エリート変人と麗しき変人の奇妙な契約

「……おかしいな」
 樹は、首をかしげた。

 午後になって柊へ送ったメッセージの返信が、返ってこない。
 GSのアルバイトのない日は、大抵程なく返事が来るのに——今日は、いつまで経っても既読がつかない。
 夜にそちらへ行く、と今朝メッセージを送った時には、終日特に何の予定もないと言っていたはずだったが——

 営業部門とのミーティングを終え、自室へ戻る。
「菱木さん、特に僕宛の電話などはなかった?」
 秘書の菱木さくらは、顔を上げると爽やかな声で答える。
「はい、伝達事項等は特にございません」
「……そう。ありがとう」

 ——何か、あったんだろうか。
 静かな空間で、既読すらつかないそのメッセージ画面を見つめるうちに、樹は微かに胸のざわつきを覚えた。

 彼に連絡をしてみよう。
 番号を呼び出し、通話ボタンを押そうとした時——ドアをノックする音が響く。
 菱木が連絡事項を伝えに来たのだ。
「失礼いたします。副社長、社長がお呼びです。先ほどのミーティングの内容を急ぎ確認したいとのことです」

 こういう時に——
「わかったから。少しだけ待ってくれ」
 いつになく苛立たしげな樹の様子に、菱木は驚いたようだ。
「……あの、副社長……?
 何か、ございましたか?」
「あ、いや……いいんだ。何でもない。すぐ行く」
 樹は一瞬漏れ出た苛立ちを抑え込み、ミーティング資料を手早く揃える。

 慌ただしく部屋を後にする樹の姿を、菱木はじっと見送った。

 ——あんなに、感情を露わにした彼を見るのは、初めてだ。
 彼女には、なぜかそれがとても新鮮に思えた。


「失礼します」
「急に呼び出して悪いな、樹。営業部門とのミーティングの情報をできるだけ早く欲しくてね」
 神岡工務店社長であり、樹の父である充《みつる》は、手元の資料から顔を上げると静かに微笑んだ。

「今月から打ち出した、新しいコンセプトの二世帯住宅についてなのだが……営業部門では、どんな評価をしている?」

「———」
 ソファに着いた樹は、まるで聞こえていないかのように無言で資料をテーブルへ並べ続ける。

「……樹?」
 その呼びかけに我に返ったように、樹は充を見た。
「——あ……。
 申し訳ありません。——今、何と?」
 初めて見る樹の上の空な様子に、充は目を丸くした。
「……どうしたんだ? お前らしくないな。何かあったか?」
「あ、いいえ……大したことでは……」
 樹は慌てたように自分の感情を押し隠す。
「そうか。——ならば、今は目の前の業務に集中しなさい。お前は副社長だ。個人的な事柄にいちいち気を取られていてどうする?」
「——申し訳ありません」

 そう謝罪しながらも、資料を見つめる瞳やページを捲る指先からは、明らかな焦燥が漂う。

 ——いい表情だ。
 いつから、そんな顔をするようになったんだ?
 これまでは、ただ与えられた仕事に無表情で専念するばかりだったお前が……。 

 樹のその様子をちらりと窺いながら、充はそんなことを感じていた。




✳︎




 俺は、黙って美月の話を聞いていた。

「樹さんが、最近とても幸せそうな笑顔をするの。
 それを見ているうちに……私、何だか不思議になってきて。
 樹さん、何かいいことでもあったんじゃないかしら、なんて思ってたのだけれど……やっぱり、私の勘は外れてなかったみたい」

 震え出しそうな指で何とか淹れたコーヒーを一口飲み、美月は俺の向かい側のソファでそう微笑む。
 宮田は美月の隣でその話を不愉快そうに聞きながら、コーヒーをずずっと啜った。

 ……そうなのか。
 最近の神岡が……そんなにも、幸せそうな笑顔を。

「樹さんが変わったのは……あなたのせいよね?」
 美月の鋭く刺さるような語調に、俺ははっと顔を上げた。

「いえ……
 俺のせいなんて……ないはずです」
「そうかしら?……私、びっくりしたわ。この部屋にいる若い男の子って、どんな子かしらとずっと想像してたけど……こんなに可愛らしくて、しかもしっかりと賢そうで。
 ……あなたみたいな魅力的な子の待ってる部屋なら、彼が通い詰めたくなるのもわかるわ」

 美月の目の奥が、鋭く光った。

「しかも——
 あなたは、彼のことが、好きなんですってね……?」

 その瞬間、宮田がクッとニヤついた。
 よく考えれば、当然の展開だ。
 昨年末、俺は宮田にはっきりと宣言してしまったのだから。
 ——神岡が好きだ、と。
 負けず嫌いな自分自身がつくづく悔やまれる。

「——大学の後輩として先輩を慕うのは、そんなに不自然なことでしょうか?」
 俺は、極力平静を装ってそう返す。
「あら、あなたが思ってるよりも、女は勘がいいのよ?
 彼の幸せそうな顔と、あなたの彼への思いと——ぴったりと合致してしまうのだもの。ただの先輩と後輩の関係で、あんなふうに満たされるなんて、あり得ないでしょう?——もう、誤魔化しようがないんじゃなくて?
 ……スクランブルエッグを褒められて、嬉しそうだったわよ、彼」
 美月は、冷ややかに口元を引き上げる。

 俺は、思わず言葉に詰まった。

 あの朝だ——
 彼に抱かれた、あの翌朝……スクランブルエッグがとても美味しい、と、俺は彼に言ったのだ。

 彼女は、彼の言動の端々から、それを感じ取ったに違いない。

 ——嫌な女だ。
 自分のことは棚に上げ——他人の言動ばかりを疑い、執拗に観察し、そうして掴んだ弱みに付け込んでくる。

 俺は、勇気を奮い起こして美月の顔を真っ直ぐに見つめた。
「……あなたに不快な思いをさせたならば、申し訳ありません。
 けれど——
 彼に疑いや不満を感じているならば……あなたが直接彼に言ったらいいでしょう?
 もっと自分の方を向いてほしい、と。
 あなたは——彼を笑顔にするような努力を、何かしてますか?
 彼が幸せを感じるような時間を作ろうと、少しでも努力してるんですか?」

「——他人の婚約者に手を出しておいて、随分偉そうね」
 美月の笑みが、冷たく残酷なものに変わる。
「私がどんなに腹立たしい思いでここにいるか、わかってるのかしら?
 こんなに馬鹿にされたのは初めてだわ——ちょっかい出したのが若い女ならともかく、男だなんて。全く、信じられない。
 なのに、ろくな謝罪もなしに、逆に喧嘩を売るなんて。……小生意気で、思わず泣かせたくなるっていう宮田さんの気持ち、よくわかるわ」
「……生意気だったら、何なんですか」
「あなたが女なら、今頃思い切りあなたを張り倒してる。掴み合いの喧嘩ができなくて、とても残念だわ。男相手じゃさすがに敵わないもの。
 ……だから、宮田さんに私の代理をお願いしようかしら、なんて思うんだけど……どう?
 この人も、あなたが可愛くて仕方ないらしいから。ちょうどいいでしょ?
 ただ——あなたがここからすぐにいなくなるって約束するなら、話は別だけど」
 宮田も軽薄な笑みを浮かべながら、強く彼女に同意する。
「そうだよ、三崎くん。今すぐどっちか選べよ。神岡さんの婚約者の美月さんがそう言ってるんだから、仕方ないだろ? ボクはどっちでもいいけどね……君が消えるならボクも安らぐし、ここに残るならば今から君と楽しいことができる」


 ……どうする……

 ———どうしたらいい?

 奥歯をぎりっと噛み、俺は湧き出してくる思いを呟く。
「美月さん——
 あなたが、これから変わるなら……
 あなたが、彼を幸せにするために変わる、と言うのなら……俺、すぐここから出て行きます。
 あなたが今のまま、何も変わらずにいるつもりならば、俺は、彼の側にいる。
 俺をここから消したいならば——彼を幸せにすると、今ここで約束してください」

 美月の表情が一層険しく歪み、腹立たしげに喚く。

「何言ってるのよ、この子!?
 人を幸せにする方法なんか、知らないわ!——私は愛されて当然な女よ、違うの?……何よ、まだ子供みたいな顔して偉そうに!」
「なら……俺、ここから出て行きませんよ」
「イラつかせるわね! 自分が痛い目見るのよ?……それでいいって言うなら、話はもうこれでおしまい。宮田さんにたっぷり可愛がってもらったらいいわ」
 そんな展開に、宮田の表情が楽しげにギラつき始める。
「え、いいの、三崎くん?——これって、ボクに抱かれるの同意したことになっちゃうよ? 君はさあ、本当に強情だよねえ。それが君のたまらなくいいとこだけどさ」

 ——そうするしかないのか?

 俯いていた俺は、静かに顔を上げた。
「……好きにしたらいい。
 ただ——床の上はごめんだ。抱くなら俺のベッドルームにしてくれ」
「へえ、随分素直だね? うあ、もう待ちきれないなあ」

「………あなた……本当に、それでいいの……?」
 美月が、震えるような声で俺に問う。
「そちらが提示した条件でしょう?
 ——あなたは、ここで待っていてください」

 暗い目つきで狼狽えている美月にそう言い残すと、俺は宮田を伴ってベッドルームへと向かった。