エリート変人と麗しき変人の奇妙な契約

 4月も、半ばが過ぎた。
 樹の仕事にも、やっと僅かずつ時間の余裕ができるようになってきた。

 この前会って以来、柊とは電話も、メッセージをやり取りする心の余裕も持てずに仕事に明け暮れた。

 彼には、契約の継続の確認をしてある。
 自分が忙しいことも、充分理解してくれている。
 そのことが、樹を安心させていた。

 ——今週の金曜は、定時に仕事を上がっても、業務に支障はなさそうだ。

 ——彼に、会いたい。
 ごく自然に、そう思った。

 先月末、前年度の最終日である3月31日に、一度だけ柊へメッセージを送った。
『来年度もよろしく』と——シンプルなメッセージだ。

 彼からは、既読がついたまま、返信はなかった。

 返事が必要なメッセージでもない。年度末の時期を彼も慌ただしく過ごしているのだろう。
 何気なくそう考え、特に気にも留めないまま、目まぐるしい業務に追われ半月が過ぎた。
 会わずにいたこの時間を、すぐにでも取り戻したい気持ちが逸る。

 仕事の合間に、柊へメッセージを送信する。
 金曜の都合を、早く確認したかった。

 だが、何時間経っても、そのメッセージには既読がつかない。
 午前中に送ったはずのそれは、夜になっても読まれなかった。


 ——どうしたんだろう。
 3月末に彼から返信の来なかったことが、にわかに気になり始めた。

 ざわつく気持ちを抑えながら、番号を呼び出し、通話ボタンを押す。
 返って来たのは、予想もしない声だった。

『お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません——』

 彼の使用していたスマホは、解約の手続きがされているようだ。

 ——何かあったのだろうか。
 重苦しい不安をジリジリと抱えながら、樹はその日の残りの業務を必死にこなした。


 夜の9時過ぎ。
 業務を終えると同時に、会社を飛び出す。
 彼の部屋へまっすぐに向かった。

 マンションのエントランスで、柊の部屋を呼び出すボタンを押すが、何度繰り返しても応答はない。
 持っている合鍵で入るしかない。

 エレベーターが10階まで上がる時間さえもどかしい。
 堪えきれない不安で、玄関のノブを力任せに引いた。

 駆け込んだ部屋は——闇の中に、しんと静まり返っていた。

 その冷えた空気から、人の気配ももう随分前に消えていたことが感じられる。


 呆然と、照明をつけた。
 綺麗に片付いた部屋は、以前のままだが——彼の私物は、全てなくなっていた。

 リビングのローテーブルの上に、書類が載っている。

 樹と柊の交わした雇用契約書と、彼の残したメモだ。

『一身上の都合により、本日を以ちまして本契約の終了を希望いたします。
 突然事情が変わり、大変申し訳ありません。
 何卒よろしくお願い申し上げます。
 3.31 三崎 柊』


 契約の際、彼には言ってあった。
「契約を終わらせたい場合は、一言申し出てくれればすぐに解除する」——と。


 突然、失ってしまった。
 自分の全てだったものを。

 行き先も、連絡先も——何の手がかりもないまま。

 ——なぜ。

 何か、辿れるものは——
 彼が、ここを去った理由……そしてその行き先の、手がかりになるものは。
 激しく混乱する思考を何とか搔き集める。

 ——GSだ。
 初めて柊を見つけた、あのGS。
 この部屋で過ごすようになってからも、彼はあの店でのアルバイトを続けていた。

 彼の雇い主——沢木店長ならば、何かを知っているはずだ。

 樹は、夜の街へ走り出た。

 今すぐ、沢木店長と話をしたい。
 店舗の電話番号を検索し、問い合わせる。

『○○石油△店でございます』
 電話に出たのは、聞き覚えのある穏やかな男性の声だった。

「——沢木店長でいらっしゃいますか。
 夜分に大変申し訳ありません。私、神岡工務店副社長の神岡樹と申します。
 以前は、大変お世話になりました。
 ——実は、急ぎお伺いしたいことがありまして……」

 変わらない温かな声で、沢木の返事が返ってきた。
『ああ、神岡副社長、これはお久しぶりです。
 お聞きになりたいこと……何でしょう?』

 唐突に問い合わせて聞けることではないと思いつつ、躊躇をしている余裕はない。
 前置きも思いつかないまま、切り出した。 
「そちらでアルバイトとして勤務していた、三崎 柊君のことなのですが……」

 少し間を置いて、静かな返事が返ってきた。
『…………大変申し訳ありません。
 三崎君は、3月末でうちの店のアルバイトを辞めました。
 私がお話しできるのは、これだけです。
 ——従業員のプライバシーに関わることですので』

「——そうですか。
 実は、私と交わしていた雇用契約を、急に終了したいと彼から申し出があり……理由や行き先も告げないまま、突然姿を消してしまったもので……
 ……ならば……沢木さん、一つだけ、お願いできないでしょうか。
 もし可能なら——彼の履歴書を、もう一度だけ確認させてください。
 それも叶わなければ——彼についての情報を……どんな細かなことでも構いません。何か、教えていただけないでしょうか」

 少し戸惑うような空気が電話の奥から流れ——そして、沢木の真剣な声が続いた。

『——神岡さん。
 大変失礼ですが……私からも、ひとつお聞きしてよろしいでしょうか?』

「はい、何でも」

『あなたは——彼のことを知って、どうするおつもりですか?』

「…………え……」

『彼の情報を集めて、これから彼を探そうとされているのでしょうか……
 そして、見つけたら……今までの場所へ、連れ戻そうと?』

「————」

『……あなたと彼のことに、深く立ち入るつもりはありません。
 けれど——彼は、私にとっても息子のようにかわいく、大切な存在です。
 できる限り、私は彼を応援したいと思っています。まるでお節介な父親みたいな気分で、彼の幸せを願っている。赤の他人が、おかしな話ですけどね。
 だから……余計なお世話だとは知りつつ、敢えて聞きます。
 ——あなたには、彼を幸せにできる保証が、ありますか?』

 樹の中に、今まで意識の外にあった異質な言葉が鋭く突き刺さった。
 そこには、真っ白な白紙しかなく——何一つ、答えることができない。

「…………それは……」

『もし、私から彼について何かをお聞きになりたいなら——何でもいいです。彼を幸せにできる証拠を、私に見せてください。
 あなたなら、彼を幸せにできる。……そう私を安心させてくれるなら。
 その時は、あなたにお答えできることもあるかもしれません』

「…………」

 沢木の言葉に、樹は愕然とした。


 自分は——彼の幸せを、考えていただろうか?

 彼に甘え、依存し——ただ、それだけだった。

 今更急激に襲ってくる激しい後悔に、指が震える。


「——わかりました。
 大切な話を——ありがとうございました。……沢木さん」

 切れ切れに、沢木に深く感謝を伝え、俯いて通話を終える。

 しばらく、深く顔を伏せ——そして、大きく息を吸い込み、夜の空を仰いだ。


 ——柊くん。
 ごめん。

 君に、ただ縋りつくばかりだった自分自身の姿に——今の今まで、気づかなかったなんて。

 君は優しいから……最後まで、何も言わずに僕を支えて、笑っていてくれたけど——。

 だとすれば。
 この結果は……当然だ。

 今になって、最後の夜に君が僕に残していったいくつもの言葉の意味が、はっきりと理解できる——。

 何一つ切り開く力もない僕が、これ以上君に追い縋っては……

 これまでだって、僕は君を、こんな何も生まない場所に閉じ込めていたのだから。

 こうなってからじゃなきゃ、わからない。
 いつも。
 本当に、僕は——。


 ……君は今、どこにいる?
 ——こんなにも、君を求めているのに……

 何も、できない。
 何も。


 滲みそうになる瞳を、じっと空へ向けたまま——
 樹は、更けていく夜の街に立ち尽くした。