俺が神岡に連れてきてもらった場所は、海だった。

 千葉の湾岸へ車を走らせ、静かな冬の海へ降りる。
 夏場は海水浴場になる海岸も、冬は人影もない。穏やかな日差しを受け、海面はキラキラと静かに輝いていた。

 今日は風もなく、海はまるで春のように穏やかに凪いでいる。着てきたダウンジャケットがいらないくらいだ。
 潮風を吸い込みながら、長く続く浜辺を歩いた。

「——すみません。こんな何もない場所に連れてきてもらって」
「いや。……むしろ、とても柊くんらしい。
 僕も、海は本当に久しぶりだ」
 神岡は、俺の言葉に柔らかく微笑む。

「……時々、無性に見たくなるんです。海。
 ——子供の頃は、学校が休みの期間はいつも、母方の実家に預けられてて。千葉の小さな田舎街なんですけどね。
 家からすぐそばの海と、優しい祖母が大好きだった。
 暖かな海沿いだから、2月の今頃はもうポピーとか、花が咲くんですよ。……今日の海は、俺の大好きな海にそっくりです」

「暖かい海のそばか……それは素敵な街だね」

「近所の人も、同じ歳ぐらいの子も、自分が余所者なんて忘れてしまうくらいみんな温かくて。ほっとできました。
 祖父も祖母ももう亡くなって……10年以上その海へは行ってないけど、きっとあんまり変わらないんだろうなあ。
 ——俺にとっては、自分の両親の側よりものんびりして、幸せな気持ちになれる場所なんです」

 神岡は、視線を遠く投げて輝く沖を眺めながら、静かに呟く。
「幸せな記憶というのは、大事だな。
 僕の家は、両親とも同じように厳しくてね。僕はいつも緊張して、ほっとできる場所なんてどこにもなかった。
 ——将来会社を継ぐ息子を甘やかすつもりなんて、なかったんだろう」

「でも……子供を甘やかすことと、安心させることは、違うんじゃないかな……。
 ——あ、すみません。なんだか偉そうなこと言って」

 俺のそんな言葉に、彼は少し寂しそうに微笑む。
「……君が、僕の兄なら良かったな。……そうしたら僕はきっと、心強かったのに」

「あなたのお兄さん?……嫌ですよ、そんなの」

 ——もしも、あなたの兄だったら……こんな時間をあなたと一緒に過ごすことなんて、決してできなかった。

「……俺はまだ、そんなオジサンじゃありませんから」
 言えるわけもない本心を胸に押し込め、そんな言葉で茶化す。

 神岡も、空を仰ぐように軽く笑う。
「まあ、君から見たら、どうせ僕もそろそろオジサンだがな。
 何れにしても——どんな空気の中で育ってきたかは、成長してから必ずその人のキャラクターに現れるものだ。
 そんなふうに、大好きな海や人に囲まれて満ち足りた時間を過ごせたことが、今の君を作ったんだろう」

「——今の俺って……どんな俺ですか?」

「それは……」
 何か言いたそうな顔をしながらも、なぜか彼は急に言い淀む。

「……どうしたんです?」
 内心の照れが丸出しの彼の顔を覗き込んで、クスッと微笑む。
「……結構意地が悪いな」
「昨夜のお返しです。——いいですよ、無理に言わなくて」

「……つまり、こういうことだ」
 言葉の代わりに、彼は俺の左手を取ると、指を組むように優しく握る。

 それは、どんな言葉よりもたくさんのことを伝えてくるようで——
 俺は、一気に赤くなってわたわたと慌てた。

「あ、あの……神岡さん……
 こんなとこで、ちょっと恥ずかしいし——しかもこれ、『恋人繋ぎ』じゃないですか」
「いいだろう、少しも間違ってない。それにほら、だーれもいないんだし。
 ……じゃ、こうしよう。これなら外から見えない」
 彼は、繋いだままの手を自分のコートのポケットへ引き入れる。
 心地よい彼の体温に、手がすっぽりと包まれ……それと同時に、お互いの肩が一層強く寄り添う。

「だ……だから、恥ずかしいって……」
「こんなところでそんな顔をしてる君の方がまずいぞ。……ここで君を食べたくなるじゃないか」
 今度は、彼がちょっと上からそんなことを言って微笑み、俺を従わせる。

「————」

 嫌なわけがない。
 抵抗するのを諦め——俺は、彼の温もりに寄り添う幸せにやっと浸った。

 そうして——冬の陽射しの下、俺たちはただ柔らかくきらめく海を眺めていた。









 美月は、自分の部屋の窓から外を眺めていた。

 いい天気だ。2月なのに、今日は風もなく、春のように暖かい。
 日の当たる窓辺で頬杖をつき、その温かさを身体に吸い込む。

 こんなふうに、静かにひとりの時間を過ごすって……どの位していなかっただろう?

 いつも、何かを求めてどこかへ出かけていた。
 華やかな場所で、自分を羨みの目で見る人々に囲まれ、好きなようにお金を使うことで自分を満たした。

 ……そんなことのどれ一つを取っても、今の美月には何の楽しさも見出せない。

『俺をここから消したいなら……彼を幸せにすると、今ここで約束してください』

 あの日、三崎が絞り出すように呟いた言葉が、繰り返し美月の心に戻ってくる。

 自分のことより、誰かの幸せを叶えたいなんて……あの時は、全く理解などできなかった。

 でも——

 愛されることは、当たり前のことなんかじゃなかった。

 自分から、本気で誰かを愛する。
 自分のことを思ってくれる人を、自分からも思う。
 目には見えないそんな心のやりとりをしながら、人は初めて深く繋がる。

 彼ら二人の姿を思い浮かべると、なぜかそれが素直に理解できた。

「……二人とも、男なのに」

 いや——違う。

 彼らは、同性でありながら——それでも、引き合わずにはいられないのだ。
 だからこそ、彼らの間には、ただ愛情しか存在しない。
 ごまかしも、嘘もない……混じり気のない愛情。

 ——そんなものを見たのは、初めてだ。

 お金も容姿も意味を持たない場所では……自分には、何の価値もない。
 そして……そんな場所にこそ、本当に大切な何かが隠れているみたいだ。

 今まで考えたこともなかった思いが、美月の心を占領していた。


 ふと窓から視線を外し、美月はテーブルの上のスマホに手を伸ばした。
 一瞬躊躇った指を再び動かし、ある番号を呼び出す。

『はい』

「……野田さん?
 ちょっと久しぶりね」

『そうですね。……美月さん、どうされました?』
「あ、大したことじゃないの。
 ……野田さん、お子さんがいらっしゃるって言ってたわね?」
『はあ……中1と小5の子どもがおりますが……』

「あのね……もし、お子さん達が甘いものをお好きなら、今度クッキーなどお渡ししようかと思って」

『は?……いえ、わざわざ美月さんにお土産を買っていただくようなことは何も……』
「買うんじゃなくて。私が焼くの。……上手く焼けるか保証はできないけど、練習するわ」

 少しだけ、通話に間が空いた。

『……そうですか……
 そういうことでしたら……とても嬉しいです。
 ウチはみんな甘党なので、大喜びです』
 野田は、美月の心の動きを何か感じ取ったのだろう。温かい声で返事が返ってきた。

「そう言ってもらえると、私もとても嬉しいわ。
 ……いつもありがとう、野田さん」

 勇気を振り絞って最後の一言を口にし、ドギマギと通話を終えた。
 緊張を解いてふうっと吐き出す息に、初めて味わう柔らかな心地よさが混じり込んでいることに美月は気づいた。

 ——こんな電話、恥ずかしくて、どうしようか迷ったけど……

 今までにない温かい感覚が、美月の心を満たしていた。