秋というのは、いつも突然やってくる。
 蒸し暑い夏の気配がいつまでも漂っている九月は、秋というよりもやはりまだまだ夏という感じだ。しかしそれも、ある日を境に突然冬の寒さをはらんだ大気が空を覆い、たちまち冬の気配を濃くしていく。秋というのはその間に、ほんの少しだけ顔を見せる幕間的な季節だと、僕は思っている。
 そして九月もいよいよ半ばを過ぎた土曜日の今日は、紛れもなく秋の様相が周囲に満ちていた。

「へえ」

 つい声が漏れる。三日前に水口さんと来た時はまだ赤く色づき始めたばかりだったのに、ここ最近の気温の急落で運動公園に立ち並ぶ木々は一気に衣替えを済ませていた。北にある山の方から吹き下ろしてくるのであろう風は冷たく、真っ赤に染まった木々を揺らして葉擦れの音を響かせ、その一部は舞って近くにある噴水の水面へと落ちていった。
 これとかも、いいんじゃないかな。
 人工的で規則的な水音と、波紋で流れていく紅葉。色彩としては申し分なく綺麗で、こうした噴水の縁に腰かけて待ちぼうけをくらっている構図とか、あるいはすぐそばにあるベンチで読書をしている様子とか、まさに絵になるんじゃないだろうか。

「あーそこらへんはダメだよ。ありきたり過ぎて逆にスルーされるから」

 じっくりと付近を眺め回していると、後ろから声をかけられた。先ほどから吹き荒んでいる秋風とは異なる、柔らかな涼風みたいな声に僕は振り返る。

「水口さん」
「やっ、寺沢くん。お待たせ」

 思ったよりもすぐ近くに、彼女はいた。当然のように僕が驚くと、水口さんはしたり顔で小さく笑う。

「なになに? 休日に女子の私服見てドキッとしちゃった?」
「いや、思ったよりも近くにいたから」
「えええ、なんだよう」

 途端に今度はむくれ顔になる。前に来た時もそうだったが、水口さんはかなり表情の変化が豊かだ。
 ただ彼女の言うように、普段休日に同い年の女子と遊ぶことは蒼華を除いてまずないので、水口さんの服装はかなり新鮮だった。白ニットに秋らしいチェック柄のフレアスカートを着こなしており、グレーのベレー帽がちょこんと頭に乗っている。家にあった、いつ買ったのか覚えていないライトブラウンのパーカーと黒のチノパンを着てきた僕とは雲泥の差だ。

「まっ、私服云々の文句や不満は後でノートに書いておくとして」
「え」
「今日こそは、バズらせるためのヒントを見つけようね!」

 僕が一応服を褒めておこうかと思う間もなく、水口さんは早々かつ物騒な言葉で話題を切り上げてきた。むくれ顔から一転、やる気に満ちたガッツポーズ。さすが、『明日は朝十時に運動公園集合ね』と昨夜にメッセージを送ってきただけはある。
 三日前。彼女の『怨念ノート』に書かれていたもののうち、SNSでバズらせたいという彼女の欲望を叶える手伝いをする約束を、この運動公園で交わした。約束のあと、時間の許す限り公園内を見て回ったが、僕が提案する場所や構図はことごとく却下された。

「いーい? 私がテーマとしているのは『何気ない日常のワンシーン』なの。景色自体が綺麗な場所で写真や動画を撮っても意味ないし、構図を工夫するだけで閲覧数が増えるわけもない。もっとこう、私じゃ思いつかない寺沢くんならでは、みたいなのちょーだいよ」
「そんな無茶な」

 水口さんの要望に応えて僕なりの感性を出してみたが、どうやらそれだけではお気に召さなかったらしい。その結果、「改めてじっくり時間をかけて探したいから、今週の土曜か日曜空けておいてね」と言われ、土曜がいいと答えたら昨夜のメッセージが来たわけだ。
 ちなみに、前回運動公園に行った日から今日までの中二日の放課後についても、僕は水口さんに頼まれ駆り出されていた。

『自慢話ばっかりうるせーぞ、ナルシストが。愛想笑い浮かべてずっと聞いてるこっちの身にもなってみろアホ。たまには私の自慢話も聞けよバーカバーカ』
『↑はーっ、すっきりした! どやあっ! 私も頑張ってるんだー! それよりもフルーツタルト最高にうまうま!』

 今度はフルーツタルトが美味しいお店に連れて行かれ、そこで一時間近く自慢話の聞き役に徹したり。

『数学わかんねーっての。インテグラルとかシグマとかシータとかやたら記号多いのなんなんだよ。つーかあいつ、毎回毎回自分が良い時だけテストの点数訊いてくんな。マジうざい』
『↑解消! 二重の意味で! 次の数学の試験見てろよーーっ! 目指せ満点! やっぱ、50点!』

 数学がとことん苦手な水口さんに基礎的な考え方や解き方を教え、これからもちょくちょく教える約束を半ば強引にとりつけられたりした。
 もっとも、僕にはない経験をしている水口さんの話は聞いていてかなり興味深かったし、数学嫌いな水口さんの何気ない質問で僕自身も勘違いしていたポイントを見つけられたので有意義な時間ではあった。
 ただ一方で、ちょっと待てと思うこともあった。

「寺沢くんさ、たまには休んでって言ったのに昨日も頼まれ事引き受けたでしょ。私のほかに、クラスの金川くんと小山くんの」
「え、まあ……」
「その前の日も、私に蒼華ちゃんに百合香ちゃんのお願いまで聞いちゃってさー、全然休んでないじゃん。ダメだよ、そんなんじゃ」
「水口さんがそれ言う?」

 二日続けてどころか、一週間くらい頼み事をしている水口さんには言われたくない。けれど、当の水口さんは「それはそれ、これはこれ」となんとも自分勝手な返答を投げてきた。やれやれだ。
 それに、人間そう簡単に変われるものではない。
 この二日間の頼まれ事についても、一度は断ろうかと考えてみるが、結局は困った相手の顔と押しの強い姿勢に流され、引き受けてしまった。自分のために断るというのは、思った以上に難しい。
 そうした二日間を経て、再び舞い戻ってきたバズるためのきっかけ探しの手伝いが今日である。あれほど家事や宿題、読書、動画視聴なんかに費やしていた時間が、『怨念ノート』を見てしまって以来すっかり様変わりしていた。

「で、まずはどうしよっか? 前は時間なくて行けなかった北側の花壇エリアでも行ってみる?」
「へえ、そんなところもあるんだ」

 近くにあった園内看板を見上げる。確かに、僕たちが今いるのは公園の南側で、こちらは噴水広場や競技場、散歩コースとなっている周遊路なんかがメインにあるらしい。一方の北側には、季節の花々が植えてある花壇エリアや軽い球技遊びなんかができる芝生広場、小さな野外ステージ、屋内プールなんかがあるようだ。

「ちなみに言っておくけど、解像度が高い綺麗な花畑の写真とか、よくある野外ステージでのダンス動画とかは却下だからね」
「何気ない日常のワンシーンじゃないから?」
「せいかーい」

 前回の終わりに言われたことを復唱すると、彼女は満足げに指で丸を作る。なんとも注文の多いナノインフルエンサーだ。

「どっちも注目はされやすいんだけどね。花畑は豊富な色彩と奥行きを意識した臨場感溢れる写真とか撮りやすいし、ダンス動画は下手でも女子高生っていうブランドだけで観る人多いから」
「ブランド?」
「そーだよ。女子高生はブランド、男子高生は資格。どっちも期間限定だけどね。寺沢くんも資格があるうちに女子高生と遊んでおいた方がいいよ。あ、そういう写真なら日常のワンシーンだね。どうする? 一緒に撮っちゃう~?」

 ニシシッと彼女は悪戯っぽく笑う。注文が多いことに加えて実は調子もいいらしい。僕は呆れて「遠慮しとく」と苦笑を返すことしかできなかった。
 ただ他に見るところもないようなので、一緒に写真を撮るかどうかはさておき、僕らはとりあえず北側のエリアを回ることにした。
 そこは確かに色とりどりの花々が植えられていた。コスモスやケイトウといった秋を代表する花が遊歩道の両脇に咲き乱れており、赤く染まった紅葉や黄色い銀杏の木々とのコントラストが実に華やかで鮮やかな風景を生み出している。
 また土曜日ということもあってか、散歩をしている家族連れや老夫婦、写真撮影をしているカップルなどがあちこちにおり、平日の夕方とは違った賑わいを見せていた。

「こういう散歩とかは日常っぽくない?」
「んー、普段からやってるならねー。たまに来る、だと日常に彩りを与える非日常のひとつだよ。寺沢くんは普段から散歩してる?」
「してないな」
「私も〜。だから、きゃーっか」

 投げやり気味に叫ぶと、水口さんは小走りで近くに咲いていたコスモスに駆け寄った。

「それより、ほらほら見て! 黄色いコスモス! 普通ピンクとか紫なのに珍しい〜!」

 微笑みを讃えてコスモスを右から左から眺め回し、スマホを向けて写真を撮る。そのはしゃぎっぷりは、バズるためのきっかけ探しというよりは、素でやっているような感じだ。

「説明書き曰く、品種改良でできた色みたいだね」
「へぇ〜そうかそうか。お前さんも人間に振り回されて苦労してんなあ」
「……黄色いコスモスにそんなことしみじみ言ってる人初めて見た」

 僕が正直な感想を漏らすと水口さんはケタケタと笑い声を響かせた。
 そのあと花壇エリアのあちこちを見て回ったが、景色の主張が強すぎるため早々に野外ステージのあるエリアに移ることにした。

「お〜っ! 見てあれ! 大学生かな? なんか演奏してる!」

 円形アリーナのように窪んだ形で設置された野外ステージでは、数人の男女がギターやドラム、キーボードを並べて音合わせをしていた。やがてそれが終わると、軽快な音楽が鳴り始める。道行く人は足を止め、近くで遊んでいた小さな子どもたちは興味津々とばかりに最前列まで降りていく。

「僕らも近くに行ってみる?」
「おっ、乗り気だねえ、寺沢くん。君がそこまで言うなら行ってみるのもやぶさかじゃないよ〜」

 なぜか上から目線な水口さんは、嬉々として僕の袖を引っ張り前の方へと向かう。彼女の顔が何やらうずうずしていたから提案してみたのだが、どうやら正解だったらしい。
 近くにある国立大学の軽音サークルらしい大学生たちは、僕でも知っている有名な曲を次々と演奏していった。はしゃぎ回る子どもたちに混ざって、一曲終わるごとに彼女も大きな声援と拍手を送っている。

「やっぱりいいなあ! 私も大学行ったら音楽始めてみようかな。ギターとかやってみたい」
「水口さんならボーカルも似合いそうだけどね」

 バンドの中央、スタンドマイクの前で堂々と立ち、笑顔で名曲を歌い上げる水口さんを想像してみる。うん、やっぱり映える気がする。
 けれど水口さんは短く笑ってから首を横に振った。

「ダメダメ。残念ながら私は超絶音痴だから。カラオケ採点の最高点、68点なのよね」
「あーそうなんだ」

 それなら仕方ない。人間誰だって得手不得手がある。となると、彼女の言うように楽器で一番目立つギターが良さそうだ。
 ステージ上でリズミカルに弦を弾き、メロディを奏でる水口さん。なるほど、これも確かに彼女っぽい感じがする。
 僕がぼんやりと野外ステージでギターを担当している女子大学生を見ながら考えていると、不意に隣から視線を感じた。

「なに?」
「今なに考えてたの?」
「え、いや、ただ水口さんはギターも合ってそうだなって。ほら、あの人みたいにソロでパートを担当することもあるし、結構目立つから」

 僕が思ったことをそのまま言うと、水口さんは何事かを考えるように天を仰いだ。やがて、ギターのソロパートが終わると同時に視線を戻す。

「なるほどね、そっかそっか。寺沢くんらしいね」
「え? どゆこと?」
「いいからいいから。バンド楽しも!」

 今のどころに僕らしい要素があったのだろうか。不思議に思って訝し気に彼女を見やるも、当の本人はもはや僕は眼中にないとばかりにテンポよく身体を揺らして演奏を楽しんでいた。
 そうして僕らは軽音サークルが午前中の部として用意していたらしい曲たちをまるまる三十分たっぷり堪能した。

「あれ! 私たち、午前中何もしてなくない!?」

 気がつけば、正午を知らせるチャイムが公園内に鳴り響いていた。

 *

「このままじゃまずいね、寺沢くん」
「……まあ、そうだね、水口さん」
「んぐんぐ。あ、このポテトサラダ美味しい。あとでおかわりしよ。でさ、午後からはさすがに何か策を考えないとだよ」
「……えっと、策か。午後からの方が時間あるし、もっと日常に関係してそうな場所を回ってみるのがいいかもね」
「んむう! おぉ、この春雨サラダも最高! おかわり候補その五に追加だ。それで? 日常に関係してそうな場所ってどこ?」
「あえての学校とか、普段から使ってる通学路とかいろいろあるけど……って、それより水口さん。お腹大丈夫?」

 時間は午後一時前。場所は運動公園からほど近いところにある、食べ放題のサラダバーが有名なレストラン。二人掛けのテーブル席の約三分の二は彼女のお皿が占めている店内で、僕らは昼食がてら午後からの作戦会議をしていた。
 午前中は運動公園に咲き誇る花々に感動して写真を撮りまくり、大学生の軽音サークルの演奏を聴いてはしゃいでいたら終わってしまった。三日前の放課後と今日でかなりの時間を使って運動公園を見て回ったのに成果はゼロという事態に水口さんは危機感を覚えたようで、彼女が以前から行ってみたかったというこのレストランで話し合うことになったのだ。
 まあ、それはいい。今日一日付き合ってくれるお礼にとお昼は水口さんの奢りらしいので、財布周りの心配もない。心配なのは、まずもって彼女の胃袋の方だ。

「大丈夫大丈夫。私、お休みの日の昼食だけは好きなだけ食べるって決めてるの。チートデイならぬ、チートランチってやつ」
「はあ」
「それよりも寺沢くん。箸が止まってるよ。そのハンバーグ、いらないなら私が食べようか?」

 意味がわかるようでわからない彼女の言葉に曖昧な相槌を返し、にゅっと伸びてきた箸からハンバーグの乗った皿を遠ざけて、僕は小さく息を吐いた。

「意外と水口さんって食いしん坊だよね」
「えー今さら? というか、人間は誰しも食べてる時と寝てる時が幸せなんだよ。はあ~うまっ」

 水口さんは心底幸せそうに頬を綻ばせ、手元に残っていたスパゲティサラダと海藻サラダを平らげていく。草食動物もびっくりな食べっぷりだ。
 それにしても、本当に幸せそうに食べるなあ。
 僕は基本的に、朝食は両親と、学校での昼食は男友達と、それ以外はひとりでご飯を食べている。僕の友達や両親はそこまで食事にこだわりがある方ではないので、ここまで表情を緩ませて食事をしている人を見るのは久しぶり、いやもしかしたら初めてかもしれない。
 そこでふと思い出した。もしかしたら、今がその時かもしれない。
 食いしん坊な彼女の魔の手から遠ざけていたプレート皿をテーブルに戻すと、僕はおもむろにスマホを取り出し、起動したアプリのボタンをそっと押した。

「ふぇ?」

 ちょうどパスタを口に入れた水口さんが驚く。視線は今し方、無機質なシャッター音を鳴らした僕の手元の機器へと向けられている。

「ほら、この前言ってた、ふとした表情の写真。撮ってみようかと思って」

 してやったりだった。
 三日前に運動公園で言われたもうひとつの頼み事、「自分が気づかないところでしているふとした表情の写真を撮ること」だ。
 僕が若干得意げになって説明すると、彼女の方もようやく思い出したように目を見開いた。

「そうだ、そうだわ。言ったわ、私。次の日まで警戒してたのに、すっかり忘れてた」
「え、警戒してたの? なんで?」
「なんでって、そりゃあ誰だって自分の無警戒な表情なんて撮られたくないでしょ」

 今度は僕が驚く番だった。自分は僕の写真を撮ったのになんて言い分だろう。

「それで? せっかくだから訊くけど、どんな写真撮れた?」
「え、えーっとね」

 言われて、僕は写真のアプリを開く。身を乗り出してきた水口さんと一緒に見ながら、最初にある「最近撮った写真」というフォルダをタップする。すると、碁盤目状に区切られた写真一覧の画面が映し出され、たくさんの「水口さんの顔」が表示された。

「ええっ!? ちょいちょいちょい! 連写になってるじゃん!」
「ほんとだ」
「しかも私がパスタを食べてるところを全部! 一番恥ずかしいやつじゃんこれ!」

 顔を真っ赤にした水口さんが慌てる。
 画面内で小さく仕切られた水口さんの顔に目をやれば、なるほど、確かにパスタを手元から口元へ運び、心底美味しそうにぱくりと食べる一連の流れが写真に収められている。タップして拡大し、横にフリックすればその動きが一目瞭然だ。

「フリックやめれ!」
「あ、ごめんごめん」
「んでもって一応全部送って! あと、その写真は寺沢くんのスマホから消すこと!」

 耳まで赤く染めた水口さんはピシャリと言い切ると、そのまま身を引いて残ったサラダを黙々と食べ始めた。怒らせたかな、とやや不安になって盗み見れば、また頬が緩んできていたのでホッと胸を撫で下ろす。絶品サラダ様様だ。
 それから僕は、言われた通りにメッセージアプリで写真をまとめて送信した。何枚もの写真が立て続けにメッセージ欄に表示されていき、あっという間に画面が下にスクロールしていく。

「ほんとにもう、何枚撮ったのよ。恥ずかし」
「ご、ごめん」
「もういいよ。撮ってって言ったのは私だし」

 改めて写真を見る。そこまで恥ずかしい写真だろうか。
 秋服に身を包んだ水口さんが、幸せそうな表情でサラダを口に運んでいる。普通に良い写真だと思う。それにこの前のフレンチトーストのお店の時だって、水口さんは頬をハムスターみたいにして実に美味しそうに食べていた。どこまでも自然な表情で、それこそ日常のワンシーンのような……

「あ」

 閃きが降ってきた。
 これしかない、と僕の感性が叫ぶ。
 僕が唐突に発した声は思いのほか大きく、リスみたいにサラダで口をいっぱいにしていた水口さんは、「ふぇ?」とまた間の抜けた声をもらした。
 だから僕は、もう一度その表情を写真に収めてから、慌て出す水口さんにスマホを見せて説明する。

「デジタルフォトフレームだよ、水口さん」

 僕の言葉に、水口さんはサラダを飲み込んでから首を傾げた。

「あの、写真とか動画をスライドショーみたいに切り替えてく写真立てみたいなやつ?」
「そうそう。MIMARIのアカウントって、特集記事とか過去の写真をまとめたハイライトもあるけど、基本的には単発で写真や動画をあげてるでしょ? それをさ、軸となるテーマをひとつ決めて、それに沿った『何気ない日常のワンシーン』の写真をひとまとめにした短い動画を作ってみるのはどうかな?」

 頭の中に、僕の家にあるデジタルフォトフレームが思い浮かんだ。
 我が家のサイドボードに置かれたデジタルフォトフレームは、デジタル系に強い父が厳選して買ってきた優れものだ。音楽アプリのプレイリストのように、テーマを決めたフォルダを自分で作り、好きな写真や動画をBGM付きで流すことができる。それと同じようなことを、MIMARIのアカウントでやってみるのも面白いのではと思ったのだ。

「でもそれって、形式的にはハイライトとあんまり変わんないよね。その軸となるテーマとやらが鍵ってこと?」

 さすがに鋭い。
 水口さんの真剣な眼差しに、僕は首肯して答える。

「うん、そう。というか、それがあって初めてバズることに繋がるんじゃないかなって思ってる」
「へえ。面白そうじゃん。ちなみに何?」
「水口さんが、美味しそうに食べ物を食べている写真だよ」
「……へ?」

 僕が自信を持って先ほど撮った写真を見せつつ言うと、水口さんは目を大きく見開いた。

「主題っぽくするなら、『MIMARIの至福なひと時 withスイーツ』みたいな感じかな。まあべつにスイーツじゃなくてもいいんだけど、一応、MIMARIのアカウントって結構スイーツの投稿もしてるでしょ? つまりMIMARIのフォロワーにとってはスイーツはわりと日常的なものだろうし、『何気ない日常のワンシーン』って基本コンセプトにも合致してるかなって」
「え、と、なに。つまり私は、この写真みたく、頬を膨らませてスイーツを食べればいいってこと?」

 続けて、なぜか水口さんは震え出した。やや疑問に思いつつも僕は頷く。

「うん、そう。切り替えのカットとか編集は僕の部活の先輩に協力をお願いしてみるし、なによりこの水口さんの写真ならきっとみんなたくさん見てくれるに決まって……」
「そんなの恥ずかし過ぎるに決まってるでしょーー! きゃーーーっか!」

 今日一番の声が、レストラン内に響いた。

 *

 作戦会議は、ついぞ終局を迎えないままに終わった。
 ランチを済ませてからさらに三十分近く話していたが意見はまとまらず、総じて出た意見の中では結局僕の出した提案が一番面白そうという雰囲気になっていた。

「問題はテーマね、テーマ。私がこんなふうに食べてる写真ばかり載せるのはさすがに抵抗あるから、もっと別のにしようよ」
「別のって?」
「……それは今から考える」

 話し合いの中では、おはようからおやすみまでの一日を軸としたものや、趣味やスポーツといったジャンルを軸としたもの、身近なところにある施設を回るという場所を軸としたものなど様々なアイデアが出た。ただ、どれも過去写真のまとめであるハイライトと似た印象になりそうで、それだけで閲覧数を稼げるかは正直微妙なところだった。
 完全に煮詰まった僕たちは、参考までにある人に意見を聞いてみようということになり、半分ダメ元で連絡をとった。

「にゃるほど。それで、拙者のところに来たと?」
「昨日はいったい何を観たんですか、ナミダ先輩」

 学校の部室で、ナミダ先輩にノートのことは伏せつつ水口さんを紹介し、MIMARIのアカウントでバズりたい旨の説明を終えるや、彼は意味不明な一人称を使ってきた。拙者っていつの時代だ。呆れてツッコむ僕を尻目に、ナミダ先輩は「忍者映画を少々な」と不敵に笑う。僕がさらに呆れて肩をすくめれば、もう待ちきれないとばかりに水口さんが前へ躍り出た。

「ナミダ先輩。そういうわけでぜひ、何かアイデアがあればください! 寺沢くんのアイデアはもう食い気しかなくて!」

 早速あらぬ謂れを口にする水口さんに僕は反論する。

「食い気があるのは僕じゃなくてみずぐ」
「何か言った?」
「……なんでもありません」
「はははっ、君ら仲いいなあ。もしかして付き合ってる?」
「「付き合ってません」」

 ハモって否定する僕らに、ナミダ先輩は身体を揺らして高らかに笑う。どこまでもからかっている気しかしない。
 ただ、わりといつもこんな感じのナミダ先輩だが、映像系はもちろん、いろんな推し活をしている関係でSNSでの流行りなんかにも詳しい。ゆえに、何かアドバイスをもらおうとメッセージを送ったら、学校にいるから来いと返信が来た。活動らしい活動をしていないのに休日までどうして部室にいるのかは謎だったりする。
 ナミダ先輩の揶揄や謎に訝し気な視線を向けていると、ようやく笑うのをやめた先輩はおもむろにパソコンのモニターをくるりと反転させた。
 
「まっ、でも俺も寺沢のアイデアはいい線いってると思うよ。それに加えてやるなら、やっぱりこれかな」
「これって、この前のラブコメアニメじゃないですか」

 画面に表示されていたのは、次期部長の話をされた日にも見せられた、動画配信サイトの公式チャンネルのメインページだった。熱量たっぷりにあれやこれやと語っていたナミダ先輩を思い出す。

「そっ。寺沢には言ったと思うが、このアニメは視点表現の仕方がマジで神なんだ。特にこの一番上にある特報PVは参考になる。演出が秀逸なんだが、まあまずは観てもらうのがいいな」

 ナミダ先輩は早速といった様子で再生ボタンを押す。すると、接続されたスピーカーから軽やかなメロディの主題歌が流れ始め、いきいきとキャラクターたちが動き出す。

「わっ、すごい!」

 Aメロの後のサビのシーンに入ったところで、水口さんは思わずといったふうに声をあげた。
 それもそのはず、盛り上がるリズミカルなサビのところで、ヒロインたちとの交流シーンがスピーディーかつ臨場感溢れるカメラワークで描かれ、切り替わっていく。キャラクターの動きに合わせて視点そのものを並行移動しつつ、前進や後退を繰り返し、さらには周囲を旋回していく様子は、まさに圧巻だった。

「これはアニメだけど、実際の撮影でもやられてる技法なんだ。ドリーイン、ドリーアウト、そしてサークルショットだな。どれもカメラ自体を動かして撮影するやり方で、観てもらった通り迫力や臨場感が段違いに増すんだ」
「確かにっ! ほんとにすごい! え、これを私の動画でやるんですか?」
「ここまで大仕掛けなのは難しいけど、カメラが被写体に近づいていくドリーインと、逆に遠ざかっていくドリーアウトをトランジション、つまり場面転換で使うようにするだけでもかなり見え方は変わってくると思う。テーマを食で統一しなくてもね」
「おお! 寺沢くん、だってさ~!」

 ナミダ先輩の提案に興奮した水口さんは、バシバシと僕の肩を叩いてくる。

「結構痛いんだけど、水口さん」
「それでそれで? ナミダ先輩、具体的にどんなふうにしていけばいいんですか?」
「水口さんはまず動画の尺やイメージを固めていくために、いくつか参考になりそうな動画を紹介するからとりあえずそれを視聴してみるといい。そして寺沢は、俺と一緒に撮影の練習だな。ドリーインやドリーアウトはなんといっても撮影者の技術が問われるし」
「だってさ、寺沢くん! めっちゃ頑張ってこんなふうに撮れるようになってね!」
「…………ふう、りょーかい」

 僕のささやかな抗議もどこ吹く風、いろんなことが一気に決まってしまった。いくら流されやすい僕とはいえ、ここまで僕の意思が介入せずに物事が進んでいくのも珍しい。
 もっとも、やはり僕の心には嫌だなんて気配は一ミリもない。むしろどこか、ワクワクというか昂っているような気配すらある。自分で提案したことがさらに膨らんでいきそうだからか、水口さんの『怨念ノート』にある怨念のなりかけを解消する手伝いが元々嫌ではないからか、あるいはそれ以外か。
 まあ、どうでもいいか。
 ナミダ先輩の正面にあるモニターを食い入るように見つめ、他のドリーイン・ドリーアウトを活用した動画に水口さんは歓声をあげている。ちらりと見えた動画はどれも、明らかに普通に撮影した動画とは一線を画したレベルのものだった。あれほどの動画を撮れる自信は今の僕にはない。けれど。

「すごいすごい! 語彙力完全になくなるくらい、ほんとにすごい! こういう動画撮れたら絶対みんな見てくれる!」

 昼間に見たコスモスの花畑にも負けない笑みを振り撒く彼女を見ていたら、不思議と頑張ってみようかなという気になってくる。
 僕は小さく息を吐いてから、ゆっくりと立ち上がって彼女の隣に並んだ。

「それで、先輩。僕は何をすれば?」

 不思議と、モヤモヤも全くなかった。

 *

「はぁ、疲れた……」

 ナミダ先輩の個別指導が終わり、僕と水口さんは帰路についていた。夕焼けが世界を郷愁漂うオレンジ色に染める中、僕は途中の自販機で買ったスポーツドリンクを喉に滑らせる。

「あははっ、映像文化部って意外と体育系なんだね」
「いや、普段はほんとに何もしないんだよ。水口さん……MIMARIの動画企画に参加するってなって、ナミダ先輩も気合入ってるんだと思う」

 ナミダ先輩の個別指導は本当に思いのほかきつかった。例えるなら、いつものアニメ談義の熱量をそのまま映像撮影の練習に移したような形だ。「流行は新鮮さが命! とにかく早く、根性でできるようになれ!」とふた昔くらい前の熱血価値観を叫んで、本当に休みも少なく僕はスマホのカメラを回しまくっていた。結果、バッテリーは残り二十パーセントを切っている。

「でもナミダ先輩のおかげで光明は見えたじゃん。寺沢くんの移動しながらの撮影も最後はかなり良くなってたし」
「まあ、映像文化部に入部した時に提出用の活動レポートを書くために撮影の基本だけはあれこれと教えてもらったからね。それもあると思う」
「あーだからか。昼間のあの写真も、光の具合とかポートレート撮影をしてるとことか結構撮り方は良かったのよね。撮る対象というか瞬間があれなだけで」

 隣を歩く水口さんは意地悪く口の端を吊り上げ、両手の親指と人差し指で四角いカメラフレームを作った。その真ん中からは、澄んだ綺麗な瞳が顔をのぞかせている。

「僕は今でもあの瞬間は結構いいと思ってるけど。それこそ、全部それじゃなくても今回撮影する中でワンシーンくらいは入れてもいいんじゃないかって」

 なんとなく、僕も真似してカメラフレームを両手で作りのぞきこんでみた。親指と人差し指で仕切られた世界には、オレンジ色に染まった住宅街を背景に、秋らしい服に身を包んだ水口さんが僕と同じポーズで立っている。

「またそういうこという~。やっぱり食い気に走ってるのは寺沢くんの方じゃないかね?」
「もしほんとにそうならグルメ動画にしようって提案してるよ」
「それじゃあ、ご飯を食べてる他人の表情がそんなに好きかね?」
「いや、そうでもないけど」
「えーじゃあ」

 そこで、水口さんはゆっくりと両手を顔の前から下ろした。被っていたグレーのベレー帽を押さえつつ、真っ直ぐに僕を見据える。

「ご飯を食べてる私の表情が、好きかね?」

 手で作った長方形のフレームの中で、水口さんがこてんと首を傾げた。先ほどまでの底意地の悪そうな笑みは鳴りを潜め、代わりに穏やかな微笑が口元には湛えられている。
 息を呑む。
 今構えているのが手ではなくスマホだったら間違いなく写真を撮っていたほどに、彼女は輝いて見えた。
 だから、僕はほとんど正直に思ったことを口に出す。

「……まあ、好きといえば好き、なのかな」
「お、おおっ?」

 僕の物言いに、水口さんは驚嘆の声をあげた。その頬の色もみるみる赤くなっていく。次いで、彼女の笑顔の性質が再び意地の悪そうなものに変わり始めたところで、僕はようやく自分の失言に気づいた。

「あ、でも好きってそういう意味で言ってるんじゃないから!」
「そっかそっかあ、好きといえば好きなのかあ。んで、そういう意味って~?」
「それはその……つまり、恋愛的な意味じゃなくてってことで」
「え~じゃあなんでそんなに挙動不審なの~あやしいやらしわざとらし~」
「う、うるさいな。そっちこそわざとやってるだろ」

 ニヤニヤと笑顔で詰め寄ってくる水口さんに、僕はつい悪態をつく。するとなぜか、彼女はますます目を細め、笑みを深めてきた。
 軽快な足取りで彼女は進む。減らず口は相変わらずで、その度に僕はついムキになって反論した。
 誰もいない住宅街の路地に、涼やかな風が吹き抜けていく。

「ねえ、この辺りで動画撮ってよ」

 少し開けた川沿いの通りに出たところで、水口さんは唐突にそんなことを言ってきた。散々にあれこれといじられた僕は、またなにかあるのかと身構える。

「なんでまた」
「今日の復習。ここはいつもの通学路だし、何の変哲もないところだからちょうどいいでしょ」

 あっけらかんと彼女は答える。なるほど。そう言われてしまえば断るわけにもいかない。確かにここは僕と彼女の通学路で、見慣れた風景で、歩き慣れたコンクリートの上だ。

「まだ全然上手くないけど」
「大丈夫大丈夫。最後はナミダ先輩が編集手伝ってくれるって言ってたじゃん」

 小川の傍にある木製の丸太柵工に腰を預ける彼女は、既に準備万端のようだ。僕は仕方なしにカメラアプリを起動し、スマホを構える。

「私が数メートル歩くから、すぐ隣で私にスマホを向けたまま歩いてね。あの電柱を超えたあたりで今度は私の前に回り込んで、正面から後ろ向きに歩く感じで撮影してほしいの。あ、もちろん、回り込んでる間もずっと撮っておいてね」
「はいはい」

 彼女がジェスチャーを交えてしてくる説明は、最初にしてはそこそこ難易度の高いものだった。どこまでちゃんと撮影できるかは怪しいものだが、一度手伝うと言ったからには適当にもできない。

「終わる時は私が言うから、それまではずっとカメラ回しててね。後ろ向きの時も、危ないからゆっくりと一定のペースで歩いててね」
「わかったわかった。それじゃあ、行くよ」

 合図を送ると、水口さんの表情が変わった。まるで俳優が演技をするスイッチを入れたかのように、完璧な微笑が口元に浮かぶ。
 そして彼女は歩き出す。僕もそれに合わせてスマホを水口さんに向けたまま歩を進める。
 スマホの中の彼女はカメラ目線で、まるで疑似的に隣を歩いているかのような錯覚を視聴者に起こす構図だ。

 ――顔、赤いよ?

 口パクで水口さんがからかってくる。こんな時まで何してるんだか。あるいはこれも動画の構成に必要なことなんだろうか。
 表情が引きつりそうになるのを必死に堪えて、僕は彼女の隣を歩く。
 やがて電柱を超えた。僕は言われた通りに、彼女にスマホを向けたまま正面に回り込み、後ろ向きのまま歩く。
 すると、途端に彼女は駆け出した。
 え?
 咄嗟に声が出そうになる。が、動画を撮っていることを思い出してなんとか踏みとどまる。

 ――寺沢くん

 名前を呼ばれた気がした。
 楽しそうに笑う水口さんが、ぐんぐんと近づいてくる。僕は彼女の指示通りゆっくりと歩いているから、間の距離はみるみるなくなっていく。
 あと、数歩。
 彼女の顔がカメラのフレームからはみ出る一歩手前で、その白い腕が伸びてきた。
 水口さんの手はそのままスマホのカメラレンズを掴み、動画を暗転させる。

「私も、君のその驚いて困った表情、わりと好きだよ」

 スマホを押しのけてすぐ目の前まで迫った水口さんは、ささやくように言った。
 甘い香りが鼻先をくすぐる。
 心臓が跳ねた。
 顔も熱くなってくる。
 普段、あまり覚えることのない感覚に僕は戸惑っていた。

「……性格悪いね」

 ややあって、僕はどうにかそれだけを答えた。
 胸の高鳴りは未だに収まっていない。その理由は、わからなかった。
 僕の近くで、「なにを今さら」と水口さんは笑っていた。

 *

 水口さんと出かけた翌々日の月曜から、僕の日常はさらに目まぐるしく変わることになった。

『まだ日が長くて晴れてるうちにさ、放課後に撮れるだけ動画撮っておこうよ』

 ホームルームが終わるや、水口さんはメッセージでいきなりそんな文言を送ってきた。いや、というかあれはまだ終わっていなかった。チャイムが鳴る一分ほど前、担任の先生が締めの挨拶をしている最中に僕のポケットでスマホが振動した。いくらマナーモードにしているとはいえバイブ音も思いのほか響くもので、実に冷や冷やものだった。
 しかもその続きにあったのは、来週から雨の日が続く予報だから今週中におおかた予定しているものを撮り終えたいとの内容だった。僕と水口さんは二人とも電車通学で、駅から反対方向とはいえそれぞれ学校の最寄り駅からひと駅しか離れていない。水口さんが言うには、いったん家に帰って私服に着替えた後に電車を利用して移動、その後一時間程度撮影しないかというものだった。どうしてそんなに急いているのかと訊けば、すぐさまナミダ先輩の「流行は新鮮さが命! とにかく早く、根性でやれ!」という熱血価値観が返ってきた。呆れてものもいえない。

「それで、今日はどこで何を撮るの」
「運動公園でジョギング!」

 駅でわかれる時に「動きやすい服で再集合」と言われた月曜日は、いきなり運動系だった。歩くのが日課ではないとか言ってたわりにこれはいいのかと訊けば、スタイル維持で走ることは日課になっていると言い直された。どこまでが真実でどこまでが嘘かは、彼女の使い古されつつもよく手入れされたランニングシューズを見れば一目瞭然だった。
 ちなみに、コーディネートはライトブルーのスポーツパーカーに黒のジョガーパンツで抜かりなく、ただの上下セットのジャージを着てきた僕とは天と地ほどの差があった。
 そして運動をほとんどしない僕はへろへろになりながら、男子という体格的有利を駆使してどうにか彼女と並走し撮影作業を完遂した。
 その翌日は買い物。といっても、ショッピングモールとかそういう賑やかな場所ではない。僕の家の最寄り駅からほど近いところにある、普通のスーパーマーケットでだ。

「ショッピングモールはお休みの日のお出かけ感が強いから、今回は日々の食材を買った帰り道にしたいんだよね」

 そんなことを言う水口さんはカジュアルなトレーナーとワイドパンツに身を包み、本当にその日の夕食の食材を買っていた。ちょうど僕も家にある野菜やら肉やらの蓄えが切れかけていたのでついでに買い物をした。
 けれど、これがミスだった。

「寺沢くん、いろいろ買い込み過ぎでしょ。動画撮れる?」
「な、なんとか……」

 お会計後の帰り道。両肩にマイバックをぶら下げながら、隣を歩く水口さんを撮影するのは至難だった。苦行にも筋トレにも見える両肩の重石に耐えつつスマホで撮影する僕に、水口さんはついに堪えきれず笑っていた。それから仕方なくといった感じで、彼女が引く自転車の前カゴに乗せてもらった。

「寺沢くん、買い物は計画的にね」
「ほんとにね。でもおかげでいい動画が撮れてるよ」
「どれどれ……って! これはナシ! 大口開けて笑いすぎでしょ私! 油断した!」

 軽くはたかれた後に再撮影をしたが、僕としては最初に撮った動画の方がいいように見えた。でも、頑固で見栄っ張りな水口さんはどうしても後から撮った動画にこだわっていた。
 なお、私服に着替えずそのまま撮影することになった日もある。火曜日の自転車から着想を得たらしく、水曜日は夕陽に向かってゆっくりと自転車を漕いでいく水口さんに並走する形で撮影した。超疲れた。

「というか、制服のままでいいの? MIMARIってファッション系のインフルエンサーじゃなかった?」
「インフルエンサーってほどじゃないけどね。そしてよく見なさい、寺沢くん。このカーディガンとか、このシュシュとか、スカート丈まで完璧に合わせたバランスを! 今日はオシャレ制服コーデなの!」

 そんなこともわからないからカノジョいないんだよ、などと言われたが、恋愛には興味がないからと断っておいた。どこまでもつまんなさそうな顔をされたが、事実そうなんだから仕方ない。

「寺沢くんって、悪くない顔してるのにね。もったいない」
「いいんだよ、僕は」

 少しだけ土曜日のことを思い出しもしたが、あまり考えないようにした。きっと彼女の言うことにも、蒼華と同じようにたいした意味はないだろうから。
 そして迎えた木曜日の今日は、なんとまたあのフレンチトーストのお店に行くらしい。今朝会った時に、「今日は、寺沢くんと初めて晴らした怨念のなりかけのお店に行くよ」と言われたのだ。

「寺沢くんが言ったんでしょ。スイーツを食べてる表情がいいって」

 微かに照れながら言う今日の水口さんはやけに殊勝でいじらしく見えた。などと思えば、

「それにほら、これ見てよ」

 と、あのフレンチトーストのお店のSNS投稿を見せてきて、限定マロンソーストッピングの良さを懇々と語り始めるものだから笑えた。どうやら彼女は栗が大好きらしかった。

「さーて、さっさと終わらせるか」

 いつもなら駅まで一緒に行って一時解散し、着替えてからまた集合するのだが、今日は違っていた。来月開催される文化祭の準備で使うプリントの印刷を先生から頼まれてしまい、後ほどカフェの前で集まることになっていた。三十分ほどいつもより遅れるが、先生からの頼み事とあっては仕方ない。
 もっとも、それを水口さんに言ったらジト目とため息で呆れられたのだが。
 本当に、僕の断れない性格というものはつくづく損をしているなと思う。水口さんの手伝いをする傍ら、別段強制でもなんでもない先生からの頼まれ事も引き受けるなんて、本来ならやるべきではない。

「ほんと、何やってるんだろうな」

 開け放たれた印刷室の窓から、放課後の喧騒が響いてくる。どこかの部活の掛け声や、ボールが砂をこする音、吹奏楽の楽器の音色。みんな、自分がやりたいと思った部活の時間を一生懸命頑張っている。
 僕は、どうなんだろうか。
 僕がやっていることは、本当にやりたいことなんだろうか。
 誰かに頼られることは嬉しい。評価してくれていることも嬉しい。
 でもやはり、こうして今もモヤモヤしている辺り、彼女の言うようにこのままじゃダメなんだろう。自分の気持ちとどこかで向き合って、ちゃんと考えないといけない。

「……ふう」

 そこで、ピーッという電子音が鳴った。すぐ近くで一生懸命にコピーを頑張っていた複写機が仕事を終えたらしい。この印刷したプリントを職員室に持っていけば僕の仕事も終わりだ。
 つい口元が緩む。
 これでようやく、水口さんと合流することができる。今日は彼女の大好きな食系だが、はてさて今日はいったい何を言われるのやら。

「あーっ! やっと見つけた!」

 口元にマロンソースを付けた水口さんを想像しつつ廊下に出たところで、甲高い声が聞こえた。びっくりして声の方を見ると、頭ひとつ高い影が一目散にこっちに向かって来ていた。

「小山。どうかした?」
「探したぞ、寺沢! もう校内走りまくって超疲れ……って今はそんなことどうでもいい! すげー悪いんだけど、これ頼まれてくれないか!?」

 小山は走ってくるや、小さな鍵のようなものを差し出してきた。

「宮センから宿題忘れた罰で資料室の郷土の棚の整理言われたんだけど、今日はどうしてもできなくて! ほら、寺沢が勧めてくれたフレンチトーストのとこに藤野と行けることになったんだよ! だからちゃっちゃと整理終わらせようと思ったけど意外と進まなくて、約束した時間に遅れそうなんだ! だから頼む! この借りはいつかゼッテー返すから!」
「え、と……」

 予想外の言葉の数々に困惑し、思考が固まった。
 小山の恋がうまく進展していそうなこと、まさかの今日にフレンチトーストのお店に行くらしいこと、宿題忘れた罰の代わりを頼まれていること、そしてなにより自分にも約束があることを思い出して、僕は視線を泳がせた。
 どうして今、このタイミングなんだろうか。
 彼が頼んでくる理由も必死さも理解はできる。いつもの僕なら呆れながらも二つ返事で引き受けているだろうが、どうしてよりにもよって。

「頼む! どうしてもこのチャンスは逃したくないんだ!」

 小山が頭を下げてくる。
 僕の手元にあるプリントの束に触れてこないのはわざとだろう。こういう僕にはない強かさでずるいところが、彼にはある。そして自分にとって優先すべき物事の順位も、きちんとわかっている。
 悩む。
 元々は、僕が勧めたことだ。それが叶いそうなのなら、できる限り応援すべきだろう。断って小山の恋の成就が遠ざかってしまったら後悔するかもしれないし、小山との関係だって悪くなるかもしれない。
 それに小山と蒼華がフレンチトーストのお店に行くなら、鉢合わせを避けるためにも僕と水口さんは行かない方がいい。邪魔になるだろうし、なにより僕らのことも誤解される可能性がある。

「……………………わかったよ」

 充分な間を置き、気づけば僕は頷いていた。空いている右手で、提げられた鍵を受け取る。

「マジかーー! 悪い、ほんっっとにありがとう! 宮センは部活見に行ってるだろうから、鍵は適当な先生に渡しといてくれればいいから! じゃあマジでありがと! 恩に着る!」

 興奮気味にひと息で言うと、小山は猛ダッシュで生徒玄関の方へ走っていった。
 我ながら本当に呆れる。何をしているんだろうか。これで僕の方が遅刻確定だ。

「……とりあえず、職員室行くか」

 プリントを先生に渡して、その後水口さんに電話して事情を説明して謝ってから、資料室で整理して、それから……。
 小さく息を吐く。
 鬱屈とした気持ちが、じくじくと心の中に広がっていった。

 *

 資料室の整理を終えて学校を出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。
 時刻は五時半過ぎ。さすがに一度家に帰っている時間はなく、僕は急いで変更後の待ち合わせ場所である駅に向かった。
 電話で事情を説明した時、水口さんはなぜか笑っていた。

「頼まれ事をしてる時に別の頼まれ事を引き受けて、さらに他の頼まれ事に遅れる電話するとかどんだけなのよ」

 まさにその通りだ。ぐうの音も出ない。ただ、水口さんは怒っていないようだったのが幸いだった。
 それにしても、残り少ない時間でどこに行くんだろう。
 小山と蒼華が、これから僕らが行こうとしているお店に行く旨を伝えると、水口さんは「じゃあ時間もないし別のやつ撮ろう」とだけ言って切ってしまった。それなりに動画は撮っていると思うが、あとは何が残っているのか。
 そんなことを考えつつ走っていると、駅に着いた。帰宅すると思しき会社員やら学生やらでかなり混み合っている。駅前にある交番近くで待ち合わせと言っていたが、果たして。

「あ」

 雑踏の合間を通りつつ進んでいくと、交番から少し離れたところにある木陰に彼女の姿を見とめた。白のパーカーにデニムのショートパンツ、ベージュのキャップを被ったカジュアル全開の出で立ちは新鮮だが、肩にかけているトートバッグには見覚えがある。赤と白の防護柵に腰を預け、食い入るように手元のスマホを見ている辺り、かなり待たせてしまっているのかもしれない。
 僕は人混みを掻き分け、彼女の名前を呼ぼうと口を開きかけて……

「え?」

 固まった。
 彼女は僕の方を見ていない。
 ただ一心に手元のスマホを見つめている。
 でも、その真剣な水口さんの瞳からは、涙が零れていた。
 いったい、どうして?
 困惑に似た疑問と、もしかしたら僕が待たせている間に何かあったのではという焦燥感が同時に湧き上がってくる。
 水口さんを呼ぼうと挙げた手が、行き場を失ってだらりと垂れ下がった。

「あ」

 そこで、顔を上げた彼女と目が合った。見間違いじゃなく、彼女の目尻には泣いた跡があった。
 水口さんもそれはわかっているらしく、強く目元を擦って涙を拭くと小走りで駆け寄ってきた。

「遅かったね、寺沢くん。もう待ちくたびれちゃったよ」
「ご、ごめん……」

 声が喉に詰まる。そんな僕の様子を見て水口さんは「ああ」と納得したように頷き、自身の目元を指差した。

「もしかして、これ?」
「……うん。ごめん、僕のせいかな。それか、待ってる間に、なにかあった?」
「うん、まあね」

 そうあって欲しくないのに、彼女は頷いた。じくりと心に痛みが走る。水口さんは僕をジッと見つめてから、おもむろにスマホを見せてきた。

「これ、観てた」

 そこにあったのは、有名な動画配信サイトの画面だった。

「え?」
「いや~、暇つぶしにナミダ先輩から勧められた動画観てたんだけどさ、これとかめっちゃ泣けるね」

 動画タイトルは、『私が生きた四十九年間にサヨナラを』。自殺防止、走馬灯、命の大切さ、こころの健康、涙などというハッシュタグがキャプションに並んでいる。

「ほら、ドリーインとドリーアウトだっけ? なんかすごいカメラワークを使って、飛び下り自殺中にこの女性の四十九年間の思い出が走馬灯として駆け抜けていく動画なんだけど、マジでエグいしエモいよ。すごいよ、これ」

 高評価数は8.7万。視聴回数は1218万。彼女が絶賛するのも頷けるほどの評価がそこには並んでいた。

「ちなみにネタバレすると、この女性は人間関係とか将来に悲観して跳び下りるんだけど、地面に衝突する寸前に一番楽しかった思い出が過ぎって、自殺を後悔して死ぬんだよね。そこで一気に駆け抜けていた音も映像も途絶えて無になるの。メッセージ性も高くて、バズるのも当然だなって。いや~参考になった……って、どうしたの?」
「いや……なにも」

 単刀直入に言いたい。
 力が抜けた。
 なんだよ、ただ動画を見て泣いていただけか。心配して損した。あー良かった、何事もなくて。
 どっはあーーっと盛大なため息をつく僕を見て、彼女は二度目となる納得の表情を浮かべる。

「あ~っ! もしかして、寺沢くんが遅刻したことで私に何かあったとか、私が優先順位後回しにされて寂しくて泣いてたとかそんなこと考えてたんでしょ~?」
「そ、そこまでは考えてない!」
「ほっほぉ~? じゃあ半分以上はアタリなんだ~? へぇ~~?」

 ニマニマと楽しそうに口元を歪める水口さん。どこまでも性格が悪いらしい。僕も家に帰ったら『怨念ノート』書こうかな。
 熱くなった頬や急いだ結果流れていく汗までもをいじられながら、僕は彼女に連れられて電車に乗った。

「それで? 今日はいったいどこで撮るの?」
「ん~? ヒミツ~~」

 混み合っている車内で、空いている吊り革に掴まっている水口さんは未だ楽し気だ。僕は半ば諦め気味にため息をつく。

「もう。でも、あんまり遠くは行けないからね。夕飯の支度もあるし」
「わかってるよ。次の駅で降りるから」
「え? 次の駅?」

 思わず聞き返す。次の駅ということは、方向的に彼女の最寄り駅になる。水口さんの家の近くにあるよく行く所とか思い出の場所とかだろうか。

「ちなみに言っておくけど、撮影場所に着いて撮らずに帰る、はナシだからね」
「え、なにそれ。僕が帰りたくなるような場所なの?」
「んー、そんなことないと思うけど。むしろ入りたくなるような場所かもしれないね」
「どゆこと?」
「あ、ほら駅着いたよ。降りよ」

 僅かひと駅ともなれば乗車時間は五分にも満たない。あっという間に駅ホームへ降り立つと、僕は水口さんの後に続いて改札を抜ける。
 いったいどこに向かっているのかな。
 見慣れない商店街を通り抜け、住宅街に差し掛かってからも僕の頭の中はそればかりだった。僕が行きたくない場所ということは、一般的に抵抗がある場所ということになる。真っ先に思いつくのは心霊スポットみたいな怖い所だが、彼女のSNS投稿のポリシーである『何気ない日常のワンシーン』からは程遠いのでありえない。となれば、フレンチトーストのお店みたいな僕一人では入れない女子向けの華やかなお店とか、あるいはペットショップや猫カフェみたいな好みの分かれるお店、あるいは……。

「ほい、着いたよ」

 僕の思索が実を結ばないうちに、少し前を歩く水口さんは立ち止まった。
 その視線の先にそびえ立つ建物を見上げてから、今度はそのまま目線の高さまで視線を下ろす。すると目の前に、「水口」という表札がかけられていた。

「え」
「今日の撮影場所は私の家だよ。もっと言えば私の部屋。ということで、帰るのはナシだからね? 寺沢くん、今日遅れたんだし、私は随分待たされたんだし、拒否権はこれっぽっちもありませんので」

 やられた。
 僕は頭を抱える。
 確かにここは、僕が帰りたくなる場所だ。

「一応で訊くんだけど、むしろ入りたくなるような場所って、どういうこと?」
「いやほら、健全な男子高生なら一度は女子高生の部屋に入ってみたいでしょ?」

 んーどうだろうか。僕は暫く考える。
 
「それは、人によると思う」
「えーそう? まあでも、いつもなら渋られそうだったから今日に予定変更したんだよ。寺沢くんの弱みに付け込めるからね」

 どこか蠱惑的な微笑を浮かべて、水口さんは敷地内に入っていく。外堀を埋められ、「どうぞ」と促されれば、もう僕に逆らう方法はない。

「ちなみに、ご両親とかご家族は?」
「……いないよ」

 静かな声とともに笑みが深められる。ますます入りたくなくなった。緊張からか、鼓動が早くなっていく。
 まさに彼女の想像通りに僕が渋々中に入ると、水口さんは玄関の扉を無言で開け放った。当然、中には誰もないはずだからそれ以外に物音がするはずもない。

「あら、陽葵ちゃん。今日は早いのね、おかえりなさい」

 そのはずだった。
 しかし実際は、玄関から伸びる奥のドアが開き、中から四十代後半くらいの女性が出てきた。大きなお腹を庇うようにしながら、ゆっくりと歩いて来る。

「え、あ……と、お、お邪魔します」

 もちろん、僕は驚く。おそらく水口さんの母親だろう。家族はいないと言って、僕が安心したところへ実はいましたと驚かせる。どこまでも悪戯好きな彼女に内心頭を抱えるも、咄嗟に定型的な挨拶が口をついて出たのは幸いだった。
 けれど、驚いたのは女性も同じようで大きく目を見開いていた。

「あ、あらあら。お友達? それとも、陽葵ちゃんの彼氏さんかしら?」
「い、いえ僕は……」
「友達」

 しどろもどろになりながら答えようとする僕の言葉尻を、水口さんがぴしゃりと遮った。さらに続けて口を開く。

「部屋で一緒に勉強するから、構わないで大丈夫。それより、お腹に赤ちゃんいるんだから、安静にしてなくていいの?」
「ん、そうね。わかったわ。ゆっくりしていってね」

 女性はそれ以上は何も言わず、再びドアの奥へと戻っていった。水口さんはそれを見届けてから、おもむろに僕を中にあげる。

「私の部屋は二階に上がって、真っ直ぐ行ったところの突き当たりのとこだから。先に行ってて」
「う、うん」

 どこか彼女らしくない物言いに違和感を覚えつつも、僕は素直に頷いておいた。廊下の中ほどにある階段を昇って、言われた通りの部屋に入り、中央にあったローテーブルのそばに腰を下ろした。すると間も無くして、水口さんが入ってきた。その手には二人分のお茶とお皿に盛られたクッキーがある。

「あれー? 思ったより普通にしてたね。クラスメイトの女子の部屋なのに物色しなくていいの?」
「そんなことしないよ。というか、めちゃめちゃびっくりしたんだけど」

 ローテーブルを挟んで向かい側に座った水口さんに不満を投げかければ、彼女はやや間を置いてから薄く口元を歪めた。
 
「傑作だったね、寺沢くんの顔」

 どこまでも底意地の悪い表情に僕は苦笑する。
 しかし、違和感を覚えた彼女の調子は元に戻っていた。ただの反抗期か、あるいはあまり親子間の関係が上手くいってないか。どちらにしろ、部外者である僕が口出しすることでもないので、忘れることにした。

「それで、水口さんの部屋で撮る動画ってなに?」
「んー実はそこまでは考えてないんだよね。『何気ない日常のワンシーン』なんだから、自室でのリラックスシーンは絶対必要だろうなってくらいで」

 なるほど。言われてみれば、自室というのはMIMARIの投稿テーマにもっとも合致している場所だ。

「リラックスなら、椅子に座ってコーヒーを飲んでいるところとか、ベッドで寝転んで本を読んでいるところとか、窓辺で音楽を聴いているところとか、いろいろありそうだけど」

 パッと思いついたいかにもありがちな場面をいくつか挙げてみる。しかし、水口さんはふるふると首を横に振った。

「ダメ。コーヒーブレイクもごろごろベットも窓辺イヤホンも全部してる」
「そ、そっか」

 さすがに王道パターンは全て投稿済みらしかった。となると、撮り方をがらっと変えてみるか、あるいはこの部屋でできるまったく別の構図を模索してみるかだ。
 何の気はなしに、僕は辺りを見渡す。
 白を基調とした水口さんの部屋は、女子高校生らしさがありつつも思った以上にシンプルだった。ベッドや本棚、机、クローゼットといった家具からカーテンやカーペットまで白で統一されている。窓際や壁付けされた机に置かれた小さなぬいぐるみなんかはいかにも女の子らしさがある。一方で、本棚には数冊の漫画と教科書が並べられているくらいで空きが目立つし、なにより十畳程度の広い部屋にもかかわらず目につく家具以外はほとんど物が置かれていない。やや物寂しい感じだ。

「こーら。ジロジロ女の子の部屋を見ない」

 動画の構図からやや脱線した思索に耽っていると、不意にペシリと頭をはたかれた。

「ご、ごめん」
「もう。入りたくないとか興味ないみたいな態度しておいて、やっぱり興味あるんじゃないの?」

 面白いおもちゃを見つけた子どもみたいな憎たらしい笑みが視界に映る。けれど、さすがにこう何度も続けて弄られればさすがに慣れてくるというもので。

「いや、普通にどんな動画がいいか考えてた」

 僕は努めて端的に素っ気なく答えた。すると目に見えて退屈そうに彼女は口先を尖らせる。

「ぶー、つまんない。あ、でも私ひとつ思いついたよ」
「へえ、どんなの?」
「これ」

 そう言って彼女が見せてきたのは、いつぞやの僕が学校の廊下で外をぼんやり眺めている写真だった。

「……どういうこと?」
「いや、だからそのままの意味。ちょうど今は夕暮れ時だし、窓の外をアンニュイな感じで眺めている動画もアリかなって。動きのある動画ばっかりだとメリハリも出ないからね」

 納得できる言い分だった。ナミダ先輩も、スピーディーなカメラワークは勧めてくれたけど何も全ておいて使う必要があるわけじゃない。事実、彼女が先ほど観ていた自殺防止の跳び下り動画を僕も観せてもらったが、静止からの跳躍、そして再び静止という流れのメリハリがあった。今回は、彼女の言う場面がいいかもしれない。

「それじゃあ、早速」
「それで? 寺沢くんはこの写真を見て、どう思ったの?」

 僕が撮影を促そうと腰を浮かしかけたところで、突然彼女は訊いてきた。

「ふとした表情にはね、自分じゃ気づかない気持ちが表れている時がある。不本意だけど、私が幸せそうに口いっぱいのスイーツを食べてるのもそう。寺沢くんは、この表情から何を思うの?」
「なに、って」

 唐突な問いに僕はたじろいだ。彼女は、何を言おうとしているんだろうか。

「私、この前言ったよね。難しい顔してる寺沢くんの、自分の中にある気持ちを見逃しちゃダメだよって」

 水口さんは立ち上がり、窓辺に腰を預けた。微かに開いた隙間から吹き込んだ風が、彼女の髪を小刻みに揺らす。

「それなのに寺沢くん、私を含めた誰の頼みも断らないしずっと優しいままだからさ、どう思ったのかなーって」
「僕、は」
「私が、当ててあげようか?」

 僕の言葉に被せるようにして、彼女は問うた。
 そのまま僕のそばに座り、つと距離を詰めてくる。

「寺沢くんさ」

 気にしないようにしていた、部屋に漂う甘い匂いが僅かに濃くなり、鼻先を衝く。

「本当は人に優しくしたくないんでしょ?」

 これまで聞いたことのないほど低い声が、僕の鼓膜を震わせた。思わず、息を呑む。

「本当は心のどこかで、わかってるんでしょ? 他人に優しくする、親切にする、誰かのために頑張る。全部全部、バカみたいだよ。人はみんな、自分のために生きてるんだよ? それなのに貴重な自分の時間を割いてまで誰かの利益に苦心するなんて、やるだけ損。でもなんか断れなくて、やりたくもないのになあなあでやってるのが今。違う?」
「そんなこと……」
「ないって? 本当に? 今日だってそうじゃない? 先生から頼み事をされて、それが終わらないうちに小山くんに頼られて、イラっとしなかった? なんで自分ばっかりって思わなかった? 散々私に振り回されてウンザリしなかった? 他人に優しくするなんてアホらしいって思わなかった?」

 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。彼女の顔には、どこか妖艶とも思える微笑があった。吸い込まれそうな黒い瞳に、呆気にとられた僕の顔が映る。
 僕は、本当は人に優しくしたくなかった?
 蒼華や他のクラスメイトに宿題を見せたり、小山の恋を応援するために何度も当番を代わったり、ナミダ先輩の後任として部長を務めることにしたり、本当はしたくなかった?
 本当は、水口さんの手伝いなんかしたくなかった?

「…………そんなことない、と思う」

 考えて、首を振る。
 したくなかった、わけじゃない。
 不満はゼロじゃないし、なんで僕ばかりと思わなくもないけど、やっぱり僕は誰かの役に立てることは嬉しい。それに、優しくすると言ってもそもそも大したことはしていない。疲れてしまう時もあるし、たまには水口さんが前言ってくれたように休む必要もあると思うけど、少なくとも僕は……

「小山たちの恋を応援したり……水口さんの怨念のなりかけを晴らす手伝いをするのは……嫌じゃないよ」
「……へぇ。まだそんなこと言うんだ」

 つっかえながらも僕が答えると、水口さんは口元を歪め、目を細めた。

「え?」

 かと思う間も無く、彼女の整った顔が迫ってきて……僕は、床に押し倒された。

「え、ちょ、水口さん?」

 突然のことに戸惑う。垂れ下がった長い黒髪が視界に広がり、その中央には薄く微笑んだ水口さんの顔があった。

「今まで私は、君が後ろめたくならないようなお願いをしてきた。怨念のなりかけの中でも、比較的マイルドなものを選んで、解消するのに付き合ってもらってた。……でももし、そうじゃないものを頼んだら、寺沢くんはどうするのかな」
「え?」
「寺沢くん、このまま私と火遊びしよっか」

 目を見開く。彼女は、何を言ってるんだ?
 水口さんの顔がやや近づいた。甘ったるい匂いがさらに濃くなり、鼻を覆う。

「一階にあの人がいるけど気にしないで。むしろ、聞こえるくらいがちょうどいい。私たちの仲の良さを、暗に見せつけちゃおうよ」
「水口さん、ちょっと待って」
「いーや、待たない。それからその後は、私のSNS仲間の投稿通報と、非難の匿名投稿にも協力してほしいな。あいつら、仲間だとか耳心地のいいことを言ってくるわりに隙あらば蹴落として来るんだよね。ほんとムカつくから、こっちが掴んでる弱みを晒して燃やすの手伝ってよ」
「水口さん、落ち着いて」
「あーそれから、私より人気なインフルエンサーの何人かにもしたいな。捨てアカ作って、毒リプ送るの手伝ってよ。注目が集まるグレーな企画ばっかりやって、短期間で上に行きやがったんだよ。私のフォロワーも食われたし、先に毒リプも送られたし、こっちは被害者なの。ね、だからさ、遠慮することないよ。思う存分協力して」
「水口さん!」

 徐々に近づいてきた彼女から逃れるように、僕はその華奢な肩を掴んで押し戻した。水口さんは驚いたように目を見張る。

「水口さん、そんな、自分を傷つけるようなことはやめて。ダメだ。さすがの僕も、水口さんを傷つける頼みはきけない」
「私を傷つける? どこが? むしろ私の中にある黒い感情を晴らすんだから癒しでしょ」
「じゃあなんで、そんな悲しくて苦しそうな顔してるんだよ」

 水口さんはたじろいだ。
 言ってから、写真を撮ってみせれば良かったかな、と思った。今目の前にある彼女の顔は、いつかの日の僕の表情よりも、ずっとずっと歪んでいた。けれど、何も見ていないような虚ろとした瞳は、とてもよく似ていた。

「ほんとはそんなこと、したくないんじゃないの? 水口さんがしたくないことは、僕だってしたくない」
「……違う。勝手に、決めつけないで。これは、この顔は、ただ昔あった嫌なことを、思い出しただけで……」

 水口さんは訥々(とつとつ)と言いつつ、視線を彷徨わせた。そしてその先が、近くにあった立ち鏡に留められたところで、力が抜けたように俯いた。
 鏡には、僕の半身と座り込む水口さんが映っている。

「水口さん……いつもなら、あんまり深く訊かないんだけど、どうしたのか訊いてもいい?」
「…………」

 水口さんは答えない。ジッと床を見つめている。
 かと思えば、スッと天井を見上げてから、僕の方へ視線を戻した。

「……ごめん、言い過ぎた」
「え?」
「だーかーら、今私が言ったこと、忘れて。ちょっと、怨念のなりかけが暴走しちゃっただけだから」

 それはかなりヤバいのでは。
 軽口でもなんでもなく素で思い、水口さんに目を向ける。すると彼女はクスリと短く笑った。

「さっ、ちゃっちゃと動画撮ってお開きにしようか。寺沢くんも、たくさん頼まれ事されて疲れてるだろうし、なんて、私が言えたことじゃないんだけどねー。あははっ」

 早口で、やたらと気丈に振る舞っているのがわかるほどに、水口さんははしゃぎ始めた。
 まだ、きっと落ち着いていないんだろう。そんな危うさが、今の彼女にはあった。
 だから僕は、咄嗟に思いついた考えを行動に移した。

「……何してんの?」

 虚を突かれた表情を水口さんは浮かべた。
 当然だと思う。
 僕は今、先ほど水口さんに押し倒された場所に、今度は自ら寝転んでいるのだから。

「水口さん、今日はもう撮影やめよう。水口さんの言う通り、僕は少し疲れた。だから、今日はちょっと、休ませてよ」
「……人の部屋で、何言ってるの?」

 案の定、彼女は訝しげに僕を見てきた。僕自身も、何を言ってるんだろうと思う。何をやっているんだろうと思う。他人に迷惑をかけないように、優しくあろうと生きていた僕らしくもない。
 ひとつ深呼吸をして、考えてみる。
 すると案外、答えはすぐに出た。

「たまには僕から、頼み事をしてみようと思って」

 もちろん、疲れたから休みたいというのは口実だ。本当のところは、僕は今日の彼女を動画に収めたくなかった。MIMARIの投稿ポリシーである『何気ない日常のワンシーン』を撮るには、あまりにも今日の水口さんは日常から遠かった。
 それともうひとつ。僕はさっき、水口さんに真意を問うた。
 でも彼女は答えてくれなかった。
 初めて、彼女の行動にモヤモヤとした言い知れぬ不快感を覚えた。
 僕らしくもない。つまりは、僕自身も日常からは遠いのだ。撮影者も役者もテーマから遠い心境にいるのに、いい動画が撮れるはずもない。
 だから僕は、ここで動画を撮りたくなくなった。

「動画はまた、別の日に撮ろう。ここでも、フレンチトーストのお店でも、どこでも付き合うよ」

 それだけ言うと、僕はそっと目を閉じた。
 外からの微かな風を感じる。先ほどは濃く深く香っていた甘い匂いは薄く、むしろ心地良いくらいだった。今にしては珍しいアナログ時計の針の音が微かに聞こえ、階下ではおそらく水口さんのお母さんが家事か何かをしている生活音が響いてくる。
 そこへ、すぐ近く、斜め上の方で、誰かが寝転んだ。
 見るまでもなかった。
 だから僕は、目は開けたけれど、視線は変えずにずっと見慣れない天井を眺めていた。

「………………今日ね、私のお母さんが死んでから、ちょうど九年なんだ」

 しばらくして、差し込む西陽によって橙色に染められた室内に、淡々とした声が落とされた。
 予想外の内容に、僕は静かに狼狽えた。

「あの人は、お父さんの後妻。二年前に再婚して来たんだけど、全然上手くいってないんだ」
「そう、なんだ」
「うん。……私のお母さんは、私が八歳の時に病気になっちゃって、それで……」
「……」
「とっても、優しかったんだ。『笑顔の陽葵が大好きだよ』って、いつも頭を撫でてくれた。可愛い洋服とかもたくさん着せてくれた。実はね、私がファッション系の投稿をしてるのはお母さんとの思い出がきっかけなの。本当に、怒ったところなんて見たことなかった。そして、とても我慢強かった。過労で、倒れちゃうくらいに……。だからかな。寺沢くんのこと心配で、さっきも、言い過ぎちゃったみたい」

 水口さんの声は震えていた。
 僕は言葉を失っていた。同時に、納得してもいた。どうしてあんなにも僕のことを気遣ってくれるのか、ようやく理解できた気がした。
 けれど、理解はできても、その悲しさや苦しさを想像することはできても、僕は所詮、部外者だ。幸いにして両親は二人とも健在で、身近にいる大切な人が亡くなった経験もない。なんて言葉をかけたらいいのか、わからなかった。

「ねえ、寺沢くん。もし私が、死んだお母さんに会いたいって言ったら、どうする?」
「え?」

 僕が逡巡し黙っていると、水口さんはゆっくりとそんな問いを投げかけてきた。

「いつか私が、本気で死にたいって言ったら、君は私を止めないでくれる?」

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が、僕の胸を衝いた。ヒュッと喉元が冷え、背筋も冷たくなってくる。
 もっと混乱していた。けれど、さすがに黙ったままというわけにはいかず、僕は震える唇を一度結んでから、口を開いた。

「……止める、と思う」
「どうして?」
「生きていて、ほしいから」

 本心だった。
 脳裏に、行きしなに見せられた自殺防止の動画の映像が蘇る。あの無の世界へ、水口さんに行ってほしくなかった。

「……それは、怨念のなりかけを晴らすためのお願いだと言っても?」
「うん」
「死ぬことはネガティブだけど、私としてはポジティブなことでも? さっきとは違う、本当にやりたいことでも?」
「うん」
「そっか……無責任だね」

 水口さんは短く笑った。

「本気で死にたいって思ってる人に生きててほしいなんて、無責任だ。その人の、その先の人生に責任が持てるわけでもないのに。無責任で、自分勝手で、中途半端な優しさだ」
「そうかもしれない」
「ふふっ、わかってて言ってるの? 酷いなあ。君もだいぶ、私に毒されてきたんじゃない?」

 そうかもしれない、と言いかけてやめた。ここで認めてしまったら、また彼女にいじられるような気がした。
 それから僕たちは、ほとんど無言で天井を見つめていた。
 気まずさはなかった。
 穏やかな時間だった。
 真っ白な天井に移る茜色が薄くなってきたところで、僕はようやく帰ることにした。

「自室での動画は私が撮るよ。残りで絶対撮りたいのは、来月にある文化祭の動画だから、その時はよろしくね。優人くん」
「……う、うん」

 帰り際に、水口さんは僕のことを名前で呼んできた。
 僕も彼女のことを名前で呼んでみようかと考えて、恥ずかしくなってやめた。
 彼女は、心底おかしそうに笑っていた。