エリート変人と麗しき変人の奇妙な契約

 1月も、10日ほど過ぎた。
 街も普段の様子を取り戻しつつある。

 神岡から、今年初めてのメッセージが届いた。
 ずっと、待っていたメッセージ。

『あけましておめでとう。
今日の夕方、そちらへ行ってもいい?』

 鼓動がにわかに大きく自分の中に響き出す。

『明けましておめでとうございます。
 都合は大丈夫です。夕食などは……どうしますか?』

『何もしなくていいよ。
 君に話したいことがある』

 一層強く、心臓が高鳴る。

 ——何の話だろう?
 契約のことだろうか?

 もしかしたら——

 昨年末の俺との関わりを悔やんで——
 忘れてほしい、とかいう話だろうか?

 それとも、婚約者の美月さんとの間で、何か話が進んだとか——
 この契約の継続が難しくなったとか……

 何れにしても……楽しい話ではない気がする。

 彼が来るまでに、心臓が破裂しそうだ。


 何をしていいのかわからないまま、半日を過ごした。

 彼の来る時間を見計らって、コーヒーメーカーに豆と水をセットし、スイッチを入れる。
 首回りが変に苦しい気がして、ハイネックのセーターをシンプルな白のシャツに着替え、襟元のボタンを外す。
 軽く暖かい、淡いグレーのカーディガンを羽織った。今の俺の息苦しさには有り難い。

 誕生日に彼が贈ってくれたトワレを、彼のしたように、ほんの少し肘の内側に引いた。
 ふわりと立ち上る爽やかな香りだけが、ざわざわとうるさい俺の思いを僅かに鎮めた。


「こんばんは、柊くん。——なんだか久しぶりだね」
 部屋を訪れた神岡は、どこか疲れたような硬い表情で微笑んだ。

「……本当に、そうですね」
 ずっと待っていたのに……ろくな返事も返せないまま、俺はコートとビジネスバッグを受け取る。
 彼も緊張しているのだろうか。無言のまま、ネクタイを僅かに緩めた。

 大きな窓から、紫色に変わっていく夕空と、次第に点り始める街が見える。

 コーヒーをカップ二つに注ぎ、リビングのテーブルへ運ぶ。

「いつも美味しいな、柊くんの淹れたコーヒー」
 目の前に置かれた湯気の立つカップを手に取り、一口啜ると、彼はどこか寂しげに微笑む。

「……ありがとうございます」
 彼の表情に、これから始まる話の内容が見えるようで……俺は、怖くて俯いた。

「今日来たのは——
 この契約の継続を決める前に……君に話しておきたいことがあったからだ。
 ——僕のかつての恋人の話だ」
 カップを静かに置くと、彼は話し始めた。
「君がこの仕事を続けるかどうかは、この話を全て聞き終えてからにしてほしい」
 いつになく真剣な眼差しが、俺を見つめる。

「僕が、愛していた彼と別れたのは……僕の身勝手からだ。
 僕みたいな立場の人間は、好きだから、という気持ちだけで誰かと結びついてはいけない——
 それを、痛いほど思い知らされた」

 神岡は、癒えていない深い傷に触れるように、苦しげに呟く。

「僕は、彼に大切なことを話していなかった。
 ——自分が、神岡工務店の後継者ということだ。

 好きだと思う気持ちは、誰にも止めることなんてできない。そうだろう?
 ……そして、恋を始めるのに、自分は大企業の息子だ、っていちいち宣言する必要なんてないはずだ。——かつての僕は、そう思い込んでいた。

 大学2年の春——彼が僕の思いを受け入れてくれた時、僕は本当に幸せだった。
あんなに幸せだった時間は、僕の人生で他にない。
 1年半程付き合った。幸せというのは、あっという間だ。

 僕が神岡工務店の後継者だと初めて知ったとき……彼は大きなショックを受けた。
 どうして、もっと早くそれを言ってくれなかったのか。そう、彼に何度もなじられた。
 僕たちがいくら愛し合っていたとしても——決して実を結ばない。そうじゃなくても簡単な状況ではないのに……僕がそんな立場の人間で、なおさら成り立つはずがない。
 怒りとも悲しみともつかない沈んだ瞳で、彼はそう言った。

 僕は……本当は、心のどこかで——それを知っていた。
 幸せの中にいるうちに、そんな結末を考えるのが、怖くなっていたんだ。
 彼を手放したくなかった。
 だから、ずっと事実を言えなかった。

 ……自分勝手にも程がある。

 僕がどんなに必死に彼を説得し、引き止めようとしても——彼は僕の手を振りほどいて俯いた。
 一度お互いを愛してしまってから、その繋がりを断ち切るのが、どれほど苦しくて残酷なことか……

 僕は、彼を失った。
 本当に愛していた人を、二度と顔も合わせられない程に、傷つけた。
 僕は自分の馬鹿さ加減が——彼を深く傷つけてしまった自分自身の愚かさが、許せない。——今も」

 吐き出すようにそう言い終えると……彼はふと言葉を切り、口をつぐんだ。
 波立つ感情を押し殺そうとする、無表情な瞳。

 ——この人が、普段冷たい仮面をかぶって人を寄せ付けないのは、そんな過去のせいだったのかもしれない。

「親が持って来た見合い話に頷いたのも、そんな理由だ。
 自分は、自分の思い通りに人を愛せない。——ならば、相手なんて誰だって一緒だ」

「…………」

 俺は、何一つ言葉を選べないまま、自分の手の中のカップを見つめる。

「君に出会えた時——僕は、だんだんと暗くなる自分の道に、明かりが灯ったような気がした。
 ただし——君は、『かわいくてしっかり者の僕の友人』。
 そう思うこと……それを踏み外さないことが、僕の絶対に守るべき条件だったんだ。
 けれど……また僕は、失敗したようだ」

 彼は、俺をまっすぐに見つめ、呟いた。

「君へのキスを止められなかったあの時に……気づいてしまった。
 ——僕は、君に恋をしたと」

 その瞳の力は、一瞬で弱まった。

「君は、同性を好きにならないと、知っていたのに……。
 そして……僕が君に恋をしても、何一つ実らせることができないと、わかっているのに……」
 伏せた瞳が、美しい指で覆い隠される。

「神岡さん——俺の話、聞いてください」

 胸に溜まって張り裂けそうだった思いが、溢れた。

「俺、あなたとキスしたあの時……もっと、あなたが欲しかった。
 欲しくてたまらなかった。
 自分のことが全然理解できなかったけれど、どうにも仕方がなかった。
 あの夜から今日まで……あなたに会いたくてたまらなかった。
 あなたが俺にくれた笑顔や話し声が、頭から離れなくて。
 顔が見たくて、声が聞きたくて。苦しくてたまらなかった。
 俺——あなたが好きです」

 彼の瞳を見て、はっきりと伝えた。

 最初は驚きを含んでいた神岡の表情が、かなしげに微笑む。

「——僕もだ。
 僕も、たまらなく君に会いたかった」

 そして、何かを堪えるように——苦しいものを吐き出すように、続けた。
「けれど——僕は、君に何もあげられない。
 この心を、君に渡してしまったら……僕は——」
「あなたから、何か欲しいとは思っていません」
 俺は迸《ほとばし》る思いを彼にぶつける。
「あなたから、何も返ってこなくても——
 俺の想いを、あなたが拒まないと言ってくれるなら。
 もう少しだけ側にいてもいいと、あなたが言ってくれるなら……
 俺は、それでいいんです」

 不意に、彼に抱きしめられた。
 苦しいほどに力の籠もった腕が、俺を包み込む。

 それは、彼が必死に何かへ縋《すが》るようでもあり——

 ……少し、泣いている——?

 小さな少年が、俺の肩で泣いているようで……
 俺は、彼の背を全力で抱き返した。

 肩に埋めた顔を静かに離した神岡は、はにかむように俺と視線を合わせる。

 どちらからともなく……おずおずと、柔らかく唇を重ねた。
 ——お互いの思いがひとつになる温かさを、感じ合うように。

 ふたつのトワレの香りが、胸元で微かに絡み合う。

 この人とこうしていられる時間も、もう長くはない——

 彼を離したくない思いが、留めようもなく溢れ出す。

 啄ばむようなキスの合間に囁く。
「あなたを——
 もっと、俺にくれませんか……。
 だめなら……諦めますから」

 額を合わせるように微笑み、彼は囁き返す。
「……だめだなんて思っても、どうせ無理だ」

 確かめ合うようなキスが、一層深くなる。

 それは、濃く、甘く。
 ——脳内の深い悲しみさえ、見えなくなるほどに。


 夜の街を見下ろしながら、月の光が部屋へ差し込む。

 淡い月明かりの中。
 実らないと知りながら——抗い難いその思いを満たすこと以外、俺たちは方法を選べずにいた。