秋も深まり、雨模様の日が続くことが多くなった。
 昼はまだしも、朝や夜は肌寒く、外出する時はコートが手放せない。九月最後となる日曜日の今日も、小雨が降っていて気温はそれなりに低い。そんな季節の変化に呼応するように、水口さんのSNSアカウントであるMIMARIでも、お手頃で暖かい秋物コーディネートを紹介する記事や写真が多くなっていた。
 僕が淹れるよりもいくぶんか濃いブレンドコーヒーを口に含みながら、スマホの画面を親指でフリックしていく。季節の変わり目を彼女の投稿から感じる時が来るなんて、なんだか不思議な気分だった。

「あれあれー? 優人ってば、何見てるの?」

 そこに、溌剌とした声が飛び込んできた。僕はコーヒーカップと同時にスマホの画面を閉じる。

「いや、なんにも」
「うそだー。今見てたのって、陽葵ちゃんのアカウントでしょ?」

 声の主である幼馴染の蒼華は、ストンとテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろす。「コーヒー飲み過ぎた~トイレ~!」と駆け出して行った先ほどまでの品のなさはどこへやら、今はいかにも女の子といった所作で髪をかき上げている。
 しかもどうやら、何を見ているのか訊いておきながらちゃっかり僕のスマホの画面は見ていたらしい。なんとも意地の悪い。

「まあ、そうだね。タイムラインに流れてきたから見てた」
「へぇ~。ってことは、フォローしてるんだ? なんかあやし~」
「なんで」
「だって優人って、ファッションとかそういうの全然興味なかったじゃん。それがなんか最近はちょっとオシャレになってきてるし、どういう心境の変化なのかな~って」

 なるほど。幼馴染ならではの疑問といったところか。
 確かに、事実として僕は最近身だしなみに気をつけるようになった。というより、気をつけざるを得なくなった。バズるための動画撮影以来、何かにつけて私服を着る機会が増えただけでなく、そのお相手からあれやこれやとアドバイス、もといダメ出しをされることが多くなっていたから。シルエットがまとまっていないだの、色のバランスが微妙だの、優人くんの顔ならカジュアルよりキレイ目だよねだの、水口さんはファッション系の投稿をしているだけあってかなりうるさい。
 そんなこともあって、いちいちクドクドとツッコまれることがないよう、自然と言われたことくらいは気をつけるようにしていた。
 その結果が、これだ。
 まさか今度は幼馴染にツッコみを受けるなんて。

「心境の変化も何もないよ。ただちょっと、気をつけてるだけで」
「それを心境の変化って言うんだよ。秀才な優人らしくもない」

 蒼華はいつの間に頼んでいたのか、アイスの乗ったメロンソーダを美味しそうに飲む。どうやらブラックコーヒーはまだ早かったらしい。
 ただ、彼女の言わんとしていることはわかった。その原因も、思い当たる節はある。さすがにここで、口に出して言おうとは思わないが。

「いいんだよ、僕のことは。それより改まって相談したいことってなんなの? それこそ、いつもの蒼華らしくもない」
「なんだとーう、失礼な。これでも悩みは多いほうなんですうー」
「説得力は微塵もないけど。それで、本当にどうしたの?」

 ブレンドコーヒーをひと口飲んでから尋ねると、蒼華ももう一度ストローでメロンソーダを吸ってからひとつ息をついた。

「相談っていうのは、小山くんのこと。多分だけど、私好かれてるみたいなんだよね」

 彼女は微かに頬を赤らめ、目を逸らして言った。
 へえ、と思う。
 いろいろと頼まれて手助けらしいことはしているが、どうやら鈍感で天然な彼女ですら気づくほどに、小山は蒼華にアプローチをかけているみたいだ。これはすごい。
 逆の立場なら茶化されそうなものだが、僕は気づかないふりをして話を促す。

「何か言われたとか?」
「んー、というか、この前カフェに誘われて行ったんだけどね。ほら、あの駅の近くにあるフレンチトーストが美味しいところ。その時の話を何気なく友達にしてたんだけど、それって蒼華のことが好きなんじゃないのって言われたんだー。だから、小山くんとよく一緒にいる優人の意見を聞きたくて」

 あ、違った。友達から言われたのか。そういう気づき方なら、蒼華でもありうるか。
 我ながら失礼な感想を抱きつつも考える。
 この場合、僕はどう立ち振る舞うのがいいだろうか。小山はなにかにつけて僕を頼ってくるが、根はかなりいいやつだ。素直で義理堅いところもあり、一途で明るいので蒼華とも相性はいいと思う。そういう僕なりの意見を言えばいいだろうか。

 ――見逃しちゃいけない感情が、隠れている場合もあるんだよ。

 そこで、唐突に以前言われた言葉が蘇ってきた。
 そうか。あの時は、難しい顔をしていた僕に対しての言葉だったけど、こういう場合にも当てはまるかもしれない。

「そうだなあ。蒼華としては、どうなの? 小山のこと」

 だから僕は訊いてみた。
 蒼華自身の、素直な気持ちを聞いておきたかった。僕の意見を言うと、そっちに流されてしまうこともある。その前に、尋ねられることで見えてくるかもしれない気持ちを先に知っておきたい。
 僕の問いかけに蒼華は虚を突かれたように目を見張り、悩まし気に上を見上げる。

「ん~そうだなあ。正直、まだよくわかんないんだよね、小山くんのこと。だからこうやって優人の意見を聞いてるんだけども」
「なるほどね。それなら、僕の意見は聞かない方がいいよ」
「えーなんで!」

 ずずいっと蒼華は身を乗り出してくる。顔が近い。

「な、なんでも何も、僕の意見を先に言うとそれが先入観になるかもだから。それに、僕と小山はお互いの内心を知りまくってるほど親しいわけでもないから。それならいっそ、もうちょっと二人で出かけたり話したりして自分なりの印象を持ってからの方がいいんじゃないかって思って」
「お、おぉ……!」

 やや喋り過ぎたかなと思う僕の言葉に、蒼華は大仰に拍手を送ってきた。

「なになに、どうしたの、優人。めっちゃ具体的なアドバイスじゃん! なにか良い物でも食べた?」
「悪い物食べた? の反対語のつもりで言ってるの、それ。それに僕は、思ったことをそのまま言っただけだし」
「はっはあ~、なーるほどねえ~」

 ニヤニヤといつものからかう時みたいな底意地の悪い笑みを口元に湛える蒼華。嫌な予感しかしない。

「優人、カノジョでもできた?」
「ほらきた」
「へ、なにが?」
「なんか変なこと言ってるくるだろうなってこと」
「おー当たってる!」
「自分で変なことってわかってて言ってるのか」
「まあまあ、いーじゃん。それよりどうなの? それかカノジョまでいかなくても好きな人がいるとか!?」

 自分の恋愛相談はどこいった。
 僕がいつものようにツッコミの言葉を挟む暇もなく、蒼華はメロンソーダの上に乗ったアイスが溶けるのも構わずまくしたててきた。早口であれこれと次から次へと質問を繰り出してくる蒼華に僕は辟易とする。このじゃじゃ馬を乗りこなすのは至難だぞ、小山。
 前半はやや真面目に答えつつ、後半は適当に「ああ」とか「うん」とか「恋人はほんとにいないから」とか返していると、いつの間にかかなりいい時間になっていた。壁にかけられたアンティークな時計が正午の鐘を奏でている。
 すると、まるで見計らったかのようなタイミングで、手元のスマホが震えた。見ると、メッセージがひとつ届いていた。

『優人くん起きてる? 集合時間に遅れないよーに!』

 いったい今は何時だと思っているのだろうか。正午ちょうどに送ろうとしていたのなら、こんなに不釣り合いな現状確認はない。まさか、水口さんのほうこそ今起きたわけじゃあるまいし。
 内心で苦笑しつつ、とりあえず確認だけして僕は残っていたコーヒーをひと息に飲み干した。

「じゃあ、蒼華。悪いけど僕はそろそろ」
「ええ~! まだ質問は終わってないよ! 場所を変えてお昼いこ! お昼! ランチターイム!」
「ごめん、ちょっとこのあと別の用事が入ってて」
「なんだとーう!」

 僕が断りを入れると、ひょろひょろのパンチが飛んできた。僕は難なくそれを避けて千円札をテーブルに置く。

「ねーどうしてもダメ? その用事って何時から?」
「用事は三時からだけど、いろいろ準備もあるから早めに行っておかないと」
「えーいいじゃん、少しだけ! お昼だけでも!」
「僕とじゃなくて、小山と行ったほうがいいと思うけど。ほら」

 適当に相槌を返している合間に小山へ送っていた、「今日午後からヒマ?」というメッセージへの返信を蒼華に見せた。そこには、「空いてるけど、なに?」とある。

「余計なお世話を焼いてもいいけど、どうする?」
「ちぇー、もう~わかったよーう。でも、今度必ず一緒にお昼行ってよ!」
「はははっ、わかった」

 僕は蒼華から言われた通り、蒼華から昼に誘われたけど予定があって行けない旨を小山に送った。するとすぐさま既読がつき、続けて蒼華のスマホから通知音が鳴る。

「美味しいランチのお店あるから行かないか、って小山くんからDM来た」
「行動早いな。じゃあ、頑張ってね」

 やや不服そうな蒼華に手を振り、僕はカフェを出た。

 *

 蒼華とわかれた後、僕が向かったのは学校だった。
 今日は日曜日。普通なら特に行く予定もないこの場所に僕が来るということは、もはや理由としてはひとつしかない。

「おっ。思ったより早いね~優人くん」

 僕が待ち合わせ場所である校門前に着くと、彼女は既に来ていた。白の襟付きブラウスにグレーのギャザースカート、そしてダークグリーンのカーディガンを羽織っている。

「なんか、制服みたいな色合わせだね」

 素直な感想を述べると、ふふんと水口さんは得意げに鼻を鳴らした。

「そっ、これは制服風ファッションっていってね、少し前に海外を中心に流行ったんだ~。でもまだまだ隠れ人気のあるジャンルで、こういっちゃなんだけどあんまり制服が可愛くない高校の子とか、高校の可愛い制服っぽい服を着たい中学生とかに需要があるんだよ。ということで、私もやってみました制服風コーデ! どうどう?」

 くるくるとその場で回る彼女の動きに合わせてスカートがはためき、カーディガンが翻る。
 純粋に可愛いと思った。制服のフォーマルさが、カーディガンやギャザースカートによって緩和され、柔らかくなっている。普段見慣れている色合いのはずなのに、かなり新鮮に思えた。

「い、いいんじゃないかな。似合ってると思う」
「あれ~もしかして照れてる? やっぱり可愛いなあ、優人くんは」

 きひひひっ、と白い歯を見せて水口さんは笑う。こういう茶目っ気も彼女が人気者な理由のひとつなんだろう。僕には、若干眩しすぎるけれど。

「あ、そーだ、良かったら優人くんも今度してみよーよ」
「いや、僕はいいよ」
「いいからいいから。制服コーデはね、カジュアルにするのがポイントなんだよ。男子だったら、そうだなあ。白シャツは生地をもう少し布っぽくするかシルクっぽくして、パンツもゆったりとしたテーパードパンツかワイド系のスラックスにして、シルエットはオーバーサイズ気味に……」

 また始まった。僕は肩をすくめ、おもむろにスマホを取り出してカメラを向ける。すると水口さんは弾かれたように校門前でポーズをとった。
 一枚、また一枚と写真を撮っていく。
 続けて動画に切り替える。一度スマホを地面に置いて真っ暗な状態で撮影を開始し、そのままスマホを持ち上げてゆっくりと後退して風景全体を魅せていく。途中で合図を送って水口さんが横から登場。そのまま敷地内へと入っていく彼女の動きに合わせて撮り続け、彼女が満面の笑顔で手を差し出したところでスマホを上に振り抜き撮影を終了した。

「ひゅ~、だいぶ慣れてきたね優人くん。最初の頃とは大違い」
「さすがにこれだけ撮ってたらね。慣れないと申し訳ないし」

 最初は撮影何回目と数えていたが、今ではそれもすっかりなくなっていた。もうどれだけ撮ったかわからない。……撮り直しも含めて。

「あと、私の扱いもね~。いきなり撮り始めるからびっくりしたじゃん」
「そうでもしないとファッション講義で動画編集の時間がなくなりそうだったし。ナミダ先輩もきっと待ってるよ」
「うわっと、そうだった。待たせたら悪いね、早く行こ」

 水口さんは思い出したようにパンと手を合わせると、先立って校舎の中に入っていった。
 先日、水口さんとは一悶着あった。まさか家どころか彼女の私室に招かれるとは思ってなかったし、そこで詰め寄られるとも押し倒されるとも僕が寝転がるとも彼女の家庭事情を聞くとも思っていなかった。
 とにかくいろいろあった一日だったが、僕と水口さんの距離が遠ざかることはなかった。
 いやむしろ、やや近くなっているまである。

「優人くん。部室行く前にそこの自販機で飲み物買って行こ。特別に私が奢ってあげるから、どれがいい?」
「じゃあ、普通に麦茶かな」
「おけおけ。私はミルクティーにしよーっと」

 あの日以来、彼女は周囲にクラスメイトがいる時以外、僕のことを名前呼びするようになった。その理由を訊けば、「そろそろ私たちも名前呼びしてもいいと思うんだよね」などと、まるで恋人ととして付き合っていると錯覚しそうな言葉を吐いてきた。もちろんそんなわけはなく、僕が慌てふためくのを見て水口さんは笑っていた。なんて性格の悪い。
 また、彼女の一大怨念……のなりかけであるバズるための動画制作もいよいよ大詰めを迎えていた。彼女が自分で撮ると言っていた自室での動画も撮影が完了し、そのほか念のため撮りたいらしいシチュエーションのものをいくつか一緒に撮影した。全てを使うことはできないが、なるべく素材があったほうがいいだろうということだった。
 そして今日も然り。蒼華のランチの誘いを断った、今日の用事もその大詰めの一環だ。
 それは、今まで撮り貯めた動画を一度編集で繋いで観てみようというものだ。
 今回、僕たちが編集して投稿しようとしているのは一分程度のショート動画だ。その尺の中で、これまで撮り貯めてきた水口さんの日常ファッションシーンをいくつか繋ぎ合わせ、一本の動画にする。しかしナミダ先輩曰く、ただ繋ぎ合わせてもダメとのことで、以前教えてもらったカメラワークも駆使しつつ場面転換をスムーズかつドラマチックにすることで印象を強め、注目を高める必要があるらしい。そのために、ある程度撮り貯めたところで実際にどんな感じになるのか、また足りない動画やシーンなんかはあるかなどを一度検証、分析するのが今日の目的だったりする。
 のだが。

「それでよお、もうこのアクションシーンは最高でっ! 本気で高校辞めてスタントマンを目指そうかと思っているところでえっ!」
「は、はあ」
「あははは……」

 水口さんと部室に入るや、ナミダ先輩はいつも通りというべきかまたかというべきか、今しがた観たらしいアクション映画について火傷しそうなほどの熱弁を奮ってきた。
 基本、ナミダ先輩は一度話が白熱すれば三十分くらいは優にひとりで話し続ける。その間、悲しいかなこちらの声はほとんど耳に入らない。校門で少しばかり時間を食ったが、まさかここでも時間を食うことになるとは。僕は軽く頭を抱える。

「ねえ、優人くん。この講義はどうにかならないの?」
「僕も未だに攻略法を見つけてないんだよね」
「無理矢理話に割り込んでみるのは?」
「あらゆる話題が自分の話題に結び付けて話される」
「じ、じゃあ、私の時みたいにカメラを向けてみる、とかは?」
「むしろもっと図に乗って話すよ。三十分コースが一時間スペシャルに悪化する」
「へ、へえ……」

 珍しく、水口さんの口元が引きつる。
 そして、僕らがすぐ目の前でひそひそ話を始めてもまるで気づく様子もない。本当にどうしたものか。やはり話がひと段落するまで適当に聞いているしかないのか。

「じゃあ、もう仕方ない、か」

 僕が腕を組み思索を巡らせていると、不意に水口さんはひとつ息をついた。そして、おもむろに窓際の席に座るナミダ先輩の方へと歩み寄り、

「セーンパイ! それからその映画、最後はどうなったんですか!」

 上擦った声をあげ、見事な所作で流れるようにナミダ先輩の隣についた。そのまま彼の目の前にあるモニターへ食い入るように顔を近づけ、垂れ下がった髪を耳にかける。
 僕は呆気にとられていた。そのさなかに、ちらりと視線を上げた彼女と目が合う。

 ――任せて。

 一度目配せをされ、そう言われた気がした。
 なるほど。そういうことか。近くに行って意識を自分に向けさせ、こっちのペースに持っていこうとしているのか。水口さんともなれば、それは確かに男子高校生にとって効くに違いない。
 僕がなにか言う間もなく、水口さんは視線をモニターへと戻す。

「これですよね! 今言ってた映画って! スタントもいいですけど、私はラストが気になります!」
「あ、ああ。えっと、最後はこのヒーローが窮地から生還してきて、ヒロインと抱き合うんだ。ほら、これ」
「わあっ! 素敵! ロマンチックだし、ドラマチックですねえ! ぜひとも私の動画もこれに負けないような感じにしてくださいね!」

 どこか恥ずかしそうにするナミダ先輩の傍ら、ハイテンションで水口さんは飛び跳ねる。
 さすがというべきか。明らかに、ナミダ先輩の熱はすっかり冷めていた。
 いや、違うか。すぐ隣にいる水口さんに意識が向いて、我に返ったみたいな感じだ。ほとんど触れ合いそうな距離に、応援しているインフルエンサーがいるのだから仕方ないといえば仕方ないだろう。やややりすぎなような気もするが、水口さんにしかできないやり方だ。
 ……。
 ……ただ、ちくりと胸が痛むのは、気のせいだろうか。

「それで、どうですか? 私たちが撮った動画! 結構いい感じに撮れていると思うので観てください!」
「お、おう。じゃあ遠慮なく観せてもらうな」

 水口さんが取り出したスマホを机の上に置き、撮り貯めていた動画を流していく。その間に、ナミダ先輩の熱は再び再燃を始めた。
 けれど、今回は映画ではなく動画。それも、映像文化部部長としてのやる気や気概みたいなところに火がついたらしい。

「ほっほ~なるほどなあ。よくこれだけの動画を撮ったな。しかもちゃんとドリーイン、ドリーアウトも意識してる。動画自体の内容もMIMARIにすごく合ってるし、これはトランジションの編集のやりがいがあるな!」

 意気揚々とした気力に満ちた表情で、ナミダ先輩は動画を繰り返し視聴している。

「ええ~ほんとですか! ありがとうございます! 嬉しいです!」

 そんなナミダ先輩に、水口さんは満面の笑みで応えていた。
 ……なぜだろうか。
 少しだけ、胸の辺りがモヤモヤとしていた。

 ――優人くん。

 そこで、微かに名前を呼ばれる。
 ハッとして見れば、水口さんがナミダ先輩に受け答えをしつつ視線だけはこちらに向け、ちょいちょいと手招きをしていた。そのさすがともいうべき器用さに、僕はぎこちない苦笑を浮かべて駆け寄る。

「だってさ~優人くん! やったね!」
「痛い痛い、肩を叩くな肩を……って背中もやめて、いたっ」
「はははっ、ほんと君らは仲いいなあ。いつの間にか水口さんから名前呼びされてるし、もしかして付き合い始めた?」
「付き合い始めてません」

 会話に入ると、モヤモヤは薄くなっていった。
 あれは、いったいなんだったんだろうか。ナミダ先輩に次期部長を頼まれた時とも違う、力の入らない諦念みたいな感じではない。どこか重くて、心がざわめくような、そんなモヤモヤだった。

「よし、じゃあとりま試しにこの川沿いで歩いてる動画と……これは、買い物帰りか? この動画を組み合わせてみよう。ちょうどブラックアウトからの場面転換だから繋ぎやすいしな」
「ぜひ! お願いします!」

 ナミダ先輩は実に慣れた手つきでマウスを操作し、動画の編集を進めていく。その間にも、水口さんは隣でいちいち大仰な歓声をあげていた。
 僕も合間からモニターをのぞきこんでみたが、確かにそれはかなりの完成度を誇っていた。モデルで主役である水口さんが素晴らしいのは言うまでもないが、この動画の撮影者が僕だなんて我ながら信じられないほどだった。
 そんな僕と水口さんの成果が、ナミダ先輩の編集によって迫力のあるショート動画に生まれ変わっていく。

「ねっ、ほんとにこれすごい動画になるよ! 優人くんもそう思わない?」
「あ、ああ。そうだね」

 これは間違いなく注目される、いい動画になるだろう。素人の僕が見ても、そんな予感があった。
 それなのになぜか、思った以上に僕の心は跳ねてはくれなかった。

 *

 九月最後の日曜日が終わると、あっという間に十月に突入した。
 今月は、僕の通う高校での最大イベントである文化祭が開催される。実行委員は夏休み前から既にこまごまとした準備を始めており、九月の試験期間が終わると一気にホームルームの空いた時間で出し物やらシフト割りやらを決め始めるのだ。かくいう、僕が水口さんと一悶着あった日に先生から頼まれて印刷していたプリントもそれ関係だったりする。
 そうして、全校生徒が一心に準備を進めていく文化祭で、僕らのクラスの出し物は謎解きゲームとなっていた。本当はお化け屋敷やコンセプト喫茶を狙っていたのだが、各クラス実行委員同士のじゃんけんに負けてしまい、余ったクイズ形式の出店というジャンルで考えた結果、謎解きゲームになった。
 クラス全体としては意気消沈した声もそれなりに出ていたが、僕個人としては安心していた。謎解きゲームはお化け屋敷やコンセプト喫茶と違って事前準備がかなり少ない。せいぜいがダンボールで看板やら謎が書かれたプレートやら謎そのものを作る程度で、大掛かりなセットや仕掛けは必要ないのだ。そのため、本格的な準備は十月に入ってからの直前期でやることになっており、おかげで九月の間は水口さんの手伝いに専念することができていた。
 ただそれも、いよいよ十月ということで、クラスでは文化祭ムードが本格化していた。

「よーっし! みんな、ゼッテー誰もが解けない高レベルの謎解きゲームにしてやろうぜ!」

 七限目のLHR。文化祭実行委員である小山が、教壇の前で力拳を作る。それに呼応して、クラスの中心的な生徒たちが「いえーい」と歓声をあげた。もちろんそこには蒼華や水口さんが入っており、僕は後ろから控えめに拍手をしているだけだ。
 そんなハイテンションムーブの中でいろいろな決め事を進めると、余った時間は少しでも小道具の製作を進めようということになった。小山やもう一人の実行委員の指示に従い机を移動させ、作業スペースを作っていく。
 僕が属する班の担当は、当日の集客に使うプラカードの製作だ。立て札タイプのものが三つと、首から提げるタイプのものを三つ、それぞれ役割分担してデザインを決めていく。

「優人は手が器用だから、ダンボールの切り抜きよろしくね~!」
「待て待て待て。蒼華、自分の分まで僕に押し付けるな」
「え、寺沢くん手先器用なの? じゃあ私の分もお願い」
「俺も俺も」
「よーし、みんな切り抜きは優人のところにかもーん」
「扇動するな焚き付けるな。あとみんなも蒼華の悪ノリに乗らないで」

 もっとも、僕の班には蒼華がいる。彼女はいつも僕をいじりつつ変なノリをけしかけてくるので本当に油断ならない。
 ただこれは、どちらかといえば幼馴染がゆえの癖みたいなものだった。今でこそ普通に誰とでも喋れるが、昔は人見知りだった僕を蒼華が気遣ってくれていた。その時の名残が、こういうグループ活動をする時にひょっこり顔を出してくるのだ。そして同じ班員のみんなもそれをわかって乗ってきている。なんてタチが悪い。

「ほかのみんなのはいいから、私のはやってよー。代わりにひとつ、優人のいうことなんでも聞いてあげる」
「せいぜいが百四十円のジュース奢ってくれるくらいでしょ? そういう誤解を生むような発言はやめなさい」
「誤解? どゆこと?」

 とはいえ、こういうド天然なところも含めてそろそろ止めてほしいところではあるのだが。じゃないと、

「おーなになに、寺沢。盛り上がってんじゃん」

 ほらきた。
 僕は人知れずため息を吐きつつ、声の方へ目をやる。すると案の定、高身長な小山ががっしりと肩を組んできた。かと思えば、こっそりと耳打ちをしてくる。

「ずりーぞ、幼馴染。俺も混ぜろ」
「混ざってもなにもないよ」
「何もなくてもいいからとにかく混ぜてくれよーう」

 小山のダル絡みに僕は辟易とする。まあ気持ちはわからなくもない。僕が蒼華とこういう話をしていれば心配にもなるだろう。
 ただ、彼はこの前の日曜日に蒼華とランチをして、後日友達も含めた何人かで遊ぶ約束を取り付けていた。蒼華も気になってきてはいるようだし、着実に前に進んでいるから気にしすぎなくてもいいと思うが。

「やっぱりさー、いくら俺の気持ち知ってる寺沢とはいえ、男といると多少は心配になるわけでー。ちなみにお前はホントーに藤野に気はないんだよな?」
「ないよ」
「よしっ」

 他の班員と話している蒼華を気にしつつ、あれやこれやと心配事を漏らした小山は、何度も聞いた確認を最後にようやく解放してくれた。やれやれだ。僕は若干乱れた制服を整える。

「あ、そうだ。今日このあとさ、相談に乗ってくれね? 遊ぶところのリサーチとかしたいし、藤野の好み知っておきたいんだよ」
「今日?」

 言われて考える。
 今日、特に水口さんとは撮影の約束はしていなかった。元々この時期は文化祭の準備で忙しくなるだろうからあんまりできないねと話していたけれど、まだ今週くらいはできるような気もする。
 思わず、チラリと水口さんの方へ目をやった。
 黒板の右前。五班のメンバーが陣取っているところでは、水口さんが指揮をとって作業を進めていた。どうやら、当日クラスで説明を担当する人が着る簡単な衣装のデザインを決めているらしい。いつも通り班員と笑顔で、楽しそうに作業を進めている。

「……」

 また少しだけ、胸に違和感を覚える。どろりとした何かが、広がっていく。

「おい、寺沢?」
「え、ああ、ごめん。ええっと、今日このあとだよね」

 っと、まずい。また何か、思考に入り込んでいた。僕は小さく首を振り、すぐさま取り繕う。

「んー、まあ、今日はちょっと難しいかな。あれなら夜にでも話聞くよ」

 また少し前考え、結局僕は首を横に振った。
 もし今日動画撮りがないにしても、彼女が絶対に撮りたいと言っていた文化祭での撮影に向けてもう少し練習はしておきたかった。あと動画編集の勉強もしたいところだし。

「んーあーそうかあー。まあ難しいなら、しゃーないか。でも絶対夜な!」
「ああ、わかったよ」
「おー小山くん! 優人と何の話してたの〜?」

 そこで、他の班員と話していた蒼華もタイミング良く絡んできて、この話は終わりとなった。蒼華が話に加われば、小山はもちろん僕はそっちのけで蒼華との会話に夢中になっている。その横顔は誰がどう見たって恋をしている人のそれだ。さっきも僕と蒼華が一緒にいるとどうしてもモヤつくとか心配になるとか言っていたけど、昔こそすれ今の僕は……

「……あ」

 そこで、ハッと思い至る。
 この前の日曜に感じた、あのモヤモヤ。そういえばあれを感じたのは、水口さんがナミダ先輩と距離も近く親しげに話していた時だった。それにさっきも、水口さんが他のクラスメイト、とりわけ男子と楽しそうに喋っていた時に感じていた。
 ……え、これってまさか、嫉妬?
 無意識のうちに、再び水口さんの方へ視線を向ける。
 水口さんの得意分野である衣装デザインを、複数イラストで並べては和気あいあいと意見を出し合っている。その表情はやっぱり楽しそうで、いくぶんか僕といる時よりも濃く深い笑顔のように思えた。
 ……気のせい、だろ。
 軽く頭を振って思考を掻き消す。するとそこへ、ちょうど七限目終了を告げるチャイムが鳴った。「ヤバいっ、全然作業進んでない!」という蒼華の叫び声が近くで聞こえる。
 ひとまず本格的な準備は明日からということになり、素材のダンボールやテープ、色紙なんかといった道具は保管用の空き教室へ運ぶことになった。僕は一度水口さんを視界から外したくて、自分の意思で運搬係に名乗りをあげた。

「…………まさか、ね」

 ほとんど切り抜きのされてない、真新しいダンボールを運んでいるさなかも、頭の中は水口さんのことでいっぱいだった。
 どうして僕は、こんなにも水口さんのことが気になるんだろうか。怨念のなりかけを晴らす手伝いを始めてからなんとなく視線をやる機会は増えたが、ここまで意識が向くことはなかった。せいぜいが授業で集中力が途切れた時とか、先生に当てられて黒板に解答を書きに行った帰りとかにちらりと見てしまう程度だった。
 それが今はどうか。
 彼女がこれまで通り、クラスメイトの男子やナミダ先輩と仲良くしているだけでモヤモヤとした気分になっている。どろりとした感情が胸の底に這いつくばっているような、気持ち悪い感覚。こんなこと、初めてだ。
 
「っ、くそ」

 誰にも聞こえないように、小さく舌打ちをする。それは主に、自分に向けてのものだ。
 今日は撮影しないほうがいいな。
 小山の頼みを断っておいてなんだが、とてもじゃないがいつものように撮影できる気がしなかった。こんなことでは、水口さんにも協力してくれているナミダ先輩にも申し訳ない。
 このダンボールを運び終わったら、さっさと帰ろう。
 LHRの後はそのまま自主解散となっていた。幸いにして、教室を出る時に指定鞄は肩に担いで来ている。水口さんから特に何も言われてないし、このまま帰っても問題ないだろう。
 そう思考を切り替え、すっかり離れてしまった同じ運搬係のクラスメイトたちの背中をぼんやりと眺めた。

「なーにまた難しい顔してるの?」

 その時、涼やかな声が響いた。
 すっかり陽が短くなったからか、いつかの日のように廊下は茜色に染まっている。
 けれど、その声は前からではなく、背後からだ。と思う間も無く、ポンと軽く背中をたたかれた。

「水口さん」
「やほっ、優人くん」

 すぐ隣から、ひょっこりと彼女は顔をのぞかせる。その表情は朗らかで、西陽に照らされ仄かに赤い。魅入ってしまいそうになり、僕は咄嗟に目を逸らす。

「……難しい顔って、後ろからじゃわかんないでしょ」
「あははっ、わかるよー。優人くんって背中で語るタイプだから」

 一度も言われたことない言葉を、水口さんは口にする。その様子は僕とは違い、至っていつも通りだ。
 タイミングが悪いと思った。
 正直、今は一番会いたくなかった。水口さんに関することで悩んでいるのに、その当の本人が目の前にいては何を言ってしまうかわからないから。
 少し歩調を早める。けれど水口さんは何を勘違いしたのか、「荷物半分持つね」とダンボールを数枚僕の手元から抜き取った。

「それで? いったい何に悩んでいたの? おねーさんに話してみなさい」
「おねーさんって、歳変わらないでしょ」
「ほらそこ、誤魔化さない。あ、わかった。さっきの小山くんのやつでしょ?」

 水口さんは鋭く突いて話しかけてきた半面、今度は頓珍漢なことを得意げに言った。僕は少しだけ安心するのを感じつつ、まさに誤魔化すつもりで首を縦に振ってみせる。

「まあ、ね。ちょっと疲れて、断ったんだけど、あれで良かったのかな、なんて」
「なるほどねー。まあ私は良かったと思うよ。どっちにしても、多分小山くんの恋の結果は変わんないだろうから」
「え、なんで?」

 思いがけない言葉に目を見張る。結果が変わらないって、どういうことだ?
 僕の反応に、水口さんは視線を前に向けた。

「私の勘だけど、今のままだと蒼華ちゃんは小山くんのことをフッちゃうでしょ。だから、優人くんが直接相談を受けても後から聞いても結果は変わんないし、疲れてるならなおさら断って良かったんじゃないかなって」
「そ、そういうことじゃなくて、どうして蒼華の、その、気持ちがわかるんだ?」

 こういってはなんだが、水口さんと蒼華はそこまで仲がいいわけじゃないと思っている。二人で話しているところはほとんど見たことがないし、なにより最初に見てしまった『怨念ノート』に蒼華のことを「あざとさ満点の人たらし」と書いてあっただけに、クラスでの水口さんは蒼華のことを敬遠しているように見えていた。それなのに、どうして水口さんが蒼華の気持ちをそこまで断じることができるんだろうか。
 僕が訝し気に水口さんを見やれば、彼女は小さく笑ってまた視線を僕の方へ戻してきた。

「わかるよ。だって、ずっと見てたから」

 いやに凛とした声が、すぐ近くで聞こえた。

「前も言ったでしょ? 人はね、ふとした瞬間の表情に、自分でも気づかない気持ちが表れていることがあるの。蒼華ちゃんのそれを、私が見て知っているってだけ」
「どうして、ずっと見て……?」
「さあて、ね。どうしてでしょう? いつもの優人くんならわかるかもしれないけれど、今の疲れてる優人くんだと難しいかな。だからさ、ほら、今日はすぐに帰って休んで。小山くんの頼みを断れたのは、とってもすごくて、偉いことだよ」

 自然な動作で、彼女の右手が伸びてくる。
 頬に触れそうになった手を、僕は反射的に払いのけた。
 その拍子に、持っていたダンボールが床へと落ちる。
 僕らは、無言で見つめ合っていた。
 どうして手を振り払ったのかわからなかった。
 顔が熱い。肋骨の下で心臓が暴れていた。
 やがて、先に動き出したのは彼女の方だった。一枚一枚、ダンボールを丁寧に拾っていき、ついには当初僕の手にあったダンボールの全てが彼女の手へと渡っていた。

「このダンボールは、私が持っていくよ。優人くんには、待ってる人がいるみたいだから」
「待ってる人?」

 水口さんの目の動きにつられて、今しがた歩いてきた廊下の後方を見れば、階段付近に見慣れた人影がポツンと佇んでいた。

「え、蒼華?」
「じゃあ、優人くん。また明日ね」

 水口さんはそれだけ言うと、小走りで駆けて行った。
 入れ替わりに、佇んでいた人影がおずおずと近づいてくる。

「優人。その、良かったら、一緒に帰らない?」

 オレンジ色に染まった世界で、幼馴染がぎこちなく笑っていた。

 *

「いやあ~急に寒くなったねえ~」

 中学生やら会社帰りと思しき人たちが行き交ういつもの歩道に明るい声が響く。その声の主は、家の最寄り駅にあるコンビニで買った温かい紅茶のペットボトルを両手で包み込み、カイロのように揉んでは転がしている。学校を出るまでは気まずそうにしていたが、駅まで歩き電車に乗って家の最寄り駅に来る頃にはすっかりいつもの様子に戻っていた。
 僕はそんな幼馴染、蒼華を横目に、同じコンビニで買ったミルクティーを喉へと滑らせる。

「それにしても、優人と帰るのってケッコー久しぶりだよね? 十年ぶりくらい?」
「一ヵ月ぶりくらいでしょ。ほら、夏休み明けの火曜日。なんか寄りたいところがあるとかで」
「あーあったあった! 荷物持ちさせたやつだ!」
「忘れるな、おバカ」

 思い出したように手を打つ蒼華の頭をペシリとはたく。あの重い荷物を両手に持たされた僕の苦労を忘れるとは何事か。両親からおつかいを頼まれたらしいついでに、自分のものもあれこれと買っては僕の持つ袋に入れていくその様は、まさに悪魔の所業とばかり思っていたのに。呆れるしかない。
 それにしても、一ヵ月も前だったか。
 自分で言っておいてなんだが、そこまで時間が経っている気がしなかった。つい昨日のことのように、あの手の重みやだるさが思い起こされる。

「忘れもするよー。だって優人、最近は放課後なんかいろいろと忙しくしてたじゃんかー」
「それは、まあ」

 そう言われてしまえば返す言葉もない。夏休みが空けてしばらくした日に水口さんの『怨念ノート』を見つけてしまい、そこからいろいろと手伝うことになったから。

「それで? いったい何してたのかな~?」

 蒼華は歩きながら、わざとらしくジト目を作ってのぞき込んでくる。実に普段の蒼華っぽい。先ほどまでの、何かに迷っているような雰囲気はもうない。

「べつに、いつも通りだよ。なんかいろいろと、頼まれて」

 だから僕も、いつも返している通りの返事で答えた。さすがに水口さんの『怨念ノート』のことは言えないし、事実小山や他のクラスメイト、先生なんかからも頼まれ事はしていたから。我ながら、本当によくこなしてきたと思う。
 もう一度ミルクティーを口に含む。
 やけに甘ったるいその味に、どうして僕はこれを選んでしまったんだろうと若干後悔した。

「それは、陽葵ちゃんから?」

 びっくりする。
 甘ったるいその液体を、僕は危うく吹きこぼすところだった。
 半ばむせながら隣に目を向ける。

「い、いきなり、何言ってるの?」
「なんとなく、そうかなーって思って。その反応を見る限り、もしかして図星だったり?」

 悪戯っぽい笑みがそこにある。カマをかけてきたのか、もしや。

「変なことを言うからびっくりしただけだよ」
「へえ、そうなんだあ。でもわりかし当たってると思うんだけどなあ。この前の日曜に陽葵ちゃんのアカウント見てたこととか、その陽葵ちゃんのアカウントに載ってたフレンチトーストのお店を優人が小山くんに勧めてたこととか、あとはさっきなんか見つめ合ってたとことか見るとなあ」
「……っ」

 言葉に詰まる。いつものほほんとしている蒼華にしては驚くほど、鋭い指摘だった。
 何も言えない僕を、蒼華はジッと見つめてくる。

「……まあ、いいんだけど。優人は、優しいもんね」

 でもそれは僅かのことで、蒼華は再び朗らかな表情に戻って紅茶のペットボトルを転がし始めた。まだ封は開けられていない。

「でもなんか、最近はほんとに少し、変わったなあって思ってもいるんだよね」
「そう、かな」
「そうだよ。この前だって、ランチ断られたし」
「まだ根に持ってるの?」
「ずっと根に持ってるよ。だって、優人が私のお願いを断ったの、初めてだもん」

 言われてハッとした。思わず歩みを止める。けれど、蒼華はそのまま言葉を続けた。

「それに、文化祭の準備をしてる時もそう。小山くんの頼み、断ってたでしょ? でもなぜか、今日の私の一緒に帰ろうって頼みは聞いてくれた。なんでかな?」

 やがて蒼華も立ち止まり、くるりと回ってこちらを見た。その拍子に、いつもよりいくぶんか短いスカートが風をはらむ。

「もし、そうだったら良かったなって思ったけど、違うよね。だって優人、私じゃない方を見てたし」

 純真無垢で天真爛漫。そればかりだと思っていた幼馴染の瞳は、見たことがないほどに歪んでいた。その意味がわからないほど、僕は鈍感ではない。
 でもどうして? 全く僕にそういう感情を持ってなかった蒼華が、なぜ……?

「えっと、蒼華」
「ねえ、優人。陽葵ちゃんのこと、好きなの?」

 僕が呼んだ彼女の名前に被せるように、蒼華は淀みなくそう訊いてきた。
 驚く。
 明確に名前をつけられたその感情に、僕の心は嫌でもざわめき立つ。

「もちろん、ライクじゃなくてラブのほうで訊いてるからね?」

 いつの間にか真っ直ぐに据えられた蒼華の視線に、僕は縫い留められていた。
 考えることを放棄しようとしていた問いに、僕は向き合わされていた。
 僕は、水口さんのことが好きなんだろうか。
 たくさん振り回されて、かと思えばあれこれと気遣ってくれて、それでも自分のお願いは無遠慮に頼んでくるときた。
 一ヶ月近く、怨念のなりかけとやらを晴らす手伝いをしてきた。話題のカフェに行くなんてことから、バズるための動画撮影まで。
 幸せそうにスイーツを頬張っていたこともあれば、半ば騙される形で私室に上げられ押し倒されたこともあった。
 そんな水口さんを、僕は…………

「…………わからない」

 たっぷり迷って、どうにかそれだけを口にした。
 僕の幼馴染は、それを良しとしなかった。
 彼女は小さく息をつくと、おもむろに近づいてきて言った。

「それじゃあ、私は? 私のことは、好き?」
「どう、かな」
「答えて」

 ピシャリと言い切られる。
 それでも僕は、答えられなかった。
 昔は好きだったとか、今は幼馴染としては好きだとか、そういう答えを求めていないのがわかったから。
 沈黙が下りた。
 蒼華と十年以上一緒にいて、初めての経験だった。
 どこか遠くで、時報の音楽が鳴っていた。

「……ほんと、優人らしいや」

 沈黙を破ったのは、蒼華だった。
 固まっていた表情を緩やかに崩して、彼女は笑う。

「ねぇ。再来週の文化祭、私と一緒に見て回ろうよ」

 目を見張る。またも予想外の誘いに、僕はたじろぐ。

「この前のランチの埋め合わせ。ね? いいでしょ?」
「でも、小山が」
「小山くんから誘われたら、私は断るつもり。今の私は、優人と一緒に回りたいから」

 蒼華の口元が薄く綻んだ。その顔は蒼華っぽくないくせに、なぜか既視感があった。

「女の子ってね、意外とみんなズルいんだよ」

『藤野蒼華は、あざとさ満点の人たらし』

 一度しか見ていない文字が、脳裏に浮かぶ。
 呆然とする僕に、蒼華は「楽しみにしてるから」とだけ言い残して走り去っていった。
 いつもより随分と早い別れ路で、僕は立ち尽くしていた。

 *

 最近、わかったことがある。
 心が乱れていると、人に優しくできない。
 とても、当たり前のことだ。

「おーい、てらっち。わりーけど、古文の宿題見せてくれよ」
「あ、ごめん。僕もまだやってなくて」

 嘘だ。本当はやってある。昨日、水口さんのことやら蒼華のことやらに集中力をかき乱されながらも、どうにかこうにかやり遂げた。
 けれど、なぜだか見せることがためらわれた。以前言われたように、苦労してやった宿題を書き写されるのがムカつくからか、あるいは彼が水口さんと同じ中学出身でよく親しげに喋っているのを見かけているからか。……さあ、わからない。

「寺沢、今日の放課後って残れる? もし残れるなら文化祭関係でちょっと野暮用頼みたくて」
「あー……ごめん。今日はちょっと、外せない用事入ってて」

 これは半分嘘で、半分ホントだ。別段、用事は今日じゃなくてもいいし、そもそも用事というのは動画編集の練習だ。ナミダ先輩に少しアドバイスをもらおうかなと思っている程度で、別に夜にしたっていい。
 けれど、なんとなく水口さんや蒼華と顔が合わせづらかった。普段の教室では仕方ないにしても、今はできるだけ距離を置きたかった。そんなどこまでも自分本位な理由から、できる限り協力すべき文化祭関係の頼みまで僕は断った。
 ほんとに、僕は何をしているんだろうと思う。
 悩みそのものは、至って月並みのものだ。気になっている水口さんへの気持ちを整理するだとか、幼馴染の蒼華との関係をはっきりさせるだとか、過去一番にモヤつき入り乱れている心を少しでも落ち着かせるだとか、高校生の誰もが経験するような実にありふれた内容だ。実際、あの日の夜に小山からも似たような相談を受けた。
 でも、いざ自分事になってみればどうしようもない重大事だった。勉強をしていても、家事をしていても、無意識のうちにどうしようか考えていた。なんとなく食欲は落ち、なかなか寝付けなくなった。ここまで僕は繊細だったのかと、新しい一面を見た気分だった。
 そしてまた、今日も僕はクラスメイトからの頼まれ事を断り、七限目に引き続き放課後も居残って文化祭の準備を進める蒼華たちから逃げるように部室へと来ていた。

「寺沢、最近やけに熱心だな」

 僕が無言でパソコンとにらめっこしていると、右斜め前のいつもの席に座るナミダ先輩がなぜか呆れたように言った。

「これまでは幽霊部員だったので、少しでもそれを取り戻そうかと」
「へええ。次期部長がやる気になってくれたのなら現役部長としては言うことはないな。ちなみにいつまで続きそう?」
「僕が飽きるまで、ですかね」

 手元のマウスを操作し、モニターの中で動画を繋ぎ合わせる。今回の繋ぎ目は空だ。ランニングをしている水口さんから空へ、その空から今度は校門前にいる水口さんへと、動画が違和感なく流れるようにトランジションを設定していく。

「飽きるまで、か。我慢強い寺沢ならずっとやる気持っててくれそうだな」
「そうですね。頑張ります」
「うん、それで? ほんとのところはどうなのかね?」

 小馬鹿にしたような声が耳を衝いた。動画のトランジションのタイミングが狂う。僕は内心舌打ちをしつつ顔を上げる。

「何が言いたいんですか?」
「いや、むしろ逆なんじゃないかってこと。気が向いてるべつのことから逃げる口実で、ここに通っているんじゃないのか?」

 何を知ったふうなことを。この前、すぐ近くに来ていた水口さんに鼻の下を伸ばしていたくせに。

「……だったら、ダメなんですか?」
「いーや、オールオッケーだ。気の済むまでここで逃げ続けていろよ。きっといつか、取り返しがつかなくなってから気づくからさ」
「はあ?」

 僕は声に苛立ちを混ぜて聞き返した。後輩にあるまじき発言ながらも、ナミダ先輩はスルーする。鼻歌を歌いながら、普段と変わらない様子でマウスを操作し、何やら映像をいじくっている。
 そんな意味深なことを口にしてまで、しらを切るつもりだろうか。僕は作業の手を止めてナミダ先輩を見据えた。

「先輩。今のって、どういう意味ですか?」
「んー? どうって、そのままの意味だ。考えるのもいい、迷うのもいい。でも時間は限られてる。タイムリミットは常に意識しておかないと、ズルズルと時間だけが過ぎていって気づけば全てが遅すぎました、なんてことになる」
「それは、実体験ですか?」
「バレたか」

 視線はモニターに留めたまま、ナミダ先輩はニカッと笑ってみせた。

「つっても、あっさりした体験だけどな。昔好きな先輩がいたけど結局気持ちを伝えられなくて、その先輩は卒業して終わっちまったってだけの」
「話早いですね」
「だからあっさりした体験だって。伝えたかった気持ちはすげーシンプルで、あとはただ声に出して言うだけのはずだった。タイミングだってたくさんあったのに、なんで言えなかったかなあって今でも思うわけ」

 昔を懐かしむように、ナミダ先輩は目を細める。その横顔はどこか儚げだった。ナミダ先輩でもこういう顔をするのかと、我ながら失礼な感想を抱く。

「それは、今からでも言えないんですか?」
「ああ、言えないなあ」
「どうして?」
「だってもう、この世にいないからなあ」
「………………え?」

 世間話の延長線みたいな声色で放たれたワードだった。そのあまりの平坦さに聞き逃しそうになったが、僕の耳はしっかりと捉えてくれた。捉えてくれただけに、僕の口からは吐息にも近い疑義の声が漏れた。

「浪人生活中にな。原因はわかんね。その日も意気込んで予備校に向かったらしいけど、途中にあるビルの屋上から……。我慢強くて、笑ってばかりの人だったなあ。あと、人の話を聞いてばっかであんまり自分のことは話さなかったっけな」
「それ、は……」
「ああ、でも、ひとつだけ。五十までには死にたいってよく言ってた変人でもあったな。理由はまあ、教えてくれなかったけど」

 淡々とナミダ先輩は語ると、フッと短く笑って肩をすくめた。

「とまあこんな感じで、本音を伝えたい誰かや本音を伝えてほしかった誰かが突然いなくなることだってある。これは極端な例だが、自分だけはないと高を括らないようにな」
「…………」

 突然降って湧いたあまりにも重い話題に、僕は何も言葉を返せなかった。ナミダ先輩が努めていつも通りの感じで話してくれたのも、僕に気を遣ってのことだろう。
 ナミダ先輩のほうが、優しいじゃないか……。
 挑発的なことを言いつつも、しっかりと僕のことを考えて、辛いはずの過去まで教えてくれた。それなのに僕は未だに日曜のことを引きずって、内心ではナミダ先輩に唾を吐きかけていた。自己嫌悪になりそうだった。僕はどこまで、自分勝手なんだろう。

「その様子を見るに、やっぱり悩みの種は陽葵ちゃんか?」
「ええ、まあ……って、え? 陽葵ちゃん?」

 名前呼び? え、なんで?

「なんだ? 違うのか? それかあれか、部員として名前を貸してくれた幼馴染の方か?」
「いやいやいや、そうじゃなくて、なんで名前呼びなんか……」
「ダメか? 少しでも親しくなろうと思って、次からそう呼んでみようと思ってるんだが?」

 ニヤリと何か悪巧みをしてそうな表情を向けてくるナミダ先輩。ほんとに、どこまでもこの先輩は……。
 僕はそっと胸に手を当てる。
 うん、やっぱり、そうだ。

「ダメです」
「はっはっはっ! そうかそうか! やっぱりダメかっ!」

 僕がきっぱりと否定するや、ナミダ先輩は大げさに仰け反って笑い始めた。僅かに開いた窓から、高らかな笑い声が響き抜けていく。
 なんてことはない。
 僕はどうやら、難しく考えすぎていたらしい。

「ちゃんと考えて、伝えてみようと思います。文化祭までには、必ず」
「おう。文化祭も動画撮るんだろ? 楽しみにしてるからな」

 ナミダ先輩の笑顔に、僕は大きく頷いてみせた。