「失礼します」
 「あら、部活お疲れ様。獅子道くん、今か今かと首を長くして待ってたわよ」
 「ちょっと、バラさんといてぇや」


 矢野先生のデスクの前、丸椅子に座って机に伏せていた獅子道くんが俺の声を耳にした瞬間、猫みたいにバッと飛び起きたのが見えて、自然と顔が綻んだ。恥ずかしそうにわたわたしている獅子道くんがかわいくて、さっきまでの緊張がどこかに飛んでいく。


 「獅子道くん、帰れます?」
 「う、うん、ちょっと待ってな」
 「彼ね、『まだかなぁ』『はよ来ぉへんかなぁ』って、ずーっとそわそわしてたのよ。かわいいでしょ」


 獅子道くん専用になりつつあるお決まりのベッドの方にリュックを取りに行った隙に、矢野先生がコソコソと教えてくれる。思ってもいなかった彼の行動に、思わず赤面してしまう。


 「ふふ、いいなぁ、青春してるわね」
 「……やめてください」
 「蒼人くん、お待たせ。……って、どうしたん? 矢野ちゃんに何かされた? もう、あかんで、生徒いじめたら」
 「違うわよ、ちょっと秘密を教えただけ」
 「ふーん……、それって俺のちゃうやんな!?」
 「違う違う」
 「二回言うって怪しいんやけど」
 「ほら、もう帰るんでしょ。気をつけてね」
 「……見逃すのは今回だけやからね」
 「はいはい、さようなら」
 「さよーならっ」


 顔中が熱い。口元を手の甲で覆っていたら、戻ってきた獅子道くんがぷんぷん怒りながら矢野先生に注意する。それを簡単にいなした矢野先生からの問答無用の帰れという圧に屈した獅子道くんは、捨て台詞を吐くように、だけどちゃんと別れの挨拶は告げて先に保健室を出て行ってしまう。礼儀正しいんだよなぁ、この不良(仮)。


 「ごめんなさいね、反応がかわいいからついからかってしまって」
 「気持ちは分かります」
 「ふふ、理解者がいてよかった。蓮水くんも気をつけて帰ってね」
 「はい、失礼します」


 これ以上待たせてはいけないと、手短に挨拶を済ませて保健室を出れば不機嫌に唇を尖らせたままの獅子道くん。


 「すみません、お待たせしました」
 「んーん、蒼人くんを待っとる時間は別に苦じゃないもん」
 「俺と帰るの、楽しみにしてました?」
 「うん……って、ちがう、そういうんやないからな!」
 「分かってますよ。ほら、帰りましょう」
 「うん……」


 先に歩き出せば、しおらしくなった獅子道くんが後を着いてくる。顔だけ少し振り返りながらその姿を視界に入れつつ、かわいいこの人をちょっとからかってみたくなる。


 「まぁ、俺はすごく楽しみにしてたんですけどね」
 「っ、そういうことはいちいち言わんでええの」
 「言わないと伝わらないでしょ」
 「ほんまに、ああ言えばこう言うんやから」
 「そういう性分なもので」
 「蒼人くんのいけず」


 ご機嫌ななめな獅子道くんが目を細めて睨んでくる。本人的には威嚇しているつもりなのだろうけど、でもなぁ、残念ながら全然怖くない。


 「どうして隣を歩いてくれないんですか?」
 「えっ」
 「一緒に帰るのに、前後じゃおかしいでしょ」
 「いや、ほら、道狭いし……」
 「まだ校舎内ですけど」
 「人多いし……」
 「誰もいないですけど」
 「…………」


 せっかくなら隣を歩きたいじゃないか。こんな前後に並んで一緒に帰るなんて聞いたことがない。どうせまた変なところで遠慮しているんだろうなと分かっているから、慌てた獅子道くんの口から勢いで出てくる言い訳を悉く論破してやる。


 「……俺の隣は、獅子道くんにとってしんどい場所ですか?」
 「ちが、」
 「すみません、今のやっぱり無しで。俺が意地悪でした」
 「ううん、でも勘違いせんといて。ほんまに違うから。蒼人くんの隣が嫌とかやないよ」


 思わず足を止めてしまう。「じゃあ、どうして」と問い詰めたくなる気持ちをぐっと抑えた。強く当たってしまったら、きっと獅子道くんはふらっと俺の前からいなくなってしまうだろう。


 「……しんどいとかやないねん。ただ、保健室の外やと蒼人くんの隣に立つのは勇気がいるから」
 「勇気?」
 「俺なんかが蒼人くんの隣に立てるわけないってずっと思ってたから。遠い存在やったのに、いきなり隣に並べんよ」


 獅子道くんの言葉に引っかかる部分はあるものの、それは一旦さておき、嫌がられているわけではないと知ってほっとする。


 「どうしたら、その勇気が出ますか?」
 「うーん……」
 「分かりました。もっと保健室の外で会う時間を増やしましょう」
 「へ?」
 「こういうのは時間が解決してくれるんじゃないですか。そばにいてもいいなと思ってもらえるようになるまで、俺はいつまででも待ちますよ」
 「…………」


 これはきっと、獅子道くんの気持ちの問題なのだ。それなら俺は気長に待つしかできない。獅子道くんと距離を縮める、仲良くなると決めてから、俺の最優先は彼になったのだから。

 ほんの少しだけ湧き上がってくる寂しさを奥底におしこんで、俺は再び歩き出す。そんな俺の背にか細い声が問いかける。


 「……ほんまに誰もおらんかな」
 「今は見当たりませんね」
 「じゃあ……、出してみる、勇気」
 「無理しなくていいんですよ」


 振り返れば、ぎゅっと握り締められて白くなった手。本当はまだ気持ちが追いついていないって、それだけですぐに分かる。無理してほしいわけじゃない。一方的に努力させたいわけじゃない。そんな思いを伝えようとするけれど、こうだと決めた獅子道くんは頑固だった。


 「俺、ずっと言い訳して逃げてきたから」
 「…………」
 「蒼人くんにこんなに言ってもらえてるのに、それでも逃げ続けるのは嫌や」
 「獅子道くん……」
 「他の人からたかがそんなことでって思われるかもしれんけど、ちょっとずつ頑張りたい」


 じんと胸の奥が熱くなる。その言葉を聞けただけでもう十分。俺から逃げようとしていた獅子道くんが、一歩踏み出そうとしてくれている。ただその事実だけで、心が踊る。