「蒼人くん」って呼ばれる度に心臓がドキッと反応して、自分の名前が特別なものに思えてくる。こんな些細なことで自分が恋をしているんだと改めて実感する。今はまだ、甘酸っぱさよりもほろ苦い部分が勝ってしまうのはしかたない。これも、俺の恋だから。
二人きりで並んで歩く帰り道。ゆらゆらと隣で揺れる手を捕まえて、握りしめたいと何度思ったことだろう。
「獅子道くん、」
「んー?」
突然立ち止まった俺を、振り返って不思議そうに見つめる獅子道くん。俺は、今から貴方を困らせる。そう分かっているからこそ、次の言葉が出てこない。いきなり「好きだ」と告げたところで、貴方を困惑させるだけだろう。あんなに赤面されたら矢印が向いているんじゃないかと思うこともあるけれど、きっとそれは俺の思い違いだから。あれは、照れ屋な彼の思わせぶりな反応に過ぎない。
すると、名前を呼んだくせに黙り込む俺をじいっと見つめていた獅子道くんが躊躇いがちに口を開いた。
「蒼人くんの話したいことがまとまるまでさ、……俺の友だちの話してもええ?」
「はい、大丈夫です」
獅子道くんの友だちってことは、関西のひとだろうか。頭上にクエスチョンマークを浮かべながら頷くと、獅子道くんが「公園行こっか」と先に歩き出す。慌ててその後を追いかけるけれど、その背中が近いはずなのにあまりにも遠く感じて切なくなった。
前と同じベンチに座る獅子道くんの隣に、人一人分のスペースを開けて腰掛ける。すぐ隣に座ったら、このドキドキが伝わってしまいそうで怖かった。
「ごめん、言うて俺も話まとまっとらんくてさ」
「ゆっくりでいいですよ。ちゃんと最後まで聞くので」
「ありがとぉ。ちょっと相談というか、蒼人くんの意見も聞きたいというか。割とシビアな話なんやけど……」
「はい」
「あんな、俺の友だちが……、えと、その……、男の人のことを好きになっちゃったらしいねん。……蒼人くんってさ、そういうのに偏見ある?」
「えっ、と、」
「うん」
あまりにタイムリーな話題に内心動揺しているけれど、顔には出さないように平静を装う。獅子道くんと恋話なんて、もちろんしたことがない。歯切れ悪く答えれば、眉を下げて不安そうにこちらを伺っている。
「…………もし、それが獅子道くんだったら、」
「ちゃ、ちゃうよ!? 友だちの話やで!?」
「分かってますよ、その友だちのことを知らないので獅子道くんがそうだったときのことを想像してみようと思って」
「え、あ、そう……、そっか……」
「偏見とかは特にないですよ」
「……うん」
全力で自分ではないと否定し始める獅子道くんの様子が変だ。俺の答えを聞いてほっとしているのも不自然すぎる。そんな獅子道くんに対して、妙だなぁと訝しむのも自然なこと。
もしかして友だちっていうのはやっぱり嘘で、獅子道くん本人のことなんじゃないだろうか。名探偵ばりにぴーんと閃きが走る。だって、あの獅子道くんのことだ。純真すぎて嘘をつくのがへたくそな彼のこの動揺っぷりは、間違いなく黒だろう。
獅子道くんの恋愛対象が男なら、それは俺にとって幸か不幸か。まさか、薫さん? いやでも、あんなに否定していたから、恐らく違う。じゃあ、誰だ。
思考を張り巡らせながら、少しでもこの話題についての会話を伸ばせるように試みる。このチャンスを逃したら、次いつこんな話をできるか分からない。今、出来る限りの情報を引き抜いておきたい。
「元々、男の人が恋愛対象だったんですか?」
「えっ、どうなんやろ。あんま恋愛とかそういうのよく分からんかったんは、昔からそうやったからなんかなぁ……」
「……って、友だちが言ってたんですね?」
「そ、そう! って、言ってた!」
「うーん……、なるほど……」
……いや、もう絶対獅子道くんのことじゃん。
仕掛けたトラップ一つ目で、こんなにあっさり引っ掛かることがあるんだ。いつか壺とか買わされそうで、獅子道くんの未来が怖い。
「どんな人を好きになったかとか、聞いてます?」
「……うん」
「言える範囲で知りたいです」
「…………太陽、みたいやなぁって。めっちゃキラキラしとって、青春を具現化したみたいな人」
「へぇ……」
太陽とか青春だって?
絶対、俺じゃない。自分のイメージとはかけ離れた言葉にイライラする。百パーセント違うって分かるから、心臓の奥にどんどんどす黒い重しが溜まっていく。
聞かなきゃよかった。そんな後悔に襲われて、手のひらをぎゅっと握り締める。失恋確定、告白するまでもないじゃん。
「蒼人くん……?」
「なんですか」
「なんか、怒っとる?」
「…………」
「っ、そうやんな。やっぱり気持ち悪かったやんな。こんな話して、ごめん。頑張って無くすから、今の話は全部忘れて」
「無くす……?」
「あっ……、ちゃう、なんでもない」
勢いのままにぽろっと零れ落ちた言葉に反応すれば、みるみるうちに顔を赤らめた獅子道くんが必死に首を横に振る。その反応に期待して、ついさっきまであんなに沈んでいたくせに、ぐんぐん気分が浮上してくる。
ごめんね、獅子道くん。
気になっていることは全部、聞いてやる。今日の俺はもう後には引けないんだ。
「そういえば、本当に関西に戻る気でいるんですか?」
「わからんよ。まだ親にも言うてへんし。でも、そうしたいなぁって思っとる」
「……もしかして、俺から離れようとしてますか?」
「そんなこと……」
「はい」
「……ない、とは言い切れへん」
面と向かって言われると、さすがにショックを隠せない。俺から逃げるために関西に戻るという選択肢が出てくるなんて、そこまで本気で俺から離れたいんだ。
あからさまに落ち込む俺を見て、獅子道くんまで傷付いた顔をする。どうして貴方の方が辛そうなんだ。まるで失恋したみたいに、切なそうにして。泣きたいのは俺の方なんだけど。
「……俺、迷惑でした?」
「ちゃうよ! 迷惑なんか、思ったことない。全部俺が悪いだけやから……」
「獅子道くんには何も悪いところなんてないでしょう」
「……もう、いっぱいいっぱいで辛いねん。あかんって言い聞かせてるのに、どんどん欲が出てきて、こんな浅はかな自分が嫌になる」
涙を耐えながら話す獅子道くんの声を聞きながら、心の中で「もしかして……」と淡い期待が浮かんでくる。
「獅子道くんの中にある、俺に対しての欲って何ですか」
「っ、言えへん。言ったら……、全部終わってまう」
うるっと涙が浮かんでいる瞳が懇願する。だけど、その瞳が孕む熱の意味を、確かめる時が来たのだ。もう俺は確信してしまったから。自惚れなんかじゃないって、明言できる。
終わりじゃない、今ここで始まりにしよう。貴方にはいつだって優しくしてあげたいけれど、今回ばかりは獅子道くんファーストの紳士でいられない。
「……優しくするの、今だけやめてもいいですか?」
「っ、いやや」
「ねぇ、獅子道くん、」
「あかん、言わんといて」
「……俺のこと好きですよね?」
俺の言葉を聞いたその顔が絶望に染まる。どうして言ってしまうのと、縋るように視線が訴えてくる。ぽろりと、遂に溢れてしまった宝石の粒が地面に吸い込まれていくのを、俺はただ見つめていた。



