっといいかな?」
「あ、はい。……どのようなお話でしょう?」
「とりあえず、ソファにかけて」
「では——失礼いたします」

 6月初旬、月曜の朝。
 いつものように副社長のデスクにコーヒーを運んだ際、秘書の菱木さくらは神岡からそう声をかけられた。

 こんな風に彼と話すなんて、今までしたことがない。
 一体なんの話だろう。
 仕事の話?……まさか、何か失敗でも?
 それとも……

 憧れながらも近寄り難い存在の上司から、いつになく神妙な空気で呼び止められるなんて……色々な意味で心臓に悪い。

 神岡は、そんなさくらの向かい側のソファへ静かに座る。
 どこか居心地の悪そうな顔で……何か、微妙にためらうような……?

 心の中でそんな疑問符を浮かべるさくらへまっすぐ視線を向けると、神岡は、決意を固めたように低くはっきりと話し出した。

「——これは、君を信頼した上で、君だけに話すことだ。どうか、誰にも口外しないと約束して欲しい」

 思ってもみなかった神岡の真剣な瞳を受け止め、さくらの心拍数はいきなり大きく跳ね上がる。

「……はい、お約束いたします」

 これまで微かに感じ取る程度だった彼の心の奥に、突然通される——そんな高揚感が彼女を高鳴らせる。
 ……落ち着いて。冷静に話を聞かなきゃ。

「……以前、君に社内の案内を頼んだ、僕の大学時代の後輩のこと——覚えてる?」
「はい。三崎 柊様ですね。熱心に見学をされていて、私もとても楽しかったので、よく覚えています」

「……菱木さん。君を騙して、申し訳なかった。……彼は、大学時代の後輩なんかじゃない。
 ——僕にとって、誰よりも大切な人だ」

「…………」

 神岡の唐突な告白に、さくらは思わず両手で口元を覆い隠した。

「…………そうだったんですか……」
「そう。……それは驚くよな」

「ああ、やっぱり……」

「……え?」

 次の瞬間、さくらは、花が綻ぶように嬉しそうに微笑んだ。
「実は……社内をご案内した時、もしかしたら?って、ちょっとだけ思ったんです。
 だって……あの時、手に取るように伝わってきましたから。
 彼を側で見ていて……そして、副社長の空気からも。もう漏れまくっていました、お互いに引き合って仕方がない様子が」
「え——そんなに?」
「ええ。——やっぱり、そうだったんですね……!」
「…………」

 神岡は、どこかへ隠れでもしたいかのように一気に照れた顔をする。
 頰を染めて戸惑うそんな様子に、さくらはますます微笑まずにはいられない。
「またきっと、会えそうな気がする——あの日、三崎様と別れる際に、不思議にそんなことを感じたんです。
 このまま他人に戻ってしまうとは、なぜだか思えなくて」
「菱木さん……ありがとう。
 僕の秘書が君で、本当に良かった」
「いえ、そんな風に言っていただくようなことは何も……」
「君からそういう言葉を聞けて、ますます心強くなった。
 なんとも恥ずかしい話だが……君には、全て聞いてもらおう」
 神岡は、改めて真剣な瞳をさくらへ向けた。

「実は……その彼が、ふと姿を消してしまってね……
 随分年下なのに、僕なんかよりもずっとしっかりした考え方を持っていて——ある日、置いていかれてしまった。……僕との関係を一切断ち切るように。
 彼には、もう連絡が取れない。居場所もわからない」
 神岡は、少し困ったような寂しげな顔で、そう微笑んだ。

 ああ——それで。
 突然孤独な空気を背負うようになったのは……その時からだったんだ。

「そうでしたか……」
「当然の結果だ。
 僕は、彼に寄りかかって、甘えてばかりで……ちゃんとした告白や約束など、何一つしていなかったんだ。——ひどい話だろ?
 僕は自分の愚かさを突きつけられた。そして一時は、諦めようとした。——彼のことも、自分自身のことも。
 何もかもを投げ出しそうになった。
 けれど……今は違う。
 彼に、もう一度僕の隣に戻ってきてほしい。これからもずっと、彼と歩きたい。——心から、そう願っている。
 彼本人にはっきりと断られない限り、この決心は変わらない」

 神岡の目に、決して屈しない固い決意が見て取れた。

 彼がこの人に与えていた、幸せの大きさ。
 彼を失った時の、絶望の大きさ。

 いつも近くで見ていたから——私には、それがよくわかる。

 彼と一緒なら、この人は、どんなに幸せになれるだろう。
 いや……むしろ、そうでなければいけない。

 魂のない、ただのロボットのような——あんな冷たい顔のまま、この人に人生を歩ませるわけにはいかない。

「——副社長。
 何かお役に立てることがあれば、どんなことでもお申し付けください。全力でお手伝いさせていただきます」
 さくらは、真摯な視線で神岡を見つめた。

「ありがとう……そう言ってもらえると、本当に嬉しいよ。
 ならば、折り入って——君の人間性と、高い能力を見込んで、是非ともお願いしたい仕事があるんだ」

 神岡は、書棚から数冊のファイルを引き抜くと、さくらの前に並べた。
「少し、中を見てみてくれる?」

 その言葉に従ってファイルを開いた途端、さくらの目に新たな驚きの色が浮かぶ。

「副社長……これは……」

「そう。これしかないと思うんだ。……君は、どう思う?」
 そう言うと、神岡はどこか挑戦的な微笑をさくらへ向けた。

「——私も、賛成です。
 こんなワクワクするような気持ちは、これまでの社会人経験で初めてです……」
「これについては、また改めて君と打ち合わせたいんだ。——今日のように、時々時間を作ってもらえると有り難いんだが」
「——はい。もちろんです。喜んで」

 さくらと神岡は、何かいい思いつきが浮かんだ子供のように、明るい笑顔を見合わせた。




「副社長、おはようございます」
「おはようございます、藤木部長」
 さくらとの話を終え、次のスケジュールへ向かう神岡を、設計部門の部長である藤木が呼び止めた。なにやら慌てたような早足で近づいてくる。

「——どうかされましたか?」
「いや、副社長。私たち、もう驚いてしまって——先日お預かりした、USBメモリの研究データの件です」
「ああ、早速内容を見ていただけましたか?」

「あのデータは……一体どこで入手されたものですか、副社長?」
 藤木は、何か重要なことをこっそり話すかのように、神岡に低い声で問いかける。

「……というと?」
「あれは、うちの部門がずっと抱えていた低コスト化の問題を綺麗に解決する、非常に画期的なものですよ。うちの技術者達も、信じられないような顔をしてましてね。即実用化とまではいきませんが、もう噂で持ちきりになってます——あの研究は誰がまとめたものかって。
 ある方から預かった、と仰ってましたが……一体どのような方なんです?」

 驚きを含んだような藤木の顔を一瞬見つめ——神岡はいつになく明るい笑顔で微笑んだ。
「なるほど……そうですか。それは良かった。
 我が社にとってそれほど重要なものであれば、その技術者と実際に会う必要がありますね?」
「ええ、それはもう! むしろ、このままでは困ります。可能であれば、すぐにでも詳しいお話をお聞きしたいところです!」
「わかりました。
 できるだけ早く、実現できるよう努力してみます。——少し時間をいただけますか?」
「もちろんです。何とかよろしくお願いします、副社長!」
 藤木は、やっと望みを見出したような笑顔になり、神岡に深く頭を下げた。


「——やっぱり、君はすごいな。柊くん」

 藤木の後ろ姿を見送りつつ新たな思考を巡らせ、神岡は心から嬉しそうに微笑んだ。