時計の針が十八時を示す。いつものように集合して監督に挨拶をすれば、今日の部活は終了。だけど新入生である俺たちは、グラウンドの整備やボールの片付けを任されているからすぐには帰れない。部室に向かう先輩の後ろ姿を見送りながら、黙々とトンボをかける。
だるそうな態度で適当にトンボをかけている奴も中にはいるけれど、俺はこの時間が好きだった。練習中のプレーを振り返って、あの時はこうすべきだったなとか、次はこんなことを試してみたいなとか、思考を整理できるから。いつもならそんな反省と課題発見の時間になっているのに、今日、俺の頭を支配しているのは獅子道くんだった。
(獅子道くんはさすがにもう帰ってるよなぁ……)
ふと保健室に視線を送りながら、そんなことを考える。最後に話したあの日からずっと、会えていない。部活に参加してるわけじゃなさそうだったし、こんな時間まで学校に残る理由がないもんなぁ。何故かガッカリした気分になりながら、そのモヤモヤを取り除くみたいに大きく息を吐き出した。
ただでさえ不登校気味で遭遇する機会が少ないっていうのに、学年だって違うのだ。普通に過ごしていたって、会えるはずがない。それに、俺を避けるようなこと言ってたしなぁ。……なんて、獅子道くんの嘘ばかりの発言を思い出して、ちょっと不機嫌がぶり返す。
「……よし、」
「どうかした、蒼人?」
「ううん、何でもない」
決意を固めて小さく呟いた言葉に、並んでトンボをかけていた野井ちゃんが不思議そうに反応するけれど、下手くそに誤魔化した。
このまま何もしなければずっと平行線のまま、いつまで経っても二つの線は交わらない。獅子道くんにその気がないなら、俺から動かないと駄目だ。すぐにあの人は逃げようとするけれど、絶対に逃がしてやらない。
待ってろよ、獅子道くん。残念ながら、俺って、諦めが悪いみたい。それに、最初にぐいぐい絡んできたのはあっちなんだ。こんなに頭の中を占領しているのに、当事者が逃げるなんてひどい話だろう。そんな気持ちを込めて、今はもう目的の人物がいないはずの保健室を睨みつける。
「蒼人さーん、試合中みたいにピリピリしてるけど、今から帰るんだよね? 自主練するなら付き合うけど」
「え、あ、うん。ごめん、考え事してた」
「サッカーしてないのに珍しいね。何考えてたの?」
すると、そんな殺気立った気配に若干引いた様子の野井ちゃんの声が、思考の世界に旅立っていた俺を現実世界に引き戻す。はっと我に返った俺を見て不思議そうに野井ちゃんが問い掛けるけれど、馬鹿正直に答えられる内容じゃない。
「うーん……、内緒」
「もう、ずるいなぁ。秘密にしたいなら、これ以上つっこめないじゃん」
「野井ちゃんは優しいよね」
「秘密主義の蒼人に言われたくありませーん」
「え、そんなつもりないけどなぁ」
「『蓮水くんってミステリアスだよね』って、女子に声を掛けられる俺の気持ちが分かるかい?」
「なんか、ごめん……」
「いや、そこでマジにならないで。モテる男を親友に持った者の運命だから、謝らなくていいよ」
まさかそんなところで野井ちゃんに迷惑をかけていたなんて。ばつの悪そうな顔で謝れば、野井ちゃんが笑い飛ばす。なんていい男なんだ、君は。全世界が野井ちゃんみたいな人ばかりなら、誰にとってもきっとこの世界はもっと息がしやすかっただろうに……。
ふと、思う。俺にとっては野井ちゃんが心の支えだけれど、獅子道くんにはこんな風に頼りにできる人はいるのだろうか。不意にそんな疑問が湧いてきて、心の奥にこびりつく。あーあ、俺がそんな存在になれたらいいのになぁ……、なんて考えている時点で、ちょっともう、駄目だよなぁ。その感情の正解を自覚しようとしている自分にブレーキをかけていれば、俺はいつの間にかトンボかけを終わらせていた。



