エリート変人と麗しき変人の奇妙な契約

 俺が神岡に連れてきてもらった場所は、海だった。

 千葉の湾岸へ車を走らせ、静かな冬の海へ降りる。
 夏場は海水浴場になる海岸も、冬は人影もない。穏やかな日差しを受け、海面はキラキラと静かに輝いていた。

 今日は風もなく、海はまるで春のように穏やかに凪いでいる。着てきたダウンジャケットがいらないくらいだ。
 潮風を吸い込みながら、長く続く浜辺を歩いた。

「——すみません。こんな何もない場所に連れてきてもらって」
「いや。……むしろ、とても柊くんらしい。
 僕も、海は本当に久しぶりだ」
 神岡は、俺の言葉に柔らかく微笑む。

「……時々、無性に見たくなるんです。海。
 ——子供の頃は、学校が休みの期間はいつも、母方の実家に預けられてて。千葉の小さな田舎街なんですけどね。
 家からすぐそばの海と、優しい祖母が大好きだった。
 暖かな海沿いだから、2月の今頃はもうポピーとか、花が咲くんですよ。……今日の海は、俺の大好きな海にそっくりです」

「暖かい海のそばか……それは素敵な街だね」

「近所の人も、同じ歳ぐらいの子も、自分が余所者なんて忘れてしまうくらいみんな温かくて。ほっとできました。
 祖父も祖母ももう亡くなって……10年以上その海へは行ってないけど、きっとあんまり変わらないんだろうなあ。
 ——俺にとっては、自分の両親の側よりものんびりして、幸せな気持ちになれる場所なんです」

 神岡は、視線を遠く投げて輝く沖を眺めながら、静かに呟く。
「幸せな記憶というのは、大事だな。
 僕の家は、両親とも同じように厳しくてね。僕はいつも緊張して、ほっとできる場所なんてどこにもなかった。
 ——将来会社を継ぐ息子を甘やかすつもりなんて、なかったんだろう」

「でも……子供を甘やかすことと、安心させることは、違うんじゃないかな……。
 ——あ、すみません。なんだか偉そうなこと言って」

 俺のそんな言葉に、彼は少し寂しそうに微笑む。
「……君が、僕の兄なら良かったな。……そうしたら僕はきっと、心強かったのに」

「あなたのお兄さん?……嫌ですよ、そんなの」

 ——もしも、あなたの兄だったら……こんな時間をあなたと一緒に過ごすことなんて、決してできなかった。

「……俺はまだ、そんなオジサンじゃありませんから」
 言えるわけもない本心を胸に押し込め、そんな言葉で茶化す。

 神岡も、空を仰ぐように軽く笑う。
「まあ、君から見たら、どうせ僕もそろそろオジサンだがな。
 何れにしても——どんな空気の中で育ってきたかは、成長してから必ずその人のキャラクターに現れるものだ。
 そんなふうに、大好きな海や人に囲まれて満ち足りた時間を過ごせたことが、今の君を作ったんだろう」

「——今の俺って……どんな俺ですか?」

「それは……」
 何か言いたそうな顔をしながらも、なぜか彼は急に言い淀む。

「……どうしたんです?」
 内心の照れが丸出しの彼の顔を覗き込んで、クスッと微笑む。
「……結構意地が悪いな」
「昨夜のお返しです。——いいですよ、無理に言わなくて」

「……つまり、こういうことだ」
 言葉の代わりに、彼は俺の左手を取ると、指を組むように優しく握る。

 それは、どんな言葉よりもたくさんのことを伝えてくるようで——
 俺は、一気に赤くなってわたわたと慌てた。

「あ、あの……神岡さん……
 こんなとこで、ちょっと恥ずかしいし——しかもこれ、『恋人繋ぎ』じゃないですか」
「いいだろう、少しも間違ってない。それにほら、だーれもいないんだし。
 ……じゃ、こうしよう。これなら外から見えない」
 彼は、繋いだままの手を自分のコートのポケットへ引き入れる。
 心地よい彼の体温に、手がすっぽりと包まれ……それと同時に、お互いの肩が一層強く寄り添う。

「だ……だから、恥ずかしいって……」
「こんなところでそんな顔をしてる君の方がまずいぞ。……ここで君を食べたくなるじゃないか」
 今度は、彼がちょっと上からそんなことを言って微笑み、俺を従わせる。

「————」

 嫌なわけがない。
 抵抗するのを諦め——俺は、彼の温もりに寄り添う幸せにやっと浸った。

 そうして——冬の陽射しの下、俺たちはただ柔らかくきらめく海を眺めていた。









 美月は、自分の部屋の窓から外を眺めていた。

 いい天気だ。2月なのに、今日は風もなく、春のように暖かい。
 日の当たる窓辺で頬杖をつき、その温かさを身体に吸い込む。

 こんなふうに、静かにひとりの時間を過ごすって……どの位していなかっただろう?

 いつも、何かを求めてどこかへ出かけていた。
 華やかな場所で、自分を羨みの目で見る人々に囲まれ、好きなようにお金を使うことで自分を満たした。

 ……そんなことのどれ一つを取っても、今の美月には何の楽しさも見出せない。

『俺をここから消したいなら……彼を幸せにすると、今ここで約束してください』

 あの日、三崎が絞り出すように呟いた言葉が、繰り返し美月の心に戻ってくる。

 自分のことより、誰かの幸せを叶えたいなんて……あの時は、全く理解などできなかった。

 でも——

 愛されることは、当たり前のことなんかじゃなかった。

 自分から、本気で誰かを愛する。
 自分のことを思ってくれる人を、自分からも思う。
 目には見えないそんな心のやりとりをしながら、人は初めて深く繋がる。

 彼ら二人の姿を思い浮かべると、なぜかそれが素直に理解できた。

「……二人とも、男なのに」

 いや——違う。

 彼らは、同性でありながら——それでも、引き合わずにはいられないのだ。
 だからこそ、彼らの間には、ただ愛情しか存在しない。
 ごまかしも、嘘もない……混じり気のない愛情。

 ——そんなものを見たのは、初めてだ。

 お金も容姿も意味を持たない場所では……自分には、何の価値もない。
 そして……そんな場所にこそ、本当に大切な何かが隠れているみたいだ。

 今まで考えたこともなかった思いが、美月の心を占領していた。


 ふと窓から視線を外し、美月はテーブルの上のスマホに手を伸ばした。
 一瞬躊躇った指を再び動かし、ある番号を呼び出す。

『はい』

「……野田さん?
 ちょっと久しぶりね」

『そうですね。……美月さん、どうされました?』
「あ、大したことじゃないの。
 ……野田さん、お子さんがいらっしゃるって言ってたわね?」
『はあ……中1と小5の子どもがおりますが……』

「あのね……もし、お子さん達が甘いものをお好きなら、今度クッキーなどお渡ししようかと思って」

『は?……いえ、わざわざ美月さんにお土産を買っていただくようなことは何も……』
「買うんじゃなくて。私が焼くの。……上手く焼けるか保証はできないけど、練習するわ」

 少しだけ、通話に間が空いた。

『……そうですか……
 そういうことでしたら……とても嬉しいです。
 ウチはみんな甘党なので、大喜びです』
 野田は、美月の心の動きを何か感じ取ったのだろう。温かい声で返事が返ってきた。

「そう言ってもらえると、私もとても嬉しいわ。
 ……いつもありがとう、野田さん」

 勇気を振り絞って最後の一言を口にし、ドギマギと通話を終えた。
 緊張を解いてふうっと吐き出す息に、初めて味わう柔らかな心地よさが混じり込んでいることに美月は気づいた。

 ——こんな電話、恥ずかしくて、どうしようか迷ったけど……

 今までにない温かい感覚が、美月の心を満たしていた。



 2月半ばの火曜、朝10時。神岡工務店のエントランス。
 俺は、リクルートだと一目でわかるスーツ姿で、そのソファに背を埋めていた。
 その空間は言うまでもなく広く、天井は高く。壁一面を取り払ったような大きな窓から差し込む明るい日差しに、白い床も壁も磨かれたように光る。
 一流企業ならではのときめくようなハイソな空気が、そこに満ちていた。

「三崎様……ですね? お待たせいたしました」
 品の良い足取りで俺に近づき、澄んだ声で話しかける美しい女性。
「私は、神岡工務店副社長秘書の、菱木さくらと申します。本日は、私が当社のご案内をさせていただきます。どうぞよろしく」
 彼女は、乱れのない美しい言葉でそう言うと、俺に丁寧に会釈をする。
「——三崎柊と申します。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
 俺も、椅子から慌てて立ち上がると、就活の本で急いで仕込んだ会釈を返した。

 綺麗な人だ。すらっとメリハリのある長身に、中性的な凛々しさのある顔立ち。活動的なショートの髪に、聡明な瞳と引きしまった口元。
「神岡副社長の大学時代のご後輩でいらっしゃるんですね」
 そんな切れ味の良い外見ながら、柔らかく微笑んで話すその口調には、どこか親しみと信頼の置ける安らかさが漂う。
 さすが、神岡工務店副社長の秘書だ。そうそうどこにでもいる女性じゃない。——っていうか、彼はこんな魅力的な女性と毎日仕事をして、特に何ということもない……のだろうか。
 ……ないんだろうな。だって彼、相当変人だもん。やっぱり。
「え……と、はい。そうですね」
 神岡の大学の後輩。そうだった。シミュレーションしつつ来たと言うのに、余計なことを考えてたせいで変な応答になる。
「……もしかして、副社長のお皿洗いをされてる後輩さん……かしら?」
 そんなふうに控えめに呟き、彼女はクスッと綺麗な笑顔を見せる。
 一瞬、ドキッと心臓が跳ね上がった。
「……え……あの……ご存知なんですか?」
「いえ……以前に、上質なゴム手袋を探したい、と副社長からご相談を受けたことがあって。たくさんお皿洗いをする大学の後輩に贈るんだ、と仰ってましたので」
「——あ、あの……神岡さんにはしょっちゅう差し入れなんかしていただいてて……そのくらいしかお礼できないんです……」
 そんな即席の言い訳をモゴモゴと呟きながら、顔が赤くなりそうなのをぐっと抑え込む。
 「そうなんですね——でも、思ってた以上に可愛い方で、驚きました」
 そう言うと、菱木はにっこりと美しく微笑んだ。

 この人、勘もすごく良さそうだ。心の動きまで見透かされそうな——変な感情をいちいち顔に出したりするなよ俺!!

「では、設計部門へご案内いたします。どうぞこちらへ」
 彼女の後について、俺は上質なしつらえのエレベーターに乗り込んだ。

「ご存知の通り、当社は住宅建設・販売を全国に展開するハウスメーカーです。免震・耐震技術の水準の高さには定評があり、またローコストで良質な商品を提供するための努力を積極的に行っている点でも、高い評価を得ています。——ここが設計部門です。どうぞ」
 オフィスは広々として、たくさんの社員が熱を持った空気で動き回っている。
 整然とした中に、引き締まった活気が溢れ——それは、俺にとって初めて触れる、刺激的な空間だった。
「求められているものを的確に捉え、商品のコンセプトや構造、設備面全般にきめ細かく反映させる——この部門は、お客様の希望を丹念に掬い上げ、形にする、会社の『心』とも言える重要な場所です」
「——会社の『心』……」
 菱木の言葉が、深く脳に刻まれる。

 地形図のパネルや建築模型を前に、其処此処で打ち合わせをする社員たち。その眼は皆真剣に、生き生きと輝いている。

 人生の大切な時間を過ごす、「家」を創る。それは、その人の「人生そのものを創る」と言い換えてもいいのかもしれない。
 顧客の思いに寄り添う心地よい居場所を創れるかどうかは、この設計技術者たちの「心」と「腕」にかかっているのだ。

「……いい仕事ですね。やっぱり」
「でしょ?——本当に、素晴らしい仕事です」
 俺の呟きに、菱木は嬉しそうに瞳を輝かせる。
「目下当社が力を入れているのは、二世帯住宅です。
 高齢化が進み、一人暮らしを余儀なくされている高齢者は増える一方です。子供が親を引き取りたい、そう考えても、二世帯となればコストもかかります。その辺の問題を少しでも解消できる商品が開発できれば、喜んでくださるお客様がきっといる、という判断です」
「なるほど……」
 用意してきた手帳に、メモを取る。
 そうしながら——俺の脳内で、さまざまなことが音を立てて組み上がっていくような感覚があった。


 フロアを後にし、廊下に出る。
 高揚したような引き締まった心と身体が、なんとも心地よい。
 社会に出るというのは、こんな風に——自分以外の人の生活や人生を考え、それを実現するために力を尽くす場所なんだ。
 そして、俺が学んできたことも——思ったよりも、ちゃんと役に立ちそうだ。
 そんなことを改めて感じながら菱木について廊下を歩いていると、向かい側から二人の社員が近づいて来た。

 ——神岡だ。
 それと、少し年配の男性……部長とか、そんなクラスだろうか?
 彼らは、何か真剣に言葉を交わしながら歩いてくる。

 ——神岡のその表情や姿は、いつも見ている彼とは全く違う空気を纏っていた。

 脳をフル作動させていることがありありと伝わってくる鋭い視線。余計な感情の一切入らない、厳しい口元。
 鋭利なオーラが、颯爽とその空間を切っていく。
 上質なスーツが、柔らかな照明に光沢を放つ。 
 簡単に声などかけられない、研ぎ澄まされた気配がそこに満ちている。

 これが、ここでの彼の姿。
 見てみたいと、ずっと思っていたが——
 彼は、想像より遥かに鋭い剣捌きで、自分とはかけ離れた世界を戦っていた。

 菱木に合わせて、その二人に会釈をする。

 彼は、きっと——俺には気づかないだろう。
 全く違う人間のような佇まいの彼が、自分の方へよそ見などするはずがない。

 だが、すれ違う瞬間——
 彼は、僅かに流すような視線で一瞬だけ俺を捉え……口元を微かにクッと引き上げた。

 完璧に武装した戦士が、鎧の隙間から僅かに熱を漏らしたかのようなその微笑は……例えようもなく官能的な、ゾクゾクとする美しさで俺のど真ん中を突き刺した。

 うわ…………
 やばい。
 やられた……。

 なんで、こんなにも一緒に過ごしてるのに……今頃改めて、ハートに矢が……??
 順序が違うだろーがっ!!??
 今更ひとを射殺すな神岡樹!!!

「かっこいいでしょ? ウチの副社長。
 ……もしかして、三崎さんもあまり見たことがない姿かしら?」
 そんな菱木の囁きに、はっと我に帰る。
「あ……そ、そうですね……」
 完全にドギマギしつつそう返す。

「あんなふうに颯爽として、涼やかな顔で山のような仕事をこなし、社員への気遣いも厚くて……本当に完璧な方です、彼は。
 でも……あまりにも冷たい無表情で、どこにも隙がない彼が、時に不思議で、怖くもありました。——以前はね。

 それが最近、少しだけ変わったように、私には見えるんです。
 楽しげな顔や、苛立ちや……そんな人間らしい心の動きが垣間見える瞬間が時々あって、はっとします。……ゴム手袋をネットで探していた、あの頃からかしら?
私への気遣いも、以前より温かく、優しく感じられます。
 ——もしかして、誰か素敵な方と恋をしているのかな?なんて、ちょっとだけ想像したり。……だって、あんなに魅力的な方なんですもの、気になっても仕方ないですよね?

 ……あ、ごめんなさい。なんだか三崎さんの空気、安心してしまって。……副社長には、どうか秘密にしてくださいね」

 菱木はお茶目な笑顔を見せると、少し目を細めるようにして続けた。

「でも、あなたの前では、彼はここで絶対に見せない顔をたくさん見せてるんだろうなあ……そう思うと、とても羨ましいです」

「……そう、でしょうか……」
 いろいろ感づかれないように曖昧に答え、必死に感情を押し殺す。
 そうしながら、俺は複雑な気持ちになる。

 ——本当の神岡は……
 いつも明るくて、無邪気に笑って。
 男子高校生並みによく食べて、ちゃんとエロくて。
 誰よりも細やかに、温かくて。

 ——そんな、ごく普通の男としての彼を、あの部屋以外では一切見せることもできずに。

 自分の知っている彼のことを全部、菱木に打ち明けたい。
 そんな衝動に駆られたが……ぐっと堪えた。

 そんなことをしても、彼を現状から救い出せるわけじゃない。
 そして——彼を救うのは、俺じゃない。
 それは恐らく菱木でもなく……

 ならば。
 この先、彼は——どこで、どうやって幸せを掴むんだろう?

 そんな苦い疑問がまるで宙吊りになったように、俺の中でぐらぐらと揺れた。



「菱木さん、本日は貴重なお時間を頂き、ありがとうございました。大変勉強になりました」
「いいえ、私も楽しかったです。……また、お会いできたらいいですね」 

 帰り際のエントランスで深く礼を伝える俺に、彼女はそんなことを言って美しく微笑んだ。

 午後の陽射しに輝くビルを出る。
 すごく刺激的な時間だった。
 部屋に戻って、今日得た情報を早速まとめてみよう。
 ——そんなことを考えていると、スマホに神岡からメッセージが届いた。

『柊くん、今日はお疲れ様。
 今夜、時間を作ってそちらに行きたいが……都合は大丈夫?
 いや、是非とも都合をつけてほしい』

 予定は、この後は特にないけど。
 何かすごい熱意を感じる。
『今日は勉強になりました。ありがとうございました。
 この後は、特に予定はないので、大丈夫です』
 そう送ると、すぐに返信が来た。
『ならよかった。じゃ仕事が終わり次第向かうよ。
 今日は、夕食は僕に作らせて。食材も揃えて行くから』
『了解です。お待ちしてます』

 ……うーん。
 今日の見学の感想を早く聞きたいのだろうか?
 それとも……?

 照れ隠しに眉間に皺を寄せ、そんなことを思う。

 ……さっきすれ違った、剣のように鋭く人を寄せ付けない美しい男が——忙しい時間を割いて、自分に会いにくる。
 他の誰でもなく、自分に。
 そんな奇妙な嬉しさが、心の底に込み上げる。

 彼と過ごす時間は、先のことは考えないと決めた。
 この喜びが、やがて手からこぼれてしまうものだとしても——今目の前に確かにある幸せを、悲しみで打ち消すことは、絶対にしたくない。

 既に何度も呟いたその言葉を、心で繰り返す。
 そして、彼の戦う美しいビルを、俺はもう一度眩しく振り返った。


 彼が部屋に来て手早く仕上げたのは、男子の胃袋をがっちり鷲掴みにするメニューだった。
 豚の生姜焼きと、油揚げと小松菜の味噌汁。ゴボウとマイタケのきんぴら、具だくさんのポテトサラダ。付け合わせの千切りキャベツは刻み具合もシャキッと鮮やかだ。

 ヤバい。
 どストライクな献立だ。
 今日はやたらにあちこちでこの人にハートを掴まれる気がする。

「柊くん、今日は初体験お疲れ様。かんぱーい!」
「……」
「ん、どうしたの?」
「いや……今日は何だかいつもよりいろいろと意気込みが感じられるもので……」
 神岡はクスッと悪戯っぽく微笑む。
「それはもちろん、今日は記念すべき君の初会社訪問だったんだし……
 それに柊くん、今日何の日だかすっかり抜けちゃってるみたいだね?」
「……ん?」
「2月14日」

 おお……
 今日って、バレンタインか!
 思いついたと同時に、はたと焦った。
「あ……チョコレート! 俺、特に何にも用意とかできてないです……!」
「いいんだ。そういう期待をしてたわけじゃない。それに、最近気になってた話題のショコラトリーの品を食べてみたくてね。今日はそれも買ってきたんだ」
「……済みません、何から何まで」
「食事が済んだら、箱を開けよう。チョコレートによく合うブランデーも一緒に」
「ブランデー……初めてだ。それもめちゃくちゃ楽しみです」
「甘い飲み口のものを選んだから、気に入ってもらえるといいけどな」

 どうしようか。
 一瞬迷ったが——思い切って伝えた。
「あの……
 今日はまだ無理なんですが……俺からも、あなたに渡したいものがあります」
「ほんと?……それは嬉しいな。何だろう?」
「んー……喜んでもらえるかどうか、わからないけど……ちょっとだけ、日にちをもらえますか?」
「もちろん。楽しみにしてるよ」

 彼は、俺の言葉に素直に微笑む。

 俺も——笑顔でそれを渡さなきゃいけない。
 そう心に刻んだ。


「菱木さん、君をかわいいって随分褒めてたぞ」
 美味な料理を味わう俺を楽しげに眺めながらビールを傾け、神岡が言う。
「え……そうですか?」
「気持ちが素直に顔に出るから、愛おしくて思わず抱きしめたかったそうだ」
「ぐっ……」
 啜りかけた味噌汁が噎せそうになった。
 何とか感情を隠し通したつもりだったのに……!
「そんなにいろんな気持ちカオに出したの? オフィス風景、そんなに良かった?」
「えっ? あっ、それはもちろん……」
 一気に赤面しそうになるのを必死にごまかす。
 あなたの微笑に射抜かれて思わずパニクりました……なんて、口が裂けても言えるか!
 そして菱木さん、やっぱりコワかった。

「僕も、会社訪問や就職活動、してみたかったな……
 採用面接にも立ち会ってるし、就活が甘くない戦いなことはよくわかってる。
 けど、自分の力をどんな場所で活かすのか。自分の時間を、どこでどうやって過ごすのか。そんなことを、自分自身で選んでみたかった……そんな気もするんだ。
 昔はさ、よく思ったんだよ。空を飛びたい!パイロットになりたい!ってね」

 少しだけ寂しげな目でそんなことを言い、神岡は淡く微笑む。

 描いた夢は、やはり夢でしかない。トライする余地もなく、それはただの叶わない憧れで——。

 ——職業だけでなく、愛する人さえも諦めて。

 そんな苦しみの中を歩いてきた彼の思いが、胸にギリギリと痛む。

「——でも、俺。
 今日、あなたの会社を見て、はっきり思いました。
 この仕事をするための勉強をしてきて、やっぱり良かった、って。

 人生の大切な時間を過ごす家を創る。……こんなにも人の人生に寄り添い、その人の幸せを叶えられる仕事は、他にない気がしました。
 そんな会社の先頭に立っているあなたは……俺にはやっぱり、眩しくて……遥か雲の上の人なんです。
 あなたの仕事で、どれだけ多くの人が日々の幸せを味わってるんだろう……そう思います」

 気づけば、自分の思いを必死に伝えていた。
 何だか変に熱くなった自分が、急に恥ずかしくなる。

 だが——彼はそんな俺を、いつになく真剣な眼差しで見つめた。

「——君に、真正面からそんなふうに言ってもらえると……僕も、この道をしっかり歩きたいと思えてくる。
 君の言葉のおかげで——
 僕も、目の前にある自分の道を、全力で歩きたい。
 やっと、そう思える気がする」

 ——え……

 神岡さん……もしかして、ちょっと眼赤い?

「……あの……」
「いや、君にはやられた。
 ——後で仕返しをしなきゃな」

 僅かに潤んだように見えた瞳をさらりとごまかし、彼は美しい微笑でそんなことを囁いた。

 ……あ。
 えっと。
 だいたい、その意味の察しはつくけれど。
 仕返しって……微妙にコワい……。

 彼の甘やかな視線をドギマギと受け止め、俺は複雑な微笑を返すしかなかった。









 夕食の片付けを終えると、神岡はリビングの大きな窓から街を見下ろしていた。
 リビングの照明を弱め、差し込んでくる明るい月の光を浴びている。
 ここからの景色が気に入っているのかもしれない。ワイシャツのシャープな背と長い脚のシルエットは、いつ見ても美しい。

 ローテーブルには、美しいブランデーのボトルとタンブラー二つ。アイスペールには氷が満たされている。そして、シックなリボンのかかった黒い小箱が一つ。
 月光に照らされ、氷が淡い輝きを放つ。

「ん、来たね。じゃ、開けようか」
 俺に気づくと、彼はソファに座り、小箱のリボンを解いた。
 美しい箱の中には、スタイリッシュにきらめく10粒のチョコレートが収められていた。

「……普段俺の食べてるのと違いすぎますね……綺麗すぎて、緊張します」
 そんな俺に、彼は楽しそうに笑う。
「これから美味しいショコラを味わうのに緊張しちゃ困る。それと、これもね。甘口のVSOPだ」
 琥珀色の液体の入ったボトルの栓を開け、氷を入れたタンブラーに注ぐ。マドラーで軽くステアし、一つを俺に渡してくれる。

「ちょっとだけ、味を見てみて」
「……いただきます」
 恐る恐る口に含むと、ひんやりした滑らかさとフルーティな甘みがいっぱいに広がる。
「うあ…………これ、美味いです。すごく」
「よかった。——じゃ、好きなショコラをどうぞ」
 俺の表情に、彼は満足そうに微笑み、自分のグラスをカラリと傾けた。

「んんん……じゃ、これ」
 俺は迷いに迷い、キューブの表面に黄色いドットのデザインされた可愛らしい一粒を口に入れた。
「ん……ナッツの風味と……これは、ジンジャー……?
 んん……うま……」
 自分の味覚を確認しつつ真剣に味わう俺を、彼は面白そうに眺める。
「今のフレーバー、美味しかった?」
「はい、すごく複雑で……初体験の味でした……」
 そんな俺に、彼はぼそりと呟いた。
「……それ、僕も食べたかったのにな」

「……えっマジですか!? だって、さっき好きなの選んでいいって……」
 慌てる俺に、彼は真剣な面持ちで呟く。
「このコフレ、同じ種類のフレーバーが一つもないんだ……困ったことに。
 だから……」
 彼は、一粒をつまむと、歯でかりっと二つに割り、半分を口に含んだ。
 そして、俺の隣にすいと座ると——俺の後頭部を引き寄せるように、唇を優しく重ね合わせた。

「口、開けて——」

「……ん…………」

 彼の舌の上のとろける甘みが、俺に分け与えられる。
 ……オレンジの爽やかな香りと、キャラメルの滑らかさ。

 躊躇しても、逃げ出せない。
 親鳥から初めて餌をもらうヒナのようにぎこちなく、俺は懸命に彼のフレーバーを味わう。

 一つのものを、互いの舌で絡め、溶かしながら味わう高揚感。
 チョコレートと一緒に、心も身体も甘く溶かす何かが流れ込んでくる。
 それほど酔っていないはずなのに——俺の脳はまるで酩酊したように、理性が急速に遠のく。

 その味わいが消え去る頃に、彼は静かに唇を離した。

「——どう?」
「……」

 ちゃんとした回答が見つからず、彼の瞳を見つめた。
 息が乱れ、鼓動が波打つ。
 そんな感覚の治まらないうちに、彼はテーブルのグラスを軽く呷ると、再び俺に口づける。

「……ん……っ……!…」
 甘く香る液体が、否応なく口に流れ込む。
 喉へ送る以外方法がなく、必死に飲み下した。

 これ……さっきの「仕返し」か?
 ——そんなはずない。

 何だか、いつもの彼と違う。

「……神岡さん、待っ……」
 思わず、その肩を押し留めた。

「今夜は——もっと、こうしていたい」

 どこか思い詰めたような瞳で俺を見下ろし、彼は呟く。

「急いで君を抱いてしまったら……今日が、また終わってしまう」

「…………」

「君と、ずっと眠らずにいたい……朝まで一睡もせず、君とこうしていたい」

 流入した強い酒と、彼の言葉が——脳と身体に染み込む。

 子供のように思いを吐き出す彼の首に、腕を回した。
 その耳元で、囁く。

「——俺もです。
 今日は……俺、あなたの言う通りにしますから」

 再び合わせた彼の瞳が、安心したように微かに微笑む。

 そのまま、唇が重なり——
 現実も、悲しみも、理性も……遠く置き去りにして。

 俺たちは、境界のない熱の奥深くへと入っていくだけだった。
「——君を、縛りたい」
 ベッドで思い詰めたように俺を見下ろし、神岡が囁いた。

「…………」

「君の自由を、奪いたい」

「……あなたが、そうしたいなら。
 ——あなたの言う通りにする約束ですから」

 彼が自分のネクタイを解く。
 頭上に手首を組まれ、そこへ滑らかな感触が巻き付いた。

 自由を奪われる不安感と、彼に施されるすべてのことを一切拒めない興奮が、ぞくぞくと未経験の感覚を呼び覚ます。

 けれど——
 この人になら、預けられる。
 自分自身の自由も……どんなことも。

 知らず知らずのうちに、彼の瞳をじっと見上げた。

 ——興奮とも、高揚とも違う色が、その瞳の奥に揺らいでいる気がする。

 きっと、同じだ。
 俺も——彼も。

 彼が、俺の自由を奪いたいように。
 俺も……この人に、こうして自由を奪われたい。
 身体だけでなく……心も。
 決して解けないように縛られ、その腕の中に引き寄せられていたい。——ずっと。

 そんな、ありえない妄想を描く。

 瞳を掌で優しく覆われ、彼が耳元で囁く。

「——君は、僕のものだ」

「——あなたのものにしてください。
 ……もっと、強く」

 自由も、視界も奪われ——俺は初めて、彼に本心を囁いた。

 それが俺の本心だったと……彼は気づいただろうか。

 唇が重なる。
 柔らかに——やがて深く。


 抗うことのできない首筋を、鎖骨を——彼の指と唇が、ゆっくりとなぞる。
 胸の突起に指の愛撫が訪れ——それに続く柔らかな甘噛みの刺激に、思わず全身が震える。
 そんな快感が、身体の中を灼けるように満たしていくのに——高揚に連れて次第に苦しくなる芯には、いつまでも触れてもらえない。
 ——やがて全身が、ジリジリとたまらなく疼き始めた。

 自分で触れてしまいたくても、腕は頭上に固定されたまま、解こうにも解けない。
 なすすべもなくうずうずと身を捩りつつ、切ない声が勝手に漏れる。

「……ん……っ…………」

「ん……どうした、柊くん?」

 低く滑らかな声で、彼が俺の耳の奥をくすぐるように囁く。
 もはやその声にすら、俺の芯は堪え難く硬直する。
 羞恥心にカッと熱くなる顔をどうにもできないまま、やむなく呟く。

「…………早く……」
「早く……何?」

 そう耳元で微笑まれ、やっと気づいた。
 俺が苦しいのを知ってて……
「焦らしプレイ」ってやつだ、これ。
 口惜しい気持ちとは裏腹に、身体は一層熱を持ち、切ない息が唇から漏れる。

「ん?……どうして欲しいの、柊くん?」

「……ほんとにドSですね」
「君も強情だな」
 そう囁きながら、意地悪く首筋を甘噛みされ、胸の突起をやわやわと刺激される。

「…………っ……」

 もがいても、逃れられない。
 その甘い刺激からも、はちきれそうな疼きからも。
 顎が反り、熱い自分の吐息が暴れる。

「……あ——もう……」
「何?……もっと、ちゃんと言わなくちゃ」

 限界だ。
 乱れる息の間から、懇願した。

「……俺の…………
 触って……ください。……お願いします……」

「やっと言えたね——いい子だ」

 彼の意のままに従わされる屈辱感。
 そのご褒美のように、彼の温かな唇が、緊張した芯に訪れた。

 待ちきれずにいた快感が、一気に押し寄せる。

「う……あ——っ……」
 強い快感に、意識が激しく翻弄される。

 拘束され、なすがままになり——与えられる刺激に、抗うこともできずに悶える。
 屈しながら味わう、毒入りの蜜のような甘さ。

 ……この人に、また新たな自分が開発されてしまった……ような気がする。

 ——あんな、迷子の子犬のような切ない目をしておいて。
 やっぱりこの人は、健全にエロくてややS気味な……そしてたまらなく愛おしい、麗しき変人なのである。



「君が、僕に渡したいものって……何?」

 互いに尽き果て、うとうとと眠りかける俺の髪に触れ、彼が独り言のように囁く。

「……ん……何ですか?」

「もしも——それが、悲しくなるようなものだったら……
 僕は、受け取りたくない」

「……え……?」

「……なんでもないよ。
 おやすみ」

「————」

 ちゃんと、聞こえていた。

 けれど……その呟きへの答えなど、見つかるはずもなく——

 掻きむしられるように痛む思いを胸に押し込めながら……
 俺は、彼の言葉を最後まで聞いていなかったかのように、じっと眠り込んだふりをした。

 3月の上旬。
 空には、微かに春の柔らかな気配が漂い出している。
 それでも風はまだ冷たく、本格的な春はもう少し先だと実感する。

 3月から4月の年度の切り替え時期は、おそらくどんな職場も、一年で一番の繁忙期だ。
 神岡工務店も、その例外ではなく……神岡自身も、仕事以外の時間的余裕はほぼ持てないようだ。

『毎年年度末は仕事が恐ろしく立て込んでね。なかなか君のところへも行けなくてごめん』
 少し前に、そんなメッセージが届いた。
『大丈夫です。俺も、少しやることがあるので』
 そう返事をした。

 やることがある……それは、本当のことだ。
 大学院時代の自分の研究内容を、もう一度まとめ直してみよう。——神岡工務店の見学をして以降、俺はずっとそのことを考えていた。

 俺が取り組んでいたテーマは、建築物の形状によりいかに建築コストを抑えられるか、というものだった。
 潤沢な予算がある場合はさておき、決まった予算内で必要な条件を整えた建築物を作るには、スリム化できる部分はできる限り削らなければならない。
 スリム化の方法のひとつとして、外観や屋根の形などを工夫すれば、内装の条件を変えることなく、ある程度のコストダウンをすることが可能だ。
 その場合に、具体的にどのような形状の工夫で、どれだけのコスト削減ができるかを研究したものである。

 会社見学の日、社内を案内してくれた菱木さんの説明が、俺の脳を刺激した。
『——目下当社が力を入れているのは、二世帯住宅です。
 高齢化が進み、一人暮らしを余儀なくされている高齢者は増える一方です。子供が親を引き取りたい、そう考えても、二世帯となればコストもかかります。その辺の問題を少しでも解消できる商品が開発できれば、喜んでくださるお客様がきっといる、という判断です——』

 俺の研究データが、何か役に立つかもしれない——。

 俺が大学院で研究結果をまとめた時点では、俺の試したアイデアはまだどこも採用していない新しい視点のものだと、研究室の教授は大いに興味を示していた。

 結局何にも利用できないままPCの中で眠っていた研究データが、神岡の役に立つのなら——。
 そう思った。

 そして、仮にそれが実用化に結びつかないとしても……
 それでも——俺は、自分自身のために、そうしたかった。

 自分がいたことを、何かの形で神岡の手に残したかった。
 跡形もなく消えるのは、嫌だった。
 時には……ほんの一瞬でもいいから、思い出して欲しい。
 俺がここにいたことを。

 ——そう思った。

 データを整理し、神岡に渡すこと。
 それは、俺がここを去る前に、どうしてもしておきたい準備だった。

 ふと、時計を見た。
 午後3時少し前。
 3時に、美容室『カルテット』へ予約を入れていた。
 そろそろ、家を出なければ。









「何だか久しぶりだね、三崎くん」
 鏡の前に座った俺に、宮田は相変わらず美しい営業スマイルで話しかけた。

「……」

「まあ、喋ってもらえなくても仕方ないね。
 嫌がらせも散々したし、あんなふうに君の部屋に押しかけて酷いことしたし」

「……」

「——今まで、悪かった」

 突然真剣な声で謝られ、俺は思わず鏡越しに宮田の顔を見つめた。

「今更謝っても、何もならないのかもしれないけれど……できるならば、どうか許してほしい。

 ……僕は、近づけるはずのない雲の上の人に真剣に惚れて、想いが叶わないイラつきを全部君にぶつけた。
 恋心が叶わないなんてこと、今までなかったし……これほど真剣に人を想ったこともなかった。
 おもしろおかしい軽い遊びみたいな恋しか知らなかったから。
 ——あんなに、身体がジリジリと灼けるほど苦しいなんてね」

 そう言うと、宮田は鏡越しの俺にふっと笑った。

「叶わない恋なんて、するもんじゃないな。
 ……君のおかげで、目が覚めた」

 俺は、なんだか変に居心地が悪くてむすっと返した。
「……別に、あんたの目を覚ますようなことは何もしてない」

 俺の言葉に、宮田は呆れたというような顔で俺を見る。
「何もしてないどころか。——三崎くん、もしかして自覚ないの?
 僕たちが、君の部屋へ押しかけたあの時——君は、美月さんに言ったよな。『彼を幸せにすると約束しろ』……って。
 全く、どれだけ本気の愛の告白だよ? もう当てられちゃってさ。
 あんなふうに捨て身で誰かを想うなんて、普通するか? しかも、絶対に自分のものにならない相手のことをさ。
 しつこい僕も、さすがにイチ抜けた!って言いたくなった」

「————」

 ……本気の愛の告白……?
 あの時は、俺なりにただ必死でやったことなのだが……
 あれって……そんなにすごい愛の告白……だったのか?

 何だかとんでもなく恥ずかしくなり、じわっと顔が熱くなる。

「だからさ……君に約束させたあの期限も、もうなかったことにしようかと思って」

「……は?」
「人の恋路を邪魔する奴は……っていう、アレさ。君と神岡さんの間を裂いても、もう特に面白くもないし。
 だから……君があの部屋にいる期限を今月末までって決めた件も、御破算ってことで……どう?」

「……それは嬉しいな」
「だろ? まあお幸せに」

「だが……悪いが、その申し出は辞退する。
 ——あの約束は守る」

 宮田は、驚いた顔で俺を見た。
「辞退って……なぜ」

「神岡に、今後もずっと愛人を抱えさせたりはしたくない」

「——」
「そんな関係を続けても、多分幸せになれないだろ。
 ……彼も、俺も」

「……なら……
 来月から、君は……どうするんだ」
「秘密だ」

 宮田は、しばらく何か考えるような顔をして……ふと諦めたように微笑んだ。
「強情な君のことだ。その決心は、変わらないんだろう?」
「まあな」

「——君って、変なヤツだな」
「昔からよく言われる」
「やっぱりね。
 ……でも、嫌いじゃない」
「惚れたとか、絶対言うなよ」
「あはは。僕にはもうかわいい恋人がいるから安心してよ」
「……そうなのか」
「少し前から、告白されててさ。……顔立ちなんか、ちょっと君に似てるかもな」
「は? やめてくれ、気持ち悪い」
「そう言うなって」

 彼は面白そうに笑って、続けた。
「……まあ、君がこの先どうするのかは、もう聞かないけどさ。
 君は、自分自身が幸せになることも、ちょっとは考えたらいいと思うけどね」

「——あんたらしくない台詞だな」
「ん、そういえばそうだ……でも、最後くらいはね。
 じゃ……とりあえず、元気で」

 宮田も俺も、何か重たい物を片付けたように——その後は、何も言葉を交わさなかった。









「少し時間かかっちゃったけど——ちゃんと焼けたわ、クッキー」

 美月は、二階堂商事近くのカフェで、野田と会っていた。
 窮屈そうに膨らんだラッピングバッグを、恥ずかしそうに野田に差し出す。

「こんなにたくさん——本当に焼いてくださったんですね。
 ありがとうございます。ウチの奴ら、みんな喜びます」
「最初は失敗ばっかりだったけど、慣れてくると楽しいの。一回焼くと、いっぱいできちゃうのよ。……でも、喜んでもらえて嬉しいわ」
 美月は、そう言って少し照れくさそうな顔をする。

 ——随分柔らかい表情になった。
 野田は、久々に会う美月の纏う空気に、そんなことを感じていた。

「こうしてカフェで飲むコーヒーも、何だか久しぶり」
 そう呟きながら微笑み、美月はカップから立ち上る湯気をふうと吹いた。

 これまでに見たことのない、純真な少女のような美月が、目の前にいる。

 ——今の彼女なら。
 愛する人を幸せにすることも、できるかもしれない——。
 多少たどたどしく、不器用かもしれないが。

「野田さん——
 あの時……三崎さんの言ったこと、覚えてる?」

「……」
 美月の唐突な問いかけに、コーヒーカップを取ろうとする野田の手がふと止まる。

「彼……
 3月末で、あの部屋を出るって……
 確か、そう言ってたわよね」

「——そうでしたね。私も覚えています」

 あの一件以来、美月は一度も樹に会っていない。
 外出すること自体、めっきり減った。送迎の回数からして、それは明らかだ。
 三崎と樹の関係の深さが、彼女を大きく傷つけ、混乱させたことは間違いない。

 けれど——
 それだけではない気がする。

 樹と会わずにいた間……美月はもっとたくさんの何かを、彼女なりに考えていたのではないだろうか。

「——三崎さんがあの部屋を出ることは……
 あなたにとっても、喜ばしいことですよね?」

 野田は、美月の様子を内心注意深く窺いながら、そう問いかけた。

「ええ……そうね」
 美月は変わらぬ美しい微笑をこぼす。
 だが、その心の内は固く覆われ、野田には何も読み取ることができない。

 やがて——言葉を繋ぐこともなく、美月は静かに窓の外へ目を移した。
 春の気配が近づく淡く明るい空が、その瞳に映る。

 野田は、黙ってその横顔を見つめた。


 ……この先に。

 彼らのこの先には、何が待っているのだろう。

 彼らには、どんな春が訪れるのだろう——

 そんな漠然とした思いが胸に浮かぶのを感じながら……野田もただ、窓の外の空を見上げるだけだった。

 3月の下旬、水曜の夜。
 ダイニングテーブルに夕食の準備が全て終わる頃、彼は部屋を訪れた。

「やっと、少し時間が作れたよ。それでも、菱木さんにだいぶ無理を言ってしまったけどね」
「——済みません。一番お忙しい時に」
「いや、君の希望とあればね。それに、僕もずっとここに来たかったし——
 何と言っても、こうして君の極上の肉じゃがが食べ放題だしね」

 神岡は、少し疲れたような様子を見せながらも、変わらぬ美しい笑顔を俺に向ける。

 俺は、じっと彼に注いでいた視線を、思わず逸らした。


 多分——
 神岡と会うのは、今夜が最後だ。

 その思いを、視線や言動に一切出さないように——何とか隠さなければ。

 渦を巻いて溢れそうになる想いを押し殺し、離れていく相手に微笑む。
 それが、こんなにも強い痛みに満ちたものだとは、思わなかった。

「今日は——どうしても、あなたにこれをお渡ししたくて」

 俺は、何の変哲もないブルーのUSBメモリを一つ、テーブルに置いた。

「……これは……?」
「少し前、あなたに渡したいとお話ししておいたものです。
 俺が大学院で取り組んだ研究データを、まとめてみました」
「ほう……A大大学院の優秀な学生だった君がまとめた研究データか……それはすごいな」
「いえ、あんまり期待されると困るんですが……
 でも——神岡工務店の見学の時に菱木さんから受けた説明が、ずっと俺の中に残ってたので。
 もしも何かのお役に立てばと思って……お時間のある時にでも、見てみてください」

「でも、こんなに大切なもの、僕が受け取ってもいいの?
 これからの君にこそ大事なものじゃないか……今後、就職活動などで自分の実績を示すためにも……」
「俺の研究していた内容は、今ちょうどあなたの会社で求められている部分かもしれない、と思ったんです。
 いつ使うかもわからない自分自身のために保管しておくよりも、今役に立つ場所で生かしてもらえるなら——そう思うんです」

「そうか……ならば、君の気持ち、有り難く受け取るよ。
 かなり専門性が高そうだから、うちの技術者達にも見てもらわないとな」
 そう言って、神岡は柔らかく微笑んだ。

「もし、この内容が実用的でなかったら、そのUSBは神岡さんのデスクの引き出しにでもしまっておいてください。
 それから……そのUSB、名前があるんです」
「名前?」

「——『シュウ』です」

「…………」

 その瞬間——神岡は、じっと俺を見つめた。

「忘れちゃダメですよ」
 俺は、そんな彼の視線を慌ててはぐらかしながら、茶化すように笑った。

「——そうだ。
 この機会に、僕も君に確認しておこうかな」
 目の前のグラスを軽く呷ると、神岡は、それまでの表情をどこか引き締めながら俺に問いかけた。

「来月から……
 4月からも、僕との契約を継続できそう?」

「————大丈夫です、多分」

「……無理はしないで。
 本当に、大丈夫?」

「はい」

「——なら良かった」

 彼は、ほっとしたように呟く。

 ——今は、何も言わない。
 そして、決して感づかれないように——

 震えそうになる心をぐっと立て直し、そう心で繰り返し呟く。

 後を引くことなく、彼の前から綺麗にいなくなる。
 そのためには……こうする以外にない。

「今日俺の選んだワイン、あなたの好きな銘柄でしょう? ちゃんと覚えたんです。——せっかく時間ができたんですから、ゆっくり飲んでください」
俺は明るくそう言い、彼のグラスに深い紅色の液体を注ぎ足す。
「僕の好きな品を用意してくれたの? それは嬉しいな。
 ……そういえば、こうして好きなワインを飲むのも、随分久しぶりな気がする。疲れが溜まってるせいか、酔いが早く回りそうだ」
 そう言って頬杖をつくと、彼はほんのりと染まった目元で俺に微笑む。

 ——今日のおかしな俺を感じ取れないくらいに、彼が酔ってくれたら。
 あまり真剣な目で自分を見られたくなくて、俺はなんだかやたらに彼に酒を勧めた。


「——君は……
 この先、何をしたいか、時々考える?」

 神岡が、頬杖をついたまま、ふわふわと俺に話しかける。

 意図的なのか、それとも、酔いに任せた何気ない質問なのか——
 うまく読み取れないまま、俺は答えを探した。

「——まだ、決められていません……何も。
 俺——自分のことよりも、今、気になることがあって……」

「……ん?」

 あなたのことだ。
 あなたが歩む、この先のこと。

 今、この話をしなければ——もう、話す機会がない。

「俺——あなたに、幸せになって欲しいんです。……絶対に」

「……え?」

「諦めないでください。
 ——望む幸せは手に入らないなんて、最初から決めないでください。
 自分のためにできることは、どうか、全力で試してください。

 あなたは、やがて大企業を背負う人だから——立場上、同性との恋愛は、許されない。
 以前、あなたはそう言いましたね。自由に人を愛することはできないんだ、と。
 でもそれは、幸せを諦める理由には、きっとならなくて。
 あなたのことを心から愛したいと願う女性——そして、あなたもその人を愛したいと思わずにはいられない、そんな女性が——きっといるはずです。

 どうせ無理だと最初から諦めるのは、簡単です。
 だけど、諦めることがあなたにとっての幸せなのか……それを、ちゃんと考えてください。
 諦めるんじゃなくて。
 幸せになるんだ、と……しっかり、そう思ってください。
 そうじゃなければ、俺は——」

 ここを去ることができない。

 ——そう言いそうになった。


 いや……それは、きっと違う。

 俺がここにいては、何もスタートしない。
 俺がいなくなってから、彼の新しい何かがスタートするんだ。

 心のどこかで、そんな気がした。

「俺……絶対、あなたを応援してます。いつでも。
 ——俺は、これからもずっと、あなたが好きです。

 だから……あなたも。
 あなた自身のために、全力で幸せになってください。……それが、俺にとって一番嬉しいことです」

 彼には、俺が急にそんなことを言う理由が、わからなかったのかもしれない。
 少し驚いた顔をして——そして、少し寂しそうに微笑んだ。

「今言ったこと、俺と、約束してくれますか?」

「——約束するよ」
 彼は、少し困ったような微笑で、そう答えた。

「じゃあ——その代わり。
 僕の願い事、一つ聞いてくれる?」
「何ですか?」

「今夜だけ——僕の恋人になって欲しい」

「————」


「……だめ?」

「…………今夜だけなら」



                    





 初めてお互いの思いが通い合った、あの夜のように——
 どちらともなく、おずおずと唇が重なる。

 薄い隔たりが剥がれ落ちたような——これまでよりも、もっと深く重なり合うような感覚。

 俺たちは、恋人同士だ。
 ——一夜限りの。

「————柊」

 耳元に、彼の囁きが落ちる。
 聞き違いなどではなく……俺の名を呼ぶ、彼の掠れそうな声。

「…………僕を呼んで」

「……」

「僕は、樹だ。
 そう呼んで欲しい。
 君の本当の気持ちを、聞かせて欲しい」

「——樹さん。
 あなたが好きです。……間違いなく、誰よりも。
 こんなにたくさんのものを、誰かからもらったのは——俺、初めてでした。
 あなたが幸せなら、俺は幸せです」

 見つめていた視線を解き——彼は、ぎこちなく俺の首筋に頰を埋める。

「——ここにいて。
 これからもずっと、僕のそばにいて」


 ——酷い。

 こんな時に、そんなことを言うなんて。

 どうすることもできないと、わかっているのに——
 俺が何も答えられないと、知っているのに。

 あなたはいつか——
 俺じゃない誰かに、それを言わなければならないのに。

 どうして今、俺に、そんなことを言うんだ。


 泣いてはいけない。
 涙を見せてはいけない。

 溢れ出しそうな思いを堪える顔に、気付かれたくなくて——
 彼の首に強く腕を回し、その肩に顔を埋めた。

 そうして——
 お互い、視線を合わせることも、言葉を交わすこともせず……

 ただ強く抱き締め合い、俺たちはその肩越しに瞳を閉じた。





 差し込んでくる朝の日差しで、目が覚めた。

 横には、彼はいない。

 ただ、芳ばしいコーヒーの香りだけが流れてくる。


 ダイニングテーブルには、いつもの通り、彼の極上のスクランブルエッグと、グリーンサラダ。
 コーヒーメーカーには、香り高く淹れられたコーヒーが静かな湯気を立てている。

『仕事があるから、先に帰るよ。
 4月、少し落ち着いたら、また一緒に出かけよう』

 テーブルに残されたメモの上に、昨日我慢を重ねたものが堰を切って零れ落ちた。

 4月も、半ばが過ぎた。
 樹の仕事にも、やっと僅かずつ時間の余裕ができるようになってきた。

 この前会って以来、柊とは電話も、メッセージをやり取りする心の余裕も持てずに仕事に明け暮れた。

 彼には、契約の継続の確認をしてある。
 自分が忙しいことも、充分理解してくれている。
 そのことが、樹を安心させていた。

 ——今週の金曜は、定時に仕事を上がっても、業務に支障はなさそうだ。

 ——彼に、会いたい。
 ごく自然に、そう思った。

 先月末、前年度の最終日である3月31日に、一度だけ柊へメッセージを送った。
『来年度もよろしく』と——シンプルなメッセージだ。

 彼からは、既読がついたまま、返信はなかった。

 返事が必要なメッセージでもない。年度末の時期を彼も慌ただしく過ごしているのだろう。
 何気なくそう考え、特に気にも留めないまま、目まぐるしい業務に追われ半月が過ぎた。
 会わずにいたこの時間を、すぐにでも取り戻したい気持ちが逸る。

 仕事の合間に、柊へメッセージを送信する。
 金曜の都合を、早く確認したかった。

 だが、何時間経っても、そのメッセージには既読がつかない。
 午前中に送ったはずのそれは、夜になっても読まれなかった。


 ——どうしたんだろう。
 3月末に彼から返信の来なかったことが、にわかに気になり始めた。

 ざわつく気持ちを抑えながら、番号を呼び出し、通話ボタンを押す。
 返って来たのは、予想もしない声だった。

『お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません——』

 彼の使用していたスマホは、解約の手続きがされているようだ。

 ——何かあったのだろうか。
 重苦しい不安をジリジリと抱えながら、樹はその日の残りの業務を必死にこなした。


 夜の9時過ぎ。
 業務を終えると同時に、会社を飛び出す。
 彼の部屋へまっすぐに向かった。

 マンションのエントランスで、柊の部屋を呼び出すボタンを押すが、何度繰り返しても応答はない。
 持っている合鍵で入るしかない。

 エレベーターが10階まで上がる時間さえもどかしい。
 堪えきれない不安で、玄関のノブを力任せに引いた。

 駆け込んだ部屋は——闇の中に、しんと静まり返っていた。

 その冷えた空気から、人の気配ももう随分前に消えていたことが感じられる。


 呆然と、照明をつけた。
 綺麗に片付いた部屋は、以前のままだが——彼の私物は、全てなくなっていた。

 リビングのローテーブルの上に、書類が載っている。

 樹と柊の交わした雇用契約書と、彼の残したメモだ。

『一身上の都合により、本日を以ちまして本契約の終了を希望いたします。
 突然事情が変わり、大変申し訳ありません。
 何卒よろしくお願い申し上げます。
 3.31 三崎 柊』


 契約の際、彼には言ってあった。
「契約を終わらせたい場合は、一言申し出てくれればすぐに解除する」——と。


 突然、失ってしまった。
 自分の全てだったものを。

 行き先も、連絡先も——何の手がかりもないまま。

 ——なぜ。

 何か、辿れるものは——
 彼が、ここを去った理由……そしてその行き先の、手がかりになるものは。
 激しく混乱する思考を何とか搔き集める。

 ——GSだ。
 初めて柊を見つけた、あのGS。
 この部屋で過ごすようになってからも、彼はあの店でのアルバイトを続けていた。

 彼の雇い主——沢木店長ならば、何かを知っているはずだ。

 樹は、夜の街へ走り出た。

 今すぐ、沢木店長と話をしたい。
 店舗の電話番号を検索し、問い合わせる。

『○○石油△店でございます』
 電話に出たのは、聞き覚えのある穏やかな男性の声だった。

「——沢木店長でいらっしゃいますか。
 夜分に大変申し訳ありません。私、神岡工務店副社長の神岡樹と申します。
 以前は、大変お世話になりました。
 ——実は、急ぎお伺いしたいことがありまして……」

 変わらない温かな声で、沢木の返事が返ってきた。
『ああ、神岡副社長、これはお久しぶりです。
 お聞きになりたいこと……何でしょう?』

 唐突に問い合わせて聞けることではないと思いつつ、躊躇をしている余裕はない。
 前置きも思いつかないまま、切り出した。 
「そちらでアルバイトとして勤務していた、三崎 柊君のことなのですが……」

 少し間を置いて、静かな返事が返ってきた。
『…………大変申し訳ありません。
 三崎君は、3月末でうちの店のアルバイトを辞めました。
 私がお話しできるのは、これだけです。
 ——従業員のプライバシーに関わることですので』

「——そうですか。
 実は、私と交わしていた雇用契約を、急に終了したいと彼から申し出があり……理由や行き先も告げないまま、突然姿を消してしまったもので……
 ……ならば……沢木さん、一つだけ、お願いできないでしょうか。
 もし可能なら——彼の履歴書を、もう一度だけ確認させてください。
 それも叶わなければ——彼についての情報を……どんな細かなことでも構いません。何か、教えていただけないでしょうか」

 少し戸惑うような空気が電話の奥から流れ——そして、沢木の真剣な声が続いた。

『——神岡さん。
 大変失礼ですが……私からも、ひとつお聞きしてよろしいでしょうか?』

「はい、何でも」

『あなたは——彼のことを知って、どうするおつもりですか?』

「…………え……」

『彼の情報を集めて、これから彼を探そうとされているのでしょうか……
 そして、見つけたら……今までの場所へ、連れ戻そうと?』

「————」

『……あなたと彼のことに、深く立ち入るつもりはありません。
 けれど——彼は、私にとっても息子のようにかわいく、大切な存在です。
 できる限り、私は彼を応援したいと思っています。まるでお節介な父親みたいな気分で、彼の幸せを願っている。赤の他人が、おかしな話ですけどね。
 だから……余計なお世話だとは知りつつ、敢えて聞きます。
 ——あなたには、彼を幸せにできる保証が、ありますか?』

 樹の中に、今まで意識の外にあった異質な言葉が鋭く突き刺さった。
 そこには、真っ白な白紙しかなく——何一つ、答えることができない。

「…………それは……」

『もし、私から彼について何かをお聞きになりたいなら——何でもいいです。彼を幸せにできる証拠を、私に見せてください。
 あなたなら、彼を幸せにできる。……そう私を安心させてくれるなら。
 その時は、あなたにお答えできることもあるかもしれません』

「…………」

 沢木の言葉に、樹は愕然とした。


 自分は——彼の幸せを、考えていただろうか?

 彼に甘え、依存し——ただ、それだけだった。

 今更急激に襲ってくる激しい後悔に、指が震える。


「——わかりました。
 大切な話を——ありがとうございました。……沢木さん」

 切れ切れに、沢木に深く感謝を伝え、俯いて通話を終える。

 しばらく、深く顔を伏せ——そして、大きく息を吸い込み、夜の空を仰いだ。


 ——柊くん。
 ごめん。

 君に、ただ縋りつくばかりだった自分自身の姿に——今の今まで、気づかなかったなんて。

 君は優しいから……最後まで、何も言わずに僕を支えて、笑っていてくれたけど——。

 だとすれば。
 この結果は……当然だ。

 今になって、最後の夜に君が僕に残していったいくつもの言葉の意味が、はっきりと理解できる——。

 何一つ切り開く力もない僕が、これ以上君に追い縋っては……

 これまでだって、僕は君を、こんな何も生まない場所に閉じ込めていたのだから。

 こうなってからじゃなきゃ、わからない。
 いつも。
 本当に、僕は——。


 ……君は今、どこにいる?
 ——こんなにも、君を求めているのに……

 何も、できない。
 何も。


 滲みそうになる瞳を、じっと空へ向けたまま——
 樹は、更けていく夜の街に立ち尽くした。


 柊を突然失ってから、樹は機械のように、ただ仕事に打ち込んだ。

 朝も夜も、曜日も……何の感覚もなくなっていた。
 ——感じる必要がなかった。

 その様子の変化に、樹の秘書である菱木さくらはすぐに気づいた。

「副社長……そのような細かな仕事は、私にお任せください。
 あまり全てを抱えられては……お身体に障ります」
「いいんだ。やらせてくれ」

 この数カ月の間に随分和らいだように見えた表情は、気づけば以前より一層硬い冷たさに覆われ……今は、誰の言葉も彼の心に届いてはいないように見えた。

 蕾が少しずつ開くように微かに変わり始めた彼に、さくらもつられて微笑むことが増え……その度に、彼を支える何かが背後にあることを感じた。
 その何かを愛おしむ空気が、確かにそこにあった。

 その気配が、急に消えたのだ。
 柔らかく灯った明かりが掻き消えたように。

 もしかしたら——

 失ってしまったのだろうか。
 彼を包み、温めていた、大切な存在を。

 何かから逃れるように仕事に没頭する背中に、かける言葉もなく——
 さくらの胸は、酷く痛んだ。



 樹の胸に何の感情も湧くことなく、春が深まった。

 5月の半ば。
 樹のスマホに、美月からのメッセージが届いた。

『樹さん、お久しぶりです。
 ご都合の良い時に、お会いしたいと思っています。
 連絡待ってます』

 樹には、自分の身に起こる全てを流れに任せる以外、思い浮かぶことなどなかった。

 副社長という立場も、婚約者がいる状況も……彼をがんじがらめに縛り付けたまま、頑として動かない。

 いっそ誰かに、自分のことを全て決めて欲しい。
 何がいいも、悪いも……
 自分にはもう、何もない。

 都合のつきそうな日時を美月に伝えると、樹はスマホをソファに放った。









 ——来週の土曜、樹さんに会う。

 美月は、その日自分が樹に伝えたいことを、繰り返し心に刻んでいた。

 その日は、大切なスタートの日にしたい。
 私にとっても、彼にとっても。

 しっかりして、私。
 ——私の言葉が、私と彼の人生を左右するのは、間違いないのだから。


 窓から流れ込む風を深く吸い込みながら、美月はラベンダー色に暮れる夕空を見上げた。









 約束の土曜日。

 二人は一緒に夕食を取った後、美月のお気に入りのカクテルバーに来ていた。
 こじんまりとした、静かなバーだ。

 久しぶりに、樹の車で郊外をドライブし、半日を一緒に過ごした。

 会わずにいた間に、その姿を何度も思い返した——その彼が、今日は目の前にいる。
 静かに微笑んでグラスを傾ける樹の変わらぬ美しい横顔を、美月は見つめる。

 ——あなたに、会いたかった。

 一人でいる間に、気づいた。
 痛いほど思った。

 あなたのことが、好きなんだと。
 あなたに、本当の笑顔を向けて欲しい。
 あなたが向けてくれる暖かさに、包まれたい。

 あなたの冷たい微笑を見ながら——私はいつも心のどこかで、そう求めていた。

 この気持ちを、ちゃんと伝えなければ——私は、この先に進めない。

「樹さん、ありがとう。今日はとても楽しかったわ」
「そうですね。僕も楽しかった」

 美月の言葉に、樹は穏やかに答える。


 以前と違って……今日のあなたの瞳は、私のことをちゃんと見ている。

 こんな風に、優しく見つめ合えるのは——きっと、寂しいから。
 あなたも、私も。

 優しくて——
 でも、その奥に暗い海のような色を沈めた、あなたの寂しい瞳。

 私が今、この人のために、できること。

「——樹さん」
「何ですか?」

「——私と、結婚してください」

 美月の突然の告白に、グラスを取ろうとした樹の動きが止まった。

「——私、全力であなたを幸せにする。

 あなたが、感情のない笑顔を私に見せる度に、私も同じ笑顔を返しながら、今まで過ごしてきた。
 私も、ずっとその笑顔で生きてきたから……そんなこと、以前は何でもなかったの。
 けど……それは違った。
 その場しのぎの仮面みたいな笑顔が、どんなに相手を孤独な気持ちにさせるか……
 そのことに、今になってはっきり気づいた。

 あなたと、本気で笑ったり、喧嘩したり、泣いたりしたい。
 いつもあなたを満足させられるかは、わからないけど——
 あなたに、心の底から微笑んでもらいたい。

 ——そのために生きることが、私の幸せだわ。
 今は、はっきりと、そう感じる。

 だから——私と結婚してください、樹さん」


 樹の瞳に、一瞬……複雑な色がよぎった。


 今日は、美月といて、純粋に楽しかった。
 何も言わず、ただ自分の心に静かに寄り添ってくれる今日の美月の暖かさが、身にしみて嬉しかった。


 樹の耳に——あの夜の、柊の言葉が蘇った。

『あなたのことを心から愛したいと願う女性——そして、あなたもその人を愛したいと思わずにはいられない、そんな女性が——きっといるはずです』


 静かに……でも必死に思いを伝えようとした、彼の声。

 こんな時にさえ、自分は彼に支えられている。


 ——彼の言葉を、信じる。
 今の自分には、それしかできない。


 ざわざわと激しく波立つような瞳の色が通り過ぎ——
 樹は、優しく微笑んだ。

「嬉しいです。
 美月さん。——僕こそ、よろしくお願いします」


「……樹さん。
 あなたって——酷い人ね」

 美月は、さっきまでの真摯な表情を消し去り、静かにそう呟いた。


「——え?」

「私は、心の中の気持ちを全部かき集めて、あなたに届けたのに——
 あなたは、こんな大事な時にさえ、本心を見せてくれずに……これからも、そうやって一生私を騙し続けるつもりなの?」

「美月さん、一体……」

「今のあなたの瞳——はっきり、こう言っていたわ。
『僕には、心から愛する人がいる。
 自分の中にはもう、その人しかいない。
 けれど、こうするより仕方ない』——と。

 どうして、本当のことを話してくれないの?
 そんな気持ちで私と結婚して——幸せになれると思う?……あなたも、私も」

「——美月さん——それは……」
「どうして、彼を手放したの?
 そんなにも想い合っている彼を——なぜ?」


 樹は一瞬ぎくりと固まり——そして、ゆっくりと美月を見据えた。

「…………どうして、それを……」

「彼の——三崎さんの部屋へ、行ったのよ。……1月だったわ。
 あなたの様子が、それまでとどこか違うから……あなたのことを調べさせて、彼の存在を突き止めた。
 3月までであの部屋を去るって……その時に、彼からそう聞いたの。
 だから今日、ここへ来たのよ。
 ——彼と離れて、あなたはこれからどうするのか、知りたくて」

 理解が追いつかない表情で、樹は呆然と呟く。
「済みません……今まで、何も話さなくて」
「もういいわ。
 私もつくづく馬鹿なことをしたし……おあいこよ」
 美月は、長い髪をかき上げ、俯き気味にそう呟く。
「——わからないの。あなたの考えてることが。
 どんな事情かは知らないけど……私に隠して可愛がった彼のことまで、こうして手放して……
 あなたの本当に大切なものは、一体何?」

「美月さん——それは、違います……
 放り出されたのは、僕の方だ……。

 自分自身さえしっかり支えられない僕は……彼にも、見限られたんです。

 突然、何も言わずにいなくなった——行き先も、何も。
 これまで使っていた携帯も、気づいた時には解約されていた。

 あなたの言うことが本当なら……
 彼は——3月であの部屋を出ると、以前から決めていた……つまり、そういうことか?」

「樹さん……そのこと、知らなかったの?」
 美月は、その事実に目を見開く。
「あの時……確か。
 あの美容室の……宮田さん……と、そう約束したって」
「宮田くんと……?」
「宮田さんも、三崎さんに随分執着してたみたい……何か、二人の様子、険悪だった」

「……そういえば——
 彼の様子がおかしいことは、何度かあった。
 ひどく動揺してて……何かあったんじゃないかと心配したことが、時々あった。
 けど……彼は、何も話してくれなかった」

「心配をかけたくなかったんじゃないのかしら……忙しいあなたに。
 私が突然押しかけたことも、全部あなたに話してしまっても良かったのに……彼は、それもしなかった。

 こんな風にいなくなったのだって——あなたを見限ったんじゃない。
 あなたの結婚を邪魔しないために決まってるわ。
 自分の想いに区切りをつけたくて……そして、あなたがもう自分を探さないように……全部断ち切った。

 あんな変な子、どこにもいない。
 あなたが彼を深く愛するのは、当たり前だわ」


「…………」

 一層深い痛みに打ち拉がれる樹の様子に、美月は新たなため息を漏らした。

「彼の行き先がわからないなら——探したらいいじゃない。見つかるまで」

 美月は、言葉に強い力を込めて樹に問いかける。
「なぜあなたは、彼を諦めることしか考えないの?
 彼を失わずに済む方法は……本当に、何もないの?」

 考えもしなかった言葉を初めて聞いたように顔を上げ、樹は美月の瞳を見つめた。

「……彼を、失わずに済む方法……?」

「そうよ。
 あなたは、この先を彼と一緒に歩いていきたいんでしょう?……違うの?」


 そうだ。
 自分の望みは、ただそれだけだ——。

「……しかし——
 それに、あなたは……?」

「……これは、あなたへのプレゼント。
 ——私との婚約を、解消して欲しいの」


「…………」

「ほら……探しに行ったら?
 あなたには、彼が必要なのよ。わかるでしょ?——それくらい、自分でちゃんと気づきなさいよ。

 ——惨めになるから、謝ったりしないで。
 早く行って。……私は、自分で帰れるわ。

 それほど彼が必要なら……迷うのをやめて。
 諦めるんじゃなくて、彼を幸せにする方法を考えて。
 そして……必ず、彼を見つけてあげて」


 二人の間に、沈黙が流れた。


 樹は、眉間を強く寄せ、暫くじっと何かを考えたが——
 やがて、その瞳に強い力が籠った。

「美月さん——ありがとう」

 樹は、決意を固めたように立ち上がった。
 そして、心から湧き出すような笑顔を美月に零すと、足早に店を出て行った。


 ほんとに、残酷な人。
 別れ際にだけ、あんな顔を見せるなんて……

「あ〜あ」

 一人になったカウンターで、美月は椅子の背にもたれて天井を仰ぐと、ふっと微笑んだ。

 5月の半ば、早朝。
 俺は、海の気配の中で目覚めた。


 海辺の街。
 俺は、そこでアパートの一室を借りた。

 元々、荷物などあまりない。引っ越しの手間も、そうかからなかった。

 海の側で暮らす。
 実は、憧れていた。

 この部屋から自転車で5分もあれば、海べりの道へ出られる。

 ここは、時間の流れも、空気も穏やかだ。
 何にも追い立てられることのない、静かな自由。

 誰を待つ必要もなく、誰にも待たれていない。
 ただ、自分が呼吸をする……それだけの時間。


 アパートから近いGSで、アルバイトを始めた。
 やはり、俺の履歴書は最初は奇妙がられたが……前のGSでの約1年のアルバイト経験が買われ、明るく温かい店長は即決で俺を採用してくれた。


 神岡と結んだ雇用契約は収入面も相当に高待遇だったから、3月までの約半年の雇用期間中に、貯金はかなり増えていた。

 しかし——
 そのことに関しては、不思議なほど何の感覚も湧かなかった。

 金がある……だから何だ?

 俺の中で、このフレーズが何度も繰り返された。


 自炊は苦にならない。
 けれど——メニューを考えようとすると、彼が子供のように目を輝かせて料理をがっついた姿を思い出し……
 そんな苦しさを蘇らせるならば、コンビニ弁当に逃げてしまった方が楽だった。


 一旦目覚めれば、追いかけてくる眠気もなく……何の感情も起こらないまま、身支度を整える。

 約半年封印していた、安価かつ適当な衣類が、引き出しやクローゼットに並んでいる。

 けれど……何となく、以前の自分には戻りたくない気がした。
 彼に出会うまでは愛用品だったダサい眼鏡も、もうかけたくないような気さえした。

 ——彼が好きでいた自分を、失いたくない。
 消してしまいたくない。
 自分の感情を分析してみれば……つまり、そういうことらしい。

 何の意味もない、そんな思い。
 呆れて、ため息が出る。


 しかし——
 自分自身に無理強いしてまで、ダサい自分に戻ることもない。
 通販などで、今までのクオリティにあまり見劣りしない服を少し増やしたり、コンタクトで過ごしたり……あの部屋で急に浴びるようになった「かわいい」なる評価を保つ程度には、とりあえず身綺麗にしている。

 ……まあ、そんな感じだ。


 買い換えたスマホには、誰からの連絡もない。
 新しい番号やアドレスは、親しい知り合いなどには伝えることもできるが……とりあえず、今俺にアクセスできるのは、両親とバイト先だけだ。

 しばらくは、誰も知らない静けさの中にいたい。——そんな気がしていた。


 あの部屋にいた、半年間。
 あっという間だった。

 現実味のない——ふわふわと、雲の上を歩いたような。

 いや——

 あれは、雲の上だった。
 本当に。

 いつか降りなければならない、雲の上。


 その雲から、ただ日常に戻ってきただけなのに——

 何だろう。
 この、なんにもない感じは。


 必死に掬ったものが、指の間から全部零れたような。
 もがきながら大切なものを積み重ねた夢が、はっと覚めたような。

 いくら泣いても、叫んでも……ただ、自分が疲れ果てるだけ。

 自分で、全部置いてきた。
 そうしなければ、いけなかったから。

 だけど——

 ……こうやって、この先に溢れそうになる言葉を、もう何度飲み込んだだろう。


 溜まり続ける思いを捨てる場所も見つからないまま、だるい腕で窓を開ける。

 少し強い潮風が流れ込んだ。

 けれど、そこに新鮮な喜びはなく——
 俺はただ、機械のように続く呼吸を感じていた。









 美月と会った翌週、木曜の夜。
 樹は、車を走らせて、美容室「カルテット」へ向かっていた。


 美月から聞いた言葉が、その足を逸らせた。

 3月末であの部屋を去る約束を、柊と宮田が交わしていた……という、その言葉。

 どういう事なのか。
 なぜ、彼は宮田と……そんな約束を。

 時々、柊は何か青ざめて、ひどく怯えていた。
 そういえば……
 去年のクリスマスイブの夜に彼の部屋を訪れた時も、そうだった。
 柊は動揺しながら宮田の名を言いかけて、何かを隠すように黙り込んだ。

 美月も、柊と宮田の様子が険悪だったと……そう言っていた。

 宮田と彼の間に、どんな関係が——

 何か、怯えるほどのショックを宮田から受けていた。
 それしか考えられない。


 美月から聞いた、今まで思いもしなかったさまざまな事実は、最初こそ樹を混乱させたが——やがて、それは樹の中でひとつの希望へと変わり始めた。

 柊は、自分を見限ったわけではなかった——。
 その可能性が、樹に新たな力を与えていた。

『——俺は、これからもずっと、あなたが好きです』

 最後の夜に、彼がはっきりと自分に残していった言葉。
 その言葉を、脳内で繰り返す。

 彼の言葉を、もう一度信じてもいいのかもしれない——。


 こんなことで、これほどに一喜一憂している自分自身の狼狽ぶりに、笑えてしまう。

 けれど——この想いは、止められない。
 止めるつもりもない。

 柊の気持ちは、今もきっと変わってはいない。
 今の自分に、これ以上に幸せなことなどない。——はっきりと、そう言い切れる。


 彼に、もう一度、戻ってきてほしい。
 ——自分の隣に。

 そのためならば、全力を尽くす。
 何でもする。

 ハンドルを握る手に、力が籠った。


「カルテット」のドアを入ると、すぐに宮田がいつもの笑顔で店の奥から出てきた。

「神岡様、いつもご予約ありがとうございます。
 では、お席へ——」
 神岡は、さらりと普段通りの微笑を浮かべる。
「悪いね、宮田くん。こんな遅い時間に予約して」
「いえ、この後は多分もうお客様もないですし……お気になさらず」

 席についた樹の後ろに立ち、鏡越しに宮田が柔らかく話しかける。
「本日は、どのようにいたしましょうか?」

「そうだな……今日は、いつもより短めに仕上げてもらおうかな。
 つい数日前も三崎くんに、もう少し短くカットした方が似合うってアドバイスされたばかりでね」

 微笑みながらそう話す樹を、宮田は一瞬驚いた顔で見つめた。

「……三崎……様が?」

「……どうした? 宮田くん」

「…………」
 うっかり見せた表情を樹に捉えられ、宮田ははっと視線を逸らした。

「——彼に、何をした」

 鋭く、滾《たぎ》るような樹の視線が、鏡の宮田を射抜くように見据えた。