彼が部屋に来て手早く仕上げたのは、男子の胃袋をがっちり鷲掴みにするメニューだった。
 豚の生姜焼きと、油揚げと小松菜の味噌汁。ゴボウとマイタケのきんぴら、具だくさんのポテトサラダ。付け合わせの千切りキャベツは刻み具合もシャキッと鮮やかだ。

 ヤバい。
 どストライクな献立だ。
 今日はやたらにあちこちでこの人にハートを掴まれる気がする。

「柊くん、今日は初体験お疲れ様。かんぱーい!」
「……」
「ん、どうしたの?」
「いや……今日は何だかいつもよりいろいろと意気込みが感じられるもので……」
 神岡はクスッと悪戯っぽく微笑む。
「それはもちろん、今日は記念すべき君の初会社訪問だったんだし……
 それに柊くん、今日何の日だかすっかり抜けちゃってるみたいだね?」
「……ん?」
「2月14日」

 おお……
 今日って、バレンタインか!
 思いついたと同時に、はたと焦った。
「あ……チョコレート! 俺、特に何にも用意とかできてないです……!」
「いいんだ。そういう期待をしてたわけじゃない。それに、最近気になってた話題のショコラトリーの品を食べてみたくてね。今日はそれも買ってきたんだ」
「……済みません、何から何まで」
「食事が済んだら、箱を開けよう。チョコレートによく合うブランデーも一緒に」
「ブランデー……初めてだ。それもめちゃくちゃ楽しみです」
「甘い飲み口のものを選んだから、気に入ってもらえるといいけどな」

 どうしようか。
 一瞬迷ったが——思い切って伝えた。
「あの……
 今日はまだ無理なんですが……俺からも、あなたに渡したいものがあります」
「ほんと?……それは嬉しいな。何だろう?」
「んー……喜んでもらえるかどうか、わからないけど……ちょっとだけ、日にちをもらえますか?」
「もちろん。楽しみにしてるよ」

 彼は、俺の言葉に素直に微笑む。

 俺も——笑顔でそれを渡さなきゃいけない。
 そう心に刻んだ。


「菱木さん、君をかわいいって随分褒めてたぞ」
 美味な料理を味わう俺を楽しげに眺めながらビールを傾け、神岡が言う。
「え……そうですか?」
「気持ちが素直に顔に出るから、愛おしくて思わず抱きしめたかったそうだ」
「ぐっ……」
 啜りかけた味噌汁が噎せそうになった。
 何とか感情を隠し通したつもりだったのに……!
「そんなにいろんな気持ちカオに出したの? オフィス風景、そんなに良かった?」
「えっ? あっ、それはもちろん……」
 一気に赤面しそうになるのを必死にごまかす。
 あなたの微笑に射抜かれて思わずパニクりました……なんて、口が裂けても言えるか!
 そして菱木さん、やっぱりコワかった。

「僕も、会社訪問や就職活動、してみたかったな……
 採用面接にも立ち会ってるし、就活が甘くない戦いなことはよくわかってる。
 けど、自分の力をどんな場所で活かすのか。自分の時間を、どこでどうやって過ごすのか。そんなことを、自分自身で選んでみたかった……そんな気もするんだ。
 昔はさ、よく思ったんだよ。空を飛びたい!パイロットになりたい!ってね」

 少しだけ寂しげな目でそんなことを言い、神岡は淡く微笑む。

 描いた夢は、やはり夢でしかない。トライする余地もなく、それはただの叶わない憧れで——。

 ——職業だけでなく、愛する人さえも諦めて。

 そんな苦しみの中を歩いてきた彼の思いが、胸にギリギリと痛む。

「——でも、俺。
 今日、あなたの会社を見て、はっきり思いました。
 この仕事をするための勉強をしてきて、やっぱり良かった、って。

 人生の大切な時間を過ごす家を創る。……こんなにも人の人生に寄り添い、その人の幸せを叶えられる仕事は、他にない気がしました。
 そんな会社の先頭に立っているあなたは……俺にはやっぱり、眩しくて……遥か雲の上の人なんです。
 あなたの仕事で、どれだけ多くの人が日々の幸せを味わってるんだろう……そう思います」

 気づけば、自分の思いを必死に伝えていた。
 何だか変に熱くなった自分が、急に恥ずかしくなる。

 だが——彼はそんな俺を、いつになく真剣な眼差しで見つめた。

「——君に、真正面からそんなふうに言ってもらえると……僕も、この道をしっかり歩きたいと思えてくる。
 君の言葉のおかげで——
 僕も、目の前にある自分の道を、全力で歩きたい。
 やっと、そう思える気がする」

 ——え……

 神岡さん……もしかして、ちょっと眼赤い?

「……あの……」
「いや、君にはやられた。
 ——後で仕返しをしなきゃな」

 僅かに潤んだように見えた瞳をさらりとごまかし、彼は美しい微笑でそんなことを囁いた。

 ……あ。
 えっと。
 だいたい、その意味の察しはつくけれど。
 仕返しって……微妙にコワい……。

 彼の甘やかな視線をドギマギと受け止め、俺は複雑な微笑を返すしかなかった。









 夕食の片付けを終えると、神岡はリビングの大きな窓から街を見下ろしていた。
 リビングの照明を弱め、差し込んでくる明るい月の光を浴びている。
 ここからの景色が気に入っているのかもしれない。ワイシャツのシャープな背と長い脚のシルエットは、いつ見ても美しい。

 ローテーブルには、美しいブランデーのボトルとタンブラー二つ。アイスペールには氷が満たされている。そして、シックなリボンのかかった黒い小箱が一つ。
 月光に照らされ、氷が淡い輝きを放つ。

「ん、来たね。じゃ、開けようか」
 俺に気づくと、彼はソファに座り、小箱のリボンを解いた。
 美しい箱の中には、スタイリッシュにきらめく10粒のチョコレートが収められていた。

「……普段俺の食べてるのと違いすぎますね……綺麗すぎて、緊張します」
 そんな俺に、彼は楽しそうに笑う。
「これから美味しいショコラを味わうのに緊張しちゃ困る。それと、これもね。甘口のVSOPだ」
 琥珀色の液体の入ったボトルの栓を開け、氷を入れたタンブラーに注ぐ。マドラーで軽くステアし、一つを俺に渡してくれる。

「ちょっとだけ、味を見てみて」
「……いただきます」
 恐る恐る口に含むと、ひんやりした滑らかさとフルーティな甘みがいっぱいに広がる。
「うあ…………これ、美味いです。すごく」
「よかった。——じゃ、好きなショコラをどうぞ」
 俺の表情に、彼は満足そうに微笑み、自分のグラスをカラリと傾けた。

「んんん……じゃ、これ」
 俺は迷いに迷い、キューブの表面に黄色いドットのデザインされた可愛らしい一粒を口に入れた。
「ん……ナッツの風味と……これは、ジンジャー……?
 んん……うま……」
 自分の味覚を確認しつつ真剣に味わう俺を、彼は面白そうに眺める。
「今のフレーバー、美味しかった?」
「はい、すごく複雑で……初体験の味でした……」
 そんな俺に、彼はぼそりと呟いた。
「……それ、僕も食べたかったのにな」

「……えっマジですか!? だって、さっき好きなの選んでいいって……」
 慌てる俺に、彼は真剣な面持ちで呟く。
「このコフレ、同じ種類のフレーバーが一つもないんだ……困ったことに。
 だから……」
 彼は、一粒をつまむと、歯でかりっと二つに割り、半分を口に含んだ。
 そして、俺の隣にすいと座ると——俺の後頭部を引き寄せるように、唇を優しく重ね合わせた。

「口、開けて——」

「……ん…………」

 彼の舌の上のとろける甘みが、俺に分け与えられる。
 ……オレンジの爽やかな香りと、キャラメルの滑らかさ。

 躊躇しても、逃げ出せない。
 親鳥から初めて餌をもらうヒナのようにぎこちなく、俺は懸命に彼のフレーバーを味わう。

 一つのものを、互いの舌で絡め、溶かしながら味わう高揚感。
 チョコレートと一緒に、心も身体も甘く溶かす何かが流れ込んでくる。
 それほど酔っていないはずなのに——俺の脳はまるで酩酊したように、理性が急速に遠のく。

 その味わいが消え去る頃に、彼は静かに唇を離した。

「——どう?」
「……」

 ちゃんとした回答が見つからず、彼の瞳を見つめた。
 息が乱れ、鼓動が波打つ。
 そんな感覚の治まらないうちに、彼はテーブルのグラスを軽く呷ると、再び俺に口づける。

「……ん……っ……!…」
 甘く香る液体が、否応なく口に流れ込む。
 喉へ送る以外方法がなく、必死に飲み下した。

 これ……さっきの「仕返し」か?
 ——そんなはずない。

 何だか、いつもの彼と違う。

「……神岡さん、待っ……」
 思わず、その肩を押し留めた。

「今夜は——もっと、こうしていたい」

 どこか思い詰めたような瞳で俺を見下ろし、彼は呟く。

「急いで君を抱いてしまったら……今日が、また終わってしまう」

「…………」

「君と、ずっと眠らずにいたい……朝まで一睡もせず、君とこうしていたい」

 流入した強い酒と、彼の言葉が——脳と身体に染み込む。

 子供のように思いを吐き出す彼の首に、腕を回した。
 その耳元で、囁く。

「——俺もです。
 今日は……俺、あなたの言う通りにしますから」

 再び合わせた彼の瞳が、安心したように微かに微笑む。

 そのまま、唇が重なり——
 現実も、悲しみも、理性も……遠く置き去りにして。

 俺たちは、境界のない熱の奥深くへと入っていくだけだった。