3月の下旬、水曜の夜。
 ダイニングテーブルに夕食の準備が全て終わる頃、彼は部屋を訪れた。

「やっと、少し時間が作れたよ。それでも、菱木さんにだいぶ無理を言ってしまったけどね」
「——済みません。一番お忙しい時に」
「いや、君の希望とあればね。それに、僕もずっとここに来たかったし——
 何と言っても、こうして君の極上の肉じゃがが食べ放題だしね」

 神岡は、少し疲れたような様子を見せながらも、変わらぬ美しい笑顔を俺に向ける。

 俺は、じっと彼に注いでいた視線を、思わず逸らした。


 多分——
 神岡と会うのは、今夜が最後だ。

 その思いを、視線や言動に一切出さないように——何とか隠さなければ。

 渦を巻いて溢れそうになる想いを押し殺し、離れていく相手に微笑む。
 それが、こんなにも強い痛みに満ちたものだとは、思わなかった。

「今日は——どうしても、あなたにこれをお渡ししたくて」

 俺は、何の変哲もないブルーのUSBメモリを一つ、テーブルに置いた。

「……これは……?」
「少し前、あなたに渡したいとお話ししておいたものです。
 俺が大学院で取り組んだ研究データを、まとめてみました」
「ほう……A大大学院の優秀な学生だった君がまとめた研究データか……それはすごいな」
「いえ、あんまり期待されると困るんですが……
 でも——神岡工務店の見学の時に菱木さんから受けた説明が、ずっと俺の中に残ってたので。
 もしも何かのお役に立てばと思って……お時間のある時にでも、見てみてください」

「でも、こんなに大切なもの、僕が受け取ってもいいの?
 これからの君にこそ大事なものじゃないか……今後、就職活動などで自分の実績を示すためにも……」
「俺の研究していた内容は、今ちょうどあなたの会社で求められている部分かもしれない、と思ったんです。
 いつ使うかもわからない自分自身のために保管しておくよりも、今役に立つ場所で生かしてもらえるなら——そう思うんです」

「そうか……ならば、君の気持ち、有り難く受け取るよ。
 かなり専門性が高そうだから、うちの技術者達にも見てもらわないとな」
 そう言って、神岡は柔らかく微笑んだ。

「もし、この内容が実用的でなかったら、そのUSBは神岡さんのデスクの引き出しにでもしまっておいてください。
 それから……そのUSB、名前があるんです」
「名前?」

「——『シュウ』です」

「…………」

 その瞬間——神岡は、じっと俺を見つめた。

「忘れちゃダメですよ」
 俺は、そんな彼の視線を慌ててはぐらかしながら、茶化すように笑った。

「——そうだ。
 この機会に、僕も君に確認しておこうかな」
 目の前のグラスを軽く呷ると、神岡は、それまでの表情をどこか引き締めながら俺に問いかけた。

「来月から……
 4月からも、僕との契約を継続できそう?」

「————大丈夫です、多分」

「……無理はしないで。
 本当に、大丈夫?」

「はい」

「——なら良かった」

 彼は、ほっとしたように呟く。

 ——今は、何も言わない。
 そして、決して感づかれないように——

 震えそうになる心をぐっと立て直し、そう心で繰り返し呟く。

 後を引くことなく、彼の前から綺麗にいなくなる。
 そのためには……こうする以外にない。

「今日俺の選んだワイン、あなたの好きな銘柄でしょう? ちゃんと覚えたんです。——せっかく時間ができたんですから、ゆっくり飲んでください」
俺は明るくそう言い、彼のグラスに深い紅色の液体を注ぎ足す。
「僕の好きな品を用意してくれたの? それは嬉しいな。
 ……そういえば、こうして好きなワインを飲むのも、随分久しぶりな気がする。疲れが溜まってるせいか、酔いが早く回りそうだ」
 そう言って頬杖をつくと、彼はほんのりと染まった目元で俺に微笑む。

 ——今日のおかしな俺を感じ取れないくらいに、彼が酔ってくれたら。
 あまり真剣な目で自分を見られたくなくて、俺はなんだかやたらに彼に酒を勧めた。


「——君は……
 この先、何をしたいか、時々考える?」

 神岡が、頬杖をついたまま、ふわふわと俺に話しかける。

 意図的なのか、それとも、酔いに任せた何気ない質問なのか——
 うまく読み取れないまま、俺は答えを探した。

「——まだ、決められていません……何も。
 俺——自分のことよりも、今、気になることがあって……」

「……ん?」

 あなたのことだ。
 あなたが歩む、この先のこと。

 今、この話をしなければ——もう、話す機会がない。

「俺——あなたに、幸せになって欲しいんです。……絶対に」

「……え?」

「諦めないでください。
 ——望む幸せは手に入らないなんて、最初から決めないでください。
 自分のためにできることは、どうか、全力で試してください。

 あなたは、やがて大企業を背負う人だから——立場上、同性との恋愛は、許されない。
 以前、あなたはそう言いましたね。自由に人を愛することはできないんだ、と。
 でもそれは、幸せを諦める理由には、きっとならなくて。
 あなたのことを心から愛したいと願う女性——そして、あなたもその人を愛したいと思わずにはいられない、そんな女性が——きっといるはずです。

 どうせ無理だと最初から諦めるのは、簡単です。
 だけど、諦めることがあなたにとっての幸せなのか……それを、ちゃんと考えてください。
 諦めるんじゃなくて。
 幸せになるんだ、と……しっかり、そう思ってください。
 そうじゃなければ、俺は——」

 ここを去ることができない。

 ——そう言いそうになった。


 いや……それは、きっと違う。

 俺がここにいては、何もスタートしない。
 俺がいなくなってから、彼の新しい何かがスタートするんだ。

 心のどこかで、そんな気がした。

「俺……絶対、あなたを応援してます。いつでも。
 ——俺は、これからもずっと、あなたが好きです。

 だから……あなたも。
 あなた自身のために、全力で幸せになってください。……それが、俺にとって一番嬉しいことです」

 彼には、俺が急にそんなことを言う理由が、わからなかったのかもしれない。
 少し驚いた顔をして——そして、少し寂しそうに微笑んだ。

「今言ったこと、俺と、約束してくれますか?」

「——約束するよ」
 彼は、少し困ったような微笑で、そう答えた。

「じゃあ——その代わり。
 僕の願い事、一つ聞いてくれる?」
「何ですか?」

「今夜だけ——僕の恋人になって欲しい」

「————」


「……だめ?」

「…………今夜だけなら」



                    





 初めてお互いの思いが通い合った、あの夜のように——
 どちらともなく、おずおずと唇が重なる。

 薄い隔たりが剥がれ落ちたような——これまでよりも、もっと深く重なり合うような感覚。

 俺たちは、恋人同士だ。
 ——一夜限りの。

「————柊」

 耳元に、彼の囁きが落ちる。
 聞き違いなどではなく……俺の名を呼ぶ、彼の掠れそうな声。

「…………僕を呼んで」

「……」

「僕は、樹だ。
 そう呼んで欲しい。
 君の本当の気持ちを、聞かせて欲しい」

「——樹さん。
 あなたが好きです。……間違いなく、誰よりも。
 こんなにたくさんのものを、誰かからもらったのは——俺、初めてでした。
 あなたが幸せなら、俺は幸せです」

 見つめていた視線を解き——彼は、ぎこちなく俺の首筋に頰を埋める。

「——ここにいて。
 これからもずっと、僕のそばにいて」


 ——酷い。

 こんな時に、そんなことを言うなんて。

 どうすることもできないと、わかっているのに——
 俺が何も答えられないと、知っているのに。

 あなたはいつか——
 俺じゃない誰かに、それを言わなければならないのに。

 どうして今、俺に、そんなことを言うんだ。


 泣いてはいけない。
 涙を見せてはいけない。

 溢れ出しそうな思いを堪える顔に、気付かれたくなくて——
 彼の首に強く腕を回し、その肩に顔を埋めた。

 そうして——
 お互い、視線を合わせることも、言葉を交わすこともせず……

 ただ強く抱き締め合い、俺たちはその肩越しに瞳を閉じた。





 差し込んでくる朝の日差しで、目が覚めた。

 横には、彼はいない。

 ただ、芳ばしいコーヒーの香りだけが流れてくる。


 ダイニングテーブルには、いつもの通り、彼の極上のスクランブルエッグと、グリーンサラダ。
 コーヒーメーカーには、香り高く淹れられたコーヒーが静かな湯気を立てている。

『仕事があるから、先に帰るよ。
 4月、少し落ち着いたら、また一緒に出かけよう』

 テーブルに残されたメモの上に、昨日我慢を重ねたものが堰を切って零れ落ちた。