寺沢(てらさわ)優人(ゆうと)は、人畜無害なお人好し』

 放課後。誰もいない夕暮れ時の教室で、何気なく拾ったノートにはそう書かれていた。

「なんだ、これ?」

 思ったことが、つい口から溢れる。
 寺沢優人、というのは僕の名前だ。「優しい人になってほしい」という両親の願いが込められた名前は、名字も含めて取り立てて特徴のない平凡なものだ。だから、ここに書かれている名前は僕のことを指しているわけではないのかもしれない。
 しかし、たった一行だけ書かれたお人好しさんの真横に並ぶ文字列を見て、その考えもなくなった。

藤野(とうの)蒼華(あおか)は、あざとさ満点の人たらし。寺沢優人とは幼馴染らしいけど真逆もいいところ。男子がどうすれば喜ぶかわかっててやってんだろ、あいつ。いかにも天真爛漫、純真無垢って感じで、見ててイラつく』

 僕の幼馴染の名前も、そこにあった。そしてちゃんとその関係性まで書いてある。これで、ほぼ間違いなく「人畜無害なお人好し」は僕だということになる。
 僕はそこまでお人好しだろうか。いや、僕のことはいい。それよりも、問題はその後に続く文言のほうだ。

「あざとさ満点の人たらし、ね」

 悪口、というより不満が三行程度で綴られていた。しかもそれは、僕と蒼華のことだけじゃない。蒼華の隣には、富永友哉、長屋真央とこのクラスの生徒が出席番号順に並んでいる。そしてどれも類に漏れず、『べらべらと自分のことばっか喋ってんじゃねーよ、ナルシストが』だとか『彼氏が大学生で私大切にされてますアピールやめろよ、誰も興味ないのわかれよ』などと続いている。こっちはもはや悪口だ。そしてなんとも口が悪い。
 誰のノートだろう。
 表紙を見てみるが名前はない。文字は整っているが、改めてノートを見返すとそこに書かれているのはとてもじゃないが褒められた内容ではない。前後のページにもクラスメイトへの不満や悪口がつらつらと並べられている。
 そして、さらに前のページに戻れば、今度は日常に対する負の感情があれやこれやと出てきた。

『いちいち自慢してくんな。その服もあのカフェも良いのは知ってんだよ。私が知らないはずないだろうが』

『フォロワー数また減ってる。私の投稿には何が足りないんだろ。刺激? お色気? そういうの求めんな、キモい。あとアンチコメントうざい。アンチのくせしてフォローしてくんな。監視のつもりかよ』

『またバズってていいなあ。いいないいないいないいないいなくっそーーー』

『部屋入ってくんなよ。私は別にあんたと仲良くしたくないんだけどな。つーかなるべく顔見ないようにしてるのわかれよ』

『またあいつのPR商品ランク入りしてる。いいなー。腹立つから絶対買わねー』

『あいつのリールより私のリールの方が絶対楽しいだろ。なのになんでこんなに再生数に差がつくんだよ。意味わかんな』

『みんな私の投稿なんか見てないんだろうな。私って必要とされてないんだろうな。はあーあ虚無だわ、虚無。病むし腹立つしイライラする。そしてこんなこと考えてる自分が一番嫌い。大っ嫌い。消えてなくなりたい』

 どのページにもびっしりと、罫線に沿うことなく無造作に不満は書かれていた。書いているのはおそらく女子で、このクラスの生徒だろう。そしてやけに投稿やら動画やらに関することが多い。となればきっと、このノートの持ち主は、

「――それ、返してくれる?」

 背後から唐突に声が響いた。鈴の鳴るような透き通った声に、僕はハッとして振り返る。
 教室の入り口付近に、ひとりの女子生徒が立っていた。
 まず目を引くのは、手入れの行き届いた艶やかな黒髪。しなやかに曲線を描き、胸の辺りまでスッと落ちている。長いまつ毛や、その下から真っ直ぐにこちらを見つめてくる大きな黒い瞳からは、意志の強さが感じられた。

「誰かと思ったら、寺沢くんか」

 振り返った僕の顔を一瞥してから、彼女はゆっくりと歩いてくる。細身でスタイルも良く、常日頃から明るく笑う彼女はクラスでも人気者だが、今はそうした普段の雰囲気は鳴りを潜めていた。ほとんど無表情なまま、彼女はどんどんと近づいてくる。

「ノートの中身、読んだ?」
「えっと……」

 直球に訊かれて口籠る。半分程度読んでしまったのは確かなので、もはや「読んでない」とは答えられない。たださすがに、こんな内容が書かれたノートを「読んだ」と素直に答えた場合、僕はどうなるんだろうか。

「読んだ、よね?」

 黙っていると念を押された。これはもう確実にバレている。否定の余地はない。

「ごめん、読んだ」

 申し訳程度の謝罪を枕詞に、僕は首肯した。すると彼女は、しばらくは無言で僕の顔を見やっていたが、やがて脱力したように大きくため息をつく。

「はぁ〜〜、だよねえ〜〜。読んじゃったよねー」
「うん、ごめん。その、床に落ちてて」
「そっかそっか。床に落ちてたか」

 半ばヤケクソといった感じで彼女はウンウン頷くと、僕の手からひょいっとノートを取り上げた。パラパラと何ページかめくって中身に目を通すと、今度はパタンと勢いよく閉じる。

「それで、どうするの?」
「え?」

 直球に訊いてきた先ほどとは対照的な、述語も目的語も曖昧な質問に僕は首を傾げた。どうするとは、いったいどういうことだろうか。

「このノート、読んだんでしょ? みんなにバラすの?」

 僕の疑問を察してか、彼女は質問を補足する。続けて、僕を真似するようにこてんと小首を傾けた。そこに焦ったふうはなく、むしろどこか諦めて吹っ切れたような晴れ晴れとした表情を彼女は浮かべていた。
 なるほど。どうやら目の前の彼女は、僕がクラスメイトのみんなにノートの内容を暴露するのだと決めかかっているらしい。

「まさか、そんなことしないよ」

 だから僕は、はっきりと否定の言葉を口にした。すると、彼女は面食らったように目を見開く。

「え、なんで?」
「なんでもなにも、そんなことされたくないでしょ、普通」
「いやまあ、それはそうなんだけど」

 僕の答えが不服なのか、彼女はジッと僕の顔を見てくる。

「でも、幻滅したでしょ? 私がこんなこと思って、書いてることに」
「そんなことないけど」
「ええ~噓だあ。ほら、私は寺沢くんのことも書いてるんだよ? そんな気遣いとか優しくすることないよ?」

 彼女はぴらぴらと僕が最初に見たページを見せびらかしてくる。

「うん、わかってる。それも、見ちゃったから。ごめんね」
「いやいやいや。それだけ? なんかもっとこう、憤慨とか嫌悪とか、そういう感情はないの?」

 言われて考える。
 視線を彼女の顔から、手元にあるノートへ移す。

『寺沢優人は、人畜無害なお人好し』

 綺麗な文字で、間違いなくそれだけ書かれている。

「ない、かな。人畜無害かはわかんないけど、その通りだと思うし。それになんていうか、ちょっとホッとしたから」
「え?」

 ポカンと彼女は呆けた。言葉足らずだったかなと、僕は慌てて言葉を付け足す。

「あ、いや、ごめん。変な意味じゃなくて、いつも笑顔で楽しそうにしている人でも、心の中には暗い感情が少なからずあるだろうし。むしろそれが普通っていうか、誰かに危害を加えようとしてるわけでもないし、だからその、べつにいいんじゃないかなって」

 しどろもどろになりながら吐いた言葉を、彼女は変わらず唖然とした表情で聞いていた。あまりにも表情が変わらないので、最後の方は本当に聞いているのか不安になるくらいだった。けれど、僕が全て言い終えると彼女はようやくその口を閉じた。そして、

「ぷっ、あはははははっ!」

 また開けた。しかも今度は思いっきり豪快に、羞恥心なんて一ミリもないかのごとく大きく口を開けて、彼女は大笑いしていた。僕は逆に呆気にとられる。

「えっと、僕そんなに面白いこと言ったっけ?」
「ううん、全然! まったくおもんない!」
「それにしては説得力のない顔してるけど」
「あははっ、面白くないから笑ってるのー」

 意味がわからない。僕が怪訝そうに彼女を見つめると、そこでやっと笑うのをやめた。

「はあー笑った笑った。いやーやっぱりさ、君は『人畜無害なお人好し』だよ。ほんとに優しいんだね」
「それは、褒めてるの?」
「むっちゃ褒めてます。だから少しだけ、教えてあげるね」

 そう言うと、彼女は華麗なステップを刻んで数歩後ろへ下がった。そしてやや前のめりになって僕を下から見上げると、隠れるようにして眼前にノートを立てる。

「これはね、私の『怨念ノート』なんだ」
「怨念ノート?」
「そう。日々の不平不満を、とっても悪い口調で綴りまくった秘密のノート。ほら、私が死んだら怨念が宿りそうなことばかり書かれてるでしょ? まあつまり、誰にも見られちゃいけない、いわゆる私のアナログ裏アカなんだ」

 夕陽と同じオレンジ色に染まった表紙からは想像もできない内容に、今度は僕が呆然とする。けれど、彼女は構わずに言葉を続けた。

「それなのに、寺沢くんは見ちゃったわけですよ。怨念のなりかけの一端と、女の子の秘密を。いったい全体、どうしてくれるんですか?」
「え?」

 ノートの下から垣間見える口先を尖らせて、彼女は尋ねてくる。確かに見てはいけないものを見てしまったという気持ちはあったが、ここでそれを突いてくるなんて。なんだか雲行きが怪しくなってきた。

「正直、私はかなり傷ついてます。泣いちゃいそうなくらいに、傷ついています」

 言葉とは裏腹に、チラチラと見える口元はニヤリと笑っている。口の端を吊り上げた、なんとも意地悪そうな笑みだった。次は僕が若干諦め気味に肩をすくめる。

「つまり、そのノートを見てしまった僕に何かしてほしいと?」
「ご明察。私は悪い子なので、君の”優しさ”に付け込ませてもらおうかな、ってね」

 そこまで言うと、彼女はオレンジ色のノートを横にずらして、ひょっこりと顔をのぞかせてきた。

「このノートに書いてある、怨念のなりかけを晴らすの、手伝ってよ」

 僅かに開いていた教室の窓から、残暑をはらんだ風が吹き込み、彼女の髪をなびかせた。

 これが僕と、水口(みずぐち)陽葵(ひまり)の奇妙な関係の始まりだった。

 *

 結局僕は彼女、水口さんの頼みを断ることができなかった。
 いつも通りというべきか、僕は誰かから頼まれ事をされれば基本的に断ることはない。よく「優しい」と評価される所以もそこにあるのだが、まさか「怨念のなりかけを晴らす手伝い」とやらを頼まれるとは思わなかった。というか、そもそも何をすればいいんだろうか。
 普通、こういう時は断るか、具体的な内容をしっかり聞き出したうえで答えを出すのが妥当だ。けれど、僕はどちらもできなかった。ただ戸惑い、返答に窮していた。すると、それを承諾と勝手に受け取ったらしい水口さんは、「じゃあ早速行こっか」と荷物を手に教室から出て行ってしまった。その場で断る機会は完全に失われ、元々の用事も済ませて後は帰宅するだけとなった僕に突如として降って湧いた選択肢。僕は僕らしく、そそくさと荷物をまとめると足早に水口さんの後を追った。
 その結果、僕は今、女性で溢れかえる華やかなカフェに拉致されていた。

「水口さん……?」

 席は大きなガラス張りの窓際。オシャレなナチュラルモダンのテーブルを挟んだ向かい側には、制服姿の水口さんが座っている。テーブルの上には先ほど流されるがままに注文したフレンチトーストとブレンドコーヒーが並んでおり、水口さんは嬉々とした表情でそれらを写真に収めているところだ。

「わあっ、いいねいいね~! これは確かに映える!」

 上擦った声と、シャッター音が幾度となく響く。
 水口さんが頼んだのは、僕と同じフレンチトーストにバニラアイスと生クリーム、それとキャラメルソースをトッピングしたものだ。一通り写真を撮り終えると、次はスマホを逆さ持ちにして近づけたり遠ざけたりしながら位置を決め、キャラメルソースをゆっくりと優雅にバニラアイスの上部からフレンチトーストの周囲へと滑らせ、円を描くようにかけていく。その動きはさすがと言うべきか実に鮮やかで、とても慣れていた。

「よしっ、完璧! あとで編集して今週の服と一緒にあげておこ~」

 思わず見入っている間に、水口さんはどうやら動画も撮り終えたらしい。スマホをしまうや、彼女はフレンチトーストの上に乗っていたチェリーをぱくりと口に放り込んだ。僕はどこまでもマイペースな水口さんに若干戸惑いつつも、もう一度声をかける。

「……あの、水口さん?」
「あ、ごめんごめん。写真撮るのに夢中で寺沢くんのこと忘れてたや」

 微塵も申し訳ないとは思っていない様子で、水口さんはあっけらかんと答えた。そしてそのまま、今度は大きく切り分けたフレンチトーストをその小さな口へと運んだ。表情は緩み、頬がハムスターみたいになっている。かなりお気に召したようだ。

「まあ、それはべつにいいんだけど。水口さんが投稿するなら、妥協はできないだろうし」
「そりゃねー。ていうか、私のこと知ってるんだ」
「……一応同じクラスだし、その、席も近いから会話が聞こえてくるというか」
「あははっ、全然いいよ。べつに隠しているわけじゃないし」

 そう言うと、水口さんは手元に置いてあるスマホを操作し、くるりと裏返して画面を僕に見せてきた。

「改めてになるけど、私は『MIMARI』っていうアカウントで、『何気ない日常のワンシーン』をテーマに、主にファッションの紹介をしてるの。一応、小さな案件も扱ったことがあるので、ぜひ今後ともよろしくねっ」

 スマホを顔の横に掲げながら、水口さんは朗らかな笑顔を浮かべた。
 スマホには、主に短い動画や画像を投稿するSNSのプロフィール画面が表示されていた。1549投稿、1876フォロワーという数字を見るだけでも、水口さんが精力的にSNSで活動をしているのがわかる。下に映っている投稿一覧にも、日々の写真のほかに、『夏デートを楽しむエアリーコーデ10選』、『ワンポイントアクセが印象を変える!』といった特集っぽい文字とともに華やかな服に身を包んだ水口さんの写真があった。そっち系に詳しい部活の先輩曰く、水口さんのような人をナノインフルエンサーというらしい。

「それでそれで? 寺沢くんは私の投稿は見てくれてるの?」

 興味津々といったふうに、水口さんは前のめりになる。そんな顔で訊かれては答えないわけにもいかない。僕はコーヒーをひと口飲んでから、おもむろに口を開く。

「まあ、たまに見てる。この前のなんだっけ、ほら、ちょっとダボっとした服のは見たよ」
「あー、オーバーサイズのやつか! 確かにあれはメンズの服いくつか使ってたもんね。他には他には?」
「なんか、白いブレスレットみたいなの付けてたやつとか」
「あーはいはい! 『お手頃価格でお手元飾ろう! シルバーアクセ特集』だ! あれもそういえばメンズのアクセいくつか紹介した! というか、なになに、たまにと言いつつしっかり見てくれてるじゃーん。もしかして私に気が合ったり? ってそんなわけないか、あははっ!」

 水口さんは嬉しそうに目を細めると、またパクリとフレンチトーストを頬張った。投稿が見られてることに対してか、はたまたフレンチトーストが美味しいからか、その頬は緩みっぱなしだ。
 本当に、そこにはクラスにいる時となんら変わらない水口陽葵がいた。明るくハイテンションにあれこれと話題を広げ、気になったことにはとことん素直な興味を向けてくる。笑顔を基本にころころと表情を変える様子もほんとにいつも通りだ。
 そんな彼女を見ていると、先ほど拾って見てしまったあのノートも夢か何かかと思えてくる。

「んで、とてもじゃないけど『怨念ノート』なんて書いてるふうには見えないな、って思ってるでしょ?」
「え?」

 ぎょっとした。
 そんな僕の様子に、水口さんは満足そうに目を細める。

「ほら、当たり〜。寺沢くんって意外とわかりやすいんだね。もう考えてること丸わかりだよ」

 フォークを片手に、ケタケタと彼女は笑う。そう言う彼女もかなり表情豊かでわかりやすいタイプな気もするけれど、くだんのノートを見つけた後となってはさすがに一括りにはできないなと思った。

「まあ、確かに書いてそうとは思わなかったかな。でもさっきも言ったけど、そういう気持ちはみんなあると思うし」
「ふーん、そっか。やっぱり寺沢くんは優しいね。まあだからこそ、手伝いをお願いしたんだけど」

 言われて、はたと思い出す。

「そうだよ。さっきは訊きそびれたんだけど、怨念のなりかけ? の手伝いって具体的になにするの?」
「ああ、そういえば言ってなかったね」

 早くもフレンチトーストの最後の一切れを食べ終えた水口さんは、思い至ったように頷く。それから、足元の荷物カゴに入れた鞄の中から、先ほども見た一冊のノートを取り出した。

「もう見られちゃったけど、この『怨念ノート』には私の黒い感情を赤裸々に綴ってるんだ。でもさ、やっぱり溜め込んでるだけだと心の健康にも悪いと思うのね。だから、解消できるものはさっさと解消するに限るってことで、これですよ」

 水口さんは『怨念ノート』の中ほどをぱらぱらとめくり、とあるページを開いてテーブルの空いたところに広げた。
 そこにもいろいろと不平不満が毒のある言い回しで綴られていたが、一番下まで目を移すと得心した。

『話題のフレンチトーストのお店いいなあ。友達はみんな彼氏とか部活の友達とかと行ってるし、休日とか鬼混むから気軽に誘えないじゃん。あれ、もしかして私だけか、まだ行ってないの。仲間外れとかさみしー。あーあ、つまんない、しんど』

 整然とした文字で書かれた不満。水口さんは僕がそれに気づいたのを見ると、いつの間にか手に持っていたボールペンで文字の上に二重線を引いた。

「今日で、この不満とはおさらば。ついでに言えば、私がトッピングしたキャラメルソースはいつもとは違う期間限定のやつらしいから、むしろ役得だっ」

 そして二重線で消した不満の下に、今度はオレンジ色のペンで『↑解消! フレンチトースト、最高に美味しかった!』と書き加えた。

「なるほどね。つまるところ、僕は水口さんの不満解消に付き合えばいいと」
「そうそう、そーいうことです。それにしてもさすがは寺沢くんだ。その言い分だと、これからも手伝ってくれるんだよね?」

 ニシシッと悪戯っぽい笑みを浮かべて、水口さんが訊いてくる。
 そこで気づく。そういえば、僕はどうして今日限りでなくこれからも手伝うつもりでいるんだろうか。
 僕は少しだけ考える。けれど、水口さんの表情を見る限り、断るのは無理だろうなと思った。
 そもそも、僕はどうにも人から頼まれると断ることができない性格だった。なぜかと問われれば、おそらく両親の教育の賜物だろうと答えるしかない。「優しい人になってほしい」という意味を込めてつけられた、「優人」という僕の名前然り、幼い頃から「人様には迷惑をかけずに、優しくするんだよ」と教えられてきたこと然り。趣味である小説の中に登場するキャラクターが抱えているような、仄暗く重い過去のひとつも持ち合わせていない、至って普通の家庭で普通に育てられてきた僕は、その教育方針のままに普通に成長した。
 ゆえに、よっぽどのことがない限り、僕は他人からの頼みを断ることはしない。嫌なら断ってくれていいよ、とも言われたことはあるが、僕は特に何かを頼まれて明確に「嫌だ」と思ったことはほとんどないのだ。もちろん、ただの一度もない、というわけではないが、こと今回の水口さんからの頼まれ事については積極的に断る理由が見つからなかった。

「……まあ、日常生活に支障が出ない範囲でなら」

 だから僕は、暫しの熟考の時間を置いたのち、今回はしっかりと了承を意を水口さんに示した。すると水口さんは、我が意を得たりとばかりにガッツポーズをしていた。
 それから僕はようやくフレンチトーストに舌鼓を打ち、水口さんはその細い体のどこに入るのだろうと思うパフェを注文してぺろりと平らげた後、ささやかな雑談をしてからわかれた。二人でカフェに行ったからといって、僕と水口さんはクラスでの席が近いこと以外、そこまで仲が良いというわけではない。雑談の内容も、今日の英語の宿題がどうだとか、夏休みはどこに行ったかだとか、至極どうでもいい内容ばかりで特段盛り上がるということもなかった。
 ただ帰り道で、いつもと違う日を過ごしたな、という実感がなんとなくある程度だった。

 *

 カフェに寄ったことや元々学校を出た時間が遅かったこともあり、僕が帰宅する頃にはすっかり日が暮れていた。

「っと、早く夕ご飯の準備しないとな」

 僕の両親は共働きだ。父親はⅠT企業に勤める普通のサラリーマンで、母親は中学校の国語教師。二人ともかなり仕事が忙しいらしく、帰ってくる時刻は基本的に夜九時以降だ。そのため、三人分の夜ご飯を作るのは僕の担当だった。毎月決まった額のお金を渡され、それを元手に食材を買い、栄養バランスを考慮した料理を作る。余ったお金はお小遣いとはべつに僕の好きにしていいとのことで、金銭管理やら料理スキルやら自主性やらと教育に余念のない両親だった。
 もっとも、僕はべつに我が家のルールについて嫌だと思ったこともない。勉強になるし、お金を上手くやりくりすれば手元に残るし、料理も嫌いじゃないし、両親も帰りがやや遅いとはいえ僕と会話をする時間をしっかりとってくれるので文句はなかった。
 サイドボードに置かれたテレビをつけ、そのわきにある家族の思い出写真が映ったデジタルフォトフレームをなんとなく眺めてから、キッチンへと向かう。冷凍庫から特売日に買っておいた豚肉を取り出して解凍し、ざっくばらんに刻んだ野菜と一緒に炒める。今日は時間もないので、夜ご飯は簡単にできる肉野菜炒めだ。油抜きをした油揚げと豆腐で味噌汁を作り、昨日作っておいた大根の煮物の残りを温め、予め炊飯予約の設定をしておいたご飯をよそえば完成だ。
 ダイニングテーブルの上に一通り並べたところで、僕はふと違和感を覚えた。
 お腹が、あまり空いていない。

「そっか。フレンチトーストを食べたからか」

 水口さんに付き合って、夕方の六時頃にボリュームたっぷりのフレンチトーストを食べれば腹も膨れる。僕は体育会系というよりは文化系の人種なので、成長期といえどそこまで食事量は多くない。僕は一度盛り付けた肉野菜炒めや煮物の量を少し減らしてから席についた。
 テレビをBGM代わりにしつつ、箸を進めていく。一日置いた煮物は味が染みていて、我ながら良い出来だと思った。肉野菜炒めも、試しに入れた鶏がらスープの素が良い具合にコクを引き出している。さすがは万能調味料だ。
 もそもそとご飯を食べ、味噌汁を飲んだところで、僕はなんとなく気になって手元に置いていたスマホに目を移す。そのまま空いた左手でロックを解除し、たまに見る程度の例のSNSアプリを開いた。

「あっ」

 タイムラインを少しばかり遡ると、ちょうど水口さんのアカウント、MIMARIのアイコンが目に入った。その下に大きく陣取るのは、つい先ほどまで現実で見ていたフレンチトーストと、上から滑らかに落ちて彩るキャラメルソースの短い動画。連続して並べられたハッシュタグには、僕らが先ほどまで行っていたお店の名前や注文したフレンチトーストの名前、そして期間限定のキャラメルソースのことなんかが書かれていた。
 早速投稿したのか。
 時間を見れば、一時間ほど前だ。ちょうど僕が夕ご飯の支度をしている頃に投稿したらしい。さらに続けて、「今週のワンシーンコーデ」なるデフォルメされた文字とともに、秋らしいライトブラウンのカーディガンに身を包んだ水口さんの写真が載った投稿が表示された。キャプションには、「英語の課題を、休日の図書館で」とある。
 そういえば、水口さんは「何気ない日常のワンシーン」をテーマに投稿しているんだったっけ。
 カフェでの会話を不意に思い出し、僕はひとり納得した。淡い陽光が差し込む机で、一心にプリントに向き合っている水口さん。カーディガンコーデもさることながら、普段は見ない太縁メガネをかけ、そばに置かれたカーディガンと同じライトブラウンのベレー帽がさり気ないオシャレ感を醸し出している。そういうことに詳しい先輩の薫陶のおかげか、彼女の写真が普通の女子高生のものとは異なっていることは一目でわかった。
 しかもその投稿には続きがあり、今日カフェへ行った後にアパレルショップでいくつか流行しそうなアイテムを見繕ってきたとあった。つまり、僕とわかれたその足で行ったことになる。もしかすると、まだ家に帰ってないんじゃないだろうか。すごい努力だ。
 僕が感心して心ばかりのハートを送ったところで、唐突にチャイムが鳴り響いた。
 こんな時間に誰だろうか。両親は鍵を持っているからチャイムを鳴らすことはないだろうし、夜の八時を過ぎてセールスというのも考えにくい。再度鳴らされるチャイムに若干の警戒心を抱きつつインターホンを見ると、そこには水口さんよりも見慣れた顔があった。

「蒼華?」

 小さな画面に映っていたのは、紛れもなく僕の家から数メートル離れたところに住む幼馴染、藤野蒼華だった。ラフなパーカーと短パン姿で真っ直ぐにカメラの方を向き、笑顔で手を振っている。とるものもとりあえず、僕は玄関まで駆けて行ってドアを開けた。

「ヤッホー、優人! 寝てた?」

 開けるや否や、蒼華は一日の終わり時の体力とは思えないほどの溌剌さでそう言った。僕はややげんなりとしつつ答える。

「まだ八時だけど」
「いやーあの優等生な優人くんなら八時どころか七時に寝ててもおかしくないかなって」

 全くそうは思ってなさそうな顔で、蒼華はクスクスと意地悪そうに笑う。寝てるわけないだろ、というツッコミを当然のごとく言えば、蒼華は小悪魔チックな笑みをさらに深めた。
 蒼華とは、小学校どころか幼稚園からの付き合いだ。引っ込み思案な僕がひとりで遊んでいると、決まって蒼華はトコトコと僕のところへやってきて「一緒に遊ぼう!」と誘ってきた。ひとりで遊ぶのは嫌いではなかったが、なんだかんだその時の僕は蒼華の誘いに乗って鬼ごっこやらかくれんぼやらと人の輪に入り遊んでいた。幼稚園はもちろんのこと、小学生になって家がすぐ近くだと知ってからは、休みの日で彼女が暇を持て余している日は突然やってくることもしばしばあった。
 そうして長い時間をともに過ごし、気がつけば中学、高校と腐れ縁のように同じ学校へ進学していた。おおよそ、異性の幼馴染は中学に上がった辺りから男子は男子、女子は女子とつるみ疎遠になっていくことも多いが、僕らに至っては特にそういうこともなかった。本当に変わらず、今ですらこうして夜に突然やってくるほどには、仲は良い。
 
「それで、寝ててもおかしくない優等生な僕に何か用?」

 彼女の冗談に軽く乗りながら訊くと、蒼華はなぜか不思議そうに首を傾げた。

「あれ」
「ん? どうかした?」
「私って、なんで優人のところ来たんだっけ」
「はあ? 僕が知るわけないだろ」

 頭が痛くなってくる。ボケるには早すぎやしないか。

「ああ、思い出した! 宿題だ、英語の! ほら、明日提出じゃん。全然わかんなくて、あまりにも白紙すぎたから見せてもらおうと思って!」

 さっきは小悪魔、今は天真爛漫という言葉がお似合いな笑顔を浮かべて、蒼華はパンと手を合わせてくる。
 ほんとに変わらないなと思った。蒼華は昔からこうだ。つい心を許してしまうような、親しみのある心地良い表情を時折見せてくる。

「まあ、いいけど。てかそれくらいなら、スマホで連絡してくれれば済むんじゃ」
「いや〜それが学校のロッカーに忘れちゃって。あと優人の顔も見たかったから直接来たんだ〜」

 そして、昔からと言えばもうひとつ。
 蒼華はこういう勘違いされそうなことを、しれっと口に出して言ってくるのだ。
 僕に対してだけじゃない。男子も女子も友達も家族も関係なく、親しい人みんなに対して無邪気な気持ちを伝えてくる。

「……まあ、わかったよ。プリント持ってくるから、少し待ってて」
「はいはーい」

 玄関に蒼華を残して、僕はそそくさと自室に向かう。課題を入れたプリントをクリアファイルにしまってから、すぐに戻る。
 あの笑顔を見ていると、どうしても昔の感情がひょっこり顔を出してしまう。
 意地悪で、無垢で、ちゃんと素直な気持ちを向けてくる蒼華は、僕の初恋の人だった。

「ほい、ちゃんと明日学校に持ってきてね。じゃないと僕が怒られる」
「もちのろん、りょーかいです!」

 けれど、今はもう恋はしていない。
 蒼華は僕のことを幼馴染としてしか見ていないことがわかってから、僕の中にあった恋心は少しずつしぼんでいった。今ではもう、ただの尊敬する幼馴染だ。

「あっ、優人! これ、ありがとね~!」

 去り際に、蒼華はひらひらとクリアファイルを振りながら、夜にもかかわらず太陽みたいな笑顔を向けてきた。
 不意に、放課後に見たあのノートの文面を思い出す。

『藤野蒼華は、あざとさ満点の人たらし』

 外から見れば、確かに言い得て妙かもしれない。
 でも蒼華は、きっと計算ではしていない。幼い頃から変わらない、素の藤野蒼華が、今の彼女だ。

「うん」

 僕は肩をすくめて、小さく頷くことしかできなかった。 

 *

 翌日。学校に行くと、教室に入るなり一番に僕を呼ぶ声がした。

「寺沢~、マジで昨日は交代してくれて助かった! お礼にジュース奢るから、一階の自販機行こうぜ」

 僕が通学鞄を自席に置く前に肩を組んできたのは、同じクラスの小山(こやま)栄樹(えいき)。身長が僕よりも頭ひとつ分は高く、やや茶色がかかった無造作な髪が印象的な、バスケ部に所属している期待のホープだ。そんな小山に連れられて、僕は教材を机に入れるのも早々にまた教室から出る。朝の賑やかな廊下を通って階段を下り、通用口から出れば自販機はすぐそこだ。
 小山がどれでも奢るというので、僕は朝の眠気覚ましに缶コーヒーを所望した。手渡された冷たい缶コーヒーのプルタブを開けて、中身を喉に滑らせる。

「それで、上手くいったの?」

 同じように缶コーヒーを飲む小山に僕は訊いた。すると、彼は待ってましたとばかりに僕の肩に手を置き軽く寄りかかってきた。

「それがさー聞いてくれよ~。お前の幼馴染、てんでオッケーしてくれねーの」
「でも、昨日は一緒に帰ったんだよね? なんて言われたの?」
「話は弾んだんだよ。今は彼氏がいないことも聞き出せたし、最近邦ロックとボカロと映画にハマってることも知れたし。でも、次の休みに映画に誘ったら普通に断られた」

 オイオイと噓泣きをする小山を横目に、僕はもうひと口コーヒーを飲む。これはどうやら、体よく断られたらしい。
 昨日、僕は小山に頼まれて委員会の仕事を代わった。小山は図書委員会に所属しており、放課後の貸出業務の当番に当たっていたのを、前年図書委員だった僕に代わってくれと頼んできたのだ。
 その理由は、恋の応援。しかもその相手は、まさかの僕の幼馴染、蒼華だった。なんでも、「小山くんといるといつも笑ってる気がする」と言われたのをきっかけに、目の前の彼は恋に落ちてしまったらしい。蒼華の天然たらしな被害者がここにもいたわけだ。
 しかし、さすがにそんなことは言えない。僕は熱心に頼み込んでくる小山の姿勢に、図書委員の仕事を代わった。まあその結果、仕事を終えて図書室から教室に戻ったところで水口さんの『怨念ノート』を見てしまったわけだが。

「つーか、お前の幼馴染ガード固すぎだろ。スマホ学校に忘れたー、とか言ってSNSのアカウント教えてくれなかったし」

 いや、それはほんとに忘れてるんだよ。

「寄り道がてらカフェで英語の課題教えてほしいって言っても、英語苦手だからごめんねって断られたし」

 いや、蒼華は英語、超がつくほど苦手だぞ。嘘偽りなく、それもほんとだぞ。

「はあ~~。やっぱ俺、友達としてしか見られてないのかな~~」

 絶望とばかりに天を仰ぐ小山に、僕は肩をすくめた。今の僕がなにを言っても慰めにしかならないだろうし、ここはどうしたものか。
 残り半分になったコーヒーを口に含みつつ、苦みを転がしていると、ふとひとつの閃きが降りてきた。

「あ、じゃあさ。ここ誘ってみたらどうかな?」

 ポケットから取り出したスマホを操作し、つい昨日も見ていたSNSを開く。すると、お目当ての投稿はすぐに出てきた。

「ここって、駅の近くにあるフレンチトーストが有名なとこじゃん」
「そうそう。確か、蒼華はフレンチトーストが好物だったはずだし、こんな感じでSNS映えもいいから女子は好きなんじゃないかな」

 僕の画面にあるのは、昨日投稿されたばかりのMIMARIの動画。つまりは、撮影するところをそばで見ていたあの動画だ。昨日見た時も思ったが、光度も画角も実に綺麗で、映像の中のフレンチトーストに彩りを与えている。閲覧数やハートの反応も昨日よりかなり増えており、共感や羨望といったコメントもたくさん来ていた。

「なるほどね。確かにアリだな。でもここって、結構混むとこだよな。さすがに一時間とか並ぶのってきつくね?」

 食い入るように動画を見る小山は、それでも悩まし気に首を捻る。そういえば、水口さんのあのノートにも休日は鬼混むだとか書かれていたっけ。僕はぼんやりと、昨日のことを思い出す。

「んーまあ休日はそうだろうけど、平日はそうでもないかな」
「あれ、そうなの?」
「うん。放課後で、少し時間を遅くすれば、たぶん、二十分くらい待ってれば入れるよ」

 昨日お店に行った時は午後六時過ぎだったこともあってか、比較的待つことなく中に入ることができた。二人きりになったことがあまりない僕と水口さんでさえ待てたのだから、蒼華と小山なら話していればすぐだろう。

「二十分か。まあ、それなら大丈夫か。ってなに、もしかして行ったことあるのか?」
「あ、いや」

 訊かれて、ぎくりとした。しまった、確かにそういう言い方をしてしまった。僕は慌てて首を横に振り、たまたま同じようなことを言っているコメントを指差す。

「えっと僕じゃなくて、一般的にそうじゃないかなって話。ほら、この投稿のコメントにも書いてあるし」
「なんだ、そういうことか。まあ、寺沢ってこういうところ行かなさそうだもんな」

 小山は特に疑問を持つことなく、すんなりと受け入れてくれた。僕は内心、ホッと胸を撫で下ろす。良かった。こんなところで余計な詮索は避けたい。
 それから僕と小山はコーヒーを飲み干すと、教室に戻ることにした。
 道中、小山は僕のスマホを片手に投稿のコメントを読み始めた。「なるほど、期間限定のキャラメルソースがイチオシか」だとか「窓際の席の方が動画映えするのか」だとか、早速情報収集をしている。

「にしても、MIMARIか。あれ、寺沢ってMIMARIが誰か知ってるよな?」
「え、まあ、うん」
「MIMARI、水口陽葵か。俺もフォローしてるけど、すごいよな。まさに高嶺の花って感じ。さすがに狙おうって気にはならねーな」

 そんな会話もあったけれど、僕は適当に誤魔化しておいた。かくいう僕も一昨日までは似たようなことを思っていたので、頭から否定するのもはばかられたからだ。
 それにしても、小山から見ても水口さんは高嶺の花らしい。小山はその高身長やバスケ部で活躍していることもあってかなりモテるのだが、その小山ですら高嶺の花だと感じているなら誰が釣り合うんだろうか。芸能人?
 不毛な思索がなんとなく頭の片隅で回り出したところで、僕らは教室に到着した。

「あっ、いたいた! おーい、優人! これありがと~!」

 着いて早々、高らかに僕の名前を呼ぶ声が響く。声の方を見るまでもなく、蒼華が足早に駆け寄ってきた。

「英語の課題! すごくわかりやすかったよ。これで授業の時に当てられても答えられます。本当にありがとうございました、ふかぶか~」
「お礼の動作まで口にする人いないと思うけど」

 僕は蒼華のボケにツッコみつつ、差し出されたクリアファイルを受け取る。そこには課題のプリントのほか個包装されたクッキーと小さなメッセージカードが挟まっていて、可愛らしい文字で『いつもありがとう! 優人がいてくれてよかった! 蒼華より』と書かれていた。
 そこで、隣から視線を感じた。
 これまた視線の方を見なくともわかっている。

「おい、寺沢」

 先ほどからの会話よりもワントーン低い声で呼ばれる。

「なに?」

 嫉妬だろうか。僕は若干面倒くさい気配を感じつつ、隣へ顔を向ける。

「英語の課題って、なに?」
「え?」

 そこには、驚いたように目を見開いた小山がいた。

「英語の課題? プリント? え、それっていつ提出?」
「今日、だけど。授業で使うって」
「英語って、何限……?」
「一限」
「貸してくれええええ!」

 僕が了承の言葉を口にする前に、小山は半ば強引にクリアファイルを引っ掴んでいった。あとには、入り口に佇む僕と蒼華だけが取り残された。
 あ、クッキーとメッセージカード。
 僕がそのことに気づいたのは、蒼華と苦笑交じりに顔を見合わせた時だった。

 *

 七限後のSHRが終わって放課後になると、僕は校舎の四階の一角にある部屋へと赴いた。
 べつに、また委員会の当番の代わりといった頼まれ事をされたからではない。ただ、英語の課題プリントを返してもらう時に、不機嫌そうな小山から「そういえば、ナミダ先輩が放課後に部室に来てくれって言ってたぞ」と言われたからだ。ちなみに、クッキーの包装紙にはマジックで『ずるいぞ幼馴染』と落書きされていた。
 僕は放課後のご褒美にとっておいたそのクッキーを頬張りつつ、部室となっている部屋のドアを開けた。

「よう、少年。やっときたか」

 飄々とした声が響いた。
 雑多に物が置かれた小部屋の中央にある机、その上に設置されたデスクトップパソコンにひとりの男子生徒が向き合っていた。無造作に整えられた髪から生える一本の寝ぐせにまず目が行き、その後は目の下に薄っすらとできたクマ、そしてさらにその下にある鍛えられたマッチョな体躯へと視線が移る。
 うん、いつ見てもアンバランスで情報量の多い先輩だ。

「ご無沙汰してます、ナミダ先輩。すみません、最近は幽霊部員で」

 しかも、あだ名が「ナミダ」である。誰が付けたのか知らないが、ここまでしっくりこないあだ名があるだろうか。
 そんな疲れ切ったおじさんみたいな顔のマッチョ男子、ナミダ先輩は僕が話しかけるとようやく画面から顔を上げた。

「いやいや、とんでもないよ。少年にはこの廃部寸前だった映像文化部に入部してくれただけで感謝してる。そればかりか、友達に頼んで名前まで借りてきてくれるなんてね。たまに来なくなるくらい、なんてことないさ」
「はあ、それなら良かったです」

 僕は近くにあったパイプ椅子に腰かける。軋んだが音が鳴ると同時に、僕は改めてナミダ先輩を見やった。

「それで、さっきからなんですか、その話し方。またなにか、徹夜でアニメ観たんですね?」
「お、バレたか」

 若干すかした表情をしていたナミダ先輩は、僕の一言を皮切りに堪えきれなくなったように笑い出した。それはなんとも豪快な笑い方で、今の先輩の体格とマッチしている。

「いや~ハッハッハッ! 昨日観たアニメでさ、主人公のことを少年呼びする擦れた女教師が出てきたんだ。ほんとはカッコつけてタバコも吸いたいくらいなんだけど、未成年だからそこだけは我慢したんだぜ?」
「ナミダ先輩がまだ常識人で良かったです」

 部活の部長が校内で未成年喫煙したとあっては目も当てられない。もっとも、この人は僕が入学した当時も高校三年生で、去年一年留年している。大怪我をしたとか大病を患ったとかではなく、素で出席日数が足りなくて留年したらしいので、どこまで常識人かも怪しいものだが。
 そこからは、いつも通りナミダ先輩による昨日観たアニメの感想演説が始まった。どうやら昨日観たのはラブコメらしく、達観した主人公ヒーローがヒロインに絆されて変わっていくさまは見ていて感動しただとか、一番影響受けた女教師キャラのセリフが名言だらけで素晴らしかっただとか、これは全男子高校生が見るべきだとか、それはもう大変なテンションの上がり様だった。こういう時ですら、相手が気持ちよく話しているのにその腰を折るのは悪いと思ってしまうのは、やはり僕の性分なんだろう。
 しかも映像文化部の活動内容にも絡めて、スピーディーなドリーイン・ドリーアウト形式の表現が秀逸でこれはリアルでも参考にすべきといった話まで差し込まれ、そうこうしているうちに実際の動画まで見せられ、いつの間にか軽い部活動が始まっていた。
 時間にして一時間ほど経過したところで、ようやく話の切れ目が来たので僕は口を開いた。

「それでナミダ先輩、僕に何か用があったんじゃ」
「お、おおっ! そうだったそうだった。いや~ごめん、熱くなってつい忘れるところだった」

 絶対忘れていただろうに、ナミダ先輩は思い出したように取り繕ってから、何やら一枚の紙切れを差し出してきた。
 そこには、次期部長登録票と書かれていた。

「もしかして」
「そう、そのもしかして、だ。もはや活動らしい活動はほとんどしていないんだが、部員がいる以上、形式的には出しておかないとでな。ということで、寺沢。やってくれないか?」

 左手で登録票、右手でお願いのジェスチャーをして、ナミダ先輩は僕を見てくる。部にいる先輩はナミダ先輩だけにも関わらず、去年は言われなかった。となると、おそらく今年こそは卒業するつもりなんだろう。いや、当たり前なんだけど。

「でも、どうして僕が?」
「一番やってくれそうだから」
「ですよね」

 僕もそう思う。僕が名前を借りた小山を始めとした他の部員の何人かは、それこそ話すら聞く耳を持たないだろう。となれば、必然的に選択肢はひとつとなる。

「もちろん、必ず部として存続させてくれなんて言わない。ひとまず寺沢らが卒業するまででいいし、顧問にも一言言っておこうとは思ってるからな。やることは半期に一回ある部長会に出るくらいで、それも適当でいいぞ。あと内心点も少し上がるらしい。だから、どうだ?」

 こういう時、僕の中では一応あれこれと考えは巡らせる。部長会だけと言っているが他にも雑用や面倒事はあるんだろうなとか、廃部にする時には何かしらの手続きをしないといけないんだろうなとか、僕の時間が多少なりとられてしまうがどうしようだとか、正直少し面倒くさいなだとか、本当にいろいろと。
 ただどうしても、それらを目の前に陳列させて眺めてはみても、僕の脳はなかなか「断る」という判断を下してくれない。
 この映像文化部に所属した時もそうだった。特にやってみたい部活動もなく、夕ご飯の用意や家事もあるから帰宅部でいいかと思っていたところに、たまたま廃部回避のための部員を探していたナミダ先輩から頼まれたのだ。それから僕は何人かの友達に名前だけ貸してくれるように頼み、部としての活動を見せるためにナミダ先輩から映像撮影のイロハや映像文化について教えてもらってレポートを書いた。その結果、今こうして次期部長にならないかと言われている。
 そして今回も、心のどこかで僕は承諾してもいいかと思ってしまっている。
 これまでそこそこ親しくしてきたナミダ先輩のこともそうだが、自分を頼ってくれている人の気持ちを無下にするのは、僕にとっては気分の悪くなることで、それなりに大きなストレスになりうることだから。後から、困ったように笑い僕を気遣うナミダ先輩の表情や言葉を思い出して、断らなければ良かったかなとひとり悶々と脳内反省をしてしまうくらいなら、多少の面倒事くらいはなんてことない。

「まあ、いいですよ」

 今一度、今後僕に降ってきそうな負担とこれからの日々を想像してから、僕はおもむろに頷いてみせた。すると、ナミダ先輩の表情が一気に晴れる。

「おお、そうか! 悪いな、寺沢。ありがとうな!」

 ありがとう。
 何度も言われた言葉を僕はまた受け取って、恐縮して笑い返す。
 手渡された次期部長登録票に名前を書き、ナミダ先輩に戻した。あとはナミダ先輩も名前を書いて、これを顧問の先生に渡しておけば完了らしい。一応、顧問の先生から後日呼ばれるかもという話だけ聞いて、僕は部室を後にした。
 鞄が置いてある教室へ戻るさなか、僕の頭の中にはナミダ先輩の「ありがとうな」が繰り返されていた。
 人は、誰かから感謝されると良い気分になる。少なくとも、断ることでその人との関係が悪くなったり、悪くならないにしても後でひとり思い悩むよりはずっといい。僕を貶めるようなことや絶対できない無理難題ならさすがに断るが、委員会の仕事の代わりにしても、英語の課題のプリントを見せるにしても、ほとんど活動らしい活動をしていない部の次期部長にしても、どれも大したことではない。そうした「優しさ」は、人付き合いを上手くしていくうえで大事な処世術のひとつで、僕の両親に言わせれば「巡り巡って自分のところに返ってくる、善因善果な行い」のひとつなのだ。
 だからこれはきっと、間違ってはいない。

「ふう……」

 それなのにどうしてこうも、僕の心はモヤモヤするんだろう。
 嫌な気持ちになっているわけでもなければ、誰かのためにいろいろすることが嫌いなわけでもない。ありがとうと言われれば嬉しいし、部員としての名前を借りた時みたいに自分に返ってくることも重々承知している。
 それなのにどうして、こうもスッキリしないのか。

「……とりあえず、帰るか」

 考えてもきっと答えは出ない。だから僕は、思索に耽りそうになっていた頭を振り、考えを掻き消した。
 その時だった。

「やーっと見つけた。もう探したよ〜」

 よく通る声とともに、遥か先まで続く廊下の中央から、大きく手を振る影が見えた。僕以外の誰かに声をかけたのかと、つい後ろを振り返るがそこには誰もいない。

「君だよ、君。寺沢くんのことを、探してたの」

 その影は答え合わせとばかりに、僕の名前を呼ぶ。近づいてくるほどに逆光が弱まり、シルエットから予想はしていた顔が顕わになった。

「水口さん?」
「やほ、寺沢くん。ちょっとだけ今日も、手伝ってよ」

 そういえば、この「手伝い」も僕の断れない性格が原因だったかと思い至る。

『寺沢優人は、人畜無害なお人好し』

 僕はなんとなく、昨日見た字面を思い出していた。

 *

 水口さんに連れて来られたのは、学校からやや離れたところにある運動公園だった。
 僕らの学校ではなぜか六月という梅雨時期に体育祭があり、万が一晴れていればこの運動公園にある陸上競技場を貸し切って行われる。しかし、六月は当然のごとく雨の降る日が多くあり、去年に続いて今年も体育祭の開催日は土砂降りで中止となった。あれはどう考えてもスケジュールの見直しをする必要があると思う。
 そして、そんな幻の体育祭以外には特に来る用事もないため、運動嫌いな僕がこの運動公園を訪れるのは今日が初めてだったりする。

「いや~、やっぱり寺沢くんを連れてきて良かったよ。ここ、噴水とか並木道とかいろいろ見どころがあるんだけど、私はもう何回も来ちゃってて見慣れてるからさ。寺沢くんの新鮮な気持ちで眺めてみて、ビビッと来るものがあったら教えてね」
「ビビッと、か」

 銀杏の木が立ち並ぶ周遊路を歩きながら、どこまでも感覚的な彼女の物言いに苦笑する。僕に水口さんを満足させるだけの感受性があるだろうか。
 僕が何の気はなしに口の端を曲げていると、隣の彼女はさらに顔をのぞき込んできた。

「しかも寺沢くん、映像文化部所属ってことは動画とかそっち方面も多少わかるよね? ぜひとも映えも意識して、ヤヤヤって思うものがあったら遠慮なく言ってね」
「ヤヤヤ?」

 曲がっていた口の端が、途端困惑に歪む。なにその擬音。

「寺沢くんがビビッと来たものと、ヤヤヤって思ったものを組み合わせて、どひゃあってなる動画を撮りたいからさ」
「僕で遊んでる?」

 いよいよ彼女が揶揄っているという真意に気づいて僕が尋ねると、水口さんはけらけらと笑った。

「だってさ、廊下で見かけた時の寺沢くん、なんだか難しい顔してたからね」

 それから、いつの間に撮ったのか、僕が廊下の中央を歩きつつ窓の外をぼんやり眺めている写真を見せてきた。夕焼け色に染まる廊下に佇む僕は確かにとてもアンニュイな表情をしていて、また思いのほか綺麗に映っていることに驚く。

「よく撮れてるでしょ? アイコンにしてもいいよ。送ってあげる」
「いや、べつに僕は」
「いいから、とっときなよ。ふとした瞬間の自分の表情を見ることなんて、あんまりないでしょ」
 
 急に真面目なトーンになった彼女の声色に、僕は押し黙った。
 スマホが微かに振動し、水口さんから写真が送られてくる。
 改めて見ても、やはり僕の表情は優れなくて、彼女の言う通りとても難しい顔をしていた。

「それで? 部室に行ってたって言ってたけど、何かあったの?」

 銀杏並木の周遊路を抜け、噴水広場へと出たところで彼女は訊いてきた。特に隠すことでもないので、僕は答える。

「べつに、何もないよ。ただ、次期部長にならないかって言われただけ」
「ふーん。引き受けたの?」
「まあ、他にやる人もいないし」
「ふーん。寺沢くんらしいね」

 自分から尋ねてきたわりには、水口さんはどこまでも興味のなさそうな相槌を返してくる。視線も僕の方ではなく、噴水近くのベンチに群がる鳩に留められていた。

「寺沢くんってさ、なんでそんなに他人に優しくできるの?」
「なんでって」
「だってさ、普通ムカつかない? 自分が頑張って解いた課題をものの数分で書き写されたりとか、面倒な役回りを押し付けられたりとか、よくわからない因縁つけられて放課後の時間奪われてる今とかさ」

 視線をそのままに彼女は言う。鳩たちは淡い斜陽の中、今日最後のご馳走とばかりに地面をつついている。
 考える。
 蒼華や小山に課題を写されて、嫌だっただろうか。蒼華は自分で考えてわからなかったと言っていたし、小山も単純に課題を忘れていて時間がなかったからだ。それに二人は友達で、僕が困っている時は助けてくれる。
 ナミダ先輩に次期部長をお願いされた時はどうだろう。曲がりなりにも先輩からの頼み事だし、しかも一応僕のことを評価してくれてのものだ。無下にもできない。
 そして、今いるこの状況も、決して嫌というわけではない。

「ムカつき、はしないかな。こういうのはやっぱり、お互い様なところもあるし」

 ただ一方で、先ほど僕はモヤモヤを感じていた。
 あれはいったい、なんだったんだろう。ムカつきとかイライラではないと思う。
 手元にあるスマホを見つめる。そこには、水口さんから送られてきたどこか陰鬱とした表情の僕が写っている。
 僕はいったい、何にモヤモヤしてるんだろう。

「……それに、親からも『人には親切に』って言われてるから、かな」

 暫し考えるも、やっぱりモヤモヤの正体は分からなくて、結局僕はそれについては何も言わず親の教育方針を理由に据えた。

「ふーん。やっぱり、寺沢くんは優しいね」

 僕の回答に、水口さんは相変わらず抑揚のない返事だけをしてきた。お気に召さなかったのか、視線も変わらず鳩にだけ向けられている。
 沈黙が下りた。
 僕らは黙ったまま鳩の群れを眺めていた。

「でもさ、それって」

 どれくらいそうしていたのか。
 鳩の数が半分程度になったころ、水口さんはおもむろに振り返って言った。

「すごく、疲れそうだね」
「え?」

 予想外の言葉に僕は面食らう。けれど水口さんは気にした様子もなく言葉を続ける。

「だってそうじゃん。私はさ、寺沢くんと同じことしてたら、きっとムカつくしイラつくと思うのよね。絶対『怨念ノート』に不平不満をこれでもかと十ページくらい書き殴ってるよ。でも、寺沢くんはそうは思わない。私だったら苛立ちに変えるはずの心の負担を、寺沢くんはきっと何かしら自分が納得のいく理由をつけて、何度も受け入れてきているんだと思うから。それこそ、お互い様(・・・・)、とかね」
「それ、は……」

 言葉に詰まる。
 そんなふうに考えたこともなかった。
 周りの人に優しく、親切にすることは、僕にとっては当然のことで、当たり前だったから。
 僕は、そんな日々に疲れているんだろうか。
 あのモヤモヤは、それが原因なんだろうか。
 でももしそうだとするなら、僕はどうすればいいんだろうか。

「だからね、私にできないことをしている寺沢くんは、本当に優しいし、凄いと思う。でも、休むのも大事だよ。こんな難しい顔してるくらいなんだしさ、やっぱりストレスとか溜まってるんだろうし、そういう気持ちも見逃しちゃダメ。見逃しちゃいけない感情が、隠れている場合もあるんだよ。だからたまにはさ、自分に優しくしたっていいんじゃない? まあ、思いっきり寺沢くんの優しさに付け込んでる私が言えたことじゃないけどね」
「っ……」

 呆然としている僕の顔を、水口さんは下からのぞき込んできた。その拍子に、艶やかな黒髪が肩口からさらりと零れ落ちる。
 目が離せなかった。
 黒曜石のように深く澄んだ黒い瞳に、僕の視線は縫い留められていた。
 僕が何も言えずに突っ立っていると、やがて水口さんは顔を上げた。

「ねえ、写真撮ってよ」
「え?」
「しゃ、し、ん。でも今じゃなくて、さっき私が撮ったみたいなやつ。私が気づかないところでしている、ふとした表情を撮ってほしいな」

 またいきなりなんだ。
 そう思う間もなく、水口さんは手に持っていた鞄から例のノートを取り出し、僕に見せてきた。

「今日はね、寺沢くんが変な顔してたから気分転換に連れ出したっていうのもあるけど、また別の怨念のなりかけを晴らす手伝いもしてほしいんだ。そして今回のなりかけは、これ」
「これって……」

 差し出されたノートに目をやる。彼女の細く白い指の先には、これまでの二、三行よりもやや長い不満が書かれていた。

『どれだけ頑張って投稿してもバズってくれない。もっとたくさんの人に見てほしいのに、なんで。なんで意味のわからないオモシロ構文みたいなやつとか、ただオッサンがダラダラと業界裏事情をひけらかしているようなやつの方が見られてるの? 悔しい悔しい悔しい。あーあ、これが無駄な努力ってやつなのかな。ほんと世の中って理不尽だ。マジしんどい』

「最初にふざけて言ったあれ、ホントだからね?」

 目の前にある書き散らされた『怨念ノート』の恨み言とは裏腹に、得意げな笑みを浮かべて彼女は言う。

「やっぱり、SNSで活動するならたくさんの人に注目してもらいたいじゃない。だから、バズるきっかけをどうにかして見つけたいの。そのために、私だけじゃ絶対に気づかないことに目を向けたい。だから寺沢くんの感性でいろいろ教えてほしいし、自分じゃ見れないふとした表情の写真を撮ってほしいんだ」
「なんで、僕に?」
「だって寺沢くん、優しいんでしょ?」

 意地悪そうな、けれどそれでいて何かを決意したみたいな、真っ直ぐな瞳が僕を見据えた。

「さっきと言ってること違くない?」
「んーん、もし嫌なら断ってくれればいいの。私は悪い女だから、わかったうえでお願いしてるんだ」

 明らかに、水口さんは僕を挑発している。たまには休んだほうがいいみたいなことを言っておいて、片やその直後に頼み事をしてくるなんて。まさか、僕にイラついてほしいんだろうか。

「それで、手伝ってくれる?」
 
 トンと小さくステップを踏み、上目遣いをした彼女が視界に映る。少しだけ蒼華に似ていた。もっとも、自然にじゃなくわざとやっている時点で、根本的なところは違っているけれど。
 ただやはり、不思議と嫌な気はしない。

『寺沢優人は、人畜無害なお人好し』

 そして、こと水口さんについては、それだけではない気もしていた。
 彼女の後ろ手に隠された『怨念ノート』。その中ほどに、水口さんから見た僕の印象が書かれている。
 また、水口さんが撮ってくれた写真には、見るからに悩みを抱えてそうな難しい顔をした僕が映っていた。
 そんな僕を見て、水口さんは気遣ってくれた。疲れているなら休めと、自分の気持ちを見逃すなと、たまには自分に優しくしろと言ってくれた。
 一方で、相変わらず『怨念ノート』に書かれた不平不満を解消するためのお願いはしてくるときた。
 本当に、めちゃくちゃな人だ。

「うん、手伝うよ」

 気がつけば、僕は自然と頷いていた。
 水口さんは少し黙ってから、呆れたように首を振った。

「ほんっと、寺沢くんは人畜無害なお人好しだね」

 どうかな、と僕も肩をすくめてみせた。