「……すごい」

 秋も深まりつつある、土曜の午後。
 俺は、神岡と都内のとあるマンションの一室にいた。
 部屋は10階。間取りは2LDK。大きな窓から、都内の景色を広く視野に納められる。インテリアや家具、照明、食器など、センスのいい品物も既に完璧に配置してある。

「どうかな? あんまり高級感ありすぎでも不自然かと思ったので、部屋としては中の上くらいにしてみたけどね」
 仕事の合間に時間を作ったらしい。神岡はスーツ姿にビジネスモードの歯切れ良さでこの新居を俺に案内する。
「いや……俺には立派すぎて。……ちょっと釣り合わないんじゃ……」
「いやいや。キミそのもののイメージも一新してもらうんだから、最低このくらいはね」
「……なるほど」

 そうだった。それは俺の仕事のひとつだった。
「この部屋で彼好みの男子として過ごす」という任務はしっかり全うしなければならない。
 そう思いながらいつもの癖でついメガネのブリッジを上げようとして、はっと気づく。
 数日前にコンタクトを購入し、愛用のダサいメガネは泣く泣く封印したのだった。……こんな顔のどこがかわいいんだ全く。

「それから、必要な分の服などは揃えたつもりだよ。足らなければいつでも言ってくれればいい」
「……う〜む」
 クローゼットを開けるとずらっと並ぶ、その上質さが一目で分かる衣類。どの服にも、控えめだが魅力的なセンスの良さが溢れている。エキセントリックな趣味だったらどうしよう……と内心不安だったが。

「サイズなどは、聞いておいた通りのものを選んだから大丈夫だとは思うが……どれか試着してみてくれる?」
「えーと……じゃ、とりあえず」
 Vネックの淡いグレーのセーターと黒の細身のパンツを選び、別室で着替えてみた。
 ぴったりだ。今までは無縁だったハイセンスな空気にちょっと照れる。

「……どうでしょう?」
「ん! やっぱり似合うね。数段レベルアップするから自分でも驚くだろ?」
 神岡は、着替えた俺を見るとぱっと輝くように微笑み、楽しそうに言った。

「……まあ……そうですね」
 ぶっちゃけた話、服装やお洒落に興味はない。でも、こんな風に自分ががらっと変身するなんて、これはこれで結構興味深い。
「……でも、こんなにいろいろ……どれだけ大金使ってます?」
「どうせ忙しいだけ忙しくてろくに使う場所もないんだ。カネは貯めとくだけのモンじゃないだろ? じゃ、これは部屋の鍵」
 彼は俺に鍵を渡しながら、こともなげにそう言って微笑む。

「あ、それから、この後美容室に予約を入れてあるよ。この店で名前を名乗ってくれればいい。ここから歩いて数分だ。僕はこの後また仕事に戻るから」
 そう言って彼は店の名前と場所を俺に伝えると、すぐに会社へ戻る準備を始めた。

 ……俺のためにいろいろしてくれる彼に無言のままでいるのは、さすがに居心地が悪い。
 なんだか気恥ずかしくて躊躇われたが……慌ただしく玄関のドアを開ける神岡に、思い切って声をかけた。

「……あの、神岡さん。……ありがとうございます。——いってらっしゃい」

 彼はぴくっと動作を止めてから——ちょっとだけ振り向いた。
「それはよかった。……嬉しくて、今トリ肌立った」
「なんですかそれ」
 おかしくて、思わず吹き出した。
 パーフェクトな印象が突然崩れるこの人に、いつも自然に笑わされてしまう。



 美容室。ぶっちゃけ今まで1000円カットしか利用したことがない。
 何となく面倒なのと、緊張するのと。ごちゃ混ぜな気分で、指定された店の扉を開ける。
 いかにも人気店らしいスタイリッシュな店構えだ。

「いらっしゃいませ」
「あの……三崎といいますが」
「三崎様ですね? 神岡様からご連絡いただいてます。こちらにどうぞ」
 若いながらもてきぱきと明るい対応の青年が出て来た。華奢で長身の、どこか中性的な美形だ。
「ボクは宮田といいます。これから毎回三崎様を担当させていただきますので、どうぞよろしく。
 ——なるほど」
「はい?」
「いや、神岡様に聞いていた通り。かわいい方ですね。ボクも担当しがいがありますよ」
「はあ……どうも……」
 今まで縁のなかったそんな言葉を急に聞くようになり、なんだかむずむずする。何とも答えようがない。

「じゃ、神岡様指定のカットとスタイリングでいっちゃいますのでね〜。最初にシャンプーさせていただきますね〜」
「……お願いします……」
 されるがままになるのも俺の仕事なのである。……やっぱペットだよなぁ、この感じ。

 宮田は慣れた手つきで仕事を進めながら、気さくに話しかける。
「三崎様は、神岡様のお気に入りの後輩さんなんですね」
「は? あ……ど、どうなんですかね」
 この前神岡と口裏合わせをした「リストラされて神岡を頼ってきた大学時代の後輩」を必死に思い出しながら、曖昧に答える。
「ボク、神岡様のスタイリングも担当してるんですが……いつも隙がなくてクールな彼が、こんなふうに後輩かわいがるなんて。ちょっと意外でしたよ」
「……へえ……意外ですか……」

 もしかして……外での彼は、俺に見せるような顔は決してしないのかもしれない。
 常に隙を見せず、クールに——完璧な戦闘モードの仮面で、本当の自分を隠しながら生きているのかもしれない。

「でも、あなたにはきっと優しいんでしょ? 一体彼はあなたの前ではどんな顔するんです? 興味あるなあ」
 宮田は、ちょっと探るようないたずらっぽい目で、鏡越しに俺を見る。
「え? あ、普通ですよ。……ごく普通です」
 実はまるで子どもみたいな面白いド変人、なんて、きっと絶対言っちゃダメなやつだ。

「だって、こんなに可愛い顔してて、色白くて、素直そうで……男の人がほっておかないニオイがしますよ、三崎さんて。——自分のニオイに気づいてます?」
 宮田は、突然今までとは違う低い声で俺の耳元に囁いた。

「……は?」
 俺は、ぎょっとして宮田を見た。
「ま、この話はまた今度にしますか。あ、もう少しで終わりますからね〜」
 彼は、声音を一瞬で元に戻してさらっとそんな風に言うと、にこっと笑った。


 小一時間かけて、全行程が終了した。
「うん、上出来。とてもお似合いです! 無造作ショートマッシュサイド、今人気なんですよ——いかがですか?」
「……はあ……」
 ——おい。かわいいぞ鏡の俺。
 ……やばい、自分を見失うな俺。
「ね? 神岡様にもご満足いただけると思います。これで街歩いたら女の子たちが振り返っちゃいますね〜〜。あ、お支払いは神岡様から頂きますので大丈夫ですよ」
 宮田はそう言って満足げに微笑む。

 う〜〜ん……支払いもしなくていいのか。
 この生活したら、元に戻れないんじゃないか俺??
 ——失せろ雑念。とりあえず俺はこの仕事に専念すると決めたんだ。

「またお待ちしております、三崎様」
 脳内でざわつく自分の声をハエのように追い払いながら、俺は美容室を後にした。
 宮田の笑顔と、さっきの耳元の囁きが、何だかしつこく脳内にへばりついていた。


 ——引っ越しか。もともと自分の持ち物なんてそんなにないし……あの部屋にはもう全部揃ってるし。ずいぶん楽だな。
 この後、新しい部屋の居心地をちょっと楽しんでから、アパート戻って荷造りしようかな。
 とりあえずコンビニで飲み物でも買って——。
 何となくそんなことを考えながら手近なコンビニに入る。
 適当に必要なものをカゴにいれ、レジに出す。
 気づくと、レジの女の子がじっと俺を見ている。

「……何か?」
「いえ——」
 彼女は恥ずかしそうにぱっと視線をそらすと、頬を赤らめた。

 ——なんなんだこの少女マンガ風モテ男君登場シーンみたいなヤツは??

 なんか疲れるなこういうの。
 とりあえず無視だ。任務の遂行には我慢が必要だ。
 早く部屋帰って窓から外見てぼーっとするんだ。

 俺は自分の心に鞭打つと、コンビニを飛び出し逃げるように部屋まで疾走したのだった。