一月下旬の水曜、昼下がり。
 美容室『カルテット』の駐車場に、黒く輝くBMWが一台停まった。

「いらっしゃいませ」
 店のドアを入ってくる客に、いつものようにカウンターで声をかけた宮田は、その女性の美しさに目を奪われた。

「こんにちは。
 ……あの、宮田様は……いらっしゃいますか?」
 栗色にゆるく波打つ髪に、透けるような肌。アーモンド型の大きく潤う瞳。
 淡いグレーのファーコートから、美しく華奢な足がすらりと伸びる。
 一般人離れしたオーラを放ち、人目を引かずにはおかない微笑で、女はそう問う。

 突然自分を指名され、少し驚きながら宮田は答える。
「宮田は私ですが……」
「あなたが宮田さんですか?
 いつも樹さん……いえ、神岡がお世話になっております」
「……あの……」
「申し遅れました。私、神岡の婚約者の、二階堂美月と申します。——初めまして」
 そう言って、女は輝くように微笑んだ。

 二階堂……美月。
 どんな女なのか、ずっと頭で描き続けていた、その相手。

 ——想像以上の美人だ。

 だが……ここへ一体何をしに……?

 宮田は、ざわつく感情を鎮めつつ笑顔で対応する。
「こちらこそ、神岡様にはいつもご贔屓にしていただいて、ありがとうございます。——ところで、本日はどのようなご希望ですか、二階堂様?」
「いつも彼を担当してくださっている宮田さんにご挨拶がてら、今日は私も腕のいいあなたにスタイリングをお願いしてみようと思って参りましたの。
 それと——その合間にでも、少しお話などできればと」
 口元に貼り付いた笑みを消さないまま、美月はおっとりとした口調でそう話す。

 接客業を長年していると、相手のことが直感でわかるような感覚が身についてくる。
 自分の本心を見せない美月の口調と微笑みに、宮田は自分と同類の感情の澱みを鋭く感じ取った。
 恐らく——彼女は、髪のスタイリングではなく、「その合間の話」が目的で、ここへやってきたのだろう。

 ——この女の本当の狙いは、神岡の周辺に関する情報を得ることなのではないか。
 もしそうであれば……自分は、彼女が欲しくてたまらないはずの情報を、間違いなく握っている。

 うまくいけば……この女を利用して、彼の側にいる不愉快な邪魔者を追い落とすことができるかもしれない。
 不愉快極まりなく、かつ強烈に嗜虐心を掻き立てる、あのかわいい青年を。
 これは、彼を神岡から引き離すまたとないチャンスだ。

「——そうでしたか。僕こそ、こうしてご来店頂きまして光栄です。——では、どうぞこちらへ」
 宮田は、いつにない美しい笑みを浮かべて、美月を店の奥へ招き入れた。




✳︎




 美月が店内へ入って、約2時間半ほど経った。
 野田は、車内で美月が戻るのを待っていた。

 あの娘の考えることだ。そう感心することでもないことなのは、薄々分かっている。
 きっと、神岡の専属の美容師から、彼の周辺のことを何か聞き出そうとでもいうのだろう。
 全く、付き合いきれない。
 だが、自分が彼女にうるさく何かを諭して聞かせる立場ではないこともよく分かっている。
 彼女にただ従うというくだらない業務を、投げ出すことができない。二階堂商事の一社員でしかない自分がもどかしい。

 ふうっとため息をつきながら外を見ると、スタイリングを終えた美しい髪を揺らして美月がドアから出てきた。
 そして……例の神岡の専属スタッフだろうか、綺麗な顔をした長身の青年が一緒にこちらへやってくる。

 美月は、その青年を伴って車内へ乗り込むと、野田へ向けてにっこりと微笑んだ。
「野田さん。こちらは樹さんの専属の美容師さんで、宮田さんよ」
「初めまして、宮田です。どうぞよろしく」
「……野田と申します。こちらこそよろしく」

 この青年……顔は美しいが、好きではない笑みだ。
 品のないその気配に、野田は内心眉をひそめた。

「私たち、これから樹さんのお気に入りのお部屋まで、お邪魔したいと思ってるの。
 ——野田さん、その部屋がどこだか、ご存知よね?」

 その淡々とした問いかけに、野田は、一瞬ギクリとした顔で美月を見た。

「……え……」

 あの部屋まで行って……この二人は、一体何をするつもりなのだろう?
 なんとか、ここでごまかしてしまう方法は……

「あ……それは……」
「だって、樹さんの通うお部屋には若い男の子がいるって、そこまで調べてくださったでしょう? そんなこと、お部屋が分からなければ得られない情報じゃない?
 ——そうよね?」
 にこやかな彼女の目つきの中に強い威圧感を感じ、野田は思わず答えに詰まる。
 ここまで返答に困った挙句「自分は知らない」とごまかしても……もはや、状況を悪化させるだけかもしれない。

「ねえ野田さん、ぜひ案内してほしいわ」
 畳み掛けるように語気を強め、美月は鋭く微笑んだ。

「——わかりました」

 本当に、申し訳ないことを——
 神岡さんと、あの部屋の彼に。

 そんな強い自責の念にひたひたと襲われるのを感じながら、野田は、のろのろと例のマンションへ向けて車を出した。




✳︎




 その日は、夜に時間ができたからそちらへ行く、と神岡からメッセージが入っていた。 
 GSのバイトも休みだったので、俺は部屋の掃除や細々したことを済ませ、そろそろ買い出しにでも行こうかと思っていた。

 身支度をしていると、インターホンが鳴った。
 まさか、まだ4時だ。こんな早い時間には……でも、彼以外に誰かここに来るようなことは、何も思い当たらない。
 不思議に思いながら、来訪者を確認する。
「……どちら様でしょう?」
『初めまして。私、二階堂美月と申します。今日はご挨拶に伺いました』
 インターホン越しに、美しい声が響いた。

 ……え???
 二階堂美月……って……
 神岡の婚約者——だよな?
 彼女が、一体なぜ?
 ……そもそも、なぜ彼女がここを知ってるんだ?
 神岡が、彼女にここのことを話したりは……絶対にしないはずなのに。

 色々な疑問が、一気に俺の中で渦を巻く。
 だが、在宅していることがバレている以上、あまりもたもたしてもいられない。

 彼女に向かって——俺は、なんと自己紹介するんだ??
 やばい。パニックになりかけている。
 ああ、そうだ! 俺は現在失業中のヘタレな神岡の後輩だった!……わかったか? しっかりしろ俺!!

「少しお待ちください。今開けますので」
 腹を括り、なんとか心を落ち着けて応答した。
 姿勢を正し、大股で廊下を歩く。
 一つ深呼吸をしてから、ゆっくりドアを開けた。

 すると——
 そこには、目を見張るほど美しい女性と、あろうことか宮田が一緒に薄笑いを浮かべて立っていた。
 そしてその背後に、少し年嵩のいった、体格の良いスーツ姿の男性が一人。

「野田さん、ここでしばらく待っていてくださる?」
 美月の言葉に、野田と呼ばれたその男は俯いたまま、黙ってドアの前を離れた。
 そのドアを静かに閉めると、彼女は俺に向き直り、美しく微笑みかけた。
「三崎さん。突然お邪魔してしまって、ごめんなさい。私は、神岡の婚約者の二階堂美月です。——どうぞよろしく」
「…………三崎柊です……」
「三崎くん、ボクも一緒に来ちゃった。こんなふうに君の部屋にお邪魔できてラッキーだなあ。ねえ、上がっていい?」
 宮田は相変わらず無神経に、勘に触る言葉をへらへらと並べ立てる。
「あの……今日はどのようなご用件でしょう?」
「いつも樹さんがこちらへお邪魔して、ご迷惑をおかけしているのですもの。一度きちんとご挨拶に伺わなければと思っておりましたの。こんなに遅くなってしまって、大変失礼いたしました」

 機械的な笑顔を見せるこの女性の背後に、暗くドロついたオーラのようなものが感じられる。
 もしかしたら……すでに宮田から、俺についての情報を得ているのかも知れない。

 このままお引き取りいただくわけには……どうやらいかないようだ。

「——どうぞ」

  俺は、やむなく彼らを部屋へ通すしかなかった。