文化祭が終わった。
 昨日まであんなにあちこちで喧騒がひしめいていたというのに、翌日になればすっかりその様相は鳴りを潜めている。現金なものだと思った。肌寒い秋晴れの空の下、僕はいつも通り登校し、いつも通り生徒玄関で靴を履き替えていつも通り教室に向かう。また、何も変わらない日常が始まろうとしていた。

「よーっす、寺沢!」

 教室に入るや、やたらとテンションの高い声とともに長い右手が降ってきた。それはそのまま僕の肩に着地し、軽く体重をかけられる。

「小山おはよ」
「おう、昨日はありがとな」

 いきなり「昨日」と言われ、ドキリとする。
 しかし続くお礼の言葉に何のことかわからず、僕は首を傾げた。すると彼は、「またまたぁ〜」と陽気に笑って背中をバシバシ叩いてきた。

「昨日の文化祭、藤野と俺と寺沢の三人で回る予定だったのを、俺を気遣って用事があるとか言って二人にしてくれたんだろ? 藤野が残念がってたのはモヤるけど、結果的には二人で楽しく回れたし、マジでサンキューな!」

 なるほど。蒼華はそういうふうに言ったのか。
 僕は軽く周囲を見回し、窓際の席で笑っている幼馴染を目に留めた。
 すると、彼女の方も僕を見とめた。
 目が合う。
 パーンチ、と彼女は口パクで言いながら拳を突き出してきた。その表情は笑っていたけれど、どこか悲しげにも見えた。
 僕はあのあと、蒼華とは何も話していなかった。陽葵が落ち着いてクラスのみんなと合流した時は既に片付けが始まっていたし、そのままあれよあれよと打ち上げの流れになって、僕は蒼華や小山とは別の陽葵たちのグループに混ざることになったからだ。解散した時も蒼華はいつの間にか先に帰っていて、夜にメッセージを送ることも躊躇われたため、通用口でわかれてから実質顔を合わせたのはこれが初めてだった。
 彼女の投げパンチに、ごめん、とジェスチャーをしかけて、僕は手を止めた。
 これじゃない、よな。
 違うだろ、と自分の心に再度ツッコんでから、僕も拳を突き出した。
 ありがとう。
 同じように口だけで、僕は応えた。
 彼女は少しだけ驚いた顔をしていたけれど、また笑顔になって友達との歓談を再開していた。今度は純粋な笑顔で友達と、そして陽葵と、楽しそうに話していた。

「おい、幼馴染」

 そこで、ぐいっと体重がかけられる。また小山だ。今度はほとんど全体重で、僕は軽くよろける。

「な、なに?」
「俺、負けねーからな」

 ささやくように、小山は言った。
 なんとも彼らしくない、今まで聞いたことがないほど低い声だった。
 また、気づく。
 当たり前のことだ。
 小山も、ただ素直なだけじゃない。

「そうか。まあ、頑張れ」
「んだよ、なんか腹立つな。今日の図書委員代われよ」
「やだよ」

 僕らは、どちらも窓の方を見つめながら笑った。
 見つめる先は、微妙に違っていた。

 *

 授業を終えると、僕は陽葵と合流してとある場所へ向かった。そこは初めて向かう場所だっただけに、僕は少しばかり緊張していた。

「優人くん、難しい顔してるよ」
「わかってるよ」
「あははっ、硬くなりすぎでしょ。大丈夫だって」

 隣を歩く陽葵は朗らかに笑っている。そこには僕と違って緊張しているような素振りはない。どこまでも自然体で、むしろどこかワクワクしているようにすら感じる。
 そんなに楽しみなのか、と僕は若干の不満を覚えつつ、目的地である三年七組の教室に辿り着いた。放課後だというのに思いのほか生徒は多く、雑談に耽る僕らの教室とは違ってみんな自分の机に向かって真剣に勉強をしていた。
 さすがは受験生だなあ。
 素直な感想を抱く間もなく、僕は教壇の一番前に座るナミダ先輩を見つけて、思わず笑ってしまった。
 必至に教科書や問題集と向き合っている生徒の中に混じって、ナミダ先輩だけはイヤホンを耳につけスマホを横持ちにして何やら動画らしきものを眺めていた。その口元は引くくらいニヤついている。全く、あの先輩は相変わらず……

「ナミダせんぱーい! ちょっといいですかー!」

 そこへ、教室内をのぞきこんできた僕の背後から陽葵の声が響いた。当然、クラス内で必死に受験勉強に勤しんでいる受験生ほぼ全員から怪訝とも興味ともつかない視線が向けられる。二十人以上の上級生から一斉に見られるのはなかなかの圧力で、三年生の教室に行くだけで緊張していた僕の心臓は否が応でも跳び上がった。

「おい、陽葵」
「え、なに?」

 僕が向ける抗議の視線もどこ吹く風とばかりに、僕の背中に隠れる陽葵は悪戯っぽく笑う。明らかに確信犯だ。こいつめ。
 若干の苛立ちと歯がゆしさにペシリと陽葵の頭をはたけば、その数倍の威力で今度は別方向から僕の頭がはたかれた。

「受験生のクラスの前でいちゃつくでない、見目麗しき乙女とその下僕よ」

 殊更に厳かな声で、マッチョな肉体とやつれた顔を持つナミダ先輩が出てきた。僕はげんなりとして先輩を見上げる。

「それはいったいなんのアニメですか」
「おお、よくぞ聞いてくれた。実は和風ファンタジーでな、これがもう」
「はいはい、ストップストップです。いったん部室に行きましょ」

 僕の失態で入りかけていたナミダ先輩のスイッチを陽葵が止め、そのまま二人合わせて部室まで連行された。三人の中では一番力が弱いはずなのに、僕もナミダ先輩も逆らえずになされるがままだった。
 どうにかこうにか到着した部室で、それぞれがいつもの席に腰かけてからおもむろに口を開いた。

「ナミダ先輩、いろいろとありがとうございました」

 何から話したものかと思案した挙句、最初に僕の口から出てきた言葉はお礼だった。
 そんな僕の殊勝とも言える態度に、ナミダ先輩は涙を流すどころか大爆笑で応えてきた。

「ど、どんな悲壮な決意がその口から飛び出すかと……フフッ、み、身構えていたのに、ハハッ、ようやく出たのが、クックック……お、お礼かよ……ハハハハハッ!」
「ナミダ先輩笑い過ぎです」

 心底ムカつきはしたけれど、背中を押してくれた恩のこともあるので僕はグッと堪えた。でも心は、なぜかとてもすっきりしていた。
 それから、ナミダ先輩が落ち着くのを待って僕と陽葵は改めて事の次第を簡潔に話した。

「そうか。文化祭では撮影できなかったのか」
「はい。まあ、その、いろいろとありまして」

 結局のところ、僕と陽葵は文化祭の動画については撮影できなかった。
 陽葵は泣きじゃくっていたし、僕も泣きはらして二人して赤く腫れたまぶたを戻すのに必死だったから。冷やしたり温めたり目薬を差したり顔を洗ったりととにかくスマホで調べてはあらゆることを試していた。そうこうしているうちにどうにか腫れは治まったけれど、文化祭も同時に終わりを告げていた。
 ナミダ先輩には当初から最後くらいは一緒に動画を撮りましょうと言っていたこともあったが、背中を押してもらった手前、『怨念ノート』のことや陽葵の過去のことは話せないまでも、すれ違いが起きてぶつかって仲直りをしたことくらいは話しておきたかった。まあもっとも、いざ話すと僕も陽葵もしどろもどろにはなったのだけど。

「でも、良かったじゃないか。言いたいことが言えたんだろう? そういう言いたいことを言える相手は、大切にしていけよな」
「はい」
「もちろんです」

 いろいろと察してくれたらしいナミダ先輩に、僕と陽葵は精一杯の頷きで応えた。

「さてさて、それで? 結局二人はどうなんだ? んん~? やっぱり二人は付き合ってるんだよな?」
「「ええ、付き合ってます」」
「またまた、そんなことを言って~…………え?」

 それともうひとつ。最初から最後まで振り回されっぱなしのナミダ先輩に、ささやかな意趣返しもしておいた。
 ナミダ先輩はどこか大仰に悔しそうにしていたが、最後は嬉々とした表情で笑っていた。

「ったく。そんなふうに言えるならもう大丈夫だな、新部長と新副部長」
「ははっ、そうですね」
「うん、二人でならきっと大丈夫!」

 だから僕も、陽葵と一緒に笑い返した。

 *

 教室に戻るナミダ先輩に別れを告げると、僕と陽葵は連れ立って学校から出た。
 ナミダ先輩との話が盛り上がっていたからか、意外にも時間は経っていたようで、夕陽はすっかり彼方へと沈み、頭上には群青色の空が広がっていた。

「なんか、こうして二人で下校するのってすごく久しぶりな感じがするね」

 すぐ隣を歩く陽葵が、しみじみとつぶやいた。

「そういえば、そうだね。なんだかんだで、二週間ぶりくらいかな」

 思い返しながら、僕は頷く。昨日は打ち上げ先のファミレスで別れたし、それより前はぎくしゃくしていてそれどころじゃなかったからな。
 けれど彼女は、不満とばかりに頬を膨らませて僕の前に回り込んできた。

「え~もっとじゃない~? 私の感覚的には二年ぶりくらいだよ」
「中学生じゃないか。ていうか、二年前はそもそも僕たち出会ってないからね」
「お~そう言われればそんな気もしてこないこともない」

 大げさで変なことを言う陽葵に僕は肩をすくめる。まったく、何を言ってるんだか。
 でも、不思議と共感もできた。
 僕と陽葵はまともに話すようになってからまだ二ヵ月も経っていない。彼女の言うように、感覚的にはもっと長い時間をともに過ごしてきたように思えてくる。

「きっと、そのくらい密度の濃い時間を過ごせたんだろうな」
「わっ、珍しく気障なこと言うね~」

 ほとんど咄嗟につぶやけば、陽葵はここぞとばかりにからかってくる。
 相変わらずな陽葵に、僕は仕返しとばかりに彼女の手を握ってみせた。
 すると彼女は一瞬固まり、それからややためらいがちに握り返してきた。高らかに響いていたいじり口調は、すっかり聞こえなくなっていた。
 そのまま僕たちは、人気の少ない住宅街を駅に向かってのんびりと歩いていた。どこかで名前も知らない虫が音色を奏でており、肌寒いながらもまだ季節は秋であることが実感できた。

「私ね、昨日帰ってから、お父さんたちと少し話したんだ」

 手を繋いだまま、陽葵は世間話をするみたいな口調で言った。

「そっか。どうだった?」

 だから僕も、同じ調子で尋ねる。
 陽葵は少しだけ考えるようにしてから、コツンと僕の肩に頭をぶつけてきた。

「全部は、言えなかった。お母さんが死んで寂しかったことと、もしかしたら私がいない方が二人は幸せになれるかもしれないって思っちゃったことと、冷たくしてごめんってことだけ。そしたら、泣いて怒られた」
「そっか」
「うん……それから、謝って抱き締めてくれた」
「そっか」
「うん」

 陽葵は、静かに泣いていた。
 だから僕は見ないふりをした。でもそれだけじゃ足りない気がして、彼女の手を強く握って、言った。

「僕も、言ってみようかな。親に」
「え、なんて?」
「僕の親は共働きで、ほとんど家にいないからさ。できる限り時間は作ってくれるけど、やっぱり寂しく感じる日もあるから。あと、たまには付き合ってるカノジョと遅くまで遊びたいってことと、いつもありがとうって」
「おぉ。いいんじゃない」
「だよね」

 陽がどんどんと暮れていく。いつの間にか、星が薄っすらと僕らを見下ろしていた。

「動画、どうしようか?」

 意図的に脇道に逸れてから、僕は訊いた。
 文化祭で動画は撮らなかったけれど、それでもショート動画を作るだけの素材は既にかなりの数があった。現実逃避のために費やした動画編集練習のおかげでトランジションの組み込みも大丈夫だろうし、陽葵がやると言えば全力で手伝うつもりだった。
 けれど、陽葵はふるふると首を横に振った。

「いったん、保留で。まだ考えてる途中だけど、もっと他に撮りたいシーンが出てきそうだから」
「それなら、第一弾みたいな感じで一回出してみるのもアリじゃない?」
「それも一理あるけど、優人くんと作り上げる記念すべきファーストショートムービーなんだから、今はバズるとか無視して自己満足でも時間をかけるだけかけたいの!」
「そ、そっか」

 顔を赤くしてそんなふうに強く言われれば、僕としては返す言葉がない。というか、恥ずかしい。

「優人くんのほうこそ、どうしたいの? 私との記念すべきファーストショートムービーは」
「え、僕?」
「そうだよ。だってもう、優しさだけで手伝ってるわけじゃないでしょ?」

 陽葵は真っ直ぐな瞳で僕を見てくる。
 僕は、どうしたいんだろう。

「陽葵との何気ない日々を、ちゃんと積み重ねながら撮りたい、かな」

 気づけば、言っていた。
 心に思ったことをそのまま、口にしていた。

「でしょ!」

 陽葵が笑う。
 どうやら、彼女も同じみたいだった。
 月が出ていた。
 二人で静かに見上げた。
 中秋の名月が先週に過ぎた、なんてことはない日常の半月だった。

「寺沢優人は、人畜無害なお人好しじゃなかったね」

 不意に、彼女がつぶやいた。

「寺沢優人は、私にとってはどこまでも有害なお人好しだったな」

 そんなことを言うものだから、僕も彼女に言ってやった。

「水口陽葵も、僕にとっては最高に悪い女だったよ」

 平穏で平坦だった僕の日々を、暗く、明るく、大きく変えてくれた女性。
 そんな彼女ともう一度、何度でも顔を見合わせて、小さく笑う。

「だからこそ、好き」
「だからこそ、好きだ」

 星空の下。僕たちは手を繋いだまま、薄暗い住宅街の道へと歩いていった。