土埃舞うグラウンド。生暖かい風が春を感じさせる。燦々と降り注ぐ陽の光に照らされて、風に靡く髪がキラキラと輝く。天使の輪が付いてるんじゃないかって錯覚するほど神々しくて、目を奪われた。生まれて初めて人を綺麗だと思った瞬間だった。
憧れと呼ぶには簡単すぎて、もっと複雑な言い方は馬鹿な頭じゃ思い付かない。
あまりに遠い存在だと、はっきりと分かる。青春の色に包まれた彼のようになれたら、少しは息をしやすくなるのかな。……なんて、叶いもしないことを考えて、結局諦めるばかり。
俺だけに笑いかけてくれないだろうか。なんて、子どもじみたそんな独占欲も彼の前では無に等しい。だって、俺は彼にとっての何者でもないのだから。
あの柔らかな光に照らされたら、きっと、俺は灰になって消えてしまうんだ。太陽の化身かってぐらい、キラキラが似合う彼はあまりにも眩しすぎる。暗闇が似合う俺なんかは近付けない。遠くから見ているだけでいい。
一日一回、たった数分だって構わない。彼を見ている時間が俺の大切な思い出になるから。だから、青春とは程遠い高校生活の一ページを、ほんの少しだけ青色に染めてくれないだろうか。
――あ、まずい。
そう思った時には、既に遅かった。ズサァッと勢いよく地面に叩きつけられた体に痛みが走る。大丈夫、足を挫いたわけじゃない。ただのかすり傷。こんなの、サッカーをしていたらよくあることだ。
だけど、怪我自体に体が慣れてくれるわけがなく、砂利混じりの傷跡には赤が滲んでいる。膝をやっちゃったのは、マイナスだな。もっといい受け身の仕方があっただろうに。なんて考えていれば、ぶつかってきたチームメイトの野井ちゃんが慌てて駆け寄ってきた。
これは練習なんだし、DFは相手を削ってなんぼでしょ。だけど、心優しい野井ちゃんは毎回気にしちゃうようで、顔面蒼白かってぐらいの焦りを見せる。
「ごめん、大丈夫?」
「うん、平気。俺の動き出しが悪かっただけだから、野井ちゃんはそんな気にすんなって」
「でも、その怪我……」
「あー……、このまま続行ってわけには、」
「蒼人、保健室。これ、キャプテン命令な」
「はーい……」
サッカー馬鹿だと自他ともに認める俺のことを見逃すほど、キャプテンは甘くない。水で流してくればそれで大丈夫だろなんていう甘い考えは、見透かされている。
「なんだ、嫌そうだな。俺が保健室まで着いて行ってやろうか?」
「いや、一人で行きます。一人で!」
ちぇっ、せっかくのミニゲームだっていうのに、途中退場かよ。俺の反応があと少し早ければ、スライディングを躱してシュートまで持っていけたのに。良いディフェンスだったよ、野井ちゃん。でも、次こそは絶対にゴールを決めてやる。メラメラと燃え上がるサッカー馬鹿の闘志を秘めたまま、俺は大人しく保健室に向かった。決して、キャプテンの圧に負けたわけではない。体育会系の部活だから、先輩の言うことは絶対ってだけ。
監督からノックを受けている野球部の横を通り抜け、ハードルを颯爽と越えていく陸上部を横目に水道まで向かう。俺たち一年生が加わって、どこの部活も活気づいている。部活動が盛んな進学校なだけあって、インターハイに向けた練習に熱が入っている。少しでも長い夏を過ごすために、みんながむしゃらになっているのが伝わってくる。やる気の相乗効果ってのもあると思う。負けたくて挑む奴なんていないから。
「うわ、痛そう。転んだの?」
「そ、派手にやっちゃったわ」
「サッカー部の天才エース様も怪我とかするんだな」
「うるせーよ、練習に戻れ」
休憩していたのだろう、水道で顔を洗っていた先客のクラスメイトが声をかけてくる。テニス部の水城だ。前髪から水が滴っている。お調子者で、よく先生に叱られているところを目にする。あまり話したことはないのに、こうやって親しげに話しかけてくるあたり、自分にはないコミュニケーション能力だと感心してしまう。
「えー、今休憩に来たばっかなのに。蒼人はストイックすぎんのよ」
「こら、水城ー! サボってんじゃねーぞ!」
「ほら、呼ばれてんじゃん」
「げ、最悪。じゃあ、行くわ。お大事に」
ひらひらと手を振ってダルそうに去っていった水城は、飄々とした態度で顧問からの叱責をのらりくらりと躱している。口も八丁手も八丁、世渡り上手とはああいう奴のことを言うのだろう。俺には到底真似できそうにない。あれで中学時代は全国大会常連だというのだから、人は見かけによらないものだ。頭もそこそこ良いのだから、きっと要領がいいのだろう。
一人になって、ようやく静かになった水道。蛇口を捻って、水の量を調整する。勢いが良すぎたら、絶対痛い。こんなもんか、と意を決して、ちょろちょろとした水の流れに膝を差し出す。透明な流れによって、固まりかけていた赤が流されていくのをじいっと無心で見つめていれば、ある程度は綺麗になっていた。
(早く練習戻りたいんだけど……)
くるりと振り返ってグラウンドを見れば、入部してすぐにレギュラーの座を勝ち取った俺の代わりに控えになった先輩FWが生き生きとコート内を駆け回っている。楽しそうな笑い声まで聞こえてきて、無意識に胸の奥がきゅっと縮んだ気がした。
新入生が入学して早々、ポジション争いに敗れた先輩の肩を持つ部員の方が多いのは分かっている。特に三年生の先輩たちはそうなるだろう。突然現れた新人よりも長く一緒の時間を過ごしてきたのだから仕方ない。
キャプテンを始めとするレギュラー陣は冬の選手権まで残るけれど、三年生の中には夏のインターハイまでと決めている人もいる。残された僅かな時間、一緒にコートに立ちたいと思うのは当然だ。頭ではそう理解していても、時々こういう風に居心地の悪さを感じてしまうのはどうしようもないことだった。
これも全部、俺が未だに部に馴染めていないからだろうか。入学してもう二ヶ月が経つっていうのに、いつまで俺はこうしているのだろう。野井ちゃんみたいに、可愛げのある後輩になれたらよかったのに……。
頭から冷水をぶっかけたい気分になりながらも、蛇口を戻す。ないものねだりをしたって、すぐに性格を変えられるわけじゃない。手に持っていたタオルで濡れた足を拭いて、俺はとぼとぼと保健室に向かって歩き始めた。ちょっとだけ、あの輪の中に戻るのは気まずいなと思ってしまう自分がいることがショックで。なんてことないフリをして、平静を取り戻すには時間が必要だった。
――コン、コン、コン。
ノックは三回。グラウンドに面した本館一階の奥、建て付けの悪いドアを横にスライドさせれば、ふわりと消毒液の匂いが漂ってくる。なんとなく懐かしさを感じるのは、小学生の頃によくお世話になっていたからだろうか。高校に入学してからは初めてだ。迷わずに来れたことに少し安心しながら、「失礼します」と声をかけてから足を踏み入れた。
「あれ……」
保健室の先生は優しい雰囲気の女性だったと記憶しているけれど、部屋の中にはその姿がない。タイミングが悪かったのだろうか。もう血は止まっているし、いなかったのだから仕方ないと言い訳して練習に戻ってもいいかな。
どうしようかなと悩んでいると、奥の方からシャッとカーテンを開ける音がした。ベッドで誰かが横になっていたらしい。音につられてそちらを見ると、びっくりしたように目を見張る男と目が合った。アイラインを引いているように見えるほど長い睫毛に縁取られた猫目が印象的だ。
外から射し込む柔らかな陽の光に照らされて、キラキラと眩しいほどに輝く金髪。ハーフアップにまとめられているおかげで、左耳につけられたいくつものピアスがよく見える。間違いなく、不良だ……。と、無自覚に後退りすれば、男はそれに気づいて我に返ったように表情を戻した。下を向いた視線が俺の足に向かう。
「ごめんなぁ、今、先生おらんねん」
「あ、いや、お構いなく。いたらいいなぁぐらいの気持ちだったので」
思ってもいなかった関西弁にドキマギしながらも、もういいやと諦めて振り返ろうとした時、「待って」と声をかけられた。
「え?」
「や、怪我しとるやん、自分」
「あー、これぐらい平気です。先輩に行ってこいって言われて来ただけなんで、もう血は止まってますし」
「怪我を甘く見たらあかんよ。大事な足なんやから。ほら、こっち座って」
良心からそう言ってくれている相手に「おいで」と手招きされて逆らえるほど、俺の心は荒んでいなかった。大人しく丸椅子に座れば、男は満足したように頷いて、慣れた手つきでがさごそと戸棚を漁っている。
不良だと思って最初はビビったけど、意外と怖くないもんだな。寧ろ、優しい。見ず知らずの他人のために、ここまでしてくれるのだ。この人が優しくないはずがないだろう。五分も経たないうちに、俺はすっかり警戒心を解いていた。
「あ、あった! ほら、足出して」
「いや、自分でできます」
「もう、いいから。大人しく言うこと聞いてや」
「…………」
むっと唇を尖らせて、じとと見つめられればなんだかこちらが悪い気がしてくる。男が手に持つ消毒液が傷口に染みると分かっているからこそ、自分で加減しながらやりたいのだけれど。一向に譲る気配のない相手を前に、俺が折れるしかないと早々に諦める他なかった。
「ほな、いくで」
「お手柔らかにお願いします」
顔を顰めながら言う俺を見て、なぜか「へへ」と嬉しそうに笑って頷いた彼は、垂れないように傷口の下にティッシュを押さえた後、ぷしゅっと消毒液を吹きかけた。いや、威力。
「ッ、」
「ごめん、痛いよなぁ」
高校生にもなってかっこ悪いとかダサいとか、そんなことを気にする余裕もないままに、足を押さえて悶絶する。筋肉質な太ももに爪が食い込んでいるけれど、消毒液が染みている傷口の方が断然痛い。へにょりと下がった眉、申し訳なさそうに謝られるけれどそれどころじゃない。声を出さなかったのは最後の意地だった。
「よし、これで終わり。頑張ったなぁ、えらいえらい」
仕上げにごついリングを嵌めた人差し指が丁寧に絆創膏を貼り終える。そしてそのまま手が伸びてきて、くしゃりと髪を撫でられた。この歳になって、こんな風に真っ向から褒められることなんてなくて、ちょっと気恥ずかしい。でも、嫌な気分にはならなかった。
「後で矢野ちゃん帰ってきたら、怪我人来てたでって言っとくから名前教えてもらってもいい?」
「……蓮水蒼人です」
「蒼人くんやね、了解。俺は獅子道新、よろしく」
にぱぁっと目がなくなるほど笑った顔が眩しい。恐らく同級生なんだろうけど、初対面の相手にいきなりタメ口は使えない性分のせいでずっと敬語で話す俺を気にする様子もなく、彼は俺のことをいとも簡単に名前で呼んだ。まるで昔から知っているみたいに、淀みなく。
部員からもクラスメイトからも名前で呼ばれているけれど、くん付けはちょっとキャラじゃないかも。だけど、柔らかな口調で紡がれる自分の名前はなんとなく心地よくてこのままでいいやと思ってしまった。
これでも一応品行方正で通っている俺が、見るからに不良の彼ともう絡むことなんてないだろうに。獅子道くん、と頭の中で反芻しているのも変な感じ。
そろそろ練習に戻らないと。このまま座っていたって、サッカーが上手くなるわけでも、部員たちとの距離が縮まるわけでもない。どこか名残惜しい気持ちが芽生えかけていることに蓋をして、丸椅子から立ち上がりかけたときだった。
「失礼しまーす。矢野ちゃーん、怪我しちゃったた」
デレデレした声でそう言って、入室してきたのはバスケ部の練習着を着た生徒。慣れた様子だから、恐らく上級生。しかし、彼は獅子道くんを目にすると、すぐに表情を変えて「し、失礼しましたっ!」とくるりと振り返って一目散に去っていく。
そんなに全力疾走できるのに、一体どこを怪我していたんだ。そう言いたくなるほど、元気そうだった。意味不明な行動に首を傾げていれば、目の前の獅子道くんの表情が暗くなっていることに気づく。
「どうかしました?」
「うーん、悪いことしてもうたなぁ……」
ぽつりと寂しそうに零された言葉の意味を、獅子道くんが保健室にいた理由を、この時の俺は何も理解できていなかった。
「ほら、蒼人くんもそろそろ部活に戻り」
「あ、はい」
「……もう、ここに来るんやないで」
「え?」
「ほら、保健室来るってことは体調悪いってことやろ。あかんよ、もう怪我なんかしたら」
くるりと指輪を回しながら、言い訳するみたいに並べられた言葉。にいっと笑ってみせるけれど、その目の奥に滲んでいるのは寂寥の色。それが気になって引っかかっているのに、初対面の人相手にずかずかと踏み込めるわけがない。
自分は簡単に距離を縮めてくるのに、こちらから歩み寄ろうとしたらすっと離れていく。まるで気まぐれな猫みたいに遊ばれているようだ。絶妙な距離の取り方に、人よりもコミュニケーション能力が乏しい俺はどうすることもできない。さっきはじめましてをしたばかりの人に踏み込んでいく勇気なんて、今はまだ持ち合わせていなかった。
「……ありがとうございました」
「はーい、もう無茶するんやないで」
小さな声でお礼を言えば、ゆらゆらと手を振った彼にお見送りされる。そのまま振り返ることもせずに保健室を出ればきゅうっと胸の奥が痛んだけれど、その理由に思い当たるものがなくて、唇をぐっと噛んだ俺は前を向いてグラウンドに戻る。その膝を守る、ちょっぴり歪んだ絆創膏はご愛嬌。なんだかほんの少しだけ愛おしかった。
けれど、俺はサッカー部のエース。余計なことは考えない。大きく息を吐き出せば、思考がクリアになる。サッカーコートに着く頃には、頭の中のスイッチは完全に切り替わっていた。