「お、蓮水、これから保健室か?」
 「はい……」


 (げ、捕まった……)
 と、思いっきり顔に出てしまったせいで、二年に担任を持つ日本史担当の葛西先生が「何だ、その顔は」と絡んでくる。

 ぐいぐい来られるの、苦手なんだよなぁ。早く獅子道くんのところに向かいたいのに。へらっと作り笑いをしながら、なんとかこの人を躱そうと考えを張り巡らせるけれど、その思考すら読まれていて一枚のプリントを強引に渡される。


 「これは?」
 「保健室に行くなら、ついでに獅子道に渡しておいてくれ」
 「……先生から渡せばいいのに」
 「矢野先生から聞いてるぞ、あの獅子道が蓮水にだけは心開いてるって」
 「は?」
 「頼んだぞ〜」


 担任の職務放棄だと責める前に、ひらひらと手を振りながら去っていく後ろ姿を見て、たまらず舌打ち。最近先生たちの間で獅子道くんと俺がセット扱いされているのは、矢野先生が原因か。それ自体は別に嫌じゃないし、むしろ嬉しいことだけれど、全然知らない先生からも親しげに声をかけられるとさすがに気まずい。まだまだ顔と名前が一致していないっていうのに、話を合わせるのは大変だ。

 中でも葛西先生は俺と獅子道くんの仲を知ってからというもの、何かにつけてこうやって俺に頼んでくる。獅子道くんが自分の受け持っているクラスの生徒だから、配布物とかいろいろ対応しないといけないのは分かるのだけど、後輩に頼むんじゃなくて自分でもちゃんとやれよと思わなくもない。

 ……まぁ、別にいいんですけどね。獅子道くんの面倒ならいくらでも見ますよ。
 理不尽な大人たちへの憤りと、獅子道くんのために何かをしてあげられるという喜びは別物だから。

 やれやれとため息を吐いて、勢いのままに渡されたペラペラの紙切れに目を落とす。そこに書かれていた「進路希望調査」という一際目立つ文字に視線が吸われて、「あ、そっか……」と少し落ち込んだ。

 そういえば、獅子道くんって一年先輩だった。
 ついうっかり、よく忘れてしまう事実を突きつけられて、気分が沈む。まだ一年以上の猶予があるとはいえ、彼が卒業したら、俺は獅子道くんのいない学校に通わないといけないんだ。俺だけの陽だまりを失ってしまうと考えただけで、ぽっかりと心に穴が空いたみたい。

 渡すのを止めてしまおうか。
 悪魔がそう囁いてくるけれど、獅子道くんを困らせたいわけじゃない。いつもよりも大分低いトーンで「失礼します」と入室した俺を、獅子道くんは不思議そうに目を丸くして「どうしたん、蒼人くん」と受け入れた。


 「珍しく元気ないやん」
 「……そういうわけでは」
 「うーん、テストの点数悪かったん?」
 「ちゃんと全教科平均点以上は取ってます」
 「おー、偉いやん。サッカーもできて、頭もいいんやね。……かっこいいなぁ、蒼人くんは」


 ぽつりと零された言葉に気分が上昇する。なんて単純だと、馬鹿にされたって構わない。獅子道くんは魔法使いだから、俺の気分のコントロールなんてお手のものだ。本人は自分の発言にそんな効果があるだなんて、知らないだろうけれど。


 「これ、葛西先生から」
 「ああ、ありがとう。あの人、最近蒼人くんを頼ってばっかやね。ごめんなぁ……」
 「獅子道くんに会える口実になって俺は嬉しいので、謝らないでください」
 「うん……」
 「それに獅子道くんも葛西先生に渡されるより、俺に貰う方が嬉しいですよね?」
 「……そうやって、また人のことを揶揄って」


 自惚れなんかじゃないと思うのは、反論してこない獅子道くんの頬がほんのり赤く染まっているから。すると、いつの間に帰ってきていたのか、背後から明るい声が間に入ってくる。


 「あー、獅子道くんが葛西先生より蓮水くんの方がいいって言ってたって、葛西先生に言っちゃおっかな」
 「もう、矢野ちゃんまでやめてぇや」
 「矢野先生って、意外と口軽いですよね」
 「おっと、蓮水くん、今日は随分と棘が鋭いわね」
 「蒼人くんにいろいろバラされたこと、俺もまだ恨んどるからね」
 「その節は本当にごめんなさい」
 「……まぁ、いずれはバレてたことやろうし、いいけど」


 絆されやすいところは玉に瑕?
 世界中の人が獅子道くん並の優しさを持っていたら、世界はきっと平和になるだろう。だけど、その優しさで自分自身を傷付けることもあると分かっているからこそ、もう少しだけ他人に厳しくいてもいいのにとも思ってしまうジレンマ。

 すると、獅子道くんが手に持っているプリントを矢野先生が覗き込んだ。


 「あら、もう進路希望調査が始まってるのね」
 「うーん……」
 「獅子道くんはどうするか、決まってるんですか?」


 それとなく、俺も獅子道くんの進路希望を調査する。だって、それに合わせて二年後に俺の目指すところが変わってくるのだから。


 「んー……、そうやねぇ……」
 「考え中なんですか?」
 「…………関西戻るのも、ありかもしらんね」
 「は……?」


 唸りながら長考した後、独り言のように呟かれた言葉に思わず困惑の声が漏れる。よくよく考えてみれば、家を出ていくと前に言っていた獅子道くんならその選択肢が生まれてくるって分かっていただろうに、すっぽりと俺の中からは抜け落ちていた。

 ずっとずっと、獅子道くんは傍にいるものだと思い込んでいたのだ。俺は、獅子道くんにとってただの後輩のくせに。


 「獅子道くんなら、勉強面ではあんまり心配いらないでしょ。難しいかもしれないけど、親御さんともよく話し合いなさい」
 「うん……」
 「給付型奨学金を希望するなら、葛西先生にも話しておくからね」
 「ありがとう、矢野ちゃん」
 「……獅子道くんって頭いいんですね」
 「そうよ、全国模試の結果は毎回学年一位なんだから」
 「えっ」
 「ちょっと矢野ちゃん、バラすんやめて」


 正直、そこまで頭がいいとは思ってもいなかった。予想もしていなかった事実に驚きを隠せない俺を見て、恥ずかしがる獅子道くん。


 「これは、勉強しかやることなかっただけやから。そんなに誇れるもんちゃうよ」
 「でも、獅子道くんの努力の証ですよね。次のテスト期間は獅子道くんに勉強教えてもらおうかな」
 「蒼人くんならいくらでも教えたるよ」
 「言いましたね。約束ですよ?」
 「うん。蒼人くんの力になれるなら俺も嬉しいし」


 またいつもみたいに断られるかと思ったのに、まさかこんなに快く了承してもらえるとは。ものは試しに言ってみるものだ。

 進路のことに関してはまだまだ獅子道くんも悩んでいるみたいだし、今俺が口を出したら本当に獅子道くんのやりたいことができなくなるかもしれない。流されやすいひとだから。

 どうか関西には行かないで。
 俺の傍にいてよ。

 そう言いたい気持ちをぐっと堪えて、俺は再びへらりと作り笑いで自らの感情を誤魔化した。


 「蒼人くん?」
 「なんでもないですよ」


 矢野先生が出て行った保健室。窓の外からは、短い昼休みだというのにサッカーをしている先輩たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。

 明るい声とは裏腹に、気を抜いてしまうとどんどん気分が下がっていく。そんな俺の顔に陰りが見えたのか、獅子道くんが心配そうに隣から見つめてくる。

 (甘えても、いいだろうか)
 躊躇ったのは一瞬。彼の肩に頭を乗せれば、「ひゃっ」という声と同時にびくりと体が跳ねた。

 嗚呼、かわいくってたまんない。この人の全てを、どうやったら手に入れられるのだろう。その答えなんて、とっくの昔に気付いている。見ないように、触れないように蓋をしていただけ。


 「獅子道くん、顔真っ赤ですよ」
 「分かってる。恥ずかしくなったらすぐ赤なるねん」
 「じゃあ、今恥ずかしいんだ。かわいいですね」
 「やめてぇや……」


 隣の様子を伺えば、耳まで真っ赤になっている。ずっと疑問だったのだけど、この反応って、脈アリなのだろうか。でも、獅子道くんの恋愛対象が男だとは限らないし、単純に距離の近さに恥ずかしがっているだけの可能性もある。

 獅子道くんの考えていることが分からない。むしゃくしゃした気持ちを発散するために頭をぐりぐりと擦り付ければ、「あ、蒼人くんっ」と焦った声が聞こえてきて満足する。いつだって、獅子道くんは俺に翻弄されていればいいのに。

 その日の夜、ベッドに横になって考える。
 俺の未来に獅子道くんがいないなんて、想像しただけで胸がギュッとなった。もう、腹を括るしかない。今宵の真ん丸なお月様に誓おう。太陽がいないと、月は光り輝けないのだから。ずっと避けていた現実から、もう目を逸らさない。ただの後輩からステップアップするときが来たんだ。

 ――獅子道くんが好きです。
 友だちとしてなら今後も関係は続いていくかもしれないけれど、それじゃあ全然物足りない。関係が変わってしまうことに怯えていたけれど、この言葉を伝えなきゃ始まらないのなら……。独占欲も嫉妬も、狭量な俺の全てを曝け出して、愛情に不慣れな獅子道くんにただ真摯に愛を伝えよう。