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 昼間に雲一つない青空が広がって太陽の眩しい光で教室を照らす。
 今は丁度お昼休みの時間だった。
 あの日からずっと、息をちゃんと吸っているのに上手く吸えていないような感覚がして息苦しかった。
 家を飛び出して家に着いた後のことはよく覚えてない。今までにないくらいに怒られたような気がする。
 気づいたら毎日が過ぎていて、無駄に過ごしてしまった。
 優真くんとはあれから一度も話したりしないまま、あの日のことを触れることはなかった。
 なにかをしようとする気力がなくて、ぼっーとしていた。
 心が壊れて、抜け殻のように中身が、なにかが消えてしまったような。
 それがなにかは分からないけど、もう今更だった。
 生きる意味が、理由が、さっぱり分からないままなんで生きているんだろうと思ってしまう。
 窓から見える景色をぼっーと眺めながらまた同じことを考えてしまっていた。

「紗奈、お弁当食べよ」
「あっ、うん」
 そう声を掛けて来たのは、去年高校に入学して友達作りに諦めかけたときに声を掛けてくれた親友の莉沙(りさ)だった。
 莉紗は椅子を私の机の方に向けてお弁当を袋から広げる。
 私もお弁当を鞄から出そうとすると、鞄の中には持ち帰っていた教科書やノートしか入っておらず用意してこなかったことに気がついた。
「今日はお弁当持ってきてないや。購買に行くにはもう遅いし、もう食べないままでいいかな」
「それは駄目だよ。紗奈はどうでも良いように言うけど、それだと死んじゃうよ。ほら、私の卵焼き食べなさい!」
 心配そうにしながらもお弁当の蓋にようじの刺さった卵焼きを置いて私の方に置く。
 そう言えば今日は何も食べないで、水分を摂るだけだった。ここ最近は食欲があまり湧いて来なかった。
 だから、食べていなくてもお腹が減っているような感覚がなくすっかり忘れてしまっていたのだ。
「莉紗、ありがとう。いただきます」
「うん、私もいただきます」
 今も食欲があまりないけど、心配させられないから食べるしかない。
 莉紗が食べ始める姿を見た後に、私もゆっくりと口に持っていった。
「おっ、おいしい」
 思わず声に出して言ってしまう。
 卵焼きってこんなに美味しいものだったけ。最近あまりなにも食べてなさすぎて食べ物の美味しさは忘れてしまっていたのだろうか。
 私は馬鹿なだけかもしれない。
「よかった。今日はいつもより上手く作れたんだ!」
 莉紗は嬉しそうな顔をして笑った。
 彼女は料理をするのが好きで、自分のお弁当も当たり前のように作っていたのだ。
「そうだったんだね。......莉沙、いつもありがとう」
「急にどうしたの?」
 珍しそうに目を大きく見開いて私を見た。
「いや、その、私といつも仲良くしてくれてありがたいなって」
 そうふと思ってしまったのだ。
 当たり前に感じすぎてしまっているだけで、いつも元気とか支えてもらっているなって思えたから。
「そんなの、私のほうこそだよ。友達なんだし当然」
 当然と言い切ってくれたことが嬉しくて胸がいっぱいになった。
 莉紗と友達に慣れてよかったと強く思える。でも――
「莉沙はさ、もし私が死んだらどうする?」
 私の精神が不安定なせいなのか普段聞いたりしないことを思わず聞いてしまった。
 言ってしまった後に少し後悔する。
「えっ? 絶対泣くし、しばらく落ち込んで立ち上がれないかもしれない」
 ためらいなくすぐに言ってくれた。
「そっか」
「紗奈はいつも気持ちとか溜め込んでいるような気がするから、愚痴でもなんでもいつでも聴くから頼ってよね」
 莉紗は普段の紗奈とはなにか違いを感じ取ってしまったのか、すごく心配そうにでも元気を出してほしそうに声を上げて微笑む。
「うん、ありがとう」
 と私もつられて微笑んだ。
 莉紗のお陰で息苦しさが少し軽くなったような気がした。
 でも、私の家庭内環境については莉紗にはまだはっきりと言えていない。
 普通ではないと感じてしまうからこそ、どう思われてしまうのか分からなくて言えないまま。濁してしまう。
 心のどこかで恐れてしまっているのかもしれない。
 彼女に今の私が消えたいと死にたいと思ったりしていることをやっぱり言えないと思った。
 心配させすぎてしまう。莉紗には暗い顔してもらうよりずっと笑って元気で居てほしい。親友だからこそ言えないと感じてしまうのだ。
――だから、ごめんね。
 と心の中で謝ることしかできなかった。





 放課後になると、莉紗とは帰り道が真逆ですぐに別れた。
 私はひとりぼっちだ。
 ずっと晴れ続ける空、生ぬるい風が吹いて長い髪がふわりと揺れる。
 このまままっすぐ家になんか帰りたくない。そう思うと足が重くなる。でも、どこかへ行くあてなんてなくて。
 どうせならと家を飛び出したあの日に立ち寄った公園でぼっーとしようかと思い立ち歩き進める。
 この方が家の方へ歩き進めるより足が軽い。
 誰かに怒鳴られたりしない時間を少しでもほしくて、平穏にただ浸りたかった。
『元気の出る公園』につくと私は迷わずベンチに座る。
 この公園の名前に私はまだ似合わないままだった。
 果てしない空をただ眺めては、学校の自動販売機でかったお茶を飲んだりして過ごす。
 空は不思議と見ていて飽きなかった。ゆっくりと横へと動いていく。
 ここは私以外に人があまりおらずとても居やすく感じる。
 このまま時間を忘れて家に帰るなんてことをせずに済めばいいのに。
 不可能なことをどうしても考えてしまう。
 いつかあの家を出て行きたい。
 現実逃避のように今は届かぬ夢のようにバカみたいに思っていたそのとき――
「紗奈さん、よかった。やっと会えた」
 突然聞こえてきた声に身を震わせる。やっと会えた......?
「えっ」
 これでもかと思ってしまうくらいに大きく目を開けてしまう。
 誰がそんな事を言っているのかと空から視界を戻すと優真くんだった。
 あの日とまったく同じ。なんでこの場にいるんだろう。
 彼の方へ時間が止まってしまったように凝視する。それくらいに信じがたかった。
「待ってた」
 次に発せられた言葉にまた驚く。
「あれから毎日ここに来ていたの?」
 そんなことをするような人に見えなくてこれしか言葉が出てこない。
――なんで?
 訳が分からない。なんでそんなことを。
「うん、連絡先なにも知らないから。学校じゃあ話しにくいし、待つしかないかなって」
 確かに、私は莉紗くらいしか連絡先を交換していなかった。クラスラ二ンっていうクラスの誰かが作り始めてほとんどの人が入っているメールにも参加なんてしてなかったから。
 私のためにわざわざ気を遣っていたということなのだろうか。
「なんでそこまで......」
 心の中の言葉が口からぽろりと落ちる。
「だって、あの日に紗奈さんの迷惑になったみたいだから。その謝りたくて」
と躊躇せずにすぐに言う。
「そんなことしなくてもいいよ。あのときは.....」
 ちがう。そんな傷つけるようなことを言ったのは私の方なのに。
 なんだかとても気まずい空気が漂っているような気がした。優真くんからそっと目をそらす。
 この場から離れないと。
 私は立ち上がってカバンを持つと軽く会釈をして、彼の横を通り抜けた。
 早く立ち去りたい。そして、私のことなんか忘れてくれたらいいのに。

 でも、現実はあっさりと終わってしまわないときもあって――
 
「待って!」
 慌てたようにして私の腕を掴んだ。
 彼は私なんかとなにがしたいのだろう。
 
「少しだけでもいいから、話がしたい」
 揺らぐことのないまっすぐな瞳で私を見つめて告げた。
 学校にいるときと表情がまるっきり違う真剣な顔をして。
 なにを話すのか分からない。
 けど、これから先も逃げ続けていたら彼に申し訳ないような気がして、観念するしかなさそうだ。
「わかった」
 と逃げたりする気がないと伝えると、掴んでいた手がそっと離れる。
 場所を少し移動して、あの日のようにブランコに乗った。
 気まずい空気が漂い続けその沈黙を破りように口を開け始めたの優真くんだった。

「紗奈さんはさ、死にたいって思ったことがある?」

 私の方を見たりせずに、ここではないどこか遠くを見ているかのように空を眺めながら、言葉をそっとこぼすように言う。
「私は......」
 突然のことで言うのを躊躇ってしまった。言ったらどうなるのだろう。優真くんがそう聞いてくることが以外でびっくりした。
 まるで優真くん自信もそう思ったことがあるような口ぶりだったから。
 学校にいるときの元気な姿が跡形もなく感じられない。
 上手く言葉を続けられないままの私のことをなにか思ったのか、空の方から私の方へに顔を向ける。

「俺は、何度か思ったことがあったんだ。過去はほぼ毎日のように、今はたまにふと思ってしまう」
 声はしっかりとしてるはずなのに、どこか悲しそうな、寂しそうな微笑みを浮かべた。
「なんでもないように毎日振る舞っているだけで、本当はいつも疲れたり気力がなかったりするんだ。死にたいって思うようになったことの発端が一時期家庭内環境がやばい時期が小さい頃にあってさ」
 ぶっきらぼうに言っているようだけど言葉を選んで絞り出すようにしている気がした。
「まぁー暗い話を聞いてもあまり良い思いをすることはないから深くは話したりしないけど、俺の場合環境はそのままで心の自己解決......じゃなくて、自分で答えのようなものを出してなんとかなってる。紗奈さんに何を言いたいのかというと、我慢しすぎていることがあるなら気持ちを溜め込まずに吐き出してもいいんだってこと」
 えっ?
 私となにも接点がないのに、なんでこんなことを言うのだろう。
「なんで我慢しすぎていることがあるって思ったの?」
「それは、俺も同じような顔をしていたことがあったから。紗奈さんのこと知らないことが多いけど、このままにしたくないって思ったんだ。」
 嘘なんてないと、表情や声から伝わってくる。そう思っていただなんて、知らなかった。

「息苦しくて、どうしようもないなかで、なんとかやってきたのなら、とってもすごく頑張ってきたことだと思うから。」
 それなら、私はずっとすごく頑張り続けていたということなのだろうか。
 もしかしたら気づかないだけで、限界の限界まで行っていたのかもしれない。

「溜め込みすぎて辛いままなら、小さな愚痴も全部吐いてもいいんだよ」
 本当に吐いてもいいのだろうか?
 心の中にずっとずっと溜め込みすぎていたものを声に出して吐き出したりしてもいいの?
 分からないけど心に余裕が全くなくて、苦しいのが消えてくれるならと半信半疑まま言ってみようと思えた。

「私......わたしはね、ずっとずっと辛かったの。どうしたらいいのかわからなくなって生きるのが嫌になった」
 口に出して言ってみれば、ずっとこんなことを思い続けていたんだなって改めて馬鹿みたいに思える。

「私の言葉をちゃんと聞いてくれなくて、否定や綺麗事を言われてこんな世界に誰が生きたいって思うかって強く思っちゃった」
 一度言い始めれば、止まることなんてなくて、次々に溢れ出る。あぁ......こんなに我慢してきたんだ。自分で出している声が無意識に震えていた。

「そっか、本当に本当に頑張ってきてえらい。泣いたり、辛いと思うところがあるのなら、思いっきて逃げたりしてもいい」
 馬鹿にしたりせずに、寄り添うように心配そうにしながらも、ひとつひとつ暗闇を浄化してくれるような光のような魔法の言葉を言ってくれた。

 私はずっと誰かに『頑張ったね。逃げたりしたっていい』と言われたかったのかもしれない。
 否定されるのが当たり前だったから、肯定してくれるような言葉を欲していた。
 視界がぼやけて温かい熱を持ったなにかがこぼれ落ちるような感覚がする。
 これはなんだろう。
 手でそっと顔を拭ってみる。すると、透明な雫で濡れていた。
 これは涙だ。
 ひょっとして泣いているのだろうか。私は。
 涙が勝手に溢れてくる。
 泣いたのはいつぶりなんだろう。いつかなんて忘れてしまうほど泣いていなかったのかもしれない。

「よかったら、これ使って」
  優真くんがハンカチをそっと私に近づけながら言う。
「あっ、ありがとう」
 ハンカチを借りて、とめどなく出てくる涙で湿らした。
 痛みを隠しすぎて、溜め込みすぎて、わからなくて諦めて苦しかったのが少しずつ消えていく。
 嘘のように息苦しさがなくなって黒いなにかが溶けて消えていっているような気がした。
 泣いたりすることって大事なことだったんんだ。
 
「こういう苦しいときは、弱ってもいいし、自分の心の声に耳を傾けてその声を信じて素直になってもいい。弱ってなにもできなくなってしまったら休んで、また明日自分なりに精一杯がんばれたなら十分えらいことだと思うんだ」
 それだけで本当にいいのだろうか。十分えらいことなの?
 心が不安定であまり深く考えたりできないけれど、辛い日々をまた頑張っていけるかもしれない。今を生きていこうって、自分は生きていいのだと思えた。
「優真くん、ありがとうっ」
 今なら、素直に笑えるかもしれない。
 優真くんへ、感謝の意味も込めて笑顔を贈る。

「俺にできたことはあまりないけど、こちらこそありがとう」
 ふんわりと本当に嬉しそうに笑顔の花が咲いた。