柊の部屋を後にした、土曜の午後。
 一度自分の部屋へ戻った樹は、デートの支度を急いだ。
 当然、婚約者である二階堂美月とのデートだ。

 その日は、美月の希望で映画を観た後にショッピングを楽しみ、最近話題のフレンチレストランで夕食を取ることになっていた。
 だが——少し予定時間に遅れそうだ。

 美月に、30分ほど会う時間を遅らせられるか、急ぎ連絡を取った。
「ええ、大丈夫ですわ」
 美月は、いつものおっとりと柔らかな声で樹の電話に答える。
「申し訳ありません、美月さん」
「いいえ、お気になさらないで」

 待ち合わせのカフェの、窓側の席。
 ドアを開けて入って来た樹を見つけると、美月は蕾が開くような笑みをこぼして小さく手を振った。

 雪のように白い肌、アーモンド型に大きく潤う二重の瞳。淡いピンクの頬と唇。
 ゆるくウェーブのかかった栗色のロングの髪が、白いハイネックの柔らかなセーターに美しく映える。
 細い肩や柔らかそうな胸を、そのセーターが程よく強調している。
 冬の淡い日差しを受けて、その姿は現実離れした美しさだ。

「行きましょうか」
 すらりと立ち上がる。
 淡いラベンダー色のフレアスカートがふわりと揺れる。
 上質なグレーのファーコートを優雅に羽織ると、美月はにっこりと微笑んだ。
「済みませんでした、予定を変えさせてしまって」
 当たり障りのない言葉で謝罪し、樹は機械的に微笑み返す。

 いつも通りのデート。可もなく不可もない。
 夜の街の灯が眼下に美しいレストランは、いかにも人気を集めそうな雰囲気だ。
 だが……話題の店のはずなのに、フレンチはどことなく味気ない。
 まあ、どこもこんなものだ。
 樹は、向かいの席でスパークリングワインのグラスを傾ける美月に無難な話題を振る。
「今日の映画、どうでした? 美月さん」
「そうですね……予想してたよりストーリーが浅かったような……樹さんは、どう思います?」
「うーん……まあ良かったんじゃないですか? なかなか気持ちいいハッピーエンドだったし」
 そう答えて、樹は柔らかく微笑む。

 そんな樹をじっと見つめて——美月は囁く。

「樹さん……何だか、最近少し変わったわ」

「ん、どこが?」
「よくわからないけど……
 なんていうか、どこか満ち足りてる、っていうのかしら……そんな笑顔だわ」
「それは……きっと、あなたといるからでしょう?」
「うふふ、きっとそうね」
 ふたり同時に、完璧な微笑みを交わす。

「美味しかった……ちょっとレストルーム行って来ます。ごめんなさい」

 席を立つ美月の姿を見送ると、樹は退屈そうな顔で頬杖をつき、窓の外を見る。

「……柊くんのぶり大根」
 煌めく夜景を眺め、ぼそりと呟いた。

 柊。
 ひいらぎ。
 12月24日の誕生花。

 ……彼の誕生日、もうすぐだ。
 最初に履歴書を見た時の記憶がインプットされていた。

 ……そうだ。何か、プレゼントしよう。
 何を贈ったら喜ぶだろう?
 それとも、ドッキリでも仕掛けて怒らせてみようか?
 冷静でクールなようでいて、実は内心ちょいちょい派手にパニクってる。……彼は隠してるつもりみたいだが。
 つい吹き出したくて、気づかないふりをするのが大変なんだ。
 いろいろ練らなきゃな。彼をパニクらせる、グッドアイデアを。

 そうして——樹は、物憂い気分をいつしか忘れていた。



「——今日、午前中に彼がどこにいたか、わかったのね?」

 レストルーム。
 美月は、スマホの奥の通話相手に小声で囁いた。

 これまでなんとなく感じていた、樹の変化。
 それが今日、とうとう形になって現れたような気がしていた。
 樹がデートの予定時間を急にずらすなんて、これまで一度もなかったことだ。

 美月は、樹の変化に気付き始めてすぐ、自分の世話係兼ボディガードに樹の行動を見張らせていた。
 その男から、先ほど情報が入ったのだ。

「——そう。ありがとう。引き続きお願いね」
 美月は、淡々とした無表情で通話を終えると、自分の席へと足を向けた。




✳︎




「どしたのぉ、三崎くん? なんか考え込んじゃって」
「……あのさあ、村上くん」
「ん?」
「年上の男って、どう思う?」
「ぐふっ」
 バイト先のGS、昼の休憩時間。
 村上くんは、俺の問いにカップ味噌汁を吹きそうになった。

「……ど、どう思う……って、何を?」
「いや、だから、いろいろさ」
 俺は、缶コーヒーのタブをなんとなく指でいじりながら呟く。

 ぶり大根の夕食を神岡に作った夜。
 あれ以来、俺の脳内は、ふと気づけばぐるぐるとそんなことを考えていた。

 無防備で、無邪気に見える神岡。
 でも、本当はいろんなことを経験済みのはずで。
 それなのに——俺の前では、固いガードや警戒心など全く見せず……そんなものはすっかりどこかに置いて来たような顔をする。

 今の俺は……彼にとって、どういう存在なんだろう。
 やっぱり、単なる扱いやすいペットかおもちゃのように、面白がられているだけなんだろうか?

 彼は——俺が成人済みの男だと、意識することはないのだろうか。
 場合によっては、いろいろなものを容易く刺激されてしまう、ある意味育ち盛りの男なのだと。

 それとも、同性には心が動かないと言った俺の最初の言葉に、安心し切っているのだろうか。
 はたまた、まだ幼い子供の頭をナデナデしてる感覚なのか?

 俺の質問にびっくり仰天した面持ちの村上くんを見て、慌てて取り繕った。
「……あ、深い意味じゃなくてさ。4、5歳年齢が違うと、考え方とか随分違うものなのかなあって」
「あ、そういうヤツね……びっくりした。なんかいつも質問紛らわしいよ、三崎くん?
 でも——そりゃまあ違うんじゃない?
 4〜5年後っていったらさ、20代後半とかだろ? 社会人になってそれなりに苦労積んでるだろうし、結婚とか考える奴は考えてんだろうし。とりあえず、バイトして過ごしてる俺たちとは住んでる世界が違うんじゃね?」
「……だろうね、やっぱり。いろんな意味で俺たちなんかよりずっと経験豊富なんだろうな」
「なに、この前飯食いに来た先輩と話してなんか感じたわけ?」
「ん〜……彼は大企業でバリバリやってる人なんだけどさ、なんだか男臭くなるもんだなあ。肩凝ってるみたいで、首ごりごり回したりして。ちらっとおじさんぽいんだけど、ちょっとかっこよくてさ。憧れ……っていうのかな。よくわかんないけど」
「へえ。肩こりがかっこよく見える、か。
 ……その先輩、男の色気漂うイケメンビジネスマンだったりすんだろ?」
「お? 村上くん、思ったより勘がいいな」
「はは。そんな男前だったら尚更経験豊富で当たり前じゃん? いろいろ聞けばどんどん出て来そうだよな、深い話が」
「ちょっとだけ聞いたけど。——すごい美貌の彼と付き合ってたって」
「げふっっ!!」
 今度こそ、村上くんは吹いた。

「あああ、ほらティッシュ!」
「ゲホ……サンキュ。はあ。……先輩はそちら方面?」
「……中間っぽいけど」
「そうなんだ。つまり、バイ……ってことね。——まあ俺は別に偏見とか一切ないけどね。
 でもさ……」
 村上くんはカップ味噌汁と弁当を少し脇によけると、俺に顔を近づけてボソボソと呟いた。
「……男とのセックス知っちゃうと、よすぎて女の子とのエッチには戻れない……とは聞いたことがある」
「ごほっっ!!?」
 今度は俺が飲んでいた缶コーヒーを思い切り気管に吸い込んだ。

「——まじか……?」
「俺の実体験じゃないからなんとも言えないけど。まあ、そうらしいよ」

 ———男とするのは、そんなにいいのか……?
 いや、そうじゃなくて!!
「今の話、そんなにショッキングだった? 三崎くん」
「あ、いや、まあ……ちょっとね」

 ああ。まずい。
 こんな情報を聞いては……神岡といる夜は、今後ますます挙動不審な自分と闘う羽目になる。
 ただでさえ、彼に対して何かがざわざわと動き出す感覚は、もう追い払えなくなっている。
 これまでは、そんな自分のよくわからない気持ちを分析しないようにしながら、必死にごまかしていたけど。

 もしも——万一、何かのきっかけで、そっち方面の事態が誘引されることになったら——。
 どうなるんだろう?

 缶コーヒーの残りを、一気に呷る。
 ……う〜ん。こんな会話するんじゃなかった。

 そしてこの後——
 こともあろうか、俺自身がとんでもない方向へ踏み出そうなんて……まだこの時は、想像もしていなかった。