野田は、二階堂美月のガードマン兼世話係だ。

 元々は、美月の父親である二階堂商事社長の秘書として配属されたが、その誠実さとガタイの良さ、柔道2段という能力に目をつけた社長夫人が、美月の大学卒業に合わせてその仕事を彼に依頼したのである。

「野田さん。美月はなにぶん世間知らずだから、色々様子を見てやってね」
 夫人は美しい唇を引き上げ、優雅に微笑んだ。

 美月の美しさは、母親譲りだ。年齢を感じさせない美貌。そして、それに内面が全く伴っていないところも、母娘はそっくりだ。とにかく、この母親は娘に甘い。娘を自分の側から離すことなく、それこそ箱入り状態で家へ閉じ込めている。なおかつ、世間の常識的な部分や厳しさを、娘に一切教えていないように見えた。

「かしこまりました」
 ともかく、大事な社長夫人の依頼だ。もちろん引き受ける。
 そういう経緯で、野田は普段は二階堂社長秘書、必要に応じ美月の運転手兼ガードマン、世話係として働いて4年めになる。
 今年で46だ。明るい妻と、二人の子供。平凡だが、温かい家庭を持てていることに幸せを感じている。若く美しい娘が身近にいるからといって、特に惑わされるようなこともない。逆に、美月の中身のないその言動に、しばしばうんざりさせられていた。

 昨年、11月の末。
 野田はこのお嬢様から、憂鬱な仕事を依頼された。
 友人との遊びから帰宅する美月を迎えに来た車の中で、彼女はいつも通りの表面的な微笑を浮かべながら話し出す。

「野田さん。私の婚約者の神岡樹さん、ご存じよね?」
「はい。何度かお見かけしております。あんなにお若くて副社長とは、とても有能な方なのですね。いつも礼儀正しくて、しかも大変な美青年でいらっしゃる」
「とりあえず、ここだけの話なんだけど……」
 美月は、ミラー越しにちらりと野田と目を合わせた。
「彼の行動を、少し探って欲しいの。……もちろん、本人にバレないように」

「は?……なぜですか?」
 一瞬、背中がひやりとするような感覚が走る。
「最近、樹さんの様子が、今までと少し違う気がするのよ。……でも、探偵や何かを雇うなんて大袈裟だし。
……とりあえずは、信頼できるあなたに頼もうかと思って」

 本来、そんな仕事は自分自身のポリシーから外れている。引き受けたくなかった。

 しかし……断った場合、どうなるか。
 この娘が、もしもそんなことを母親に話せば……少なくとも、楽しい展開にはならないだろう。
 自分には、守るべき家族がある。そう簡単に雇い主に逆らうこともできない気がした。

「——かしこまりました」
「ありがとう。野田さんならそう言ってくれると思ったわ。——とりあえず、休日前の彼の退社後の様子を知りたいの。彼の休暇は私が把握してるから、その時はあなたに知らせるわ」
 思考が浅薄な割に、いやらしいところを突いてくる。その辺の彼の動向を抑えれば、何かが掴めると踏んだのだろう。

「承知しました。
 ただ——私も、プロではありません。完璧な仕事はお約束できませんので、その辺はご了承ください」
「わかったわ。お願いね」
 美月は、一瞬浮かべた微笑をすぐに元の無表情に戻すと、気怠そうに窓の外を眺めた。

 仕事を引き受けたからには、まずはきっちり取り組まねばなるまい。野田は、美月から指示のあった、12月半ばの金曜の18時に、神岡工務店のビルのエントランス周辺で、樹を待つことにした。

 休日前はほぼ定時に帰るという美月の情報通り、樹は間もなくビルから出てきた。そのまままっすぐ地下鉄の駅へ向かうようだ。野田も人波に紛れてその姿を追う。

 地下鉄で2駅ほどで下車した。美月から聞いていた、彼のいつも利用する駅とは違う。
 ……どこへ向かうのだろう。
 見失わないよう、かつ気づかれないように後ろをつける。

 やがて、彼は駅から地上に出てすぐのコンビニに入っていった。
 店の外でしばらく待つと、すぐにレジ袋を提げて現れた。——どうやら、購入したものは、500mlのビール6缶パック……のようだ。
 やがて樹は、駅から10分弱の、とあるマンションへ入って行く。
 ちょうど帰宅してきたサラリーマンと一緒に、野田はエントランスへ入り込む。彼はエレベーターで上に上がるらしい。
 一緒に乗り込むことまではできなかった。しかし、彼ひとりを乗せたエレベーターは、10階までノンストップで上がると、そこで止まった。

 このマンションの、10階——。
 そこに、何かがある。

 何があるのだろう?
 または……誰がいるのだろう?

 興味がわずかに頭をもたげる。
 だが……
 同時に、樹が気の毒にも思えた。

 もしも自分が、他人に婚約者の尾行を頼むような女と結婚することになったりしたら……絶対に嫌だ。決められた結婚となれば尚更、頭を抱えたくなるだろう。
 彼の自由を取り上げるようなことは、できればしたくない。
 それに、完璧な仕事は約束できない、と言ってあるのだ。報告が多少正確でなくとも、あの娘はおそらく気づくまい。

 今すぐこのことについて美月に連絡するのは、やめよう。
 その事実を知って、彼女がどう動くかも予想できない。今伝えて、もしこの後彼女がここに乗り込んできたりしたら……彼は、一体どうなるだろう?
 しかし……だからといって「何もなかった」と明らかな嘘を報告するのも、どこか恐ろしい気がする。

 彼が仮に、今夜ここへ泊まっていくとしても——明日の午後辺りには、自分の部屋へ戻るだろう。
 その位の時間を見計らって、彼女にはこのマンションのことだけ伝えておこう。
 そう判断した。

 翌日、土曜の午後。
 野田は、美月にこのことを大まかにかいつまんで報告した。

『——そう。ありがとう。引き続きお願いね』
 いつも通り、美月は何を考えているか読み取れない声で、それだけ答えた。


 美月は、そんな報告を受けて以降も、特段大きな反応を示さないように見えた。贅沢に遊び、約束の日には婚約者に会い——送迎の際にも、車内では何の感情も動かさない顔のままだ。
 一体、何を考えているのだろう。
 とにかく、彼女が自分に話を振ってこない限り、野田はこの件について何も触れないことにした。

 その後も、樹が1度そのマンションを訪れたことを把握した。だが野田は、その時の樹の行動についても、詳細には美月に報告しなかった。
 細かい経路や持ち物などは省き、例のマンションへ向かったようだ、とだけ大雑把に伝えた。宿泊の有無まで見届ける必要など当然ない。できる限り、彼の行動を美月に明らかにしたくなかった。

 一方で、その部屋にいるのは、年若い男の子だ……ということを偶然知った。

 マンションの住人の振りをしながら樹を追って10階まで上がり、彼の入った部屋を確認した時だ。
 周囲に気をつけながら、ごくさりげなくその部屋へ近づこうとすると……不意に、ゴミ袋を提げた青年がそのドアから出てきたのだ。
 慌てては逆に怪しまれる。俯き気味にすれ違いつつ、軽く会釈をしてごまかす。すると、その青年も、少し微笑むように会釈を返した。
 かわいらしい顔立ちと、しっかりとした物腰の子だ。

 彼は……友人だろうか。それとも、後輩とか……なのだろうか。
 何にしても——そこへ向かう樹の和らいだ表情や雰囲気は、その他のどこの場所でも見たことのないもののような気がした。
 とにかく、親しい関係の同性が、その部屋にいる。

 でも……同性なら、取り立ててどうと言うこともない。時々食材や酒を差し入れても、少しも不自然ではない。

 ——よかったじゃないか。
 野田は、内心ホッとしている自分がいることに気づいた。

「樹さんの行かれているマンションには、どうやら親しいご友人がいるようですよ。あれだけ毎日お忙しいのですし……時には親しい友人同士でゆっくりお酒でも飲んで、息抜きしたいのではないですか? その気持ち、私もよくわかります」

 野田は、去年の年末近くに、そんなことを明るい口調で美月に伝えた。
 この報告で、樹の尾行を終わりにしてもらえれば……という思いからだ。

「——そう。……確かに、そうかもしれないわね」
 彼女は、まだ何かを考えるようにしながら、野田の報告を受け取った。

 年末年始の慌ただしさもあり……樹の様子を窺うよう美月から連絡が来ることも、それ以降は途切れていた。

 そして、1月も半ばが過ぎた。

 その美月に昨日、変化が起きた。

「——樹さん、何だか変だわ」
 ショッピング帰りの車内で、美月は独り言のようにそう呟く。

「……はい?」
 話しかけられているとしたら、自分しかいない。とりあえず、返事を返す。

「昨日、一緒に夕食へ出かけたのよ。
 その時、お料理の腕前の話になって……
 彼、料理は結構得意のようなんだけれど、彼にお食事を作ってもらったりしたら、母にまた何か言われそうだし……キッチンへ立ってもらうなんて、したことがなかったの。彼も、自分からやりたいなんて言ったことはなかったわ。
 でも……昨日は違った。
『美月さん、たまには僕にもキッチンへ立たせてください。スクランブルエッグは結構評判いいんですよ。……そんな簡単な一品くらいなら、いいでしょう?』……って。とても楽しそうに微笑むの」

「いいじゃないですか。何がご不満なんですか?」

「————スクランブルエッグ……最近、誰かに作って、褒められたんじゃないかしら……」

「……それなら、その親しいご友人に作ったとか……普通にあることだと思いますが」
「男友達に褒められたからって……あんなに幸せそうな顔をして、話すかしら?」
 美月は、いつになく真剣な顔で、そう呟く。

「やっぱり……
 他に、誰か好きな人がいるんじゃないかしら——彼」

 女の勘でも働くのだろうか。
 見る限り、樹はあのマンションの部屋以外へ遊びに出かけるような行動は一切取っていないのだ。
 スクランブルエッグを焼いてやるような恋人を作る暇が、一体どこにあるのか。

「——今度、樹さんの行きつけの美容室へ、私も行ってみようかしら」

「……は?」
「そこには、専属で樹さんを担当している美容師さんがいらっしゃるらしいから……ご挨拶がてら、私もその方にスタイリングをお願いしたいわ」

 野田は、新しい寒気がじわりと背中にやってくるのを感じた。