エリート変人と麗しき変人の奇妙な契約

「——君を、縛りたい」
 ベッドで思い詰めたように俺を見下ろし、神岡が囁いた。

「…………」

「君の自由を、奪いたい」

「……あなたが、そうしたいなら。
 ——あなたの言う通りにする約束ですから」

 彼が自分のネクタイを解く。
 頭上に手首を組まれ、そこへ滑らかな感触が巻き付いた。

 自由を奪われる不安感と、彼に施されるすべてのことを一切拒めない興奮が、ぞくぞくと未経験の感覚を呼び覚ます。

 けれど——
 この人になら、預けられる。
 自分自身の自由も……どんなことも。

 知らず知らずのうちに、彼の瞳をじっと見上げた。

 ——興奮とも、高揚とも違う色が、その瞳の奥に揺らいでいる気がする。

 きっと、同じだ。
 俺も——彼も。

 彼が、俺の自由を奪いたいように。
 俺も……この人に、こうして自由を奪われたい。
 身体だけでなく……心も。
 決して解けないように縛られ、その腕の中に引き寄せられていたい。——ずっと。

 そんな、ありえない妄想を描く。

 瞳を掌で優しく覆われ、彼が耳元で囁く。

「——君は、僕のものだ」

「——あなたのものにしてください。
 ……もっと、強く」

 自由も、視界も奪われ——俺は初めて、彼に本心を囁いた。

 それが俺の本心だったと……彼は気づいただろうか。

 唇が重なる。
 柔らかに——やがて深く。


 抗うことのできない首筋を、鎖骨を——彼の指と唇が、ゆっくりとなぞる。
 胸の突起に指の愛撫が訪れ——それに続く柔らかな甘噛みの刺激に、思わず全身が震える。
 そんな快感が、身体の中を灼けるように満たしていくのに——高揚に連れて次第に苦しくなる芯には、いつまでも触れてもらえない。
 ——やがて全身が、ジリジリとたまらなく疼き始めた。

 自分で触れてしまいたくても、腕は頭上に固定されたまま、解こうにも解けない。
 なすすべもなくうずうずと身を捩りつつ、切ない声が勝手に漏れる。

「……ん……っ…………」

「ん……どうした、柊くん?」

 低く滑らかな声で、彼が俺の耳の奥をくすぐるように囁く。
 もはやその声にすら、俺の芯は堪え難く硬直する。
 羞恥心にカッと熱くなる顔をどうにもできないまま、やむなく呟く。

「…………早く……」
「早く……何?」

 そう耳元で微笑まれ、やっと気づいた。
 俺が苦しいのを知ってて……
「焦らしプレイ」ってやつだ、これ。
 口惜しい気持ちとは裏腹に、身体は一層熱を持ち、切ない息が唇から漏れる。

「ん?……どうして欲しいの、柊くん?」

「……ほんとにドSですね」
「君も強情だな」
 そう囁きながら、意地悪く首筋を甘噛みされ、胸の突起をやわやわと刺激される。

「…………っ……」

 もがいても、逃れられない。
 その甘い刺激からも、はちきれそうな疼きからも。
 顎が反り、熱い自分の吐息が暴れる。

「……あ——もう……」
「何?……もっと、ちゃんと言わなくちゃ」

 限界だ。
 乱れる息の間から、懇願した。

「……俺の…………
 触って……ください。……お願いします……」

「やっと言えたね——いい子だ」

 彼の意のままに従わされる屈辱感。
 そのご褒美のように、彼の温かな唇が、緊張した芯に訪れた。

 待ちきれずにいた快感が、一気に押し寄せる。

「う……あ——っ……」
 強い快感に、意識が激しく翻弄される。

 拘束され、なすがままになり——与えられる刺激に、抗うこともできずに悶える。
 屈しながら味わう、毒入りの蜜のような甘さ。

 ……この人に、また新たな自分が開発されてしまった……ような気がする。

 ——あんな、迷子の子犬のような切ない目をしておいて。
 やっぱりこの人は、健全にエロくてややS気味な……そしてたまらなく愛おしい、麗しき変人なのである。



「君が、僕に渡したいものって……何?」

 互いに尽き果て、うとうとと眠りかける俺の髪に触れ、彼が独り言のように囁く。

「……ん……何ですか?」

「もしも——それが、悲しくなるようなものだったら……
 僕は、受け取りたくない」

「……え……?」

「……なんでもないよ。
 おやすみ」

「————」

 ちゃんと、聞こえていた。

 けれど……その呟きへの答えなど、見つかるはずもなく——

 掻きむしられるように痛む思いを胸に押し込めながら……
 俺は、彼の言葉を最後まで聞いていなかったかのように、じっと眠り込んだふりをした。

 3月の上旬。
 空には、微かに春の柔らかな気配が漂い出している。
 それでも風はまだ冷たく、本格的な春はもう少し先だと実感する。

 3月から4月の年度の切り替え時期は、おそらくどんな職場も、一年で一番の繁忙期だ。
 神岡工務店も、その例外ではなく……神岡自身も、仕事以外の時間的余裕はほぼ持てないようだ。

『毎年年度末は仕事が恐ろしく立て込んでね。なかなか君のところへも行けなくてごめん』
 少し前に、そんなメッセージが届いた。
『大丈夫です。俺も、少しやることがあるので』
 そう返事をした。

 やることがある……それは、本当のことだ。
 大学院時代の自分の研究内容を、もう一度まとめ直してみよう。——神岡工務店の見学をして以降、俺はずっとそのことを考えていた。

 俺が取り組んでいたテーマは、建築物の形状によりいかに建築コストを抑えられるか、というものだった。
 潤沢な予算がある場合はさておき、決まった予算内で必要な条件を整えた建築物を作るには、スリム化できる部分はできる限り削らなければならない。
 スリム化の方法のひとつとして、外観や屋根の形などを工夫すれば、内装の条件を変えることなく、ある程度のコストダウンをすることが可能だ。
 その場合に、具体的にどのような形状の工夫で、どれだけのコスト削減ができるかを研究したものである。

 会社見学の日、社内を案内してくれた菱木さんの説明が、俺の脳を刺激した。
『——目下当社が力を入れているのは、二世帯住宅です。
 高齢化が進み、一人暮らしを余儀なくされている高齢者は増える一方です。子供が親を引き取りたい、そう考えても、二世帯となればコストもかかります。その辺の問題を少しでも解消できる商品が開発できれば、喜んでくださるお客様がきっといる、という判断です——』

 俺の研究データが、何か役に立つかもしれない——。

 俺が大学院で研究結果をまとめた時点では、俺の試したアイデアはまだどこも採用していない新しい視点のものだと、研究室の教授は大いに興味を示していた。

 結局何にも利用できないままPCの中で眠っていた研究データが、神岡の役に立つのなら——。
 そう思った。

 そして、仮にそれが実用化に結びつかないとしても……
 それでも——俺は、自分自身のために、そうしたかった。

 自分がいたことを、何かの形で神岡の手に残したかった。
 跡形もなく消えるのは、嫌だった。
 時には……ほんの一瞬でもいいから、思い出して欲しい。
 俺がここにいたことを。

 ——そう思った。

 データを整理し、神岡に渡すこと。
 それは、俺がここを去る前に、どうしてもしておきたい準備だった。

 ふと、時計を見た。
 午後3時少し前。
 3時に、美容室『カルテット』へ予約を入れていた。
 そろそろ、家を出なければ。









「何だか久しぶりだね、三崎くん」
 鏡の前に座った俺に、宮田は相変わらず美しい営業スマイルで話しかけた。

「……」

「まあ、喋ってもらえなくても仕方ないね。
 嫌がらせも散々したし、あんなふうに君の部屋に押しかけて酷いことしたし」

「……」

「——今まで、悪かった」

 突然真剣な声で謝られ、俺は思わず鏡越しに宮田の顔を見つめた。

「今更謝っても、何もならないのかもしれないけれど……できるならば、どうか許してほしい。

 ……僕は、近づけるはずのない雲の上の人に真剣に惚れて、想いが叶わないイラつきを全部君にぶつけた。
 恋心が叶わないなんてこと、今までなかったし……これほど真剣に人を想ったこともなかった。
 おもしろおかしい軽い遊びみたいな恋しか知らなかったから。
 ——あんなに、身体がジリジリと灼けるほど苦しいなんてね」

 そう言うと、宮田は鏡越しの俺にふっと笑った。

「叶わない恋なんて、するもんじゃないな。
 ……君のおかげで、目が覚めた」

 俺は、なんだか変に居心地が悪くてむすっと返した。
「……別に、あんたの目を覚ますようなことは何もしてない」

 俺の言葉に、宮田は呆れたというような顔で俺を見る。
「何もしてないどころか。——三崎くん、もしかして自覚ないの?
 僕たちが、君の部屋へ押しかけたあの時——君は、美月さんに言ったよな。『彼を幸せにすると約束しろ』……って。
 全く、どれだけ本気の愛の告白だよ? もう当てられちゃってさ。
 あんなふうに捨て身で誰かを想うなんて、普通するか? しかも、絶対に自分のものにならない相手のことをさ。
 しつこい僕も、さすがにイチ抜けた!って言いたくなった」

「————」

 ……本気の愛の告白……?
 あの時は、俺なりにただ必死でやったことなのだが……
 あれって……そんなにすごい愛の告白……だったのか?

 何だかとんでもなく恥ずかしくなり、じわっと顔が熱くなる。

「だからさ……君に約束させたあの期限も、もうなかったことにしようかと思って」

「……は?」
「人の恋路を邪魔する奴は……っていう、アレさ。君と神岡さんの間を裂いても、もう特に面白くもないし。
 だから……君があの部屋にいる期限を今月末までって決めた件も、御破算ってことで……どう?」

「……それは嬉しいな」
「だろ? まあお幸せに」

「だが……悪いが、その申し出は辞退する。
 ——あの約束は守る」

 宮田は、驚いた顔で俺を見た。
「辞退って……なぜ」

「神岡に、今後もずっと愛人を抱えさせたりはしたくない」

「——」
「そんな関係を続けても、多分幸せになれないだろ。
 ……彼も、俺も」

「……なら……
 来月から、君は……どうするんだ」
「秘密だ」

 宮田は、しばらく何か考えるような顔をして……ふと諦めたように微笑んだ。
「強情な君のことだ。その決心は、変わらないんだろう?」
「まあな」

「——君って、変なヤツだな」
「昔からよく言われる」
「やっぱりね。
 ……でも、嫌いじゃない」
「惚れたとか、絶対言うなよ」
「あはは。僕にはもうかわいい恋人がいるから安心してよ」
「……そうなのか」
「少し前から、告白されててさ。……顔立ちなんか、ちょっと君に似てるかもな」
「は? やめてくれ、気持ち悪い」
「そう言うなって」

 彼は面白そうに笑って、続けた。
「……まあ、君がこの先どうするのかは、もう聞かないけどさ。
 君は、自分自身が幸せになることも、ちょっとは考えたらいいと思うけどね」

「——あんたらしくない台詞だな」
「ん、そういえばそうだ……でも、最後くらいはね。
 じゃ……とりあえず、元気で」

 宮田も俺も、何か重たい物を片付けたように——その後は、何も言葉を交わさなかった。









「少し時間かかっちゃったけど——ちゃんと焼けたわ、クッキー」

 美月は、二階堂商事近くのカフェで、野田と会っていた。
 窮屈そうに膨らんだラッピングバッグを、恥ずかしそうに野田に差し出す。

「こんなにたくさん——本当に焼いてくださったんですね。
 ありがとうございます。ウチの奴ら、みんな喜びます」
「最初は失敗ばっかりだったけど、慣れてくると楽しいの。一回焼くと、いっぱいできちゃうのよ。……でも、喜んでもらえて嬉しいわ」
 美月は、そう言って少し照れくさそうな顔をする。

 ——随分柔らかい表情になった。
 野田は、久々に会う美月の纏う空気に、そんなことを感じていた。

「こうしてカフェで飲むコーヒーも、何だか久しぶり」
 そう呟きながら微笑み、美月はカップから立ち上る湯気をふうと吹いた。

 これまでに見たことのない、純真な少女のような美月が、目の前にいる。

 ——今の彼女なら。
 愛する人を幸せにすることも、できるかもしれない——。
 多少たどたどしく、不器用かもしれないが。

「野田さん——
 あの時……三崎さんの言ったこと、覚えてる?」

「……」
 美月の唐突な問いかけに、コーヒーカップを取ろうとする野田の手がふと止まる。

「彼……
 3月末で、あの部屋を出るって……
 確か、そう言ってたわよね」

「——そうでしたね。私も覚えています」

 あの一件以来、美月は一度も樹に会っていない。
 外出すること自体、めっきり減った。送迎の回数からして、それは明らかだ。
 三崎と樹の関係の深さが、彼女を大きく傷つけ、混乱させたことは間違いない。

 けれど——
 それだけではない気がする。

 樹と会わずにいた間……美月はもっとたくさんの何かを、彼女なりに考えていたのではないだろうか。

「——三崎さんがあの部屋を出ることは……
 あなたにとっても、喜ばしいことですよね?」

 野田は、美月の様子を内心注意深く窺いながら、そう問いかけた。

「ええ……そうね」
 美月は変わらぬ美しい微笑をこぼす。
 だが、その心の内は固く覆われ、野田には何も読み取ることができない。

 やがて——言葉を繋ぐこともなく、美月は静かに窓の外へ目を移した。
 春の気配が近づく淡く明るい空が、その瞳に映る。

 野田は、黙ってその横顔を見つめた。


 ……この先に。

 彼らのこの先には、何が待っているのだろう。

 彼らには、どんな春が訪れるのだろう——

 そんな漠然とした思いが胸に浮かぶのを感じながら……野田もただ、窓の外の空を見上げるだけだった。

 3月の下旬、水曜の夜。
 ダイニングテーブルに夕食の準備が全て終わる頃、彼は部屋を訪れた。

「やっと、少し時間が作れたよ。それでも、菱木さんにだいぶ無理を言ってしまったけどね」
「——済みません。一番お忙しい時に」
「いや、君の希望とあればね。それに、僕もずっとここに来たかったし——
 何と言っても、こうして君の極上の肉じゃがが食べ放題だしね」

 神岡は、少し疲れたような様子を見せながらも、変わらぬ美しい笑顔を俺に向ける。

 俺は、じっと彼に注いでいた視線を、思わず逸らした。


 多分——
 神岡と会うのは、今夜が最後だ。

 その思いを、視線や言動に一切出さないように——何とか隠さなければ。

 渦を巻いて溢れそうになる想いを押し殺し、離れていく相手に微笑む。
 それが、こんなにも強い痛みに満ちたものだとは、思わなかった。

「今日は——どうしても、あなたにこれをお渡ししたくて」

 俺は、何の変哲もないブルーのUSBメモリを一つ、テーブルに置いた。

「……これは……?」
「少し前、あなたに渡したいとお話ししておいたものです。
 俺が大学院で取り組んだ研究データを、まとめてみました」
「ほう……A大大学院の優秀な学生だった君がまとめた研究データか……それはすごいな」
「いえ、あんまり期待されると困るんですが……
 でも——神岡工務店の見学の時に菱木さんから受けた説明が、ずっと俺の中に残ってたので。
 もしも何かのお役に立てばと思って……お時間のある時にでも、見てみてください」

「でも、こんなに大切なもの、僕が受け取ってもいいの?
 これからの君にこそ大事なものじゃないか……今後、就職活動などで自分の実績を示すためにも……」
「俺の研究していた内容は、今ちょうどあなたの会社で求められている部分かもしれない、と思ったんです。
 いつ使うかもわからない自分自身のために保管しておくよりも、今役に立つ場所で生かしてもらえるなら——そう思うんです」

「そうか……ならば、君の気持ち、有り難く受け取るよ。
 かなり専門性が高そうだから、うちの技術者達にも見てもらわないとな」
 そう言って、神岡は柔らかく微笑んだ。

「もし、この内容が実用的でなかったら、そのUSBは神岡さんのデスクの引き出しにでもしまっておいてください。
 それから……そのUSB、名前があるんです」
「名前?」

「——『シュウ』です」

「…………」

 その瞬間——神岡は、じっと俺を見つめた。

「忘れちゃダメですよ」
 俺は、そんな彼の視線を慌ててはぐらかしながら、茶化すように笑った。

「——そうだ。
 この機会に、僕も君に確認しておこうかな」
 目の前のグラスを軽く呷ると、神岡は、それまでの表情をどこか引き締めながら俺に問いかけた。

「来月から……
 4月からも、僕との契約を継続できそう?」

「————大丈夫です、多分」

「……無理はしないで。
 本当に、大丈夫?」

「はい」

「——なら良かった」

 彼は、ほっとしたように呟く。

 ——今は、何も言わない。
 そして、決して感づかれないように——

 震えそうになる心をぐっと立て直し、そう心で繰り返し呟く。

 後を引くことなく、彼の前から綺麗にいなくなる。
 そのためには……こうする以外にない。

「今日俺の選んだワイン、あなたの好きな銘柄でしょう? ちゃんと覚えたんです。——せっかく時間ができたんですから、ゆっくり飲んでください」
俺は明るくそう言い、彼のグラスに深い紅色の液体を注ぎ足す。
「僕の好きな品を用意してくれたの? それは嬉しいな。
 ……そういえば、こうして好きなワインを飲むのも、随分久しぶりな気がする。疲れが溜まってるせいか、酔いが早く回りそうだ」
 そう言って頬杖をつくと、彼はほんのりと染まった目元で俺に微笑む。

 ——今日のおかしな俺を感じ取れないくらいに、彼が酔ってくれたら。
 あまり真剣な目で自分を見られたくなくて、俺はなんだかやたらに彼に酒を勧めた。


「——君は……
 この先、何をしたいか、時々考える?」

 神岡が、頬杖をついたまま、ふわふわと俺に話しかける。

 意図的なのか、それとも、酔いに任せた何気ない質問なのか——
 うまく読み取れないまま、俺は答えを探した。

「——まだ、決められていません……何も。
 俺——自分のことよりも、今、気になることがあって……」

「……ん?」

 あなたのことだ。
 あなたが歩む、この先のこと。

 今、この話をしなければ——もう、話す機会がない。

「俺——あなたに、幸せになって欲しいんです。……絶対に」

「……え?」

「諦めないでください。
 ——望む幸せは手に入らないなんて、最初から決めないでください。
 自分のためにできることは、どうか、全力で試してください。

 あなたは、やがて大企業を背負う人だから——立場上、同性との恋愛は、許されない。
 以前、あなたはそう言いましたね。自由に人を愛することはできないんだ、と。
 でもそれは、幸せを諦める理由には、きっとならなくて。
 あなたのことを心から愛したいと願う女性——そして、あなたもその人を愛したいと思わずにはいられない、そんな女性が——きっといるはずです。

 どうせ無理だと最初から諦めるのは、簡単です。
 だけど、諦めることがあなたにとっての幸せなのか……それを、ちゃんと考えてください。
 諦めるんじゃなくて。
 幸せになるんだ、と……しっかり、そう思ってください。
 そうじゃなければ、俺は——」

 ここを去ることができない。

 ——そう言いそうになった。


 いや……それは、きっと違う。

 俺がここにいては、何もスタートしない。
 俺がいなくなってから、彼の新しい何かがスタートするんだ。

 心のどこかで、そんな気がした。

「俺……絶対、あなたを応援してます。いつでも。
 ——俺は、これからもずっと、あなたが好きです。

 だから……あなたも。
 あなた自身のために、全力で幸せになってください。……それが、俺にとって一番嬉しいことです」

 彼には、俺が急にそんなことを言う理由が、わからなかったのかもしれない。
 少し驚いた顔をして——そして、少し寂しそうに微笑んだ。

「今言ったこと、俺と、約束してくれますか?」

「——約束するよ」
 彼は、少し困ったような微笑で、そう答えた。

「じゃあ——その代わり。
 僕の願い事、一つ聞いてくれる?」
「何ですか?」

「今夜だけ——僕の恋人になって欲しい」

「————」


「……だめ?」

「…………今夜だけなら」



                    





 初めてお互いの思いが通い合った、あの夜のように——
 どちらともなく、おずおずと唇が重なる。

 薄い隔たりが剥がれ落ちたような——これまでよりも、もっと深く重なり合うような感覚。

 俺たちは、恋人同士だ。
 ——一夜限りの。

「————柊」

 耳元に、彼の囁きが落ちる。
 聞き違いなどではなく……俺の名を呼ぶ、彼の掠れそうな声。

「…………僕を呼んで」

「……」

「僕は、樹だ。
 そう呼んで欲しい。
 君の本当の気持ちを、聞かせて欲しい」

「——樹さん。
 あなたが好きです。……間違いなく、誰よりも。
 こんなにたくさんのものを、誰かからもらったのは——俺、初めてでした。
 あなたが幸せなら、俺は幸せです」

 見つめていた視線を解き——彼は、ぎこちなく俺の首筋に頰を埋める。

「——ここにいて。
 これからもずっと、僕のそばにいて」


 ——酷い。

 こんな時に、そんなことを言うなんて。

 どうすることもできないと、わかっているのに——
 俺が何も答えられないと、知っているのに。

 あなたはいつか——
 俺じゃない誰かに、それを言わなければならないのに。

 どうして今、俺に、そんなことを言うんだ。


 泣いてはいけない。
 涙を見せてはいけない。

 溢れ出しそうな思いを堪える顔に、気付かれたくなくて——
 彼の首に強く腕を回し、その肩に顔を埋めた。

 そうして——
 お互い、視線を合わせることも、言葉を交わすこともせず……

 ただ強く抱き締め合い、俺たちはその肩越しに瞳を閉じた。





 差し込んでくる朝の日差しで、目が覚めた。

 横には、彼はいない。

 ただ、芳ばしいコーヒーの香りだけが流れてくる。


 ダイニングテーブルには、いつもの通り、彼の極上のスクランブルエッグと、グリーンサラダ。
 コーヒーメーカーには、香り高く淹れられたコーヒーが静かな湯気を立てている。

『仕事があるから、先に帰るよ。
 4月、少し落ち着いたら、また一緒に出かけよう』

 テーブルに残されたメモの上に、昨日我慢を重ねたものが堰を切って零れ落ちた。

 4月も、半ばが過ぎた。
 樹の仕事にも、やっと僅かずつ時間の余裕ができるようになってきた。

 この前会って以来、柊とは電話も、メッセージをやり取りする心の余裕も持てずに仕事に明け暮れた。

 彼には、契約の継続の確認をしてある。
 自分が忙しいことも、充分理解してくれている。
 そのことが、樹を安心させていた。

 ——今週の金曜は、定時に仕事を上がっても、業務に支障はなさそうだ。

 ——彼に、会いたい。
 ごく自然に、そう思った。

 先月末、前年度の最終日である3月31日に、一度だけ柊へメッセージを送った。
『来年度もよろしく』と——シンプルなメッセージだ。

 彼からは、既読がついたまま、返信はなかった。

 返事が必要なメッセージでもない。年度末の時期を彼も慌ただしく過ごしているのだろう。
 何気なくそう考え、特に気にも留めないまま、目まぐるしい業務に追われ半月が過ぎた。
 会わずにいたこの時間を、すぐにでも取り戻したい気持ちが逸る。

 仕事の合間に、柊へメッセージを送信する。
 金曜の都合を、早く確認したかった。

 だが、何時間経っても、そのメッセージには既読がつかない。
 午前中に送ったはずのそれは、夜になっても読まれなかった。


 ——どうしたんだろう。
 3月末に彼から返信の来なかったことが、にわかに気になり始めた。

 ざわつく気持ちを抑えながら、番号を呼び出し、通話ボタンを押す。
 返って来たのは、予想もしない声だった。

『お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません——』

 彼の使用していたスマホは、解約の手続きがされているようだ。

 ——何かあったのだろうか。
 重苦しい不安をジリジリと抱えながら、樹はその日の残りの業務を必死にこなした。


 夜の9時過ぎ。
 業務を終えると同時に、会社を飛び出す。
 彼の部屋へまっすぐに向かった。

 マンションのエントランスで、柊の部屋を呼び出すボタンを押すが、何度繰り返しても応答はない。
 持っている合鍵で入るしかない。

 エレベーターが10階まで上がる時間さえもどかしい。
 堪えきれない不安で、玄関のノブを力任せに引いた。

 駆け込んだ部屋は——闇の中に、しんと静まり返っていた。

 その冷えた空気から、人の気配ももう随分前に消えていたことが感じられる。


 呆然と、照明をつけた。
 綺麗に片付いた部屋は、以前のままだが——彼の私物は、全てなくなっていた。

 リビングのローテーブルの上に、書類が載っている。

 樹と柊の交わした雇用契約書と、彼の残したメモだ。

『一身上の都合により、本日を以ちまして本契約の終了を希望いたします。
 突然事情が変わり、大変申し訳ありません。
 何卒よろしくお願い申し上げます。
 3.31 三崎 柊』


 契約の際、彼には言ってあった。
「契約を終わらせたい場合は、一言申し出てくれればすぐに解除する」——と。


 突然、失ってしまった。
 自分の全てだったものを。

 行き先も、連絡先も——何の手がかりもないまま。

 ——なぜ。

 何か、辿れるものは——
 彼が、ここを去った理由……そしてその行き先の、手がかりになるものは。
 激しく混乱する思考を何とか搔き集める。

 ——GSだ。
 初めて柊を見つけた、あのGS。
 この部屋で過ごすようになってからも、彼はあの店でのアルバイトを続けていた。

 彼の雇い主——沢木店長ならば、何かを知っているはずだ。

 樹は、夜の街へ走り出た。

 今すぐ、沢木店長と話をしたい。
 店舗の電話番号を検索し、問い合わせる。

『○○石油△店でございます』
 電話に出たのは、聞き覚えのある穏やかな男性の声だった。

「——沢木店長でいらっしゃいますか。
 夜分に大変申し訳ありません。私、神岡工務店副社長の神岡樹と申します。
 以前は、大変お世話になりました。
 ——実は、急ぎお伺いしたいことがありまして……」

 変わらない温かな声で、沢木の返事が返ってきた。
『ああ、神岡副社長、これはお久しぶりです。
 お聞きになりたいこと……何でしょう?』

 唐突に問い合わせて聞けることではないと思いつつ、躊躇をしている余裕はない。
 前置きも思いつかないまま、切り出した。 
「そちらでアルバイトとして勤務していた、三崎 柊君のことなのですが……」

 少し間を置いて、静かな返事が返ってきた。
『…………大変申し訳ありません。
 三崎君は、3月末でうちの店のアルバイトを辞めました。
 私がお話しできるのは、これだけです。
 ——従業員のプライバシーに関わることですので』

「——そうですか。
 実は、私と交わしていた雇用契約を、急に終了したいと彼から申し出があり……理由や行き先も告げないまま、突然姿を消してしまったもので……
 ……ならば……沢木さん、一つだけ、お願いできないでしょうか。
 もし可能なら——彼の履歴書を、もう一度だけ確認させてください。
 それも叶わなければ——彼についての情報を……どんな細かなことでも構いません。何か、教えていただけないでしょうか」

 少し戸惑うような空気が電話の奥から流れ——そして、沢木の真剣な声が続いた。

『——神岡さん。
 大変失礼ですが……私からも、ひとつお聞きしてよろしいでしょうか?』

「はい、何でも」

『あなたは——彼のことを知って、どうするおつもりですか?』

「…………え……」

『彼の情報を集めて、これから彼を探そうとされているのでしょうか……
 そして、見つけたら……今までの場所へ、連れ戻そうと?』

「————」

『……あなたと彼のことに、深く立ち入るつもりはありません。
 けれど——彼は、私にとっても息子のようにかわいく、大切な存在です。
 できる限り、私は彼を応援したいと思っています。まるでお節介な父親みたいな気分で、彼の幸せを願っている。赤の他人が、おかしな話ですけどね。
 だから……余計なお世話だとは知りつつ、敢えて聞きます。
 ——あなたには、彼を幸せにできる保証が、ありますか?』

 樹の中に、今まで意識の外にあった異質な言葉が鋭く突き刺さった。
 そこには、真っ白な白紙しかなく——何一つ、答えることができない。

「…………それは……」

『もし、私から彼について何かをお聞きになりたいなら——何でもいいです。彼を幸せにできる証拠を、私に見せてください。
 あなたなら、彼を幸せにできる。……そう私を安心させてくれるなら。
 その時は、あなたにお答えできることもあるかもしれません』

「…………」

 沢木の言葉に、樹は愕然とした。


 自分は——彼の幸せを、考えていただろうか?

 彼に甘え、依存し——ただ、それだけだった。

 今更急激に襲ってくる激しい後悔に、指が震える。


「——わかりました。
 大切な話を——ありがとうございました。……沢木さん」

 切れ切れに、沢木に深く感謝を伝え、俯いて通話を終える。

 しばらく、深く顔を伏せ——そして、大きく息を吸い込み、夜の空を仰いだ。


 ——柊くん。
 ごめん。

 君に、ただ縋りつくばかりだった自分自身の姿に——今の今まで、気づかなかったなんて。

 君は優しいから……最後まで、何も言わずに僕を支えて、笑っていてくれたけど——。

 だとすれば。
 この結果は……当然だ。

 今になって、最後の夜に君が僕に残していったいくつもの言葉の意味が、はっきりと理解できる——。

 何一つ切り開く力もない僕が、これ以上君に追い縋っては……

 これまでだって、僕は君を、こんな何も生まない場所に閉じ込めていたのだから。

 こうなってからじゃなきゃ、わからない。
 いつも。
 本当に、僕は——。


 ……君は今、どこにいる?
 ——こんなにも、君を求めているのに……

 何も、できない。
 何も。


 滲みそうになる瞳を、じっと空へ向けたまま——
 樹は、更けていく夜の街に立ち尽くした。


 柊を突然失ってから、樹は機械のように、ただ仕事に打ち込んだ。

 朝も夜も、曜日も……何の感覚もなくなっていた。
 ——感じる必要がなかった。

 その様子の変化に、樹の秘書である菱木さくらはすぐに気づいた。

「副社長……そのような細かな仕事は、私にお任せください。
 あまり全てを抱えられては……お身体に障ります」
「いいんだ。やらせてくれ」

 この数カ月の間に随分和らいだように見えた表情は、気づけば以前より一層硬い冷たさに覆われ……今は、誰の言葉も彼の心に届いてはいないように見えた。

 蕾が少しずつ開くように微かに変わり始めた彼に、さくらもつられて微笑むことが増え……その度に、彼を支える何かが背後にあることを感じた。
 その何かを愛おしむ空気が、確かにそこにあった。

 その気配が、急に消えたのだ。
 柔らかく灯った明かりが掻き消えたように。

 もしかしたら——

 失ってしまったのだろうか。
 彼を包み、温めていた、大切な存在を。

 何かから逃れるように仕事に没頭する背中に、かける言葉もなく——
 さくらの胸は、酷く痛んだ。



 樹の胸に何の感情も湧くことなく、春が深まった。

 5月の半ば。
 樹のスマホに、美月からのメッセージが届いた。

『樹さん、お久しぶりです。
 ご都合の良い時に、お会いしたいと思っています。
 連絡待ってます』

 樹には、自分の身に起こる全てを流れに任せる以外、思い浮かぶことなどなかった。

 副社長という立場も、婚約者がいる状況も……彼をがんじがらめに縛り付けたまま、頑として動かない。

 いっそ誰かに、自分のことを全て決めて欲しい。
 何がいいも、悪いも……
 自分にはもう、何もない。

 都合のつきそうな日時を美月に伝えると、樹はスマホをソファに放った。









 ——来週の土曜、樹さんに会う。

 美月は、その日自分が樹に伝えたいことを、繰り返し心に刻んでいた。

 その日は、大切なスタートの日にしたい。
 私にとっても、彼にとっても。

 しっかりして、私。
 ——私の言葉が、私と彼の人生を左右するのは、間違いないのだから。


 窓から流れ込む風を深く吸い込みながら、美月はラベンダー色に暮れる夕空を見上げた。









 約束の土曜日。

 二人は一緒に夕食を取った後、美月のお気に入りのカクテルバーに来ていた。
 こじんまりとした、静かなバーだ。

 久しぶりに、樹の車で郊外をドライブし、半日を一緒に過ごした。

 会わずにいた間に、その姿を何度も思い返した——その彼が、今日は目の前にいる。
 静かに微笑んでグラスを傾ける樹の変わらぬ美しい横顔を、美月は見つめる。

 ——あなたに、会いたかった。

 一人でいる間に、気づいた。
 痛いほど思った。

 あなたのことが、好きなんだと。
 あなたに、本当の笑顔を向けて欲しい。
 あなたが向けてくれる暖かさに、包まれたい。

 あなたの冷たい微笑を見ながら——私はいつも心のどこかで、そう求めていた。

 この気持ちを、ちゃんと伝えなければ——私は、この先に進めない。

「樹さん、ありがとう。今日はとても楽しかったわ」
「そうですね。僕も楽しかった」

 美月の言葉に、樹は穏やかに答える。


 以前と違って……今日のあなたの瞳は、私のことをちゃんと見ている。

 こんな風に、優しく見つめ合えるのは——きっと、寂しいから。
 あなたも、私も。

 優しくて——
 でも、その奥に暗い海のような色を沈めた、あなたの寂しい瞳。

 私が今、この人のために、できること。

「——樹さん」
「何ですか?」

「——私と、結婚してください」

 美月の突然の告白に、グラスを取ろうとした樹の動きが止まった。

「——私、全力であなたを幸せにする。

 あなたが、感情のない笑顔を私に見せる度に、私も同じ笑顔を返しながら、今まで過ごしてきた。
 私も、ずっとその笑顔で生きてきたから……そんなこと、以前は何でもなかったの。
 けど……それは違った。
 その場しのぎの仮面みたいな笑顔が、どんなに相手を孤独な気持ちにさせるか……
 そのことに、今になってはっきり気づいた。

 あなたと、本気で笑ったり、喧嘩したり、泣いたりしたい。
 いつもあなたを満足させられるかは、わからないけど——
 あなたに、心の底から微笑んでもらいたい。

 ——そのために生きることが、私の幸せだわ。
 今は、はっきりと、そう感じる。

 だから——私と結婚してください、樹さん」


 樹の瞳に、一瞬……複雑な色がよぎった。


 今日は、美月といて、純粋に楽しかった。
 何も言わず、ただ自分の心に静かに寄り添ってくれる今日の美月の暖かさが、身にしみて嬉しかった。


 樹の耳に——あの夜の、柊の言葉が蘇った。

『あなたのことを心から愛したいと願う女性——そして、あなたもその人を愛したいと思わずにはいられない、そんな女性が——きっといるはずです』


 静かに……でも必死に思いを伝えようとした、彼の声。

 こんな時にさえ、自分は彼に支えられている。


 ——彼の言葉を、信じる。
 今の自分には、それしかできない。


 ざわざわと激しく波立つような瞳の色が通り過ぎ——
 樹は、優しく微笑んだ。

「嬉しいです。
 美月さん。——僕こそ、よろしくお願いします」


「……樹さん。
 あなたって——酷い人ね」

 美月は、さっきまでの真摯な表情を消し去り、静かにそう呟いた。


「——え?」

「私は、心の中の気持ちを全部かき集めて、あなたに届けたのに——
 あなたは、こんな大事な時にさえ、本心を見せてくれずに……これからも、そうやって一生私を騙し続けるつもりなの?」

「美月さん、一体……」

「今のあなたの瞳——はっきり、こう言っていたわ。
『僕には、心から愛する人がいる。
 自分の中にはもう、その人しかいない。
 けれど、こうするより仕方ない』——と。

 どうして、本当のことを話してくれないの?
 そんな気持ちで私と結婚して——幸せになれると思う?……あなたも、私も」

「——美月さん——それは……」
「どうして、彼を手放したの?
 そんなにも想い合っている彼を——なぜ?」


 樹は一瞬ぎくりと固まり——そして、ゆっくりと美月を見据えた。

「…………どうして、それを……」

「彼の——三崎さんの部屋へ、行ったのよ。……1月だったわ。
 あなたの様子が、それまでとどこか違うから……あなたのことを調べさせて、彼の存在を突き止めた。
 3月までであの部屋を去るって……その時に、彼からそう聞いたの。
 だから今日、ここへ来たのよ。
 ——彼と離れて、あなたはこれからどうするのか、知りたくて」

 理解が追いつかない表情で、樹は呆然と呟く。
「済みません……今まで、何も話さなくて」
「もういいわ。
 私もつくづく馬鹿なことをしたし……おあいこよ」
 美月は、長い髪をかき上げ、俯き気味にそう呟く。
「——わからないの。あなたの考えてることが。
 どんな事情かは知らないけど……私に隠して可愛がった彼のことまで、こうして手放して……
 あなたの本当に大切なものは、一体何?」

「美月さん——それは、違います……
 放り出されたのは、僕の方だ……。

 自分自身さえしっかり支えられない僕は……彼にも、見限られたんです。

 突然、何も言わずにいなくなった——行き先も、何も。
 これまで使っていた携帯も、気づいた時には解約されていた。

 あなたの言うことが本当なら……
 彼は——3月であの部屋を出ると、以前から決めていた……つまり、そういうことか?」

「樹さん……そのこと、知らなかったの?」
 美月は、その事実に目を見開く。
「あの時……確か。
 あの美容室の……宮田さん……と、そう約束したって」
「宮田くんと……?」
「宮田さんも、三崎さんに随分執着してたみたい……何か、二人の様子、険悪だった」

「……そういえば——
 彼の様子がおかしいことは、何度かあった。
 ひどく動揺してて……何かあったんじゃないかと心配したことが、時々あった。
 けど……彼は、何も話してくれなかった」

「心配をかけたくなかったんじゃないのかしら……忙しいあなたに。
 私が突然押しかけたことも、全部あなたに話してしまっても良かったのに……彼は、それもしなかった。

 こんな風にいなくなったのだって——あなたを見限ったんじゃない。
 あなたの結婚を邪魔しないために決まってるわ。
 自分の想いに区切りをつけたくて……そして、あなたがもう自分を探さないように……全部断ち切った。

 あんな変な子、どこにもいない。
 あなたが彼を深く愛するのは、当たり前だわ」


「…………」

 一層深い痛みに打ち拉がれる樹の様子に、美月は新たなため息を漏らした。

「彼の行き先がわからないなら——探したらいいじゃない。見つかるまで」

 美月は、言葉に強い力を込めて樹に問いかける。
「なぜあなたは、彼を諦めることしか考えないの?
 彼を失わずに済む方法は……本当に、何もないの?」

 考えもしなかった言葉を初めて聞いたように顔を上げ、樹は美月の瞳を見つめた。

「……彼を、失わずに済む方法……?」

「そうよ。
 あなたは、この先を彼と一緒に歩いていきたいんでしょう?……違うの?」


 そうだ。
 自分の望みは、ただそれだけだ——。

「……しかし——
 それに、あなたは……?」

「……これは、あなたへのプレゼント。
 ——私との婚約を、解消して欲しいの」


「…………」

「ほら……探しに行ったら?
 あなたには、彼が必要なのよ。わかるでしょ?——それくらい、自分でちゃんと気づきなさいよ。

 ——惨めになるから、謝ったりしないで。
 早く行って。……私は、自分で帰れるわ。

 それほど彼が必要なら……迷うのをやめて。
 諦めるんじゃなくて、彼を幸せにする方法を考えて。
 そして……必ず、彼を見つけてあげて」


 二人の間に、沈黙が流れた。


 樹は、眉間を強く寄せ、暫くじっと何かを考えたが——
 やがて、その瞳に強い力が籠った。

「美月さん——ありがとう」

 樹は、決意を固めたように立ち上がった。
 そして、心から湧き出すような笑顔を美月に零すと、足早に店を出て行った。


 ほんとに、残酷な人。
 別れ際にだけ、あんな顔を見せるなんて……

「あ〜あ」

 一人になったカウンターで、美月は椅子の背にもたれて天井を仰ぐと、ふっと微笑んだ。

 5月の半ば、早朝。
 俺は、海の気配の中で目覚めた。


 海辺の街。
 俺は、そこでアパートの一室を借りた。

 元々、荷物などあまりない。引っ越しの手間も、そうかからなかった。

 海の側で暮らす。
 実は、憧れていた。

 この部屋から自転車で5分もあれば、海べりの道へ出られる。

 ここは、時間の流れも、空気も穏やかだ。
 何にも追い立てられることのない、静かな自由。

 誰を待つ必要もなく、誰にも待たれていない。
 ただ、自分が呼吸をする……それだけの時間。


 アパートから近いGSで、アルバイトを始めた。
 やはり、俺の履歴書は最初は奇妙がられたが……前のGSでの約1年のアルバイト経験が買われ、明るく温かい店長は即決で俺を採用してくれた。


 神岡と結んだ雇用契約は収入面も相当に高待遇だったから、3月までの約半年の雇用期間中に、貯金はかなり増えていた。

 しかし——
 そのことに関しては、不思議なほど何の感覚も湧かなかった。

 金がある……だから何だ?

 俺の中で、このフレーズが何度も繰り返された。


 自炊は苦にならない。
 けれど——メニューを考えようとすると、彼が子供のように目を輝かせて料理をがっついた姿を思い出し……
 そんな苦しさを蘇らせるならば、コンビニ弁当に逃げてしまった方が楽だった。


 一旦目覚めれば、追いかけてくる眠気もなく……何の感情も起こらないまま、身支度を整える。

 約半年封印していた、安価かつ適当な衣類が、引き出しやクローゼットに並んでいる。

 けれど……何となく、以前の自分には戻りたくない気がした。
 彼に出会うまでは愛用品だったダサい眼鏡も、もうかけたくないような気さえした。

 ——彼が好きでいた自分を、失いたくない。
 消してしまいたくない。
 自分の感情を分析してみれば……つまり、そういうことらしい。

 何の意味もない、そんな思い。
 呆れて、ため息が出る。


 しかし——
 自分自身に無理強いしてまで、ダサい自分に戻ることもない。
 通販などで、今までのクオリティにあまり見劣りしない服を少し増やしたり、コンタクトで過ごしたり……あの部屋で急に浴びるようになった「かわいい」なる評価を保つ程度には、とりあえず身綺麗にしている。

 ……まあ、そんな感じだ。


 買い換えたスマホには、誰からの連絡もない。
 新しい番号やアドレスは、親しい知り合いなどには伝えることもできるが……とりあえず、今俺にアクセスできるのは、両親とバイト先だけだ。

 しばらくは、誰も知らない静けさの中にいたい。——そんな気がしていた。


 あの部屋にいた、半年間。
 あっという間だった。

 現実味のない——ふわふわと、雲の上を歩いたような。

 いや——

 あれは、雲の上だった。
 本当に。

 いつか降りなければならない、雲の上。


 その雲から、ただ日常に戻ってきただけなのに——

 何だろう。
 この、なんにもない感じは。


 必死に掬ったものが、指の間から全部零れたような。
 もがきながら大切なものを積み重ねた夢が、はっと覚めたような。

 いくら泣いても、叫んでも……ただ、自分が疲れ果てるだけ。

 自分で、全部置いてきた。
 そうしなければ、いけなかったから。

 だけど——

 ……こうやって、この先に溢れそうになる言葉を、もう何度飲み込んだだろう。


 溜まり続ける思いを捨てる場所も見つからないまま、だるい腕で窓を開ける。

 少し強い潮風が流れ込んだ。

 けれど、そこに新鮮な喜びはなく——
 俺はただ、機械のように続く呼吸を感じていた。









 美月と会った翌週、木曜の夜。
 樹は、車を走らせて、美容室「カルテット」へ向かっていた。


 美月から聞いた言葉が、その足を逸らせた。

 3月末であの部屋を去る約束を、柊と宮田が交わしていた……という、その言葉。

 どういう事なのか。
 なぜ、彼は宮田と……そんな約束を。

 時々、柊は何か青ざめて、ひどく怯えていた。
 そういえば……
 去年のクリスマスイブの夜に彼の部屋を訪れた時も、そうだった。
 柊は動揺しながら宮田の名を言いかけて、何かを隠すように黙り込んだ。

 美月も、柊と宮田の様子が険悪だったと……そう言っていた。

 宮田と彼の間に、どんな関係が——

 何か、怯えるほどのショックを宮田から受けていた。
 それしか考えられない。


 美月から聞いた、今まで思いもしなかったさまざまな事実は、最初こそ樹を混乱させたが——やがて、それは樹の中でひとつの希望へと変わり始めた。

 柊は、自分を見限ったわけではなかった——。
 その可能性が、樹に新たな力を与えていた。

『——俺は、これからもずっと、あなたが好きです』

 最後の夜に、彼がはっきりと自分に残していった言葉。
 その言葉を、脳内で繰り返す。

 彼の言葉を、もう一度信じてもいいのかもしれない——。


 こんなことで、これほどに一喜一憂している自分自身の狼狽ぶりに、笑えてしまう。

 けれど——この想いは、止められない。
 止めるつもりもない。

 柊の気持ちは、今もきっと変わってはいない。
 今の自分に、これ以上に幸せなことなどない。——はっきりと、そう言い切れる。


 彼に、もう一度、戻ってきてほしい。
 ——自分の隣に。

 そのためならば、全力を尽くす。
 何でもする。

 ハンドルを握る手に、力が籠った。


「カルテット」のドアを入ると、すぐに宮田がいつもの笑顔で店の奥から出てきた。

「神岡様、いつもご予約ありがとうございます。
 では、お席へ——」
 神岡は、さらりと普段通りの微笑を浮かべる。
「悪いね、宮田くん。こんな遅い時間に予約して」
「いえ、この後は多分もうお客様もないですし……お気になさらず」

 席についた樹の後ろに立ち、鏡越しに宮田が柔らかく話しかける。
「本日は、どのようにいたしましょうか?」

「そうだな……今日は、いつもより短めに仕上げてもらおうかな。
 つい数日前も三崎くんに、もう少し短くカットした方が似合うってアドバイスされたばかりでね」

 微笑みながらそう話す樹を、宮田は一瞬驚いた顔で見つめた。

「……三崎……様が?」

「……どうした? 宮田くん」

「…………」
 うっかり見せた表情を樹に捉えられ、宮田ははっと視線を逸らした。

「——彼に、何をした」

 鋭く、滾《たぎ》るような樹の視線が、鏡の宮田を射抜くように見据えた。


「もしかして、美月さんから、僕と三崎くんのことを何か聞きましたか?
 ……そうですよね。むしろ遅いくらいだ。
 申し訳ないですが、とりあえず、仕事はきっちりさせてください。話はその後に」
「——いいだろう」

 いつもと変わらず手際よく仕事を進める宮田に、樹もいつも通り黙って任せる。
「……いかがでしょう」
「ありがとう。
 ——外へ出て話そう」
「……いい場所があります。一緒に来ていただけますか?」

 店を出ると、やがて宮田は静かな住宅街の中へと入っていく。
 樹は、その後を黙って歩いた。


 着いたのは、住宅街の奥にある、人気のない公園だった。

「僕、ここで三崎くんと一度ランチしたことがあるんですよ。もう随分前に……去年の冬の初めだったかな」
 宮田は、どこか楽しげに話し出す。

「君は……一体彼と、どういう……」
「僕、ずっと彼に嫌がらせしてたんです。——彼のことだから、そんなことは一言もあなたに言わなかったんでしょうけど」

 そう言いながら振り返ると、宮田は喧嘩でも仕掛けるような目で樹を見据えた。
「そのランチの日にもね。
 僕はここのトイレで、彼を力尽くで個室に引き込んで……」

 その瞬間——
 樹の手が、宮田の胸ぐらに激しく掴みかかった。
 ギリギリと首を締め上げながら、引き寄せる。
 怒りに燃え滾る瞳が、間近で宮田を捉えた。

「……嬉しいな。
 こんな風に熱くあなたに見つめられるなんて、思っていなかった」
「ふざけるな」
「ふざけてなんかいませんよ。
 僕は、あなたに惚れてたんですから。——それはもう、気が狂いそうなほどに」
 その言葉に、樹の表情が一瞬怯む。
「安心してください。あなたの大切な彼に手は出してませんから。……まあ、未遂で済んだ、っていうだけですけどね。
 つまり——あなたが僕の方を見ようともしないとばっちりを、彼が全部被っちゃったわけです。嫉妬に狂った男ってのも、なかなか怖いもんですよ?」
 自嘲するように、宮田は言い捨てる。
「——いいですよ。気の済むようにしてください」

 その言葉に、樹は我慢しきれなかったように、宮田の頰へ渾身の力を込めて拳をうならせた。
 強烈な衝撃に、宮田はどっと後ろへ倒れこむ。

「———っ……
 お坊ちゃんで人なんか殴れないと思ったら……腕っ節まで男前とはね。
 こんなにマジであなたに殴られるなんて、夢みたいだ」
「気分の悪くなる話はよせ。
 ——君が、あの部屋を出て行くように彼を脅したのか」
 乱れる息を抑えながら、樹は唸るように宮田に問う。
「そうですよ。……最初はね。
 でも、最終的には、あの部屋を出て行ったのは彼自身の意思だった」

 切れた口元の血を拭いながら立ち上がり、ジーンズの汚れをはたいて宮田は呟く。
「彼を見てるうちに——あんまり必死にあなたの幸せばかりを祈る彼の姿に、僕はだんだん自分がアホらしくなった。
 なんなんでしょうね、実りもしない思いをあんなに大切にして……おかげで、僕のあなたへの熱も、馬鹿みたいに白けちゃいましてね。——なんだか、もうどうでもよくなった。
 だから……3月には出て行く、と約束させたその期限を無効にしてやる、って三崎くんに言ったんです。——彼が最後にウチに来店した時にね」

 樹は、複雑な表情で宮田の言葉を受け止める。
「無効にする——その話を、柊くんは……」
「嬉しいが、辞退する……きっぱりそう言いましたよ。以前からもう決意は固まっていたみたいに。
 ——このままじゃ、自分もあなたも幸せにはなれないだろうって」

「————」

「三崎くんって、なんかいじめてやりたくなるんですよね。かわいくて、なのに小生意気で、気が強くて……しかも、あなたの愛まで獲得して」
 宮田は、俯き気味に黙り込む樹に続ける。
「あなたは、何でも持ってる。
 地位も、力も、金も、容姿も……全部だ。
 それが、どれだけ特別なことか。どれだけ大きな影響力を持つか……考えたことがありますか?
 あなたは、普通の人とは違うんだ。だから、あなたの愛を得た人間は、どうしたって注目され、妬まれる。
 僕みたいに嫉妬心を剥き出しにして、執拗な中傷や嫌がらせを仕掛けるような連中が山ほどいるってことですよ。

 彼が去っても、仕方ないじゃないですか。どんなに想いが深くても、結局あなたは彼を幸せにはできないんだから。
 ——それに、その方が彼のためだ。
 仮に、あなたとの仲が公になったりしたら……こんなに話題性のあるネタはそうそうない。彼がまた辛い思いをするのは、目に見えてるでしょう?」

「彼を、そんな目には遭わせない。——絶対に」
 樹は顔を上げ、まっすぐに宮田を見た。

「僕は、今まで僕自身のことしか見えていなかった。……ただ自分を守ることで、精一杯だった。
 けれど——今は、自分以上に大切なものがある。それが、はっきりとわかる。
 これからは、僕が彼を守る。——自分の人生をかけて」

 宮田は、微かに挑戦的な微笑を浮かべて樹に返す。
「あんな会社を背負って、おまけに手強い婚約者もいるあなたに、何ができるんです? そんな険しい壁を、突き崩せるとでも?」
「彼女は……美月さんは、彼のことを深く理解していた——むしろ僕よりも。
 彼女から、婚約を解消すると言ってくれた。
 そして、彼を探せと……僕の背を押してくれた」

「……は?……まさか、あの彼女が?
 ……一体どういう……」
「君だって、彼の行動を見て目が覚めたんだろう?
 彼女も、それと同じだ。……多分な」

 樹の言葉に、宮田はやれやれというように軽くため息をついた。

「へえ、それはまた随分と……
 ま、仕方ないなあ。ほんと変わってますから、三崎くんて」

「ああ。……不思議な子だ」
「神岡さん、随分いい子見つけましたね……おかげで、こうやって僕の馬鹿さ加減が丸見えになりました」

「——君の言葉は、肝に銘じる。
 どんなことがあっても、柊くんのことは、絶対に守る。誰にも傷つけさせたりしない」

「はは、ごちそうさまです。
 ……彼に会えたら、よろしく言ってください。
 できれば、また会いたいと」
「——彼は渡さないからな」
「それは知ってますって」

 宮田は、ふっと浅い笑いを漏らす。

 樹も、微かに微笑んだ。




 宮田と別れ、樹は夜空を見上げる。
 街の灯に紛れながら、星が微かに瞬いた。

 ——このままでは、二人とも幸せにはなれない——。

 彼は、きっと以前から、そのことにしっかりと向き合っていた。
 大切なことから目を逸らしてはいけない。——彼は、そう知っていた。

『あなたが幸せならば——俺は幸せです』

 最後の夜の、彼の言葉。

 一言も苦しさを打ち明けないまま——今になって。
 彼はこうして、痛いほどその想いを自分に見せつける。

 会いたい。
 彼に。

 それを叶えるために——

 彼を迎えに行くために……必要なことは、全てやる。
 自分の力を、全て使って。

 そう自分自身に呟き、樹は拳を握った。
「菱木さん。コーヒーありがとう。
 ところで、少し話があるんだけど……今、ちょっといいかな?」
「あ、はい。……どのようなお話でしょう?」
「とりあえず、ソファにかけて」
「では——失礼いたします」

 6月初旬、月曜の朝。
 いつものように副社長のデスクにコーヒーを運んだ際、秘書の菱木さくらは神岡からそう声をかけられた。

 こんな風に彼と話すなんて、今までしたことがない。
 一体なんの話だろう。
 仕事の話?……まさか、何か失敗でも?
 それとも……

 憧れながらも近寄り難い存在の上司から、いつになく神妙な空気で呼び止められるなんて……色々な意味で心臓に悪い。

 神岡は、そんなさくらの向かい側のソファへ静かに座る。
 どこか居心地の悪そうな顔で……何か、微妙にためらうような……?

 心の中でそんな疑問符を浮かべるさくらへまっすぐ視線を向けると、神岡は、決意を固めたように低くはっきりと話し出した。

「——これは、君を信頼した上で、君だけに話すことだ。どうか、誰にも口外しないと約束して欲しい」

 思ってもみなかった神岡の真剣な瞳を受け止め、さくらの心拍数はいきなり大きく跳ね上がる。

「……はい、お約束いたします」

 これまで微かに感じ取る程度だった彼の心の奥に、突然通される——そんな高揚感が彼女を高鳴らせる。
 ……落ち着いて。冷静に話を聞かなきゃ。

「……以前、君に社内の案内を頼んだ、僕の大学時代の後輩のこと——覚えてる?」
「はい。三崎 柊様ですね。熱心に見学をされていて、私もとても楽しかったので、よく覚えています」

「……菱木さん。君を騙して、申し訳なかった。……彼は、大学時代の後輩なんかじゃない。
 ——僕にとって、誰よりも大切な人だ」

「…………」

 神岡の唐突な告白に、さくらは思わず両手で口元を覆い隠した。

「…………そうだったんですか……」
「そう。……それは驚くよな」

「ああ、やっぱり……」

「……え?」

 次の瞬間、さくらは、花が綻ぶように嬉しそうに微笑んだ。
「実は……社内をご案内した時、もしかしたら?って、ちょっとだけ思ったんです。
 だって……あの時、手に取るように伝わってきましたから。
 彼を側で見ていて……そして、副社長の空気からも。もう漏れまくっていました、お互いに引き合って仕方がない様子が」
「え——そんなに?」
「ええ。——やっぱり、そうだったんですね……!」
「…………」

 神岡は、どこかへ隠れでもしたいかのように一気に照れた顔をする。
 頰を染めて戸惑うそんな様子に、さくらはますます微笑まずにはいられない。
「またきっと、会えそうな気がする——あの日、三崎様と別れる際に、不思議にそんなことを感じたんです。
 このまま他人に戻ってしまうとは、なぜだか思えなくて」
「菱木さん……ありがとう。
 僕の秘書が君で、本当に良かった」
「いえ、そんな風に言っていただくようなことは何も……」
「君からそういう言葉を聞けて、ますます心強くなった。
 なんとも恥ずかしい話だが……君には、全て聞いてもらおう」
 神岡は、改めて真剣な瞳をさくらへ向けた。

「実は……その彼が、ふと姿を消してしまってね……
 随分年下なのに、僕なんかよりもずっとしっかりした考え方を持っていて——ある日、置いていかれてしまった。……僕との関係を一切断ち切るように。
 彼には、もう連絡が取れない。居場所もわからない」
 神岡は、少し困ったような寂しげな顔で、そう微笑んだ。

 ああ——それで。
 突然孤独な空気を背負うようになったのは……その時からだったんだ。

「そうでしたか……」
「当然の結果だ。
 僕は、彼に寄りかかって、甘えてばかりで……ちゃんとした告白や約束など、何一つしていなかったんだ。——ひどい話だろ?
 僕は自分の愚かさを突きつけられた。そして一時は、諦めようとした。——彼のことも、自分自身のことも。
 何もかもを投げ出しそうになった。
 けれど……今は違う。
 彼に、もう一度僕の隣に戻ってきてほしい。これからもずっと、彼と歩きたい。——心から、そう願っている。
 彼本人にはっきりと断られない限り、この決心は変わらない」

 神岡の目に、決して屈しない固い決意が見て取れた。

 彼がこの人に与えていた、幸せの大きさ。
 彼を失った時の、絶望の大きさ。

 いつも近くで見ていたから——私には、それがよくわかる。

 彼と一緒なら、この人は、どんなに幸せになれるだろう。
 いや……むしろ、そうでなければいけない。

 魂のない、ただのロボットのような——あんな冷たい顔のまま、この人に人生を歩ませるわけにはいかない。

「——副社長。
 何かお役に立てることがあれば、どんなことでもお申し付けください。全力でお手伝いさせていただきます」
 さくらは、真摯な視線で神岡を見つめた。

「ありがとう……そう言ってもらえると、本当に嬉しいよ。
 ならば、折り入って——君の人間性と、高い能力を見込んで、是非ともお願いしたい仕事があるんだ」

 神岡は、書棚から数冊のファイルを引き抜くと、さくらの前に並べた。
「少し、中を見てみてくれる?」

 その言葉に従ってファイルを開いた途端、さくらの目に新たな驚きの色が浮かぶ。

「副社長……これは……」

「そう。これしかないと思うんだ。……君は、どう思う?」
 そう言うと、神岡はどこか挑戦的な微笑をさくらへ向けた。

「——私も、賛成です。
 こんなワクワクするような気持ちは、これまでの社会人経験で初めてです……」
「これについては、また改めて君と打ち合わせたいんだ。——今日のように、時々時間を作ってもらえると有り難いんだが」
「——はい。もちろんです。喜んで」

 さくらと神岡は、何かいい思いつきが浮かんだ子供のように、明るい笑顔を見合わせた。




「副社長、おはようございます」
「おはようございます、藤木部長」
 さくらとの話を終え、次のスケジュールへ向かう神岡を、設計部門の部長である藤木が呼び止めた。なにやら慌てたような早足で近づいてくる。

「——どうかされましたか?」
「いや、副社長。私たち、もう驚いてしまって——先日お預かりした、USBメモリの研究データの件です」
「ああ、早速内容を見ていただけましたか?」

「あのデータは……一体どこで入手されたものですか、副社長?」
 藤木は、何か重要なことをこっそり話すかのように、神岡に低い声で問いかける。

「……というと?」
「あれは、うちの部門がずっと抱えていた低コスト化の問題を綺麗に解決する、非常に画期的なものですよ。うちの技術者達も、信じられないような顔をしてましてね。即実用化とまではいきませんが、もう噂で持ちきりになってます——あの研究は誰がまとめたものかって。
 ある方から預かった、と仰ってましたが……一体どのような方なんです?」

 驚きを含んだような藤木の顔を一瞬見つめ——神岡はいつになく明るい笑顔で微笑んだ。
「なるほど……そうですか。それは良かった。
 我が社にとってそれほど重要なものであれば、その技術者と実際に会う必要がありますね?」
「ええ、それはもう! むしろ、このままでは困ります。可能であれば、すぐにでも詳しいお話をお聞きしたいところです!」
「わかりました。
 できるだけ早く、実現できるよう努力してみます。——少し時間をいただけますか?」
「もちろんです。何とかよろしくお願いします、副社長!」
 藤木は、やっと望みを見出したような笑顔になり、神岡に深く頭を下げた。


「——やっぱり、君はすごいな。柊くん」

 藤木の後ろ姿を見送りつつ新たな思考を巡らせ、神岡は心から嬉しそうに微笑んだ。
「……う〜〜〜〜ん……」

 6月半ば、小雨の降り続く土曜の夜。
 俺は、苦し紛れの唸りを上げた。

 ヒマだ。
 いくら恋を失った悲しみの中にいても、ヒマはヒマなのだ。
 むしろ、そんな空白の時間が、一層その傷口を執拗にいじり回してくるようだ。

 GSのバイトは、週5回ほぼフルタイムで入れている。
 仕事している間は、作業に集中してるし、それなりに楽しい。
 しかし。
 しんと暗い部屋に戻り、ひとり美味くもない食事をし、小さなテレビ画面を覗き込み……自分宛の楽しい連絡など一本も届かないスマホに向き合う、その繰り返しは……思った以上の苦痛だ。

 あーー、くそっ!
 ドロついた何かが、胸にどんどん蓄積するっ!!
 どうにかしなきゃ、自分自身が荒れる一方だ!


 ふと、3月まで務めたGSが、ずっと昔のことのようにほんのり懐かしく思い出された。

 沢木店長の明るい笑顔や、父親みたいに暖かい言葉。
 ごつくて大きな手のひら。

 そんな温もりを思い出した途端……無性に、彼に会いたくなった。


 俺は彼から、たくさん力をもらった。
 あの部屋で、自分なりに精一杯の時間を過ごせたのは、全て彼のおかげだ。

 神岡に惹かれていることに気づいた俺を、彼が力づけてくれなければ……俺は、あの部屋からきっと逃げ出していた。

『——人を好きになるって、もうそれだけで、最高に素晴らしいことじゃないか?』

 俺にそう教えてくれた彼の穏やかな声が、耳に蘇る。

 確かに……そうだった。
 あの部屋での日々は、俺にとって、何にも代え難い時間だった。

 自分が想うひとに、想われる。
 強烈に——熱で身体が溶けるかと思うほどに。
 その幸せの大きさ。

 ……結局、自分の手の中に残ったものは何か。
 それは……よくわからない。

 けれど……
 普段経験のできない何かを味わってみたい——
 以前の俺が抱いていた、漠然とした願いは……確かに、満たされた。

 ひとつだけ、はっきりわかったことがある。
 俺は、何にも知らない馬鹿なガキだった、ということ。
 ジリジリと全身が焦げるようなものに手を伸ばして。
 こんなにも苦しい思いに自分自身を占領されるとは……これっぽっちも想像できなかった。

 ——ああ、そうか。
 俺が得たものは……これなのか。

 報われようと、そうでなかろうと——なりふり構わず、胸を搔きむしるほどに誰かを求め、愛する……その想い。

 ——全く、随分と苦しいものを手に入れてしまったものだ。

 これから先……これほどの強さで、誰かを想うことなど、あるのだろうか……


 このたまらない呼吸困難から、逃げ出したい。

 沢木さんの、あの父親のような……大きく包むような温かさを感じたい。
 ごつい手のひらに背を叩かれ、何とか息を吸い込みたい。

 ——心が弱った時に、会いたくてたまらなくなる人がいる。
 そんなことを、俺は初めて感じていた。


 あの部屋で過ごした間に関わった人たちとは、しばらくは距離を置くべきだ——そう決意を固めていたけれど。

 ブレーキをかけようとする心のコントロールも効かないまま、俺の指は沢木店長のアドレスを呼び出していた。

『おお、三崎くんか!? 久しぶりだなー元気にしてるのか!?』

 電話の奥から、どこか嬉しげな沢木さんの温かな声が響いた。
「お久しぶりです、沢木さん。……はい、まあ普通にやってます」
『はは、そうか。普通が何よりだ。連絡くれて、嬉しいよ』

 久しぶりに聞く大らかで優しい言葉に、思わずじわっと目が熱くなる。

「……何だか懐かしいです、沢木さんの声。……まだ、何か月も経っていないのに」

『……なあ、三崎くん。
 ほんとに元気でやってるのか?』

「……んー……。
 済みません。元気ではないです……正直言って」

『………君のことだから……また、外じゃ元気なふりしまくってるんだろ』
「…………」

『もし、できるなら……近いうち、どこかで会わないか?』

 彼の穏やかな声。
 甘えるのが下手な俺は……この人だけには、いつも弱い自分を晒してしまう。

「……今日は、俺……沢木さんの顔見たくて、我慢しきれず電話しちゃったんです、実は」
『お! 素直でいいぞ! 人間素直が大事だ。
 なら、久々にゆっくり酒でも飲むか。……って、三崎くんいまどこにいるの?』
「今は……千葉の片田舎でのんびりしてます。 母方の祖父母の家があった、海沿いの小さな街なんですが……会うとしたら、どの辺がいいか……」
『あ、そうだ。いいアイデアがある!
 僕がそっちへ遊びに行くよ!』
「えっ……でも、結構時間かかりますよ……それに、あまり夜遅いと日帰りは無理になっちゃうかもしれないし」
『いーんだよ、日帰りなんかじゃなくっても。娘達はもう独立しちゃってるし、家内からもたまにはどっか出かけてこいってウザがられてさー。むしろ海辺の街でのんびり一泊なんて最高だ。……あ、宿は自分で適当な所を取るから、心配しないでくれ。
 じゃ、そういうことで日程を早速調整してみるよ。うわ、こんな気ままな小旅行いつ振りかなー。楽しみだ!』
 沢木さんは、後半はもうウキウキと遠足前の子供のようだ。
 そんな浮き立つ気配に、俺もつられて笑ってしまう。

「……沢木さん。いつもありがとうございます……本当に」
『なんだ、他人行儀に。ほら、僕は君の第二の父親だからさ』

 彼のそんな優しい気遣いが、冷たい闇に火を灯したように明るく、暖かかった。




✳︎




 7月の初め。
 ここ数日は、もう夏のような暑さだ。

 そんな週末の夜、俺の住む街の小さい駅で沢木さんと待ち合わせた。

「お〜! 三崎くん久しぶり!……って、君、いつもそんなに可愛かったっけ??」
「久々に会って、一言目がそれですか?」
 沢木さんとのそんなとぼけた再会に、思わず笑いが漏れる。

「俺、バイトではいつもダサい服とメガネでいましたもんね。——こんな感じで、彼とは過ごしていたんです」
「……そうか。
 そういえば君、そんなこと言ってたよな。GSでは敢えてダサくして村上くんなんかにリア充がバレないようにしてるって」
 そんな風に言いながら、沢木さんはあははと明るく笑う。
「村上くんは、元気ですか?」
「ああ。相変わらず彼女ともラブラブみたいでな。でも、君が辞めて随分寂しそうだ」
「——そうですか。
 あ、ここから少し歩くと、海鮮料理が人気の居酒屋があるんです。そこでいいですか?」
「おお、この辺の魚介は新鮮でさぞうまいだろうな! 楽しみだ」

 片田舎の街でも、週末の駅前はそれなりに賑やかだ。
 俺と沢木さんは、そんな明るい街の灯に向かって歩いた。



 一目で新鮮なことがわかる色鮮やかな魚介の刺身や、こっくりした味わいの煮付けなどにひとしきり舌鼓を打ち、酔いも心地よく回ってきた頃、沢木さんがふと呟いた。

「三崎くん——君はちゃんと、自分自身の幸せのこと、考えてるか?」

「……え?」

 何となくぼんやり3杯目のジョッキを啜っていた俺は、不意に現実に引き戻されて沢木さんを見た。

「今さ、君はどんな風に毎日を過ごしてる?」

「……今は、GSのバイトをほぼフルタイムで入れてます、とりあえず。
 ここからすぐの海岸沿いに、沢木さんのGSと同系列の店舗があるんです。沢木さんのとこでの経験も役立って、そこの面接を受けて即採用してもらいました。

 ……ストレスのない方へ流れていることは、何となく気づいてます。自分でも。
 正直言って——大きなものに飛びついていく気力が、今はどうしても湧いてこないんです。
 身体の中の芯みたいなものが全部抜き取られて、手元に何も残ってない……そんな風にスカスカで。
 ほんと、風船みたいに。ただひたすら中に空気を送り込んで、ふわふわしてるだけ……それすらも辛くて、嫌になります」

「……そうか。
 でも——そんなことならば、彼を諦めない方がまだ良かったんじゃないのか?
 誰を敵に回してでも、しがみついて反撃したら良かったじゃないか。
 ——なぜ君は、そんなに大切な人から離れてここにきたんだ?」

 沢木さんは、冷酒のグラスをテーブルに置き、まっすぐに俺を見つめる。

「…………それをしても、何の意味もないと解っていたからです。
 俺には、あの状況を変える力はない。仮に俺が何か騒ぎ立てたら、それこそ彼を窮地に陥れるだけだ。
 ——どう考えても、結論は同じでした」

「……君らしい、冷静で聡明な考え方だな。
 君の頭脳で精一杯考えて、それしかなかったんなら……
 それが最善の方法だったのなら、自分でかけたその縄にがんじがらめにされたままでいてはいけない。——違うか?」

「————」

「大切なものを失った辛さを一瞬で忘れられる人間なんて、どこにもいない。
 けど……いつまでもそこから出ずに、君の将来が黒ずんでいくとしたら……君が彼に出会ったことは、不幸の始まりだった、ということになってしまう。そうだろう?

 彼といた時間が幸せだったなら……あの時があったからこそ、今がある。そんな風に振り返りたくないか?
 彼との出会いを、幸せな出来事にするのか。それとも、不幸な災難にしてしまうのか……それは、これからの君が決めることだよ」

 沢木さんの一言一言が、ぶよぶよとだらしなくたるんだ心に突き刺さった。

 その通りだ。

 自分が精一杯考えて、最善だと思ったならば——そのことはもう、それでいい。
 そう思わなきゃ、自分が苦しみ抜いて決断した意味がない。

 痛みばかり見つめることをやめて、ちゃんと前を見なくては。

 そして——
 あの出来事を、不幸な災難なんかには、絶対にしたくない。

 ——俺が望んだ通りに自分を深く想ってくれた、彼のためにも。

「————いっつも痛いんですよね……沢木さんの言葉」
「第二の父親の説教も、ちょっとは効いたか?」
 沢木さんは、茶目っ気たっぷりな目で俺に微笑む。

「——まあ、もしかしたら今頃君を連れ戻そうと血眼になってるかもしれないけどな、あの王子様も」

「…………は????」

 真剣に自分を省みている最中に飛んできた沢木さんのとんでもない一言に、俺はまたぐわぐわと翻弄される。

「——やめてくださいよ沢木さん、そういう冗談。笑えませんから」
 俺は本気でむすっとして、どこかニヤついている彼を睨んだ。

「いや、別に冗談のつもりじゃないけど……ごめん、変なこと言って悪かったな」
「……あ。
 念のため言っておきますけど。
 俺の居場所とか、絶対誰にも喋ったりしないでくださいよ?」
「もちろんだ」

 そんな返事をしつつ美味そうに冷酒のグラスを呷る沢木さんを、複雑な思いで見つめた。

 彼が、俺を必死に探す——
 そんなこと、あるわけないだろ。
 俺さえいなければ、全てがスムーズに片付くはずなのだから——状況的に、どう考えても。

 そして彼は、俺のことなんかよりもずっと重要な物を、既に幾つも抱えているのだ。

 ——神岡は……今、どうしているだろう?

 真剣な表情で自分を探す彼の姿が、一瞬脳をよぎり——俺は、その有り得ない妄想を乱暴にかき消した。