世界は、現実は、なんでこんなにも残酷に包まれているんだろう。
 世の中には私よりもきっと悲惨で、辛い状況の中でなんとか生きている人がいるだろうに。
 そう思ってしまうくらいに、自分に置かれている環境に目を背けたくなる。
 でも、避けることが出来なくて不可能なことで。
 秋吉紗奈(あきよしさな)に身に沁みてただわかることは一般的な普通の家庭ではないこと、それだけだった。

「お前はなんでいつもそうなんだ。たかだか高校生、どうせスマホで時間を無駄に過ごしているくせに」
 お父さんが仕事から帰って廊下で偶然遭遇してしまうと、聞かれたことに渋々答えると私をまるでストレス発散するための人形のように言葉をぶつけてきた。
「なんでこんな子に育ったんだろう。頭も悪くて、成績も、もっと頑張れないのか」
 どうして期待をぶつけるの。なんでいつも否定してくるの。息苦しい。
 私の気持ちを考えたりしないで、勝手に。人には心があるんだよ、わからないの?
 言われた言葉で傷つくことも、それで心が死んでいくことも一生分かって貰えないだろう。
 人の努力も分かってもらえない。
「......ごめんなさい」
 これしか言い返せる言葉が思いつかなかった。これ以外になにを言ったらいいのか分からない。
 早くこの時間が過ぎてほしいと、立ち去りたいと思うだけで。
「はぁー......疲れるわ。他の子は優秀だろうに、うちの子はダメダメで」
 そう言って、わざとらしくため息を吐くと私がいるこの場から離れていく。
 すると今日はこのくらいで済んでよかったと安堵感がでてきた。息苦しさも少し消えていく。
 このときの私は馬鹿だった。これでなにも言われないと油断していた。
 このまま早くこの場から離れて自分の部屋の中へ逃げ込みたかった。
 でも――
「あなたのせいで、お父さんが機嫌悪くなったでしょ。どうしてくれるの」
 自分の部屋へ向かっている途中で、お父さんが服を着替えている間に今度はお母さんが出てきて怒鳴った。
 今日は最悪の日のように思えて、頭が真っ白になる。何も考えられなくなった。
「この後、機嫌を直したりするの大変なんだから。この役立たず。居ないほうがマシだわ」
「ごっ、ごめんなさい」
 もう、私は家族関係を諦めていた。
 幼い頃は、純粋に希望に満ちるように両親に期待していた。
 でも、なにかを言い返してみても気持ちを伝えて向き合おうと勇気を出したって更に状況が悪化することしかなかったから。
 なにをしても無駄だった。だから心が壊れていくような感覚がしても必死に耐え続けた。それしか選択肢がなかったから。
 聞き慣れてしまった言葉でも言われた言葉は心に傷つくなぁ......。これが私の家庭の当たり前だった。
 このまま終わりがないなら死にたい......消えたい。
「こんなところになんでいたのよ。今日はもういいわ......この家からで行きなさいよ」
 最後の方の言葉は小さな声で言っていたけど、しっかり聞こえていた。
 なんでそこまで言うのだろう。だったら私はこんなところで生きたくなんかなかった。
「あんたなんて産まなければよかった。死んでよ、そしたら私はまだ......」
 とぽつりとこぼすように言う。
 そんなことを言うなら......産まなければよかったじゃん。
 誰がこんなに否定されて言葉の暴力を毎日浴びされる環境で生きたいと思うわけなんてない。
 もう限界だ。私は今までよく耐え抜いたほうだと思う。もう......無理だ。
 何かが壊れそうな感覚がして、それが怖くて。でもどうしたらいいのか分からなくて。
 私は、急いでこんな鳥かごのような家から逃げ出したくてまともに動こうと足を無理矢理にでも一生懸命動かした。
 後のことなんて知らない。
「どこへ行く気なの、待ちなさい!」
 後ろの方から追いかけるような足音と叫ぶような声が聞こえたけど、私は足を止めたら全てが終わってしまう気持ちで振り向いたりせずに人生で初めて家を飛び出した。
 その後も、私の後を追ってくるのか分からないけど、家から離れるために夜の中をしばらく走り続けた。

 運動は嫌いでは無いけど、どちらかというと苦手だった。
 運動不足だったせいかすぐに息が上がって疲れが出て空気を欲して必死に吸い込んだ。
 多分もう走らなくて大丈夫かもしれないと足を止めて息を整えることに集中したあと辺りを改めて見て気がつくと今まであまり来たことがないような知らない場所にいた。
 ここはどこだろうか。分からないまま止まるのもおかしいと感じてそのまま夜道を彷徨った。
 行く場所に当てもなく、とりあえずひとけのない公園を探すことにする。
 こういうときはスマホを使って場所を調べたりしたらいいけど、手ぶらで何も持っていなかった。
 私は家から飛び出してなにをしたかったのだろう。そんなことをしても状況は変わりはしないのに。
 自分のことなのに全然分からない。
 空を黒い雲に包まれて月の仄かな光などなく暗闇だった。
 夏という事もあって少し蒸し暑かった。
 周りを見渡しながら歩いていると『元気の出る公園』と書かれた看板を見つけた。
 今の私には似合わないと思いながらその公園の中へ入っていく。
 この公園は小さいようでブランコ、滑り台、鉄棒とベンチだけがあった。
 幼い頃は好きだったけっと懐かしみながらブランコに乗った。
 でも、こぐような元気が出てこなくてただ空を見上げる。
 相変わらず雲に包まれた空。
 このブランコを高くこいだら、黒い雲を抜けるように鳥のように高く飛んで行けるかななんて。
 自由になりたい。開放されたいと思う。
 今のあの家庭環境にいると自分はなんで生きているのだろうと考えてしまうから。
 自分のことが分からなくなって都合良い親にとっての良い人形のようだと、心なんて無ければいいと思ってしまうから。

 私はなんで生きているの?
 誰かその答えを、意味を教えてよ。
 好きで生きているわけではないから。
 納得のいくその答えがあったとするならば、こんなに辛く思うことも無いかもしれないのに。

 無意識のうちにそう考えていると、突然どこかで聞いたことがあるような声が聞こえてきた。
「こんな夜にひとりでいるのは良くないだろって......紗奈さん?」
 男性にしては声が高い。
 突然のことで肩をビクッと震える。空から視界を正面にお戻すと同級生が近づいてきていた。
優真(ゆうま)くん......こんばんは」
 平気そうに取り繕って、なんとか言葉を絞り出した。
 本当は誰かと話すような余裕なんてないけど、なんとか今を乗り切らなきゃ。
「うん、こんばんは。紗奈さん......大丈夫?」
 私の隣に空いているブランコへ彼は行こうとしていたのか、その途中で私の顔を見て心配そうな顔をして言った。
 優真くんは私の心を見透かしているようような気がして、ドキッとする。
「えっと、なにが? 優真くんはなんでこんな夜にここへ来たの?」
 自分の気持ちに知らないフリをしたくて、優真くんが隣のブランコへ腰掛けたのを確認してから私についてのことから逸らそうとして話題を振ってみる。
「俺はただの散歩で。紗奈さんはその、無理しているような顔をしているから」
 話を逸らすことが上手くできなかった。なんで、君には、分かってしまうの?
 学校にいるときはいつもクラスの中心にいるような人に。
「そうかな。私は大丈夫だよ」
 自分に言い聞かせるようにして、優真くんに伝える。
 じゃないと、私が私でいられないような気がするから。
「でも......」
 優真くんは何かを言いかけようとしている。けど私はその後の言葉の続きが怖かった。
 何を言われてしまうのか、考えたくもなかった。私はそれほど余裕もなにもなくて今の状態で精一杯だったのだ。
「あまり関わったりしてもなかったのに、何も知らないのに、なにか詮索しようとしないでよっ!」
 優真くんとは、必要最低限にしか関わったことがなかった。私には無縁な人だと思って教室の隅っこで関わらないようにしていたから。こんなことは一方的な拒絶だ。正直なにを言おうとしていたのか分からないけど私から話を切ってしまった。
 とっても気まずいっ空気が流れる。
 優真は、驚いた顔をして押し黙ってしまった。
 もうこの場に居られない。
 私は公園からも逃げるようにしてまた走り出した。
 後ろから声が聞こえても止まれなかった。
 予想の出来ない変化を恐れてしまったから。
 今の私は本当になにがしてなにを欲しているのか、全く分からない。わからない。

――このまま私はどうしたらいいのかな?
 
 分からないまま、考えようとしても頭が回らなくて、結局あの家へ重たい足を引きずるように一歩一歩踏み出して帰ることしかできなかった。