「KEYくん、今日の撮影すごくよかったよ」
「本当ですか？ よかったー……今日の雑誌のバックナンバー、いくつか見て研究はしてきたんですけど。自信なかったからホッとしました」
「頑張り屋さんだね。次の現場に行っちゃったけど、翠くんもいいねって言ってたよ。自分でも褒めてあげてね」
「翠くんも？ 嬉しいです、ありがとうございます」
マネージャーの前田さんが、バックミラー越しにほほ笑んでくれた。KEYというのは、モデルの仕事をする時のオレの芸名だ。本名は、望月希色。もうすぐ高校二年生になる。
今日の仕事は、どうやら上手くいったようだ。安堵を覚えながら、車の窓から夕暮れの街を眺める。
春を控えた三月。街行く人々が、まだまだ残る寒さから逃げるように早足で歩いている。寒いのはオレもあまり得意じゃない。けれど今日は、褒めてもらえたから胸がほこほことあたたかくて。そんな時には決まって、寄りたい場所がある。
「前田さん、この辺りで降ります」
「もしかして、いつものお店？」
「はい」
「テイクアウトするなら待ってるけど、どうする？」
「ゆっくりしていきたいので、大丈夫です」
「分かった。帰り気をつけてね」
車を降り、前田さんに手を振る。近くのショーウィンドウを鏡代わりに、身だしなみを整える。ゆるいシルエットのファッション、撮影でセットしてもらったままのセンターパートの前髪。メイクの施された顔。うん、これなら大丈夫そうだ。
こんな仕事をしているくせに、自分の顔は好きじゃない。でもプロの手で綺麗にしてもらった後だけは、顔を上げて外を歩くことができる。
それじゃあと、目的の場所へと向かう。行きつけのコーヒーショップだ。全国展開されている有名なチェーン店で、都内にもあちこちあるけれど。渋谷にあるこの店舗しか利用しない、と決めている。
入店すると真っ先に、カウンターを窺う。
――あ、いた。
とある男性店員がいるのを確認して、口元がつい緩んでしまう。だらしない顔を見られないように、拳を口元に当てて隠す。初めて来た時から毎回、オレはこれをくり返している。
初めてここへ来たのは、昨年の夏が終わる頃だ。元々のきっかけを辿れば、春までさかのぼる――
高校受験が終わり安堵した頃、お気に入りのキャラクターグッズを目当てに街を歩いていたら、モデルをやってみないかとスカウトされた。現マネージャーの、前田さんからだ。我の耳を疑ったし、声をかけてきた相手の目もどうかしていると思った。他人には外見を嗤われたことこそあっても、褒められたことなんて一度もなかったからだ。けれど、ファッションには関心があった。それになにより、前田さんの熱意がすごかった。強いコンプレックスを抱いている自分の顔が武器になると言われれば、惹かれずにはいられなかった。
とは言え両親や歳の離れた兄からは、大反対されると思ったのに。大喜びで背中を押されてしまった。そうだった、オレの家族はオレに甘いところがあるのだった。
興味がある、家族も協力的。それでもなお、一歩を踏み出すには躊躇する気がかりがあった。モデルを始めたとして、同じ高校に通う人たちには絶対に知られたくない。たったひとりにでもバレたら、オレの高校生活は終わったも同然だ。噂はたちまち広まって、あんな根暗そうなヤツがモデルをやっているらしい、なんて学校中から後ろ指をさされるに決まっている。
でもその不安は、割と簡単に払拭することができた。モデルの仕事をする時は、芸名を使用すればいい。前田さんが提案してくれた。それから、高校では顔を隠して生活する。わけあって、そもそもそのつもりで前髪を伸ばしていたのが功を奏した。
それならばやってみようと決意が固まったのが、高校の入学式目前のことだった。
一念発起しレッスンに通い、スカウトから数ヶ月経ち、九月の終わり頃にいよいよ宣材写真を撮ってもらうことになった。その時に初めて、プロのスタイリストにヘアメイクをセットしてもらった。鏡に映る自分が、別人に見えた。事務所のスタッフや居合わせた先輩モデルの日比谷翠くんから、かわいいかわいいと褒めてもらえた。欲を言えば、かっこいいと言われる男になりたいのだけれど。この業界では本当に、コンプレックスが長所になる。実感したらなんだか少し大人になれた気がして、背伸びをしてみたくなった。
その方法に選んだのが、コーヒーを飲むことだった。大人＝コーヒー、だなんて、我ながら短絡的だなと思うけれど。コーヒー初心者なのにブラックを飲みたがるオレに、男性店員の人が丁寧に接客してくれた。初めてだったらこれがいいですよ、とおすすめも教えてくれた。それでも最初は苦くて、美味しいとは言いがたかったけれど。その時の味は格別で、今だって覚えている。
それ以来、KEYという芸名で正式にデビューしてからも、時々ここへ通うようになった。仕事で手ごたえを感じた日だけの、自分へのご褒美だ。
男性店員と目が合うと、そっとほほ笑んでくれた。ちいさく会釈を返しながら、彼のレジの前へ立つ。
「いらっしゃいませ」
注文するものはいつも決まっている。もちろん、目の前の彼がおすすめしてくれた一品だ。
「こんにちは。ブレンドのホットをひとつお願いします」
「ブレンドをホットでおひとつ、ですね」
値段を読み上げてくれる彼の顔を、こっそり見つめる。
切れ長で少し目尻が上がる瞳、シャープな輪郭。無造作にセットされた、短めの茶色い髪がよく似合う。加えて背は高い、180cmは優にあると思う。体つきもがっしりとしている。
初めてこの店に来た時、ひと目でかっこいい、と思った。女顔とからかわれ、それがコンプレックスの自分とは、なにもかもが真逆。オレが欲しかったもの、全てが詰まっている出で立ち。落ち着いた雰囲気もいい。歳は二十歳を越えていそうだ。
一瞬で憧れて、オレにとって生まれて初めての“推し”になった。
「お客様？ あの、会計方法はいかがなさいますか？」
「あ……えっと、これでお願いします」
「かしこまりました、ではこちらに」
いけない、つい見惚れてしまっていた。慌ててスマートフォンの決済画面を示す。端末にかざして顔をあげると、あの最高にかっこいい顔がまたほほ笑んでくれていた。
「あちらでお渡ししますので、少々お待ちください」
「はい、ありがとうございます」
今、絶対に顔が赤い。鏡なんか見なくたって分かる。前髪に触れながら、俯きがちに移動する。変に思われなかっただろうか。
商品が提供される場所でカウンター内を再びうかがうと、推しの彼がコーヒーを用意してくれているのが見えた。その光景に、しぼみかけていた心がみるみると持ち直す。
レジを担当してもらえた日には、別のスタッフから商品を手渡されることも多い。でも今日は比較的空いているからか、もしくは交代のタイミングだったのかもしれない。浮ついた心につられるように、ついかかとが上がってしまう。それをそっと床に下ろし、緩みそうなくちびるをむにゅむにゅと動かしてごまかす。
今日は、すごくラッキーだ。
「お待たせしました。ホットのブレンドコーヒーです」
「ありがとうございます。……あ」
「今日も描いちゃいました。ペンギンくん」
彼は小声でそう言いながら、オレのボディバッグを指し示した。そこにぶら下がっているのは、お気に入りのキーホルダーだ。
ゆるいイラストで、名前は“ペンギンくん”となんの捻りもない。マイナーなキャラクターでまだグッズも少ないけれど、SNSにアップされ始めた頃から大好きだ。彼は知らなかったようなのに、初めて来た時からカップに描いてくれている。コーヒーはもちろんのこと、このイラストも楽しみのひとつだ。
「あの、嬉しいです！」
「はは、よかったです。どうぞごゆっくり」
「っ、はい、ありがとうございます」
勇気を出して嬉しいと伝えると、声を出して笑ってくれた。今日はすごくラッキーだと噛みしめたばかりだけど、過去いちばんのラッキーデーに訂正だ。
店内奥、ひとりがけのテーブルにつき、ふーっと息を吐く。推しからの認知をもらってしまっていることに、今日も今日とて震える胸を必死で落ち着かせる。
今日の推しもとびきりかっこよかった。オレの顔を見ても嗤ったりなんてしないし、いつだってとびきり優しい。仕事中なのだから当たり前なのだとしても、憧れの人にそうしてもらえることはどうしたって嬉しい。
ひとくちコーヒーを啜れば、やわらかな苦みが口いっぱいに広がる。最初こそ顔をしかめた味も、少しずつ体に馴染んで今では大好きだ。
目をつむってひたってから、推しが描いてくれたペンギンくんをスマホのカメラで撮影する。初めての時から、必ず撮って専用のフォルダに保存している。最初は見様見真似だったそれは、回数を重ねるごとにペンの迷いも消えてきている気がする。笑っていたり驚いていたり、表情にバリエーションがあるところもお気に入りだ。
今までの画像を順に眺めていると、スマホにメッセージが届いた。先輩モデルの翠くんからだ。
《お疲れ様。さっきの撮影、希色めっちゃよかったじゃん！》
《ありがとう。翠くんもすごくかっこよかったよ》
《さんきゅ。宿題もちゃんとやるんだぞ。もうすぐ二年生だもんな》
軽快にラリーが続いたけれど、宿題の文字につい「う……」と声が出た。
全くできないというわけではないが、勉強はあまり得意じゃない。今は春休みで、二週間もすれば高校二年生になる。クラス替えもあるし、新学期のことを考えると胃が痛んでくる。返す言葉が見つからず、スマホをテーブルに伏せる。
高校生でいられるのはたった三年、青春を謳歌しよう！ なんてよく聞くけれど。学校は好きじゃない、正直なところどうでもいい。できることなら中退して、モデルの仕事にもっと力を注ぎたいとすら思っている。
自信があるわけじゃない。かわいい顔は武器になると評されていても、実生活では未だコンプレックスのままだ。それでもモデルの仕事は想像以上に楽しかった。流行の服やアクセサリーを身につけ、自分だけど自分じゃないような、不思議な感覚。カメラの前では、まっすぐに顔を上げていられる。
とは言え、少しずつ上がってきている認知度も、狭い世界の中だけでのことだと言わざるを得ない。オレなんて、まだまだ無名だ。ファッション誌をわざわざ買ってくれる男性も、男性モデルに興味を持ってくれる女性も、たとえばアイドル業界なんかと比べれば圧倒的に少ない。翠くんのようにテレビCMにいくつも出たり写真集も出すほどになって初めて、世間一般にもようやく顔を覚えてもらえる、といったところだろう。
だけど――と、コーヒーを口に含む。こくりと飲めば香りが広がって、体中に決意が満ちる。自信のなさと想いはアンバランスでも、いつか自分も、と静かに揺れる火が、この胸の奥にたしかにある。
ふと顔を上げると、テーブルを拭いている推しと目が合い、ほほ笑まれてしまった。学校のことを思い出し、気が重くなっていたけれど。やはり今日は最高にラッキーだ。
「本当ですか？ よかったー……今日の雑誌のバックナンバー、いくつか見て研究はしてきたんですけど。自信なかったからホッとしました」
「頑張り屋さんだね。次の現場に行っちゃったけど、翠くんもいいねって言ってたよ。自分でも褒めてあげてね」
「翠くんも？ 嬉しいです、ありがとうございます」
マネージャーの前田さんが、バックミラー越しにほほ笑んでくれた。KEYというのは、モデルの仕事をする時のオレの芸名だ。本名は、望月希色。もうすぐ高校二年生になる。
今日の仕事は、どうやら上手くいったようだ。安堵を覚えながら、車の窓から夕暮れの街を眺める。
春を控えた三月。街行く人々が、まだまだ残る寒さから逃げるように早足で歩いている。寒いのはオレもあまり得意じゃない。けれど今日は、褒めてもらえたから胸がほこほことあたたかくて。そんな時には決まって、寄りたい場所がある。
「前田さん、この辺りで降ります」
「もしかして、いつものお店？」
「はい」
「テイクアウトするなら待ってるけど、どうする？」
「ゆっくりしていきたいので、大丈夫です」
「分かった。帰り気をつけてね」
車を降り、前田さんに手を振る。近くのショーウィンドウを鏡代わりに、身だしなみを整える。ゆるいシルエットのファッション、撮影でセットしてもらったままのセンターパートの前髪。メイクの施された顔。うん、これなら大丈夫そうだ。
こんな仕事をしているくせに、自分の顔は好きじゃない。でもプロの手で綺麗にしてもらった後だけは、顔を上げて外を歩くことができる。
それじゃあと、目的の場所へと向かう。行きつけのコーヒーショップだ。全国展開されている有名なチェーン店で、都内にもあちこちあるけれど。渋谷にあるこの店舗しか利用しない、と決めている。
入店すると真っ先に、カウンターを窺う。
――あ、いた。
とある男性店員がいるのを確認して、口元がつい緩んでしまう。だらしない顔を見られないように、拳を口元に当てて隠す。初めて来た時から毎回、オレはこれをくり返している。
初めてここへ来たのは、昨年の夏が終わる頃だ。元々のきっかけを辿れば、春までさかのぼる――
高校受験が終わり安堵した頃、お気に入りのキャラクターグッズを目当てに街を歩いていたら、モデルをやってみないかとスカウトされた。現マネージャーの、前田さんからだ。我の耳を疑ったし、声をかけてきた相手の目もどうかしていると思った。他人には外見を嗤われたことこそあっても、褒められたことなんて一度もなかったからだ。けれど、ファッションには関心があった。それになにより、前田さんの熱意がすごかった。強いコンプレックスを抱いている自分の顔が武器になると言われれば、惹かれずにはいられなかった。
とは言え両親や歳の離れた兄からは、大反対されると思ったのに。大喜びで背中を押されてしまった。そうだった、オレの家族はオレに甘いところがあるのだった。
興味がある、家族も協力的。それでもなお、一歩を踏み出すには躊躇する気がかりがあった。モデルを始めたとして、同じ高校に通う人たちには絶対に知られたくない。たったひとりにでもバレたら、オレの高校生活は終わったも同然だ。噂はたちまち広まって、あんな根暗そうなヤツがモデルをやっているらしい、なんて学校中から後ろ指をさされるに決まっている。
でもその不安は、割と簡単に払拭することができた。モデルの仕事をする時は、芸名を使用すればいい。前田さんが提案してくれた。それから、高校では顔を隠して生活する。わけあって、そもそもそのつもりで前髪を伸ばしていたのが功を奏した。
それならばやってみようと決意が固まったのが、高校の入学式目前のことだった。
一念発起しレッスンに通い、スカウトから数ヶ月経ち、九月の終わり頃にいよいよ宣材写真を撮ってもらうことになった。その時に初めて、プロのスタイリストにヘアメイクをセットしてもらった。鏡に映る自分が、別人に見えた。事務所のスタッフや居合わせた先輩モデルの日比谷翠くんから、かわいいかわいいと褒めてもらえた。欲を言えば、かっこいいと言われる男になりたいのだけれど。この業界では本当に、コンプレックスが長所になる。実感したらなんだか少し大人になれた気がして、背伸びをしてみたくなった。
その方法に選んだのが、コーヒーを飲むことだった。大人＝コーヒー、だなんて、我ながら短絡的だなと思うけれど。コーヒー初心者なのにブラックを飲みたがるオレに、男性店員の人が丁寧に接客してくれた。初めてだったらこれがいいですよ、とおすすめも教えてくれた。それでも最初は苦くて、美味しいとは言いがたかったけれど。その時の味は格別で、今だって覚えている。
それ以来、KEYという芸名で正式にデビューしてからも、時々ここへ通うようになった。仕事で手ごたえを感じた日だけの、自分へのご褒美だ。
男性店員と目が合うと、そっとほほ笑んでくれた。ちいさく会釈を返しながら、彼のレジの前へ立つ。
「いらっしゃいませ」
注文するものはいつも決まっている。もちろん、目の前の彼がおすすめしてくれた一品だ。
「こんにちは。ブレンドのホットをひとつお願いします」
「ブレンドをホットでおひとつ、ですね」
値段を読み上げてくれる彼の顔を、こっそり見つめる。
切れ長で少し目尻が上がる瞳、シャープな輪郭。無造作にセットされた、短めの茶色い髪がよく似合う。加えて背は高い、180cmは優にあると思う。体つきもがっしりとしている。
初めてこの店に来た時、ひと目でかっこいい、と思った。女顔とからかわれ、それがコンプレックスの自分とは、なにもかもが真逆。オレが欲しかったもの、全てが詰まっている出で立ち。落ち着いた雰囲気もいい。歳は二十歳を越えていそうだ。
一瞬で憧れて、オレにとって生まれて初めての“推し”になった。
「お客様？ あの、会計方法はいかがなさいますか？」
「あ……えっと、これでお願いします」
「かしこまりました、ではこちらに」
いけない、つい見惚れてしまっていた。慌ててスマートフォンの決済画面を示す。端末にかざして顔をあげると、あの最高にかっこいい顔がまたほほ笑んでくれていた。
「あちらでお渡ししますので、少々お待ちください」
「はい、ありがとうございます」
今、絶対に顔が赤い。鏡なんか見なくたって分かる。前髪に触れながら、俯きがちに移動する。変に思われなかっただろうか。
商品が提供される場所でカウンター内を再びうかがうと、推しの彼がコーヒーを用意してくれているのが見えた。その光景に、しぼみかけていた心がみるみると持ち直す。
レジを担当してもらえた日には、別のスタッフから商品を手渡されることも多い。でも今日は比較的空いているからか、もしくは交代のタイミングだったのかもしれない。浮ついた心につられるように、ついかかとが上がってしまう。それをそっと床に下ろし、緩みそうなくちびるをむにゅむにゅと動かしてごまかす。
今日は、すごくラッキーだ。
「お待たせしました。ホットのブレンドコーヒーです」
「ありがとうございます。……あ」
「今日も描いちゃいました。ペンギンくん」
彼は小声でそう言いながら、オレのボディバッグを指し示した。そこにぶら下がっているのは、お気に入りのキーホルダーだ。
ゆるいイラストで、名前は“ペンギンくん”となんの捻りもない。マイナーなキャラクターでまだグッズも少ないけれど、SNSにアップされ始めた頃から大好きだ。彼は知らなかったようなのに、初めて来た時からカップに描いてくれている。コーヒーはもちろんのこと、このイラストも楽しみのひとつだ。
「あの、嬉しいです！」
「はは、よかったです。どうぞごゆっくり」
「っ、はい、ありがとうございます」
勇気を出して嬉しいと伝えると、声を出して笑ってくれた。今日はすごくラッキーだと噛みしめたばかりだけど、過去いちばんのラッキーデーに訂正だ。
店内奥、ひとりがけのテーブルにつき、ふーっと息を吐く。推しからの認知をもらってしまっていることに、今日も今日とて震える胸を必死で落ち着かせる。
今日の推しもとびきりかっこよかった。オレの顔を見ても嗤ったりなんてしないし、いつだってとびきり優しい。仕事中なのだから当たり前なのだとしても、憧れの人にそうしてもらえることはどうしたって嬉しい。
ひとくちコーヒーを啜れば、やわらかな苦みが口いっぱいに広がる。最初こそ顔をしかめた味も、少しずつ体に馴染んで今では大好きだ。
目をつむってひたってから、推しが描いてくれたペンギンくんをスマホのカメラで撮影する。初めての時から、必ず撮って専用のフォルダに保存している。最初は見様見真似だったそれは、回数を重ねるごとにペンの迷いも消えてきている気がする。笑っていたり驚いていたり、表情にバリエーションがあるところもお気に入りだ。
今までの画像を順に眺めていると、スマホにメッセージが届いた。先輩モデルの翠くんからだ。
《お疲れ様。さっきの撮影、希色めっちゃよかったじゃん！》
《ありがとう。翠くんもすごくかっこよかったよ》
《さんきゅ。宿題もちゃんとやるんだぞ。もうすぐ二年生だもんな》
軽快にラリーが続いたけれど、宿題の文字につい「う……」と声が出た。
全くできないというわけではないが、勉強はあまり得意じゃない。今は春休みで、二週間もすれば高校二年生になる。クラス替えもあるし、新学期のことを考えると胃が痛んでくる。返す言葉が見つからず、スマホをテーブルに伏せる。
高校生でいられるのはたった三年、青春を謳歌しよう！ なんてよく聞くけれど。学校は好きじゃない、正直なところどうでもいい。できることなら中退して、モデルの仕事にもっと力を注ぎたいとすら思っている。
自信があるわけじゃない。かわいい顔は武器になると評されていても、実生活では未だコンプレックスのままだ。それでもモデルの仕事は想像以上に楽しかった。流行の服やアクセサリーを身につけ、自分だけど自分じゃないような、不思議な感覚。カメラの前では、まっすぐに顔を上げていられる。
とは言え、少しずつ上がってきている認知度も、狭い世界の中だけでのことだと言わざるを得ない。オレなんて、まだまだ無名だ。ファッション誌をわざわざ買ってくれる男性も、男性モデルに興味を持ってくれる女性も、たとえばアイドル業界なんかと比べれば圧倒的に少ない。翠くんのようにテレビCMにいくつも出たり写真集も出すほどになって初めて、世間一般にもようやく顔を覚えてもらえる、といったところだろう。
だけど――と、コーヒーを口に含む。こくりと飲めば香りが広がって、体中に決意が満ちる。自信のなさと想いはアンバランスでも、いつか自分も、と静かに揺れる火が、この胸の奥にたしかにある。
ふと顔を上げると、テーブルを拭いている推しと目が合い、ほほ笑まれてしまった。学校のことを思い出し、気が重くなっていたけれど。やはり今日は最高にラッキーだ。
