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一限目の古文の授業からずっと、頭の中を占めているのは「好きな人」というワード。考えないようにすればするほど獅子道くんのニコニコした笑顔が浮かんできて、悪循環に陥っている。ぐしゃりと前髪を乱したって、何の解決にもならない。
過去に告白されたことはあるけれど、お試しで付き合ってみるとかはできなくて、みんな断ってきた。彼女たちは俺のどこを好いて、告白しようと思ったのだろう。どこからが恋で、いつから好きと伝えたくなるのか。この答えを自分で見つけ出すぐらいなら、一人でハーフラインから駆け上がって、相手のディフェンスを躱した後にゴールを決める方が容易いのではとさえ思ってしまう。
一人で悩んでいたって、埒が明かない。午後の授業も聞き流すのはさすがにまずい。そんな俺が頼れる相手はただ一人、野井ちゃんだけだった。
「なぁ、野井ちゃん。今日は彼女とご飯行く?」
「ん? 今日は違うけど、どうした?」
「ちょっと相談があって……」
「よし、久しぶりにあそこでも行くか」
昼休みになって、野井ちゃんに声をかければ二つ返事で立ち上がる。理由も聞かずに先に足を進める野井ちゃんの背中が頼もしい。俺は弁当を入れたかばんを引っ掴んで、その背中を小走りで追いかけた。
たどり着いた先は、人通りが全くない屋上に続く階段。四月頭、クラスになかなか馴染めなかった俺を誘って連れて来てくれた思い出の場所。
「蒼人と食べるの、なんか久しぶりな気がする」
「ごめん、野井ちゃんが嫌になったとかじゃなくて、」
「分かってるよ、俺だって彼女のところ行ってるからおあいこ」
「うん……」
「ただ、やっぱり蒼人といるのは落ち着くなぁって思っただけ」
自分と一緒にいて居心地がいいと思ってもらえる相手なんて、一体この地球上に何人いるのだろう。ここまで波長が合う相手と出会えたことに感謝しなければいけない。じーんと感動していたら、先に階段に腰掛けた野井ちゃんが弁当の蓋を取りながら、首を傾げる。
「それで、相談って?」
「あのさ、」
「うん」
「……えっと、」
「ゆっくりでいいよ。ご飯食べながらで」
いざ言葉にするとなると、どんな風に言い出せばいいか分からなくて吃ってしまう。そんな俺を見て、ぽんぽんと自分の隣を叩いた野井ちゃんに従って、俺も弁当を取り出す。何も急かしたりしない、そんなおっとりとした野井ちゃんの醸し出す空気に緊張が解れる。
「……野井ちゃんって彼女のこと、好き?」
「うん、好きだけど」
「そっか、そうだよな」
「蒼人もいるんじゃないの?」
「え?」
「好きな人。部室で聞かれた時、いつもだったら否定するのに何も言わなかったじゃん」
この瞬間まで何も触れてこなかったから聞こえていなかったのかと思っていたのに、敢えてその話題をスルーしていたようだ。改めて自分に好きな人がいるのかどうかと聞かれたって、その感情のぼんやりとした輪郭しか見えなくてはっきりとした答えが出せそうにない。
「……好きって、何なんだろう」
「難しいよね」
「……うん」
「別にさ、そこに正解なんてないと思うよ。百人いれば百人それぞれの愛し方があって、恋の落ち方だってみんな違うだろうし」
「野井ちゃんは?」
「えー、何だろう。俺も最初はかわいいなぁとか、さりげない気遣いがいいなぁとかありきたりなところから始まった気がする」
「へぇ……」
「そういうのがだんだん自分にしてほしいって思うことより、相手にしてあげたいって思うことの方が増えていって、ずっと隣で笑っていてほしいなって思った瞬間に『あ、俺、この子のことが好きなんだ』って気付いたかなぁ」
恥ずかしがる様子もなく、淡々と思い出話を口にする野井ちゃんにこっちの方が照れてしまう。
「蒼人はどう? 今、頭に思い浮かんでる相手のこと、どんな風に思ってるの?」
「その人は、俺なんかと違って、純粋で素直でまっすぐで……。何やっててもかわいいなぁって思う」
「うん、それで?」
「笑ってくれたら嬉しいし、辛い時は守ってあげたいと思うけど、でも、ずっと俺だけに笑顔を向けてくれたらいいのにって、そんな酷いことを考えている自分がいるのが、これは真っ白な恋ではないんじゃないかって思っちゃって……。なんかもう、よく分かんなくなってきた」
名前が付けられない感情のやり場にモヤモヤが溜まって、羞恥心を凌駕する。半日中同じことを考えていたせいでキャパオーバー。言わなくていいことさえ、野井ちゃんのオーラに釣られて白状してしまった気がする。言い過ぎてしまったかもしれないとほんの少しだけ後悔していると、とりとめのない話を聞き終えた野井ちゃんがふっと笑みを零した。
「それ、答え出てるじゃん」
「え……?」
「蒼人のそれは完全に独占欲だよ」
「独占欲……」
「好きだから自分だけを見ていてほしいと思うし、他の人と仲良くしてほしくないって思うんだよ。その人の中で自分を一番にしてほしいから」
「…………」
「まぁ、今ここで俺が何を言ったって、最終的にその感情にどんな名前を付けるかは蒼人の自由だから。その人のことを考えながら、ゆっくり悩みなよ」
野井ちゃんに言われて、すとんと腑に落ちた。本当はずっと気づいていたはずなのに、はぐらかして、見ないようにして、その感情の正体を確かめようとはしなかった。
「ありがとう、野井ちゃん。やっと分かったわ」
「いえいえ」
「そっか、これが『恋』かぁ……」
「人気者のサッカー部エースの初恋って、響きが少女漫画みたいだね」
「俺は別にそんなんじゃないから……」
「そろそろちゃんと周りにも目を向けてみなさいよ。今朝だってそうだったでしょ、蒼人と仲良くなりたいと思ってる人はたくさんいるよ」
母親みたいなことを言って俺を諭す野井ちゃん。確かに、今日の朝はちゃんとサッカー部の一員になれたみたいで嬉しかった。野井ちゃんの言う通り、先輩たちのやっかみのせいで、俺が勝手に周りは全員敵だと思い込んでいただけで、本当はそうじゃなかったんだと今なら分かる。
「あいつら、蒼人がいないところでこっそり俺に蒼人のことを聞いてくるんだよ」
「え?」
「俺らの代なんてサッカーバカしかいないからさ、サッカーが上手いってだけで仲良くなりたいもんなんだよ。蒼人だって、そうだろ?」
「……うん」
「無理にとは言わないし、いきなり壁を取っ払うのは難しいと思うからさ、ちょっとずつ話すところから始めてみたら? あいつらも喜ぶよ」
「うん、そうしてみる」
ずっと、海外サッカーやJリーグの試合結果で盛り上がる同級生の輪の中に入れたらと思っていた。サッカーが好きという共通点があるのに、自分だけ話に入っていけないのが寂しかった。でも、輪の外から眺めているのはもう終わりにする。そう決めた。このきっかけが恋話っていうのはなんかちょっとって思うけれど、俺にこの勇気をくれたのが獅子道くんだと思ったら気分は晴れる。
「ちなみに、何聞かれてた?」
「えー、何だったかな。ぐいぐい絡まれるの苦手かなとか、心配してたよ」
「ふーん……」
「ああ見えて、意外と絡まれるの嫌いじゃないタイプだよって答えといた。だから今日実行してみたんじゃないかな」
「おい」
「あながち間違いじゃないだろ」
「…………」
「あ、困ったらすぐ黙るとも伝えておいたから」
「野井ちゃん」
「ほら、話しすぎたせいで全然箸が進んでないじゃん。早く食べな」
野井ちゃんが架け橋になってくれるのは、すごくすごーくありがたいんだけど、できれば俺の弱点とか取扱説明書みたいなことはあまり教えないでもらえるかな。のらりくらりと文句をかわす野井ちゃんに、口で勝てる日が来るとは思えなかった。



