GSのバイトを終えた、12月下旬の夕方。
 今年ももうすぐ終わりだ。吐く息が白く登っていく。

 帰宅すると、その日も俺はすぐに尊敬する彼らの写真を開き、じっと見つめた。

 数日前、俺は猫の写真集を買った。
 ペットというものの情報を、リアルに脳にインプットするためだ。
 中でも、猫のなんともマイペースで自己中なその仕草と思考回路は、ぜひ真似たいところなのである。

 麗しきド変人である神岡の一挙手一投足にいちいち動揺し、振り回されてあたふたする……そんな情けない自分をスッキリ捨て去る。己の雑念を捨て、ペットのように雇い主を慕う。——俺はもう一度、それにトライしようとしていた。
 さもなければ、この得難い仕事をクビになるか、自分を見失うか——どっちかになってしまいそうな気がする。そんなことでいいのか俺!? 我ながら必死だ。

 そして……今回の試みにもしも失敗した場合は、この契約は打ち切りにしてもらう覚悟だ。……甚だ残念だが。
 雑念すら追い払えない俺は、この契約を受ける資格などないのだ。

「おい俺、このネコ様の様子はどうだ? 好きに振舞って、好きな時に寝る。そうしながらも、相手を不快にさせない世渡りのうまさ。最高だ。これこそ俺の目指すものだ。——っていうか、猫ってかわいいな……」
 思わず、その愛くるしさに見とれてしまう。こんなふうに甘えられちゃ、ご主人様はたまらないだろうなあ……。
 はっ! そうじゃなくて!!
 自由で気まま、ひたすらお気楽な猫の人生観をインプットするんだ! ド変人の言動ごときで、いちいち慌てるなよ俺!

 そうやって拳を握りしめながらひとりごちているところへ、神岡からメッセージが届いた。
『夜から入っていた打ち合わせが延期になったので、これから君のとこに行けそうだ。大丈夫?』

 おお! 訓練の成果を試す機会が、もう来たか……!?
 一気に緊張してきた。
 都合はいいのだが、今日は買い物などは特にしてきてない。
『大丈夫です。でも、夕食何にしましょう? これから買い出しに出かけると、少し遅くなるかもしれませんが……』
『僕がいろいろ買ってくよ。今日は鍋にしよう! 支度の手間もかからないし。それから、今日は準備も片付けも僕がやるから、君はのんびりしてて』
 鍋か! いいな、あったまるしヘルシーだ。なら買い出しは彼にお願いしよう。
 ……ん? 準備も片付けもしなくていい?……なんでだ?
 よくわからないが、まあいいか。
『ありがとうございます! ではお待ちしてます』
 犬がぐっとサムズアップを出してるスタンプが帰ってきた。

 じゃ、その間に風呂入ってガソリン臭を落とし、彼好みに変身しておくか。
 今日は寒いし。タートルネックの柔らかい黒のセーターに、ブラウンのベーシックなチノパンで。うん、彼好みかつ俺好みだ。



 彼が部屋に着き、すぐに手際よく準備を始めたのは、みぞれ鍋だ。大根おろしをたっぷりのせて食べる、さっぱりかつ温まるレシピである。
 大根おろしを山のように擦る作業が大変そうで、手伝いたかったのだが……一切手出しをさせてくれない。
 仕方なく、ダイニングテーブルに座ってその様子を眺める。
 エプロンをキリリと結び、ワイシャツを肘まで捲り上げて大根をガシガシおろしていくその男前な腕っ節は、野良仕事をする与作よさくに見えてきてなかなか新鮮だ。
 プレート付きの鍋にだし汁としょうゆ、酒などを合わせたつゆを張り、鶏肉や白菜、キノコ類を適当に切ってテーブルに並べれば、あとは火にかけて具材を煮ていくだけである 。具に火が通った頃に大根おろしをどかっと投入するという流れだ。さっきから腹がぐうぐう言って止まらない。

「よし。あとは煮えるまで酒を飲んでればいいわけだが……こんなのはいかが?」
 準備が整い、テーブルへ着いたところで、神岡は何やら立派な縦長の箱を取り出した。
「ん?……日本酒ですか?」
「そう。今人気の銘柄の純米大吟醸酒だ。透明感のある華やかな香りが立ち、上品で爽やかな口当たりだ。美味いから飲み過ぎ注意だけどね」
 そう言いながら、彼は瓶の口を開け、小ぶりなグラス二つに注ぐ。
「じゃ、乾杯。………どう?」
「うわ、うまっ……! 俺、こんな風にちゃんと日本酒飲むの、多分初めてです。すごい! こんなに美味しいんですねっ」
「ん〜、この美味さはかなり特別かな。日本酒もピンキリだからね。
 ……それから」
 そんなことを言いつつ、彼はもう一つ、綺麗にラッピングされた小さな包みを俺に差し出す。
「ん……なんですか?」
「おめでとう。——今度の土曜、誕生日だろ? 柊くん」
 そう言って彼は少しはにかむように微笑む。
「え?……あ、ありがとうございます……って、なんで知ってるんです、それ??」
「君の履歴書を最初に見たときにね。それに、名前も。……柊ひいらぎは12月24日の誕生花だから」

 ……そうか。
 それで、今日は俺に何も手伝わせないのか。
 自分こそ、一日中忙しかったはずなのに。
 そういうふうに優しいんだ……この人は。

「開けていいですか?」
「うん。見てみて」
 センスの良い小箱に入っていたのは、香水だ。

「……オードトワレ……?」
「そう。柑橘系の爽やかなものを選んでみたんだけどね。柚子などの香りから、次第にペッパーやホワイトムスクの香りに変わっていく」
 ホワイトムスク——時間とともに、彼と似た香りになっていくのだろうか。
「……つけてみたいな。……いいでしょうか? ほんの少しだけ」
「うん、肘の内側とかがいいかな。付け方にコツがあるんだ」
 そう言って彼は俺の横へ来ると、すいと腕を取る。
 どきりっと心臓が反応する。
 ワンプッシュを俺の肘の内側へ吹き付けると、指先ですっと線を引くように肌を撫でた。
 それはこの上なくさりげない仕草なのだが……俺の心拍数は半端じゃない。

 彼の指をこんなに近くで見るのは、初めてだ。
 長く華奢な、美しい指。
 ——そして、その指が俺に触れるのも、初めてだ。

「うん、いいね……すっきり香って。
 君によく似合う」
 そう言いながら、彼は美しく微笑む。


「……あ。……嬉しいです。すごく」
 思考を奪われかけた自分にはっと気づく。
 思い出せ俺! 尊敬するあのネコ様たちを!!
 一心に彼らの姿を脳内に描く。

 ……ん? 何となく、気持ちが落ち着いてきたか……?
 猫効果……どうやらありらしい。

 動くたびに、手許から爽やかに甘い香りが立ち上る。
 何だか少し大人になったような、ふわふわと幸せな気分だ。

 大根おろしの山を一気に鍋に投入し、神岡が宣言する。
「さあ、できたぞ。いざ食うべし!」
 鍋の中身は、空腹の男二人によってあっという間になくなっていく。大根おろしたっぷりのヘルシーさも嬉しく、それは舌にも健康にも最高に美味なのであった。




✳︎




 翌日は休暇を取っている神岡は、食後の片付けも約束通りこなしていた。
 柊は日本酒を随分気に入ったようで、引き続きグラスを愛おしそうに傾ける。

「飲み過ぎるなよ? 美味い酒はどんどん入っちゃうからね」
「大丈夫ですよ。俺、結構酒強いみたいだし。
 ……それより、今日はありがとうございます。俺、マジで嬉しいです」

 柊はリビングのローテーブルに頬杖をつき、嬉しげに神岡に微笑む。
 酒が、その頬を綺麗な桃色に染め、黒い瞳を一層艶やかに見せる。

 黒く艶のある髪と涼しい瞳、白い肌。
 驚くほど美しい男の子が、目の前にいる。

「——たまにはね」
 そんな柊の姿に、一瞬言葉に詰まる感覚を覚えながら——短くそう答えた。


 片付けを終え、ローテーブルの横へソファベッドを開いて座ると、自分のグラスにも酒を注ぐ。この酒のふわりと甘い爽やかさは格別だ。トロリと心地いい酔いに包まれる。

 和らいだ気持ちで、柊に話しかける。
「——柊くん。
 もしも、君がウチみたいな会社の次期社長だったら……君は楽しいか?」

「え?……随分急な質問ですね」
 柊はそう柔らかに微笑む。

「楽しいかどうかはわからないけど……
 でも——やり甲斐はあるんじゃないですか? 大きな会社を運営するなんて、そうそう就けるポジションじゃないし。
 それに、人生の長い時間を過ごす『家』っていう大切な場所を、全力で創る。いい仕事ですよね。
 俺も、そんな思いがあったから、建築を勉強したんです」

 生き生きとした瞳でそう答える柊を、神岡はじっと見つめた。
「——君は、思ったより熱い心を持ってるみたいだね。……そういう君の思いを聞いたのは、初めてだ」
「でも、思いだけじゃダメなんですよね。なんだかんだ言って、こんなふうにまだ定職も探せていないですし。
 ——そういう神岡さんは、なかなか熱くならないタイプなんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
 そう答えながら軽く笑おうとした神岡だったが——柊の様子を見て、ぎょっと固まった。

 柊はグラスをテーブルに置き、つかつかと歩み寄ると四つん這いになってベッドに乗り上がり、神岡の間近までにじり寄った。

「なるほど……どおりで、なかなか熱くならない」
「………へ??」
「だって……俺は、あなたの猫じゃないですか。
 いつもこんなに、ご主人様に近づきたいのに——それに気づいてやれないなんて、飼い主失格ですよ、神岡さん?
 たまには優しく抱いてやらなきゃ、拗ねて引っ掻きますからね」

 柊の突然のこの言動に、神岡は呆気にとられた。
「ねね、ネコ?? たまには……って……どど、どうしちゃったの柊くん……!?」
 無言のまま、柊は腰をしならせて神岡に重みをかける。
 その重さと勢いに押され、神岡は仰向けに倒れるしかない。
 そんな神岡の身体へ上半身を乗せると、柊はそのワイシャツの胸元へ白い額を擦り付けた。

「し、柊くん……!」
「俺、真面目に言ってますよ……ちゃんと分かってます?」
 柊は胸から顔を上げると、黒く潤った美しい瞳でじっと神岡を見つめ、そう囁く。
 トワレが、その白く滑らかな肌で温まり、甘い匂いを放つ。

 ああ……
 まずいよ。柊くん……。

「…………」
 再び頰をワイシャツに埋める柊を、神岡は無言で見つめた。
 服越しに触れる身体の感触と匂いが、神岡の思考を揺さぶる。

 必死に抑制していた腕が——そっと柊の背に回った。
 思ったより華奢な背のしなやかさが、セーター越しに腕に伝わる。

「———柊……くん……」
 回した腕に、思わず力が籠もった。

「………にゃあ……」
 それに反応してなのか、そんな声を漏らし——柊は、神岡の胸の上で深い寝息を立て始めた。

 ——眠った……のか?
 ……ああ。助かった……。

 彼が眠り込むのが、あと30秒遅かったら——自分は柊を抱きかかえ、その身体を組み敷いていたに違いない。
 そうなれば——もう抑えは効かないだろう。

 間近で自分を見つめた、甘やかな瞳。
 さぞ白く滑らかであろう、しなやかな身体。
 いつも理系的にきちんとシャイな彼が見せた——もうひとりの彼。

 正体なく爆睡する柊を、そっと傍に横たえる。
 ローテーブルの上の日本酒の瓶は、既にほぼ空になっていた。

 ああ、明らかに飲み過ぎだ。いくら美味いからって……。
 なぜ彼がいきなり猫化したのかは、よくわからないが……

 ——さっきの彼の言動は、本心なのだろうか?
 いくら酔っていたとしても……思ってもいない言葉を、あんな風に吐き出したりするだろうか?

 はああ……
 額を指で覆い、深いため息をついた。

 そして、静かな柊の寝顔を見つめる。

 ——とにかく。
 このままでは、いけないようだ。

 乱れた思考を何とか整えながら、神岡は未だに治まらない鼓動を感じていた。




✳︎




 翌朝。
 目覚めると、俺は神岡のソファベッドにいた。

「———!!?」
 ガバっと跳ね起きる。

 何だ? 何故ここに!?
 もしや……何かやらかしたのか、俺……!?
 と、とりあえず服は着ている。落ち着け!

 必死に心を鎮めて、昨夜のことを反芻する。
 片付けを終えた神岡がこのベッドに来た辺りまでは、どうやら覚えている。
 だが……その後の記憶はぷっつり途切れて、どうやっても思い出せない。
 そして……このベッドの持ち主である神岡がいない。
 横で寝ていた気配もない。

 辺りを見回すと——テーブルの向こう側の床にクッションがいくつも敷かれ、側には毛布が置いてある。

 もしかして……彼は昨日、床で眠ったんだろうか?
 こんなにベッド広いのに……なんで?

「おはよう」
 キッチンからの声に、ビクッと肩が震えた。
「お……お……おはようございます……」
 俺は、ろくに振り返ることもできないまま、そう答えた。


 神岡の準備した、例によって完璧な朝食を一緒に取る。
 彼はいつになく黙り込んで、静かにコーヒーを啜っている。

 ああ……
 残念だが……本日をもって、この契約は終了だ。恐らく。
 つまり、クビだ。
 何をやらかしたのかはわからないが……この空気は、とりあえず間違いない。
 俺も、何も言い出せないまま、俯いてサラダをつつく。

「……柊くん」
「あっはっはいっ!?」
 ビビりまくって情けない返事をする。

 神岡は、ちらっと俺に視線を向けると、話し始めた。
「今回の契約についてだが……」
「はい………残念です……」
「……僕は、君の気持ちを、ちゃんと理解できていなかったのかもしれない。——少し反省したんだ」

「………はい??」
 俺は思わず、俯いていた顔を上げた。

「僕も、柊くんにこんなに甘えさせてもらってるんだから……
 君も、これからはもっと僕に甘えてくれたら……と。
 ……いやまあ、あんまり体重かけられると困るんだけど……!」
 神岡は頭をかき、なぜか横を向きつつボソボソとそんなことを呟く。

「つまり——
 君は、君の気持ちのまま振舞ってくれればいいんだ。いや、むしろそうして欲しい。——僕も、もっといろんな君を知りたいし……」

 え??
 いろんな俺を、知りたい……?
 しかも——いつも変人的に平常心なこの人が、なんかやたらに照れ臭そうにして……なんで??
 わからないことだらけだ。

「今後は、君が僕に必要以上に気を遣うのはナシだ。呼び捨てでも、タメ口でも構わない。このことを契約内容に追加しよう。
 君が嫌じゃなければ——だけどね」

 ……なんだかよくわからないが——
 どうやら、俺はクビにならずに済むらしい。
 そして——俺はもう、何かのふりをして自分を取り繕う必要はない……らしい。

 彼の言葉に、これまで蓄積していた緊張がふっと解けていく気がした。

「ありがとうございます。
 嬉しいです。——とても」
「それから……」
「はい?」
「……ネコっぽく甘える柊くんも、たまには見たいなあ……と。
 ……まあ、さすがに昨夜のはちょっとやりすぎだが」
「………は!!???」

 俺の顔から、さーっと血の気が引いた。

 昨夜、俺は……?
 まさか……ネコのように、神岡に甘え……?
 写真集のネコ達を脳にインプットしすぎたか!?
 あああ、想像したくない……!!!
「君の中に、あんな君がいるとは……知らなかった」
 しかもなぜそこで目一杯ドギマギする神岡樹!!?
 あんな俺って……どんな俺だよ!?
 ものすごく聞きたい……けど怖すぎて聞けねーーーー!!

「……あ、あはは…………」
 結局何も聞けず、俺は固まり青ざめたまま引きつった笑顔を返すしかなかった。


 朝食を終えて帰る神岡を見送ると、俺はバタバタと部屋に駆け込み、慌てて猫の写真集を見直した。
 何やったんだ俺! どのネコになったんだ、昨日の俺!?

「……ん?」
 焦ってめくる写真集の中、主人の胸に顔をすり寄せる甘え上手な猫が……俺をちらりと見て、クスッと笑った気がした。