5月の半ば、早朝。
 俺は、海の気配の中で目覚めた。


 海辺の街。
 俺は、そこでアパートの一室を借りた。

 元々、荷物などあまりない。引っ越しの手間も、そうかからなかった。

 海の側で暮らす。
 実は、憧れていた。

 この部屋から自転車で5分もあれば、海べりの道へ出られる。

 ここは、時間の流れも、空気も穏やかだ。
 何にも追い立てられることのない、静かな自由。

 誰を待つ必要もなく、誰にも待たれていない。
 ただ、自分が呼吸をする……それだけの時間。


 アパートから近いGSで、アルバイトを始めた。
 やはり、俺の履歴書は最初は奇妙がられたが……前のGSでの約1年のアルバイト経験が買われ、明るく温かい店長は即決で俺を採用してくれた。


 神岡と結んだ雇用契約は収入面も相当に高待遇だったから、3月までの約半年の雇用期間中に、貯金はかなり増えていた。

 しかし——
 そのことに関しては、不思議なほど何の感覚も湧かなかった。

 金がある……だから何だ?

 俺の中で、このフレーズが何度も繰り返された。


 自炊は苦にならない。
 けれど——メニューを考えようとすると、彼が子供のように目を輝かせて料理をがっついた姿を思い出し……
 そんな苦しさを蘇らせるならば、コンビニ弁当に逃げてしまった方が楽だった。


 一旦目覚めれば、追いかけてくる眠気もなく……何の感情も起こらないまま、身支度を整える。

 約半年封印していた、安価かつ適当な衣類が、引き出しやクローゼットに並んでいる。

 けれど……何となく、以前の自分には戻りたくない気がした。
 彼に出会うまでは愛用品だったダサい眼鏡も、もうかけたくないような気さえした。

 ——彼が好きでいた自分を、失いたくない。
 消してしまいたくない。
 自分の感情を分析してみれば……つまり、そういうことらしい。

 何の意味もない、そんな思い。
 呆れて、ため息が出る。


 しかし——
 自分自身に無理強いしてまで、ダサい自分に戻ることもない。
 通販などで、今までのクオリティにあまり見劣りしない服を少し増やしたり、コンタクトで過ごしたり……あの部屋で急に浴びるようになった「かわいい」なる評価を保つ程度には、とりあえず身綺麗にしている。

 ……まあ、そんな感じだ。


 買い換えたスマホには、誰からの連絡もない。
 新しい番号やアドレスは、親しい知り合いなどには伝えることもできるが……とりあえず、今俺にアクセスできるのは、両親とバイト先だけだ。

 しばらくは、誰も知らない静けさの中にいたい。——そんな気がしていた。


 あの部屋にいた、半年間。
 あっという間だった。

 現実味のない——ふわふわと、雲の上を歩いたような。

 いや——

 あれは、雲の上だった。
 本当に。

 いつか降りなければならない、雲の上。


 その雲から、ただ日常に戻ってきただけなのに——

 何だろう。
 この、なんにもない感じは。


 必死に掬ったものが、指の間から全部零れたような。
 もがきながら大切なものを積み重ねた夢が、はっと覚めたような。

 いくら泣いても、叫んでも……ただ、自分が疲れ果てるだけ。

 自分で、全部置いてきた。
 そうしなければ、いけなかったから。

 だけど——

 ……こうやって、この先に溢れそうになる言葉を、もう何度飲み込んだだろう。


 溜まり続ける思いを捨てる場所も見つからないまま、だるい腕で窓を開ける。

 少し強い潮風が流れ込んだ。

 けれど、そこに新鮮な喜びはなく——
 俺はただ、機械のように続く呼吸を感じていた。









 美月と会った翌週、木曜の夜。
 樹は、車を走らせて、美容室「カルテット」へ向かっていた。


 美月から聞いた言葉が、その足を逸らせた。

 3月末であの部屋を去る約束を、柊と宮田が交わしていた……という、その言葉。

 どういう事なのか。
 なぜ、彼は宮田と……そんな約束を。

 時々、柊は何か青ざめて、ひどく怯えていた。
 そういえば……
 去年のクリスマスイブの夜に彼の部屋を訪れた時も、そうだった。
 柊は動揺しながら宮田の名を言いかけて、何かを隠すように黙り込んだ。

 美月も、柊と宮田の様子が険悪だったと……そう言っていた。

 宮田と彼の間に、どんな関係が——

 何か、怯えるほどのショックを宮田から受けていた。
 それしか考えられない。


 美月から聞いた、今まで思いもしなかったさまざまな事実は、最初こそ樹を混乱させたが——やがて、それは樹の中でひとつの希望へと変わり始めた。

 柊は、自分を見限ったわけではなかった——。
 その可能性が、樹に新たな力を与えていた。

『——俺は、これからもずっと、あなたが好きです』

 最後の夜に、彼がはっきりと自分に残していった言葉。
 その言葉を、脳内で繰り返す。

 彼の言葉を、もう一度信じてもいいのかもしれない——。


 こんなことで、これほどに一喜一憂している自分自身の狼狽ぶりに、笑えてしまう。

 けれど——この想いは、止められない。
 止めるつもりもない。

 柊の気持ちは、今もきっと変わってはいない。
 今の自分に、これ以上に幸せなことなどない。——はっきりと、そう言い切れる。


 彼に、もう一度、戻ってきてほしい。
 ——自分の隣に。

 そのためならば、全力を尽くす。
 何でもする。

 ハンドルを握る手に、力が籠った。


「カルテット」のドアを入ると、すぐに宮田がいつもの笑顔で店の奥から出てきた。

「神岡様、いつもご予約ありがとうございます。
 では、お席へ——」
 神岡は、さらりと普段通りの微笑を浮かべる。
「悪いね、宮田くん。こんな遅い時間に予約して」
「いえ、この後は多分もうお客様もないですし……お気になさらず」

 席についた樹の後ろに立ち、鏡越しに宮田が柔らかく話しかける。
「本日は、どのようにいたしましょうか?」

「そうだな……今日は、いつもより短めに仕上げてもらおうかな。
 つい数日前も三崎くんに、もう少し短くカットした方が似合うってアドバイスされたばかりでね」

 微笑みながらそう話す樹を、宮田は一瞬驚いた顔で見つめた。

「……三崎……様が?」

「……どうした? 宮田くん」

「…………」
 うっかり見せた表情を樹に捉えられ、宮田ははっと視線を逸らした。

「——彼に、何をした」

 鋭く、滾《たぎ》るような樹の視線が、鏡の宮田を射抜くように見据えた。