頭上には、どんよりとした曇り空が広がっていた。昨日まで降り続いていた秋雨のせいだろう。気温もかなり低く、一気に冬が到来したかのように肌寒い。
 そんな曇天で寒気に満ちた気候の中、僕はひとり駅前で立っていた。

「ったく、ほんとにどうしたんだろ」

 近くにある時計台へ視線を向けると、もうすぐ時刻は午後一時を回ろうとしていた。それだけ聞くとなるほど土曜か日曜に誰かと待ち合わせでもしているんだなと想像するだろうが、今日は至ってごく普通の平日だ。代休になっているわけでも、はたまたせっかちなインフルエンザが流行って学級閉鎖になっているわけでもない。おそらくまさに今、午後の授業が始まろうとしているところだろう。
 では、どうして僕は駅前になんかいるのか。
 服装は制服である。つまるところ、午前中で早退してきたからだ。先生には、体調不良で文化祭に向けて大事をとりたいと言ったら快く承諾してくれた。もちろん仮病ではあるが、いつもあれこれと頼み事をこなしているのだから大目に見てほしい。
 ではでは、どうして僕が仮病まで使って早退し、平日のど真ん中に駅前にいるのか。
 そこで話は振り出しに戻る。午後一時を回ったところで、遠目に待ち合わせ相手である少女の影がひらひらと手を振っていた。

「おはよ、優人くん」
「もう昼過ぎてるけど、おはよう、水口さん」

 僕に学校をサボらせた張本人である水口さんは珍しく後ろで髪を結い、実にシンプルな私服で駆け寄ってきた。制服ではない。それもそのはず、水口さんは今日の午前中から学校を休んでいた。
 先生は今朝のHRで体調不良と説明していたが、僕のスマホには「仮病で休むからよろしく」とメッセージがあった。何をよろしくなのかわからず、「どういうこと?」と送ったが返事はなかった。
 それがわかったのは、昼休み。ナミダ先輩とのやりとりを経て、ちゃんと気持ちを伝えようと決めた翌日なだけに出鼻を挫かれた気分だった僕の元へ、「学校早退して駅前まで来てくれない?」などと返信が来たのだ。
 いつもの僕なら、まず間違いなく断る内容の頼み事だ。さすがに嘘をついて学校を抜け出すのはリスクが高いし、そこまで自己犠牲を図って誰かに親切を働こうとは思わない。
 でも、水口さんが相手となれば話は変わってくる。昨日の決意もあるし、二人でいられる時間があるのならなるべくいたほうがいい。しかも当の本人は学校を休んでいるときた。もしかしたら何かあったのかもしれないと心配にもなるし、彼女のためなら一回くらい学校をサボってもいいかと思えてくるのだ。
 本当に、どうかしてるよなあ。
 そうは思うものの、実際に行動に移してみてもモヤつきや後悔はない。それはつまり、僕の気持ち的にも合っているということなんだろう。

「いや〜まさか優人くんがほんとに抜け出してきてくれるなんて思わなかったよ。それで、どう? 不良になった気分は」
「まあ、悪くはないかな」
「あははっ、そっかそっかあ! 今日はほんとらしくないね! 変なものでも食べた?」

 当の水口さんはまるで悪びれる様子もなく、あけすけな笑い声を響かせた。まったく、誰のせいでこうなっていると思っているのか。僕は肩をすくめて、「昼ごはんを食べ損ねたからだよ」と返しておく。

「それで、今日はいったいどうしたんだ? 学校サボってまで何をしようっていうの?」
「まあまあ、それは目的地に着いてからのお楽しみってことで。それよりほら、これあげる」

 差し出された彼女の手にあるのは、コンビニで買ったらしいあんぱんだった。

「準備いいね」
「でしょ〜。ということで、ほらほらとりあえず移動しよ」

 水口さんからあんぱんを受け取ると、僕らは連れ立ってバスターミナルの方へ歩き出した。

「そういえば、今日は結構すっきりした顔してるね。疲れはとれた?」

 もう一個買っていたらしいあんぱんを隣で頬張りながら、彼女が訊いてきた。僕も倣ってパンをかじりつつ答える。

「まあ、それなりには」
「そっかそっか、それはなにより。噂の幼馴染ちゃんに慰めてもらったの?」
「なんでそこで蒼華が出てくるんだ?」
「だってあのあと、一緒に帰ったんでしょ?」
「帰ったは帰ったけど、べつに慰めてはもらってないよ」

 むしろ乱されたといったほうがいいくらいだ。蒼華があんなふうに迫ってくるなんて想像だにしていなかった。

 ――女の子ってね、意外とみんなズルいんだよ。

 別れ際の彼女の顔が思い出される。
 どこまでも天然で真っ直ぐなばかりだと思っていたが、実はそうではなかったらしい。その一端を見抜いていた水口さんはさすがと言わざるを得ない。

「まあなんでもいいけど、優人くんの疲れがとれたなら良かった。今からやることに差し障りがあるといけないからね」
「ほんとになにやるつもりなの?」
「ふふっ」

 水口さんは不敵に笑う。と思えば、「あ、あのバスに乗るんだよ!」と駆け出した。なんだか今日は、彼女の方こそテンションが高い。
 僕らが乗ったバスは、校外にある港公園の方面へ向かうバスだった。水口さんが言うところに寄れば、終点まで乗っているらしい。
 それはすなわち、僕らは今から港公園に行くことになる。所要時間で言えば、だいたい三十分くらいだ。港公園で、いったい何をするのだろうか。

「よーし、じゃあそろそろ説明しようかな」

 平日の昼間ということもあって人影がまばらな車内で二人掛けの席に座ると、水口さんは意気揚々とつぶやいた。それから、肩にかけていたトートバッグから一冊のノートを取り出す。もはや、すっかり見慣れたノートだ。

「今日はね、私がどうしても晴らしたかった怨念のなりかけを始末しにいくの」

 彼女はゆっくりとノートの一ページ目を開いた。そこには、たどたどしい文字で一言だけ書かれていた。


『お母さん、なんで私をおいていったの?』


「え」

 予想外に重い内容の一行に、僕は目を見張る。

 ――いつか私が、本気で死にたいって言ったら、君は私を止めないでくれる?

 続けて、以前彼女と一悶着あった日の言葉が脳裏をかすめた。同時に、ばくばくと心臓が嫌な鼓動を立て始める。
 もしかして、水口さんはこの無念を晴らしにいくというのか? いや、先ほどそうだと言っていた。つまり、それが意味するところは……

「あ、ごめん! これじゃない! こっち!」

 固まっている僕を見て、水口さんは慌ててノートをもう一ページめくった。拙い文字が瞬時に白紙になり、その横にはいつもと同じ丁寧な文字で走り書きがしてある。

『お父さん、再婚するって言ってたけど大丈夫なのかな。うまくやっていけんのかな。まさか、ゴミみたいな女に騙されてるんじゃないよね? 騙してたら張っ倒してやるけど』

「ほら、この前うちで会ったでしょ。後妻だって説明した人。今日ね、お父さんたち軽い運動も兼ねて散歩デートするみたいで。だから、改めて娘の前では見せない二人の様子をこっそり観察しに行きたいの」
「なんだ……」

 僕はホッと胸を撫で下ろした。焦った。今から心中でもしに行くのかと思った。再婚した両親のデートを観察に行くのか。それなら確かに平日の昼間というのも納得ができ……

「……ん?」

 そこまで考えて、僕は再び固まった。再婚した両親のデートを、観察?

「どしたの、優人くん」
「あのさ、これ本気で言ってる?」

 僕がおもむろに尋ねると、水口さんは当然でしょと言わんばかりに大きく頷いた。

「前々から準備は進めてたんだよ。お父さんのスケジュール帳をこっそり探して、こっそり写メって、このデートコースならここから観察するのがいいだろうなって下見して。このシンプルパーカーコーデも、顔を隠せるようにあえて」
「待って待って待って」

 頭が痛くなってきた。車酔いだろうか、いやそんなわけはない。僕は隣に座る水口さんに向き直る。

「あのさ、少しやりすぎというか、意味がよくわからないんだけど」

 ドラマなんかでは聞いたことがあったが、まさか実際にここまで用意周到に準備して実行に移している人は聞いたことがなかった。しかも再婚する前ならともかく、再婚してそれなりに時間が経ってからときた。いったいどういうことだろうか。

「やりすぎでもなんでも、これだけはやっておきたいことなんだから仕方ないでしょ。大丈夫。この三回目で終わりにするから」
「え? 三回目?」
「うん、さっき言ったでしょ。改めて、って」 

 そういえば言っていた。僕は辟易とする。

「実践済みなんだね」
「もうお手のものです。それにほら、さっきのあんぱんも尾行の必需品だし」
「あんぱんと牛乳は張り込みだよ。あともう食べてるじゃん」

 最後はくだらない話になったが、僕は頭痛がした辺りですっかり諦めていた。
 基本的に、水口さんは一度言い出したらやるというまできかない意地っ張りで頑固なところがある。怨念のなりかけ解消の手伝いでそれは身をもって味わってきた僕が言うんだから間違いない。だとすれば、僕がとれる選択肢は途中で袂を分かって帰るか、最後まで付き合うかだ。そして僕の心情的に、選択肢はとっくに絞られている。
 呆れ気味の僕と意気込み充分の水口さんを乗せたバスは、街中を通り抜け、海沿いを走り、しっかり三十分かけて港公園へと着いた。バスを降りると、潮の香りはらんだ風が吹きつけてきた。

「さあーて、お父さんたちは二時頃に車でここに来るはずだから、駐車場と公園の境にある出入り口で待ち伏せしていようよ」
「楽しそうだね」

 再婚した両親の様子を観察するのだというのに、水口さんの表情はなぜか溌剌としている。普通はもっと緊張とかしそうなものだけど。

「こうしてテンション上げないとやってられないのよ。あと、はいこれ。現場用のあんぱん」
「言ってることとやってることが矛盾してる気もするけど、まあいいや」

 現場用とかいうふたつ目のあんぱんを受け取り、僕は中身にかじりついた。先ほどよりもいくぶんか甘みは薄い。
 水口さんのいう待ち伏せ場所に到着すると、スマホの時計は一時五十分になっていた。彼女に見せてもらったスケジュール帳の写真には、確かに今日の日付のところに「午後二時、涼子と港公園で散歩」とあるからもうすぐ来るのだろう。ちなみに涼子というのは、今の水口さんの継母の名前らしい。

「早く着いたって可能性は?」
「ない。お父さん、ウザいくらいに時間にルーズだから。むしろ遅れてくると思う」
「そっか」

 性格把握までバッチリらしい。本当に抜かりがない。
 それからしばらく、僕らは公園の出入り口からは目立たない場所にある木陰に身を潜めた。水口さんは茂みの近くにしゃがんであんぱんを食べ、僕は木の陰に隠れつつもらったミルクティーを飲んだ。本当に張り込みみたいになってきた。

「どこまで尾行というか観察するの?」
「厳密には決めてないけど少なくとも満足するまでは見たいなって思ってる」
「満足、ね」

 ちらりと水口さんの横顔を盗み見る。
 彼女はあんぱんを口にしつつも、いつぞやの時みたく頬を綻ばせてはいなかった。ただ一心に口を動かし、ジッと出入り口の方へと視線を向けている。

「ちなみにさ、満足って」
「あ、来た!」

 僕が最後まで言い切る前に、水口さんは上擦った声をあげた。茂みの隙間から控えめに出された人差し指の先には、確かにこの前水口さんの家に訪れた時に出てきた女性と、その隣を歩く穏やかそうな男性が歩いている。男性の目元は水口さんとそっくりで、血のつながった親子なんだなと思えた。
 それから僕は、もう一度水口さんに視線を戻した。
 彼女は、手を繋いで歩いていく二人を食い入るように見つめていた。

「お父さんたち、広場の方へ入っていくみたいだね。優人くん、行こ」
「あ、うん」

 フードを目深に被り、水口さんは二人がこちらに背を向けたタイミングで茂みから外に出た。その表情はいつになく真剣で、決してふざけてやっているような感じではなかった。
 水口さんのお父さんたちから充分に距離をとり、僕らも歩き出す。その距離はおよそ数十メートル。さすがに、何を話しているかまではわからない。
 ただ僕の目からして、手を繋ぎ、お喋りをしている二人の横顔はとても楽しそうに見えた。大きなお腹を気遣いながら笑顔を湛えてゆっくりと歩いていくさまは、新婚夫婦のようにすら思えてくる。『怨念ノート』に書いてあったような心配事の気配は微塵も感じられない。

「どう? 様子的には」
「普通、だね。今のところ。二人とも、家にいる時と同じ顔してる」
「同じ顔……」

 そういえば、水口さんは以前言っていた。
 ふとした表情には、自分じゃ気づかない気持ちが表れている時がある、と。
 もしかしたら、水口さんは怨念のなりかけを晴らすのもさることながら、そうした隠れた気持ちを読み取って、二人の本音を垣間見ようとしているのだろうか。特に新しいお母さんとはうまくいっていないと言っていたし、そこから何か関係を進めたいとか改善したいとか、そういうことを思っているのだろうか。
 あるいは、自分の身の振り方を固める何かを、見つけようとしているのだろうか……。

「あ、ベンチに座るみたい」

 考え事をしていると、不意に水口さんが立ち止まった。思考を中断し、僕も前へと目を向ける。

「ほんとだ。噴水の近くか」
「周りに何もないから近づけないんだよね、あそこ。しゃーない、優人くんこっち」

 袖を引っ張られ、連れて来られたのは真っ赤なドウダンツツジの生け垣の後ろ。低木の陰を四つ足で這うようにして進み、ちょうど二人の正面辺りまで来たところで彼女は足を止めた。

「ちょっと体勢きついかもだけど我慢してね。我慢、得意でしょ?」
「……まあ、そうだね」

 唐突に決めつけられ、つい苦笑する。得意だと、思っていた。いろいろと思うことはあれど、誰かのためになるなら我慢することができた。それが優しさだと思っていた。
 でも最近は、内容による、だ。
 水口さんの行動にいちいちやきもきさせられていた。そしてその度になんとか我慢していつも通りにしようとするけれど、結局はできなかった。
 でも不思議と、水口さんの頼み事を叶えるためなら我慢もできる気がした。むしろ今みたいなものなら歓迎だ。水口さんが満足できるまで、なんだかんだと言いつつもとことん付き合えるだろう。
 水口さんを見る。
 僕に軽口をたたいてきたわりには、その表情は真っ直ぐなまま変わらない。どこか不安げにも見えた。
 何を思っているのだろうか。
 そんなことが、どうしても気になってしまう。
 そして、何か他に僕にできることはないだろうかと、考えてしまう。

「ねえ、水口さん」
「ん、なに?」
「なんとか二人の近くまで行って、会話を聞けないかな?」

 だから、僕は少しばかり考えて思いついたことを提案してみた。

「あの噴水、水口さんのお父さんたちが座っている両脇にもベンチがあるでしょ? あそこなら、話が聞こえると思うんだよね」
「いや、いやいやいや、無理でしょ。私はフードしてても雰囲気ですぐバレそうだし、第一、優人くんは制服じゃん」
「だから、これ」

 僕はポケットから取り出したスマホでいつも見ているSNSを開き、ひとつの投稿を探してタップした。それは、先月水口さんがアップした『制服アレンジ! 可愛くカッコよく一工夫コーデ特集!』だ。

「ちょうど今日、カーディガン持ってきててさ。特集で水口さんが紹介してたたすき掛けをカッターシャツの上からして着崩したら、制服っぽさは少なくなるんじゃないかな? そして僕がひとりで隣のベンチに座って、水口さんのスマホと通話してる状態にしておけばきっと会話を聞き取れると思う」
「で、でも優人くん、前に涼子さんと会ってるじゃん。顔でバレるんじゃ」
「うん。だから座るなら、その涼子さん側にあるベンチがいいと思う。水口さんのお父さんからは見えるけど、位置的に涼子さんからはちょうど死角になるから」
「けど寒いよ? 上着着れないし。それに、私の家庭の問題で、優人くんにそこまでさせるわけには」
「学校サボってる時点で今更でしょ、それは」

 なんとか、水口さんの力になりたかった。
 水口さんが求めるものに近づけるなら、彼女の言う懸念要素くらいはなんてことないように思えた。

「優人くんは……なんでそんなに」

 困惑した水口さんが僕を見つめる。僅かに潤んだ瞳に吸い込まれそうになるのを堪えて、僕は口を開く。

「だって僕は、水口さんが」

 言いかけて、やめる。
 口にしてしまったら、そのほかにもいろいろな感情が溢れてきそうな気がした。今はとにかく、なるべく早く水口さんのお父さんたちの近くに座らないといけない。

「……水口さんの、力になりたいから」

 一瞬の逡巡の後、なんとか僕はそれだけを言った。水口さんは、呆気にとられたように僕を見ていた。

「優人、くん」
「じゃあ、準備して行くね」

 なんだか恥ずかしくなってきて、僕はそそくさと腰を浮かす。気づかれないように、少し離れたところで着崩してから行った方がいいだろう。それから、ぐるっと回って反対側からベンチに

「待って!」

 そこへ、鋭い声が響いた。この先の行動を反芻していた僕は、驚いて声の方を見る。

「やっぱり、大丈夫、やらなくて。もう、大丈夫だから」

 水口さんが、僕のカッターシャツの裾を掴んでいた。俯きがちに「大丈夫」と繰り返している。
 かと思えば、茂みから姿が見えるのもいとわず、一目散に駆け出した。

「水口さんっ!」

 僕の中にまだ僅かに残っていた冷静さが声を抑えた。ちらりと噴水の方をうかがってから、僕も駆け出す。
 水口さんのお父さんたちは気づかず、会話に夢中になっているようだった。

 *

 潮風が、吹き荒んでいた。
 どんよりと空を覆っていた雲が物凄い速さで流れていく。
 時にはその隙間から秋の陽光が漏れ出して海面を輝かせ、時にはまるで日没かと思わせるほどに地上に薄暗い影を落とした。
 ようやく僕が追いついた時、水口さんは公園にある岬の縁で海を眺めていた。

「ごめん、急に走り出しちゃって」

 僕に気づくと、水口さんはなんてことないふうに言って振り返った。けれど、その横顔は微かに歪んでいて、とても何事もないようには思えなかった。

「どうしたの、水口さん」
「んーなんていうか、私、わかっちゃってさ」

 視線の先を僕から海に戻して、水口さんは答える。

「お父さんたち、もう大丈夫だなって。何を話してるのか聞かなくても、ちゃんとお互いを想い合ってるのはわかるなって。現実を見れてなかったのは、私だったんだなって」

 ひときわ大きく、足元で波が弾けた。僕も、遥か彼方に真一文字に伸びる水平線に視線を留める。

「それは、『怨念ノート』に書いてあったこと?」
「うん、そう。あれ書いたの、中三の時。お父さんたちが、再婚する三か月くらい前かな。急に紹介されて、それで、家に帰って書いたんだ」

 風を受けて、水口さんの束ねられた髪がなびき、視界の端をちらついた。

「上手くいってないのは、私のせいなんだ。あの人、涼子さんはとってもいい人。お父さんだって優しいし、ちゃんと私を気遣ってくれてる。みんな、みんないい人で、とっても優しいんだ。私だけだよ、いつまでもわがままを言ってるのは」
「水口さん、それは……」
「うん、わかってる。わかってるよ」

 仕方ない。そう言いかけた僕の意図をどこまで把握してか、水口さんは何度も頷く。

「しょーがないんだよね。これが私なんだから、さ」

 落ち着いた声で、水口さんはつぶやくように言った。
 しょーがない。その通りだ。新しい家族なんて、誰もがすぐに受け入れられるわけじゃない。心配もあれば不満もあり、期待もあれば申し訳なさもある。そういう様々な感情が入り混じるのは当たり前のことで、仕方のないことだ。
 だから、水口さんがそんなに自分を責めることはない。

「私、受け入れていくよ。少しずつだけど、ちゃんと向き合っていく。だからもう、心配しないで」
「水口さん」

 どうしてだろう。
 こんなにも前向きな言葉を水口さんは吐いているのに、なぜか僕の心にはもやが立ち込め始めていた。それは今までの疲れでも、最近の嫉妬でもない。形容しがたい、漠然とした不安のようなモヤモヤだった。
 そんな僕の心中をまたも見透かしたように、水口さんは口を開いて、言った。

「優人くん、ありがとう。君のおかげで、私は私に気づくことができた。だから、次の文化祭の撮影で、もう終わりにしようよ」
「……ぇ?」

 僕の口から、声にならない音が漏れる。それは瞬く間に潮風にさらわれていった。

「優人くんのおかげで、私の中で二年もくすぶっていた感情に整理をつけるきっかけができた。ほら、これ見てよ」

 そう言うと、水口さんはバッグから『怨念ノート』を取り出し、中ほどを開いて僕に見せてくる。

『話題のフレンチトーストのお店いいなあ。友達はみんな彼氏とか部活の友達とかと行ってるし、休日とか鬼混むから気軽に誘えないじゃん。あれ、もしかして私だけか、まだ行ってないの。仲間外れとかさみしー。あーあ、つまんない、しんど』
『↑解消! フレンチトースト、最高に美味しかった!』

「このほかにも、たくさんの小さな不平不満や恨み、妬み、僻み、いろんな悪い感情を発散させることができた。もちろん全部じゃないけど、もう大丈夫だよ。だから、次の撮影で終わりにしよ。ただのクラスメイト、というには親しくなりすぎちゃった気もするけど、『怨念ノート』の件ではもう終わりにして、これからはただの友達として、よろしくね」

 水口さんが笑う。そこにあったのは、いくぶんか不格好であるけど、いつもMIMARIの投稿で見ているような、クラスメイトのみんなに向けているような、花咲く笑顔だった。
 心がざわめく。本当なら嬉しいはずの感情が、微塵も湧いてこない。それは間違いなく、僕らの間にあった名前のない、しかし確かにあった特別な縁が、なくなろうとしているからだ。

「いや、でも、僕はまだ……」

 まだ、なんだろうか。水口さんがもう大丈夫だと言っているのに、まだ手伝うというのはただのお節介だ。お節介でもいいから手伝う? 意味がわからない。

「優人くん、ありがとね。本当に。あ、といってもまだ撮影はあるから、そこまではよろしくだけど!」

 しんみりとしていた雰囲気を飛ばすように張り上げた声が、風音とともに耳を衝く。とても不快で、聞きたくない音だった。
 水口さんが「そろそろ帰ろうか」とバス停のある方へ向けて歩き始める。
 だから僕は、その手を掴んだ。

「待って、水口さん」

 水口さんが止まる。けれど、振り返りはしない。

「水口さんが本当に満足したというのなら、僕も嬉しい。けれど、それとはべつに僕はまだ、終わらせたくない。だって僕は、水口さんのことが好」
「ダメだよ、優人くん」

 最後まで言い切る前に、水口さんは僕の言葉を遮った。

「そこから先は、言わないで」
「どうして」

 どうして、言わせてくれない? ようやく僕は、本当に言いたかった自分の気持ちに気づいたのに。

「だって私は、これ以上優しい優人くんと一緒にいたくないから」

 冷ややかな声だった。言葉では言い尽くせないほど強烈な衝撃が、全身に走る。

「優人くんといると、死にたくなるの。だから、君の気持ちには応えられない。ごめんね」

 水口さんは僕の手を振り払い、再び歩き始めた。
 結局、彼女は一度も僕を振り返らなかった。

 *

 家に着くころには、すっかり日が暮れていた。
 自室の電気も点けずに、僕はベッドに倒れ込む。彼女と同じバスをともにし、なんとなく気まずい雰囲気でわかれ、家に帰る道中ですっかり気力も体力を使い果たしていた。

「はあ……」

 暗い天井に向けて息を吐き出す。肺の空気がいくぶんか抜けて、なんとなく全身が軽くなったように感じるも、それはすぐに重みを増して落ちてきた。僕は再び、ため息をつく。
 僕は、フラれた。
 思っていた形ではなかったけど、水口さんは僕の気持ちを知ったうえで答えていた。「一緒にいたくない」と、「気持ちには応えられない」と言っていた。
 そこまではっきりと言われてしまえば、もう僕にはどうすることもできない。諦めずに再度アプローチをかけるとか、何度も気持ちを伝えるとか、まだやれることもあるだろうけど、そんな力は今の僕には到底なかった。

「僕といると死にたくなる、か」

 最後に彼女が放った言葉は、なかなかに辛辣だった。帰る道中に、どういう意味か何度も尋ねた。けれど決まって、水口さんは「私が惨めに思えるから」としか答えてくれなかった。
 惨めになる。言葉通りに捉えれば、水口さんは僕に何かしらの劣等感とか不快感を覚えていて、それゆえに一緒にいたくないと思っていることなる。
 意味がわからなかった。むしろ惨めになるのは、僕の方だと思った。
 水口さんはフォロワーが何千人といるナノインフルエンサーで、クラスでも明るく振る舞う人気者で、オシャレで可愛くて、普通に考えれば僕なんかが敵う相手ではない。その差に打ちひしがれるのは、普通は僕の方じゃないのか。
 悶々と悩んでいると、やがて母が帰宅した。いつもより早い時間での帰宅だった。家の中が暗いのを不審に思ってか僕の部屋に来たので、僕は体調不良だと返しておいた。今度は仮病でもなんでもなく、本当に体全体がだるくて、顔も熱いように感じた。
 恋の病、という言葉が脳裏をよぎる。
 これも、その一種なんだろうか。これほどまでに辛く悩ましく思うのか。よく勉強や仕事が手につかないという人を小説や映画なんかで見かけるが、なんとなくわかるような気がした。
 やがて、僕は眠った。
 夢を見ていた。
 それは、水口さんと出会った頃の夢だった。

 ――それ、返してくれる?

 床に落ちていたノートを拾ったら、それは水口さんがこっそりつけていたとかいう『怨念ノート』だった。確かにそこには、怨念とまでは言わないまでも、日々の不平不満や恨みつらみが赤裸々に、毒づいて書かれていた。

 ――このノートに書いてある、怨念のなりかけを晴らすの、手伝ってよ

 それから、僕はほとんど流されるようにして、水口さんの怨念のなりかけとやらを晴らす手伝いをすることになった。
 あの日は、そう。有無を言わさずいきなりフレンチトーストの美味しいお店に連れて行かれた。女性ばかりが目につく店内はかなり緊張したし、場違い感が半端なかった。けれど、どうしても入って話題のフレンチトーストを食べたいという水口さんの頼みを断る意思が僕にあるはずもなく、水口さんが満足いくまで話を聞き、フレンチトーストを堪能することになった。
 今にして思えば、楽しかった。
 彼女からすれば、同級生とのカフェなんて『何気ない日常のワンシーン』なのかもしれないけれど、僕にとっては非日常の一環で、新鮮な時間だった。そこから少しずつ、きっと僕は水口さんに惹かれていった。

 ――寺沢くんってさ、なんでそんなに他人に優しくできるの?

 まるでカットシーンみたいに、唐突に場面が切り替わる。
 これは、水口さんから難しい顔をしていると言われた日のことか。

 ――だからね、私にできないことをしている寺沢くんは、本当に優しいし、凄いと思う。でも、休むのも大事だよ。こんな難しい顔してるくらいなんだしさ、やっぱりストレスとか溜まってるんだろうし、そういう気持ちも見逃しちゃダメ。見逃しちゃいけない感情が、隠れている場合もあるんだよ。だからたまにはさ、自分に優しくしたっていいんじゃない? まあ、思いっきり寺沢くんの優しさに付け込んでる私が言えたことじゃないけどね

 僕の顔を水口さんがのぞきこんでくる。真っ直ぐな瞳に、言葉に、僕は確かな衝撃と感動を覚えていた。何か特別に僕を変えたというわけではないけれど、僕の心の中にひとつ、大切な記憶が刻まれた瞬間だった。
 それまでの僕は、誰に対しても親切に、優しく、できることはなんでもしてあげていた。けれど僕の心はそれを良しとはしていなくて、気づかないうちに疲弊していた。水口さんはそれを見抜いていた。
 あの時は気づかなかったけれど、僕は確かに、間違いなく、嬉しかった。自分が心の奥底に無意識に押し込めていた感情を暴かれて、でもそれを否定することなく寄り添ってくれたことに。
 しかも彼女は、その後にあろうことか自分の頼み事をぶち込んできたのだ。わがままに、遠慮なく、「わかったうえでお願いしてるんだ」とまで言っていた。でもそれが、なおさらに彼女のありのままだと感じられて、余計に嬉しかった。
 あの時から、彼女への想いは気づかないうちに、確固たる芽として育っていった。
 僕の心には確かに、見逃しちゃいけない感情が隠れていた。
 運動公園に行った時も、彼女の自慢話を聞いている時も、勉強を教えた時も、一緒にあちこちで動画を撮影していた時も、僕は間違いなく楽しんでいた。手伝いを言い訳にして、僕はいつの間にか水口さんと過ごす時間を待ち望むようになっていた。
 だからこそ僕は、水口さんの家に行くことになったあの日、いきなり言われた小山からの頼み事にここ一番での苛立ちを感じていたのだ。
 おそらくあの時からだろう。僕が今までみたいに、誰に対しても優しくすることができなくなったのは。

 ――本当は人に優しくしたくないんでしょ?

 まるでそれを見抜いていたかのようなタイミングで、水口さんもそう訊いてきていた。ほんとにあの人は、エスパーか何かだと思う。僕の心をどこまでも見透かして、先回りして、真っ直ぐに突き付けてくるのだから。
 僕はあの時、まだそこまで自分の気持ちに気づいていなくて、「そんなことない」と答えた。嘘ではなかったけれど、不十分ではあった。
 僕の中で、人のために何かをするのは嫌いなことじゃない。でもそれには優先順位があって、水口さんのためになることを僕は特に頑張りたくなっていたのだ。そのためなら、傍から見れば迷惑ともとれるような、親切には程遠いことだってする。水口さんの部屋で寝転んだのがいい例だ。
 水口さんが見下ろしてくる。人の部屋で何してるのと問いかけてくる。実にその通りだ。僕はいったい、何をしているのだろう。
 でもきっと、そうすればあの時の水口さんは落ち着くと思った。僕自身も撮影はしたくなかったし、なによりどこか不安定だった水口さんの傍にいたかった。そうすることが水口さんのためになるはずだと、我ながら自分勝手な信念で、僕は寝転んだ。
 こんな気持ちが僕の中にもあったことに、驚きだった。彼女があの日、別れ際に「君もだいぶ私に毒されてきたんじゃない?」と笑っていたけれど、多分半分はその通りで、半分はただ僕の中にあった感情が顔を出してきたからで、それがとても心地よかった。
 僕は、水口さんのことが好きになっていた。
 その気持ちが大きく、大きく育まれていて、僕はクラスメイトやナミダ先輩に嫉妬や苛立ちを覚えるようになった。そこまで来ると親切とか優しさなんて頭からは消え失せて、ただただ自分の中にある暗い感情に囚われていた。さらにそこに、蒼華まで入り込んできたものだから、僕の心は大混乱だった。
 そこにひとつの光明を照らしてくれたのは、ナミダ先輩だった。

 ――とまあこんな感じで、本音を伝えたい誰かや本音を伝えてほしかった誰かが突然いなくなることだってある。これは極端な例だが、自分だけはないと高を括らないようにな

 ナミダ先輩は、本音を言えないまま今まで生きてきていた。あの飄々とした態度の裏に、そんな過去があったなんて思ってもみなかった。そしてそんな先輩の言葉だからこそ、僕は自分の気持ちに気づくことができた。
 だから、僕は後悔しないように、気持ちを伝えようと思った。
 でもどうやら、現実はそう甘くはないらしかった。

「はあ…………」

 気がつくと、薄暗かった部屋にはとっぷりと夜の帳が下りていた。時計に目をやれば、既に時刻は夜の十一時を過ぎていた。
 ナミダ先輩のおかげで、昨日の夜はあんなにも前向きになれていたのに。
 一時の救いも、現実の暗闇の前ではまたすぐに飲み込まれてしまう。そんな厳しさや無慈悲さを、僕は突きつけられていた。

 ――だって私は、これ以上優しい優人くんと一緒にいたくないから。
 ――優人くんといると、死にたくなるの。だから、君の気持ちには応えられない。ごめんね。

 何度も何度も、水口さんの言葉が耳の奥で反響していた。
 嫉妬や苛立ちに苛まれていたあの時と同じく、僕はまたうじうじと独りで思い悩んでいた。
 このままじゃいけない。切り替えて、前に進まないといけない。そうは思うのに、なかなかに心は正直だった。
 これもまた、時間が解決してくれるのだろうか。
 時間が過ぎれば、悲しさも辛さも、水口さんへの好意すらも薄れていって、またいつものような日々を過ごすことができるのだろうか。

「仕方ない、よなあ……」

 口には出してみるものの、仕方ないで済ませたくなかった。
 嫌だった。両親のことで悩む水口さんに同じ言葉を投げかけようとしていたくせに。また自分事となれば、僕はすぐには受け入れられないときた。僕はどこまでも、わがままな子どもだった。

「……寝るか」

 もう、何も考えたくなかった。
 僕はベットから起き上がると、おもむろにクローゼットへと歩み寄った。
 その時、足元に投げ捨てられていた高校の鞄から振動音が聞こえた。鞄のポケットからスマホを取り出してみると、通知欄に一件、メッセージが表示されていた。

『優人、大丈夫?』

 蒼華だった。
 SNSアプリを開いて見れば、早退した僕を心配して家にも来ていたことが書かれていた。
 涙が出そうになったけれど、グッと堪えた。蒼華と会わなくて、本当に良かったと思った。もし会ってしまえば、今の僕は寄りかかっていたかもしれない。

「切り替えないと、か……」

 僕はとりあえず、『ありがとう』とだけ返しておいた。

 *

 文化祭までは、あっという間に過ぎた。
 学校を仮病で早退し、その前もことごとく放課後の居残り準備を断っていた僕は、水口さんとのことをなるべく忘れようと一心不乱に準備に取り組んだ。

「優人、すごいやる気だね。どしたの、急に」
「べつに、なんとなくだよ」

 心配のメッセージを送ってくれた蒼華は、それからもちょくちょく僕のことを気にかけてくれた。休み時間にいろいろと話しかけてくれたり、放課後の準備をしている合間に手伝ってくれたりと、体調以外のことで僕の心配をしてくれているのは明白だった。おかげで多少なり僕の心は紛れていたし、関係の曖昧さはあれど気兼ねしないで話せる蒼華と過ごす時間は平穏そのものだった。
 もっとも、小山にだけはいろいろと目を付けられ、間に入られ、おどけながら牽制もされた。

「寺沢、マジでお前、藤野のこと好きじゃないんだよな?」

 僕が放課後の準備をするようになった文化祭までの数日、毎日のように小山は蒼華との関係性を訊いてきていた。
 多分、何かを察してはいたんだと思う。けれど、僕は決まって「蒼華は幼馴染だよ」と答えておいた。
 事実、そうだった。水口さんにフラれたからといって、すぐ蒼華に心が傾くことはない。かつて好きだった、僕の初恋の人だったとしても。むしろ、僕自身が失恋をしたからか、小山には恋を叶えてほしいとすら思っていた。
 そして、そんな僕の心のしこりの一因である水口さんはというと、どこまでもいつも通りだった。

「陽葵ちゃん! クラT届いたんだけど、やっぱりデザインすっごくいい! さすがはフォロワー二千五百人超えのインフルエンサー!」
「わーっ、ひよりん、バカ、声が大きいよ!」

 いつものように、僕の机の近くの席ではしゃぎ回っている。以前、『怨念ノート』でなんだかんだと言っていたけれど、水口さんのSNSアカウントであるMIMARIのフォロワー数はしっかりと伸びてきていた。少しでも多くの人に見てほしいとバズるための動画撮影もしてきたけれど、着実に水口さんの投稿は陽の目を浴び始めていた。
 そして、そのことを知ってか知らずか、水口さんの周囲にいる男子生徒の数も増えてきているように思えた。

「水口~、文化祭誰と回るか決めてんの? まだなら俺と一緒に見て回らね?」
「ざ~んねん、空き時間は友達と見て回る予定なんだよねえ」
「あー、じゃあせめてバンドのステージだけでも行かね? その友達とか俺の友達も入れてみんなでさ」
「ん~それならまあ」

 水口さんとよく話しているクラスの男子と、そんな会話をしているのも聞こえてきた。つい視線はそちらに向けてしまうけれど、もちろん水口さんと交わることはない。何度も見てきた、楽しそうで明るい横顔があるばかりだ。
 そんな横顔を見ていると、やはりモヤモヤとしてしまう。でもその中身は、以前とは少し違っていた。
 いいな。あんなふうに、話せて。
 嫉妬というよりもこれは、羨望に近い。そうした女々しく情けない感情を自覚して、僕はひとり自嘲をこぼす。そんな日々が、数日続いた。
 そして今日、いよいよ僕と水口さんの『怨念ノート』で結ばれた関係が終わりを迎える。
 思い返してみれば、なんとも呆気ない。
 朝の八時。校門に飾られた大きな赤と黄色の秋を催したアーチのゲートを見上げながら、僕はそんなことを思った。

「おはよ~、優人!」

 するとそこで、バシッと背中をはたかれる。振り返ってみれば、弾けるような笑みを浮かべ、クラスTシャツに身を包んだ蒼華が立っていた。

「おはよ、蒼華」
「もう、何そんなところで緊張してんの。優人は私と集客係なんだから、テキトーに構えてて大丈夫」
「昔みたいに人見知りしてないし、緊張もしてないから」

 相変わらずの軽口を叩き合いながら、僕も笑う。
 蒼華といると気は楽だ。自然体の僕でいられる。もしこれが、中学生くらいの時だったなら、何かが違ったかもしれない。

「さっ、今年も文化祭楽しむぞ~う!」
「去年みたいに冷たい物の食べ過ぎでお腹壊さないようにね」
「それは言わない約束でしょ!」

 現実はなかなかに、思い通りにはいかない。

 *

 僕らの高校の文化祭では、出し物ごとに使う教室が事前に決められている。出し物に応じた広さの教室を割り当てるのもさることながら、僕らの高校は教室数がそれなりに多く、来場者の移動負担も考えて全ての出し物が一階と二階に集められているのだ。つまり、三階にある二年生の教室は控室兼物置きということになっており、雑多にダンボール箱やら鞄やらが置かれていた。

「よーしっ! じゃあ今から一階の教室に移動して最終準備だ! 文化祭、楽しんでいこうぜ~!」

 実行委員である小山の掛け声に呼応して、クラス中が湧き立つ。それからぞろぞろと指定された教室に移動して、事前に打ち合わせしていた通り準備を終えた。
 僕の役割は、午前中の前半にぐるりと校内を回って集客をすることだ。僕らの班で作ったプラカードを手に、謎解きゲームが開催されていることを周知する、なんてことない仕事だ。それからほかに、手の空いた時や混雑時には教室で誘導やら説明やらを行う。といっても、例年人気なのはお化け屋敷やらコンセプト喫茶なので、そこまで気にする必要もない。

「陽葵ちゃん、ここはドーンとSNSで告知お願いね!」
「やらない、やらないから。それに今日の私は謎解きの案内人だよ。MIMARIはお休みで~す」

 プラカードを持って教室から出ようとしたところで、教室の後方からそんな声が聞こえてきた。図らずも見やれば、水口さんが自分でデザインしたローブを身にまとい、友達と記念撮影をしているところだった。相変わらず、その顔は晴れ晴れとしている。
 そういえば、最後の撮影ってどうするんだろ。
 水口さんとは、ここ最近全く連絡をとっていない。元より、バズるための動画撮影やそのほかの頼み事の件でしかやり取りをしていないのだから、当然と言えば当然だった。
 これからは友達で。
 そんなふうに言われたけれど、もはや社交辞令と化するのは明白だった。

「ほらほら優人、出入り口で立ち止まらないでよ~」
「あ、ごめん」

 僕が持つのと同じ宣伝文句が書かれた、首から提げる用のプラカードを抱えた蒼華が背中を押してくる。それで、水口さんたちの姿は僕の視界から消えた。
 まあ、どこかで連絡してくるだろう。
 僕は心の中でそう言い聞かせて、考えるのをやめる。なんだか僕から訊くのも、癪なように思えたから。彼女の意地っ張りで頑固なところが、移っているような気持ちだった。
 校内は、すっかり賑わっていた。すぐ隣にあるお化け屋敷には、早速長蛇の列ができている。おどろおどろしい看板には、「恐怖の生首陳列病棟」とあった。普通に楽しそうで興味をそそる。

「うへえ、私は絶対入りたくないな、これ」
「蒼華は怖いの苦手だもんね」
「そういう優人は興味津々だねえ。あーやだやだホラー好きの幼馴染なんて」

 蒼華はため息交じりに首を振ると、僕の腕を掴んで早足でお化け屋敷の前を通り過ぎた。そのいつも通りの様子に、つい苦笑がこぼれる。
 幼い頃から、蒼華はそうだった。自分からあちこちに引っ張り回すくせして、怖がりなところがあった。夕暮れ時に迷子になりかけた時は、それはもう大変だった。
 水口さんは、どうなんだろう。怖いのとか、平気なのかな。
 不意に、そんなことを思う。ナミダ先輩から勧められた動画や映画の中には、若干ホラーが混じったものもあったはずだ。あれを視聴できたなら、多少は大丈夫なのかもしれない。

「優人? どうしたの?」
「あ、ごめん」

 唐突に呼ばれて、ハッと我に返った。少し離れたところで、蒼華が不思議そうに首を傾げていた。

「考え事?」
「まあ、ちょっとね」

 まずいまずい。今は、水口さんのことは考えないようにしないと。
 なんとか笑顔を作って、僕はプラカードを掲げて事前に考えておいた宣伝文句を叫ぶ。訝し気にしていた蒼華も、やがて僕の声に加わった。
 そうして、僕と蒼華は一通り校内を回った。蒼華は去年アイスの食べ過ぎでお腹を壊したというのに、フラフラと屋台に吸い寄せられていった。それを止めるのは、なかなかに一苦労だった。
 それと、もうひとつ。僕を悩ませたことがあった。

「優人、それで今日、後で一緒に回ってくれるんだよね?」

 以前、一緒に帰った日に誘われた文句を、蒼華はもう一度繰り返してきた。
 最初、僕は断ろうと考えていた。小山のこともあるし、班内のくじ引きで決まった集客係のペアならまだしも、蒼華の気持ちを知ったうえで誘いを受けるのは、違うように思えたから。
 けれど蒼華は、その後に続けてズルい言葉を付け足してきた。

「もし優人が一緒に回ってくれるなら、小山くんも誘おうかなって思ってる」

 僕の性格を完全に熟知したうえでの誘い文句だった。僕は散々迷った末に、了承した。
 そこで、一度友達と合流するという蒼華とはわかれた。
 僕はプラカードを返しに教室へ戻った。やはりというべきか、謎解きゲームの人の出入りはまばらだった。シフトも変わり、そこには水口さんの姿はない。撮影のことを訊くチャンスだったのに、僕はどこかホッとしていた。

「およ、寺沢じゃん。ちょうど良かった」

 そこへ、飄々とした声が聞こえた。振り返ると、相変わらずどこか疲れた顔をしたマッチョな先輩、ナミダ先輩が僕を見下ろしていた。普段は座っているナミダ先輩を見下ろしているから、逆に見下ろされるのはなんだか新鮮で、思ったよりナミダ先輩は身長が高いんだななどという場違いなことを思ったりした。

「どうしたんですか、ナミダ先輩」
「いやな、せっかくだから寺沢たちのクラスの出し物を見ようと思ってさ。ほら、俺今年最後だし。あと、できれば寺沢と水口さんに会えればと思ったんだが、寺沢ひとりか?」

 問われて、僕は一瞬口ごもる。けれどすぐに、首を縦に振ってみせた。

「ええ、まあ。水口さんはシフトが終わったので、多分友達と一緒に文化祭を見て回ってるんじゃないかなと」
「あ~そうなのか。それは残念。じゃあ、また動画を撮る時かな。最後くらい、俺にも見せてくれよ、動画を撮るところ」
「……ええ、はい」

 モヤモヤと、心に仄暗い感情が立ち込める。あれだけ親身になってくれたナミダ先輩を前に、自分でもわかるほどに僕の顔が曇っていく。

「……おい、寺沢?」
「じゃあ、僕も行きますんで。すみません」

 呼び止めるナミダ先輩の声を無視して、僕は教室を出た。すれ違いざまに、クラスメイトの何人かから訝し気な視線を向けられたけど、構っていられなかった。
 それから僕は、彷徨うようにひとりで校内を歩いて回った。
 何かを、誰かを探していた。
 それが何なのか、誰なのかは、明らかだった。でも僕は、そんな意思とは裏腹に、見つからないように、出くわさないように、なるべく人が少ない廊下を選んで歩いていた。
 我ながら、本当に情けないと思った。
 未練がましく、納得のできない陰鬱とした気持ち。
 嫉妬と羨望が入り混じった、暗くどろりとした感情。
 いっそのこと身近な人に寄りかかってしまいそうになる甘えと誘惑。
 どこまでも、どこまでも汚いと思った。
 かつて、「優しい」と評価された僕はどこにもいなかった。
 今ここにいるのは、どこまでも身勝手で、わがままな僕だった。
 こんなことなら、水口さんに恋なんてするんじゃなかったと思った。誰にでも優しい「僕」でいたほうが、何倍も楽だった。

「優人」

 あちこちを徘徊し、ついには疲れ果てて一階の薄暗い通用口付近にあるベンチにもたれているところで、不意に声をかけられた。
 静かに、それでいて安心する声の主は、見なくてもわかった。

「蒼華か」
「うん、そう。蒼華だよ」

 声の主は、オウム返しをしてからストンと僕の隣に座った。あまり嗅いだことのない、柑橘系の香りがした。

「なんか、ここ最近変だけど、どうしたの?」

 蒼華は、いつかとは違って世間話をするみたいな調子で訊いてきた。だから僕も、ほとんど反射的に答えていた。

「水口さんに告白しようとして、フラれたんだよ」

 言ってから、しまったと思った。でも時すでに遅し。一度口から出た言葉は、取り戻せない。

「そっか。それは、辛いね」

 蒼華はそれだけ言うと、コテンと僕の肩に頭を乗せてきた。柑橘系の香りが、一層強くなる。

「優人がまた元気になるまで、待ってるよ」

 柔らかな言葉が、耳の近くでささやかれる。そして、スッと彼女は僕の膝の上に手を置いてきた。

「だからね、心の整理がついたら、私と付き合ってよ。私なら、優人にそんな顔はさせないから」 

 言われて、思った。
 僕は、どんな顔をしているんだろう。
 また水口さんに難しい顔と言われるような、そんな表情だろうか。
 呆れる。笑える。
 蒼華が寄り添ってくれてる今この時ですら、僕はまだ水口さんのことを考えている。
 もう、戻ってしまおうか。
 過去の僕に。優しいと言われてきた、昔の僕に。
 そうしたらきっと、少なくとも、今みたいな顔にはならないだろう。

「蒼華」

 膝に乗せられた小さな右手。
 かつて、人見知りだった僕を引っ張り出してくれたその手に、僕も手を伸ばす。

「僕は――」

 ――私、この前言ったよね。難しい顔してる寺沢くんの、自分の中にある気持ちを見逃しちゃダメだよって。

 その時だった。
 唐突に、「彼女」の声が耳奥で響いた。
 驚いて手を止める。周囲を見回す。もちろん、彼女はいない。

「優人?」

 隣に座る蒼華が小首を傾げる。何の気はなしに蒼華へ顔を向けて、僕は彼女の奥にある通用口のガラスに映った自分の顔に、衝撃を覚えた。
 僕は、それと見てわかるほどに酷い表情をしていた。
 眉は八の字に曲がり、目も口元も歪みに歪んでいる。慌ててスマホを取り出し、インカメを起動してみればどことなく真っ青で、本当に心配になるような顔だった。

 ――それで? 寺沢くんはこの写真を見て、どう思ったの?

 あの日、彼女が唐突に投げかけてきた問を思い出す。
 蒼華は、自分ならそんな顔はさせないと言ってくれた。
 でも僕は、この表情から何を思う?
 この顔から、何を感じる?
 そこにある、自分がまだ気づいていない感情は、なんだ?

「優人」

 そこへ、僕の思考を断ち切るように鋭い声で呼ばれた。
 蒼華が、僕の目の前に立っていた。

「やっぱり、陽葵ちゃんのことが諦められないの?」

 諦められない。
 そうだ。それもある。
 でも僕は、確かな未練がひとつだけあった。

「そう、だね。それと……僕はまだちゃんと、水口さんに気持ちを言えてない。それが、たまらなく、嫌だ」

 僕が、本当に言いたかったこと。
 それを口にする前に、水口さんから「一緒にいたくない」と言われてしまった。
 いや、違う。
 水口さんは、「そこから先は、言わないで」と言っていた。
 どうして?
 水口さんは、本当に僕が言いたかったことを知っているのか?
 沈黙が下りた。
 僕がそれ以上なにも言わないの見て、蒼華はふうとひとつため息をついた。

「そっか。じゃあもう、仕方ないか」

 脱力するように言うと、蒼華は地面に置いていたトートバッグから、おもむろに何かを取り出して僕に差し出してきた。

「え……どうして、それを!?」

 僕は驚愕した。
 蒼華の手にあったのは、しわくちゃになった『怨念ノート』だった。

「ゴミ箱に捨ててあった。……ううん、正確には、陽葵ちゃんがゴミ箱に捨てるところを見てた。陽葵ちゃんに、優人に告白するからって意思表明をしに行こうとしたら、教室の近くにあるゴミ箱に何かを投げ入れてしばらく見つめてたから、なんだろうって。陽葵ちゃんがいなくなってから見たら、それがあった」
「中は? 中は見たの?」
「まあ……最後だけ少し。それで、見るのはやめた。これは、私じゃなくて優人が見るべきものだと思ったから」
「僕が?」

 どういう意味だろうか。
 でも、それ以上は読めとばかりに、蒼華は僕の膝の上にノートを放った。

「もし優人が陽葵ちゃんのことを諦めて、私の手を取ってくれたら見せないつもりだったんだけど、仕方ないや」

 自嘲気味に笑うと、蒼華はフイッと踵を返す。

「陽葵ちゃん、三階の教室にいると思う。そっちの方の階段を上がっていったから。じゃあ、後は任せた」

 それだけ言うと、蒼華は小走りで駆けていった。
 後には、僕一人だけが取り残された。

「水口さんが、捨てた?」

 手元の『怨念ノート』に目を落とす。
 それは見るからにボロボロで、力任せに丸めたみたいな皺の付き方だった。
 震える手つきで、蒼華の言う「最後のページ」からめくった。

『寺沢優人は、大嫌いな人。
 でもそれ以上に、大好きな人。
 だからどうか、勝手に幸せになりやがれ』

 読み終えて、僕は一目散に、走り出した。

 *

「っ、はあ、はあ、はあ……!」

 通用口のすぐ横にある外階段を、僕は汗だくになりながら駆け上がっていた。二階の通用口から出てきた生徒と踊り場でぶつかりそうになるも、どうにかギリギリで避ける。「なにあれ」「さあ、知らね」と不審な目つきで見られたが、僕はそれどころではなかった。
 どうして、どうして、どうして……!
 僕の心の中は、水口さんへの疑念でいっぱいだった。

『寺沢優人は、人畜無害なお人好し。だと思っていたけど、違った。私にとってはこの上なく有害な、生粋のお人好しだった』

 蒼華のいうように、『怨念ノート』の後半には真新しい文字で数十行にわたって水口さんの言葉が綴られていた。

『あいつは、どこまでも私の無茶なお願いを聞いてきた。なんなの、あいつ。普通は、もっとイラつきとかムカつきとかあるもんでしょ。なのに、どうしてあっけらかんとしてるの。意味わかんない。』

 それは、他の怨念のなりかけと同じく毒を織り交ぜて書かれていた。最初は、僕に対する不満や悪口がこれでもかと綴られていた。

『下心とかあるのかと思ってたけどそれも違うし、マジで淡々と私のわがままに付き合ってくる。なにそれ。このノートを見つけた時、あいつは誰にでもそういう暗い気持ちはあるよね、みたいなこと言ってたけど、お前はどうなの。私が苛立ちとかないのか訊いてもないって言うし、私の頼みを聞くのは嫌じゃないとか聖人君子みたいな戯れ言を言ってのけるし、押し倒してゴミみたいなこと言っても寄り添ってくれるし、ほんとにもう、心底腹が立つ』

 でも、やがて色を変えていく。

『こんな私なのに、暗くて嫌味の権化みたいな私を知ったのに、あいつはずっと変わらない態度で接してくれる。そばにいてくれる。意味わかんない、ほんとに。そんなんだから、あいつが幼馴染と一緒にいると余計にイライラして苦しくなるんだよ。怨念のなりかけを晴らしてるはずなのに、増えていく一方じゃん。なんなの。はあーしんどい。あいつと一緒にいると、私の最低さが際立つ。死にたくなる。消えたくなる』

 水口さんは、僕と一緒にいたくないと言った。
 その意味を、僕はようやく知った。
 全然、違っていた。僕は彼女から聞いていないから、当たり前といえばそうだけど、それじゃいけないだろ、と思った。
 それに、彼女はどこまでも勘違いをしていた。
 僕はそんなに、綺麗でできた人間じゃない。

『お父さんたちのことも全然吹っ切れないし、黒くて嫌な感情は溜まっていくし、もうどうしたらいいのかわかんないよ、ほんとに。こんなことなら、頼むんじゃなかったな。一緒にいたいのに、一緒にいたくない。そんな矛盾に苦しくなる。きっと、あいつに合ってるのは私じゃなくてあの純真無垢な幼馴染なんだろうな。そもそも私、邪魔者だし。だったらいっそ、手を引くのがみんなのためで私のためになる。結局、それがいいんだよな』

 所々で、文字が滲んでいた。涙の跡があった。
 そんな彼女の気持ちに気づかず、僕もひとりで思い悩んでいた。口にして言っていないのだから、これも当然だった。

『寺沢優人は、大嫌いな人。
 でもそれ以上に、大好きな人。
 だからどうか、勝手に幸せになりやがれ』

 そこで、『怨念ノート』の記述は終わっていた。
 僕は三階の通用口から中に入ると、休む間もなく教室を目指した。控室兼物置になっている三階は、文化祭真っ只中の一階や二階と違って人気がほとんどなかった。そんな誰もいない廊下を、僕は一心に走る。
 これだけでも足りないと思った。
 ノートに書かれているのは、きっと彼女の心の一部だ。
 まだ、足りない。
 それに僕は、まだ何も伝えていない。
 だからこれで、終わりにするわけにはいかなかった。

「水口さん!」

 駆け込むと同時に、僕は彼女の名前を呼ぶ。
 蒼華の言う通り、水口さんはいた。
 他には誰もいない教室の窓辺で、階下で賑わう文化祭の様子を見下ろしながら、彼女は佇んでいた。

「あれ、優人くんじゃん。もしかして、動画撮影のために私を探しに来てくれたの?」

 水口さんは、ゆっくりと振り返った。
 その顔には、朝と変わらない完璧な笑顔があった。それだけで、僕の心は締め付けられる。

「違う、僕は」
「ありがとう。この前のことがあったから、私からは言い出しづらくて。来てくれて、良かった」

 また、彼女は僕の言葉を遮った。
 でも、今ならわかる。
 水口さんは、わざとやっているのだ。
 僕がその先を言わないように、あえて言葉を被せている。
 水口さんは笑顔を浮かべたまま、僕に近づいてきた。
 有無を言わさない雰囲気があった。
 以前の僕なら、彼女の意図を察して、素直に従ったに違いなかった。
 でも今日の僕は、どこまでもわがままで、自分勝手だ。

「水口さん、違うよ。僕は君に一言、いや百言くらい言いたくてここに来たんだ」
「何…………を」

 それまで貼り付けられていた笑顔の仮面は、僕が手にした一冊のノートを目にするやみるみる剥がれ落ちていった。
 眉をひそめ、整った目元や口元がぐにゃりと苦し気に歪む。
 先ほど見た、僕の顔そっくりだった。

「これ、悪いけど読んだよ。ちゃんと、最後まで」

 この教室で初めてしっかり話した日とは異なり、尋ねられる前に僕から「読んだ」と告げる。機先を制された彼女は、明らかにたじろいだ。
 だから僕は、さらに続けて言う。

「そのうえで、僕は言いたい。僕は、君のことが好きだ」

 開け放たれた窓から、秋風が吹き込む。
 水口さんが息を呑んだのがわかった。
 でもそれは一瞬のことで、次の瞬間にはキッと鋭く睨んできた。

「……ちゃんと読んだなら、私の答えは知ってるでしょ? 私は優人くんと一緒にいると死にたくなるの。だから、一緒にはいたくない。君の気持ちには、応えられない」
「それは、僕が優しいから?」

 ややあって、こくりと彼女は頷く。

「そう、優人くんは優しいよ。ほんとに、尊敬に値するくらいに。そんな君と一緒にいると、『怨念ノート』なんてものまで作ってドロドロなどす黒い感情を煮えたぎらせている私が最低で、ゴミみたいなクズだって思えてくるの。だから、もうやめて」
「やめない。何度も言うけど、そうした感情はみんな持ってる。僕だってそうだ」
「どこが? 優人くんは他人を貶めるようなことは言わない。いいように使われても、たくさん頼み事をされても、ちゃんと自分なりに納得のいく理由をつけてやってのけてる。私なんて、毎日毎日気に入らないことがあったらダラダラと不平不満を書き殴って逃げてる。全然違うじゃん」
「同じだよ。僕はただ、気づいていなかった。そして、それほど強く暗い感情を持てる大切なものを、持っていなかっただけだ」

 僕は一歩、水口さんに近づく。

「僕はきっと、他人にさほど興味を持ってないんだ。良好な人間関係のために親切にはするけれど、正直どうなろうと知ったことじゃない。悪く言えば、どうでもいいんだよ。だから適当に優しくできるんだ。
 でも、水口さんに対してだけは違う。どうでもよくないんだ。好きなんだ。大切なんだ。だから水口さんが他の誰かと仲良くしていれば嫉妬するし、その誰かのことが羨ましく感じるし、水口さん自身が傷ついていたり苦しんでいたりしたら何よりも優先して駆けつけて、寄り添って助けたいって思うんだ」
「そんなこと……頼んでない」
「そうだね。だからこれは、僕の独りよがりで勝手な欲望で卑しい感情だ。とても人に言えたものじゃない黒い感情だよ。だから僕も、水口さんと変わらない。むしろ最近ようやく自覚したくらいだから、よりタチが悪い」

 また一歩、一歩と僕は足を動かした。
 僕と水口さんの距離が縮まっていく。
 水口さんはそんな僕から逃げるように、視線を逸らした。それから唇を噛み締め、ふるふると首を横に振る。

「違う、違うよ。私はもっと、もっと酷いんだよ。ほんとに最低最悪なのは、私なの」
「でも僕は、そんな水口さんが好きだ」
「そんなこと、言わないでよっ!」

 再び彼女は顔を上げて、これまで見たことがないほどにきつく僕を睨みつけた。その拍子に、一滴の涙が零れ落ちる。

「優人くんは優しいから、そんなふうに思えるんだよ! 私は、この黒くて暗くてドロドロとした感情が嫌いなの! 死んじゃったお母さんは昔、笑顔の私を大好きだって言ってくれた。ほかの、クラスのみんなも、フォロワーのみんなも、いつも笑顔でキラキラしてる私を好きだって言ってくれてる。お母さんが大好きって言ってくれた私は、みんなが期待して好きでいてくれてる私は、私が好きでいられる私は、こんな最低な私じゃないんだよ。私は……私はっ、こんな自分が大っ嫌いなの!」

 彼女の瞳からは、決壊したダムのように、大粒の雫が溢れ出していた。
 それは、彼女の心の叫びだった。本心だった。
 僕は初めて、彼女の心の一端に触れた。

「ほんとに、死にたくなるの。もうこんな惨めで醜い私はかなぐり捨てて、お母さんに会いに行きたくなるの。そしたらきっと私は、私が好きな私でいられる。純粋な笑顔の私でいられる。こんな感情に振り回されずに済む」
「だから、このノートにあんなことを書いて捨てたのか」
「そうだよ」

 水口さんはつと僕に歩み寄ると、手から『怨念ノート』を奪い取った。
 そしてそのまま、近くにあった机の上に広げる。

『お母さん、なんで私をおいていったの?』

 拙く弱々しい文字でそう書かれた、一ページ目。
 以前バスの中でも見たその下には、あの時とは違い、真新しい文字が付け加えられていた。

『それを聞きに、もうすぐ会いに行くよ』

「これを見て急いで来てくれたんでしょ。最後までこんな黒い感情の塊なんて見たくなかったから捨てたのに、失敗だったな」
「水口さん」
「もう何も言わないで。大丈夫、さすがにここじゃ死なないから。どこか、誰も知らない場所でひっそり」
「陽葵っ!」

 僕は、彼女が最後まで言い切る前に叫んだ。
 初めてだった。
 初めて僕は、彼女の名前を呼んだ。

「君はまだわかってない。わかろうとしてない。認めようとしてない。ほんとにみんなが、僕が、君のことをどう思っているのか」
「何、を……」

 たじろく彼女の隣に立ち、僕はノートをめくった。
 一枚一枚と広げていき、そして、あるページを開く。

「え……………………」

『寺沢優人は、人畜無害なお人好し』

 随分と懐かしい文字が綴られたページ。

『藤野蒼華は、あざとさ満点の人たらし。寺沢優人とは幼馴染らしいけど真逆もいいところ。男子がどうすれば喜ぶかわかっててやってんだろ、あいつ。いかにも天真爛漫、純真無垢って感じで、見ててイラつく』

 僕と陽葵を繋ぐことになったページ。
 でもそこには、またひとつ真新しくて、僕には見慣れた、そしてきっと彼女には見慣れない、文字があった。

『↑合ってる合ってる。大正解だよ、陽葵ちゃん。私も計算でやってるとこあるから、同じ陽葵ちゃんには見抜かれてたか〜。私たち、仲良くなれそうだね! 今度一緒にフレンチトースト食べに行こうよ!』

 溌剌とした文字。まるで書き手の性格をそのまま表したかのような筆致に、苦笑がこぼれそうになる。

「なんで、どうして……!」
「このノートを見つけたのは僕じゃない。蒼華だ。そしてこれは、蒼華の文字だ」

 蒼華は、最後の方だけしか見てないと言っていた。
 でも、普通に考えてそんなわけはない。元々告白の意思表示とやらをするために陽葵のところに行って見つけたのなら、僕の時と同じく何の気はなしにこのノートを開くはずだ。だとすれば、このページを見ても不思議はない。

「陽葵の暗い感情を知っても、陽葵のことを好きだと思ってくれる人はいるんだよ」
「そ、そんなの、私が死のうとしてるのを知って、それで慰めのために噓を書いたに決まってる!」
「蒼華は知らないよ。陽葵のお母さんが亡くなっていることは、このノートに書かれてない。だから、最初のページだけじゃ陽葵が死にたいと思っているなんてわからないよ」

 ノートの一ページ目に書かれているのは、『お母さん、なんで私をおいていったの?』と『それを聞きに、もうすぐ会いに行くよ』の二行のみだ。これだけ見れば、昔抱いた疑問に今向き合おうとしているだけように思える。他のページは僕との日々で怨念が二重線で消され、新たにプラスのことが書かれているのだからなおさらにそう見える。

「そんな、それじゃあこれは……」
「蒼華の本心だよ。蒼華は、陽葵の暗い感情を見て、読んで、そう思ってる」

 僕はノートから顔を上げた。陽葵と、目が合う。

「僕だってそうだ。優しいから陽葵の暗い感情を受け入れて好きになったんじゃない。
 陽葵は、僕が無意識のうちに心の奥底へ押し込めていた気持ちに気づかせてくれたんだ。
 自分や他人に取り繕って疲弊している僕を、結局何のために優しくするか見失っていた僕を見てくれた。
 曖昧で、モヤモヤとした気持ちも見逃しちゃいけない僕自身なんだって教えてくれた。
 そんなありのままの僕に気づいて、見てくれた陽葵が、陽葵の心が大好きなんだ。
 美味しいスイーツを食べて幸せそうに惚けてる陽葵も、他のインフルエンサーに嫉妬してバズるための動画撮影に躍起になっている陽葵も、いろいろなファッションに身を包んで得意げにポーズを構える陽葵も、僕のふとした表情から心配してくれた陽葵も、自分の暗い感情に絶望して泣き叫んでいる陽葵も、全部、好きなんだ。
 暗くても、明るくても関係ない。全部陽葵の大切な気持ちで、ありのままの陽葵自身だから」
「でも私は、そんな私が……」
「うん、わかってる。好きになんてなれないよな。僕だって、そうだ。僕がどれだけ陽葵に苛立って、陽葵の友達を羨んで、陽葵の周囲に嫉妬しているか……。正直、こんな気持ち知りたくなかったよ。持ちたくなかったよ。
 だから、好きになれなんて言わない。僕も多分、好きになれないと思う。
 でも、少しずつでも認めてはいきたい。
 これはきっと、それだけ陽葵のことが好きだっていう裏付けだから。この気持ちの奥底には、見逃しちゃいけない大切な心があるって、なにより好きな人が教えてくれたから」

 また、陽葵の表情が歪む。瞳が揺れる。
 とても、綺麗だと思った。
 
「陽葵。何度だって言う。僕は、陽葵が大嫌いな陽葵が、大好きだ。
 今はまだ、死にたいでもいい。消えたいでもいい。暗くて黒い感情が大嫌いでいい。陽葵が自分の気持ちに、感情に、心に苦しむのなら、一緒に傍で苦しむよ。解消でも上書きでもどんとこいだ。とことん付き合う。無責任だなんて言わせない。僕はやっぱり、君が死にたいと言うのなら、全力で止めるからね。僕は陽葵に生きていてほしい……ううん、陽葵と一緒に生きていきたい」
「優人、くん……」
「陽葵。一緒に苦しもう。そしてそれでも、一緒に生きていこう。
 だから陽葵、ずっと心に溜めていた、ずっと言いたかったことを教えて。
 僕は、陽葵の暗くて黒い気持ちも、それ以外の気持ちも、全部聞きたいんだ」

 昼下がりの秋風が、僕らの間の吹き抜けた。
 彼女の髪をはためかせ、涙をさらっていく。
 陽葵は一度きつく口元を締めてから、ゆっくりと僕に寄りかかった。

「ずっと、ずっとしんどかった……。辛かった。悲しかった。寂しかった。悔しかった。泣きたかった。どうしようもなく、苦しかった……!
 お母さんが死んで、すごく悲しかった。悲しくて悲しくて、押し潰されそうになった。お父さんも一緒に泣いていて、もっと悲しくなったけど、それと同じくらい安心もしてた。私は独りじゃないって、思えてたから。
 でも、お父さんは涼子さんと出会ってから、少しずつ悲しみから立ち直っていった。最初は嬉しかった。でも、段々恨めしくなった。どうしてそんなふうに笑えるのか、理解できなかった。『新しいお母さんだよ』って言われても、涼子さんがどれだけ私に気遣って優しくしてくれても、認めることができなかった。私は独りになった気分だった。確かに涼子さんはいい人だった。そんなにいい人なら、新しく赤ちゃんもできるなら、私なんていない方が幸せになるって思った。幸せになって、そこで私が死んで、もう一度だけ絶望してくれればいいと思った。どうせ立ち直るんだから、変わんないでしょって……思った。だから私はその前に、ちゃんとお父さんと涼子さんが信頼し合ってるか、知りたかった。でもその中身までは知りたくなかった。
 私はやっぱり、怖かった。独りになりたくなかった。ちゃんと涼子さんを家族として認めて、生まれてくる赤ちゃんとみんなで笑って暮らしたかった。涼子さんをお母さんって呼べるようになりたかった。天国のお母さんに、私はもう大丈夫だよって、胸を張って言えるようになりたかった。
 それなのに、ずっとグルグル嫌な感情ばっかりが心にあって、苦しかった。忘れたくて、何かに熱中しようって思って、お母さんが昔可愛い服をたくさん着せてくれたことを思い出して、ファッション系の投稿をし始めた。これも最初は良かった。見てくれる人が増えて、何気ない日々が大事なんだよって意味も込めて掲げたポリシーも好評で、心から笑える日も増えて、私が好きでいられる私であれるようになって、少しずつ黒い感情が薄れていった。
 でも、一時的だった。私よりも結果を出して、どんどん先にいく仲間が羨ましかった。キャッチーな動画とか投稿でフォロワーを増やして、手の届かないところまで駆け上がっていくみんなが妬ましかった。それでも変わらずに接してくれることは嬉しかったのに、どうせ心のどこかではバカにして見下してるんでしょって卑屈になって、そんなふうに思ってしまう自分が嫌で、仲間の成功を素直に喜べない自分が嫌で嫌で嫌で……! 心の余裕がなくなって、投稿も伸び悩んで、アンチとかにも上手く対処できなくなっていって、いっそ辞めて諦めようとも思ったけど、お母さんとのことを思い出すとやめられなかった。どんどん、苦しくなった。
 SNSから距離を置いて、友達との関係をもっと深くしてみようと思ったこともあった。一緒にショッピングしたり、映画を観に行ったり、私は下手だけどカラオケに一緒に行ったり、くだらない動画とか観て笑ったりする時間は楽しかった。充実してた。でもそればかりじゃなくて、些細なことから喧嘩したり、すれ違いが起きちゃったりして、友達の悪いところばかりが目につくようになっていった。楽しいお喋りが自慢話にしか聞こえなくなった。愚痴に共感するのが面倒くさくなって、イラつくようになった。私の知らないところで楽しそうにしているのを見ると疎外感を覚えた。嫌な感情ばっかりが溜まっていって、どうしようもなくなって、昔使っていたノートを引っ張り出して、本格的に『怨念ノート』なんてものを書き溜めるようになった。
 あの日、優人くんに見つかった日はちょっとホッとしてた。もしこれで晒されたら、私の中の全てが崩れ去る。なんかそれって、吹っ切れそうじゃん。もういいやって、そうなる日かなって思ったのに、君はそうさせてくれなかった。
 君は、本当に優しかった。その優しさの本性を暴いてやろうって思って、ずっと面倒くさい頼み事をつきつけて、疲れてる優人くんにそれとわかったうえでわがままを吹っ掛けたのに、優人くんは平然と付き合ってくれた。
 正直、逆にイライラした。さっさと本性を表せよって、我慢の限界がきて暴言でも悪口でもなんでも吐いて私のことを晒すなり距離を置くなりしろよって思ってた。そうしたら楽になれるのにって、思ってた。
 でも君は、しなかった。そればかりか、根気強くどこまでも私の不平不満解消に付き合って、そばにいてくれた。私の部屋にあげて徹底的に暴こうとしても、君はむしろ私の苦しみに寄り添ってくれて……私は、わからなくなっていった。
 君と一緒に解消してきた怨念のなりかけをたくさん、たくさん見返した。
 その度に私は、心がポカポカした。
 でもそれだけじゃなくて、蒼華ちゃんとか他の女子たちの頼み事も聞いてる優人くんを思い出して、次第にやきもちを焼くようになっていった。また私の中に、暗くて黒い感情が増えていった。
 家族でも、MIMARIの活動でも、友達でも、優人くんとのことでも私は暗くて黒い感情からは解放されなかった。むしろ、優人くんと比較して苦しくなる一方だった。
 それならいっそ、もう全部捨てて、死んじゃおうか。お母さんに会いたい。もう全てに目を閉じて、耳を塞いで、自分の感情すらも目を背けて、消えてしまおう。
 そう、思ってたのにさ。
 なんで、なんで優人くんは、また私の感情を乱して、わからなくしてくるの。
 一緒にいたくないって、言ったじゃん。死にたくなるって、言ったじゃん。そこまで言ったのに、冷たく突き放して、蒼華ちゃんと上手くいくように背中を押したのに、どうして……どうして大好きだなんて言うの!
 優人くんの口から、その言葉だけは聞きたくなかったのに、聞かないようにしていたのに……聞いちゃったら、心が揺らぎそうだったから遮ってまで言わせないようにしてたのに、なんで、なんで伝えに来ちゃうの……!
 なんで私の心を暴くの! なんでそっとしておいてくれないの! なんで死なせてくれないの!
 なんで、なんで…………私が嫌いな私まで、好きでいてくれるのよう……。
 そんなこと言われたら私、私…………心が、決心が、揺らいじゃうじゃない……。
 蓋をした気持ちが、出てきちゃうじゃない……。
 優人くんと一緒にいたいって、もうちょっとだけ頑張ってみようかなって、優人くんと一緒なら頑張れるかもって……思っちゃうじゃない……!
 私も優人くんが大好きだって、言いたくなっちゃうじゃない…………!」

 陽葵は泣きじゃくった。
 何もかもを吐き出して、泣き喚いていた。
 だから僕は、陽葵が落ち着くまでずっと抱き締めていた。
 どれだけ陽葵の気持ちを聞いても、僕の気持ちは変わらなかった。
 変わったのは、表情くらいだった。
 僕も気づかないうちに、はらはらと涙を流していた。
 愛おしく思った。
 大切でかけがえのない感情を、明るい感情も暗い感情もまるごとすべてを包み込むように、僕は陽葵の言葉を受け止めた。
 陽葵は陽葵だった。
 僕も僕だった。
 全ての言葉を吐き出した後には、ただ純粋な僕たちがいた。

 やっぱり僕は、どうしようもなく陽葵に恋をしているのだと思った。