教えてください、丁嵐先輩

 今日で花村病院でのインターンシップも残り二日。
 自分の不甲斐なさを実感する毎日だ。けれど落ち込んでばかりではいけない。歩きながら気持ちを鼓舞する。
 
「おはようございます、先輩」
「古川くんおはよう」

 駅から花村病院までの道を歩いていると少し先に丁嵐先輩が歩いているのが見えた。声をかけると先輩がいる場所に追いつくまで立ち止まってくれている。

「偶然ですね」
「そうだね、こんなところで会えるなら俺は古川くんと一緒に病院まで行きたいんだけど」
「それは駄目です。インターン前に気が緩んでしまっては困るので」
「へー、俺といると気が緩んじゃうんだ」

 朝から恋人と会ったら舞い上がってしまうだろう。もう少し辛抱強い性格ならばそう言ったことこはないかもしれないが、僕は抑えきれる気がしなかった。
 丁嵐先輩に一目会うだけで、声を交わすだけで、どんなに沈んでいた気持ちも消えてしまうのだから。

「そうですよ、だから駄目なんです」
「そっか、よかった。断られた時にもしかしたら嫌なのかなって思っちゃってたから」
 
 先輩が悲しそうに目をふせる。その様子を見て胸がキュウと傷んだ。
 知らない間に傷つけていたんだ。今言ってくれなければこれからも気がつくことはなかっただろう。
 謝ることは簡単だ。けれど僕がもし先輩の立場だった場合を考えると、それだけでは不安な気持ちが残ってしまう。
 どうにか行動で示そうと先輩の手を握った。

「? 古川くん、無理しなくてもいいよ。一緒に息だけでも気が緩むのに手を繋いだらそれこそアウトじゃない?」
「きょ、今日は()()()()()()()()()()なので手を握ってもいいんです。舞い上がらないように注意はしますけど」
()()()()()()()()()()?」
「そうです。なのでいいんです」

 『ちょっぴりご褒美デー』なんて急に言い出して変だと思われただろうか。でも変だと思われてもあそこで行動しないままでは後悔してしまうと思った。
 僕に握られている側の手に力がこもった。先輩が握り返してくれた。

「嬉しい。朝から幸せな日になった」
 
 悲しげな表情が消えて口角が上がり幸せそうに目を細めている。やはりこっちの表情の方がずっといい。
 普段は大人で色気がたっぷりな先輩が別の一面を見せるたびに、もっともっと好きになっていく。

「じゃあ明日は最高特別デーを俺がプレゼントしちゃおうかな。インターンも、もう終わりだから」
「へ!?」

 ちょっぴり特別デーは僕が即席で作った造語だ。
 先輩は今よりももっと特別な何かを僕にくれるらしい。

 ......

 5日目のインターンシップが始まった。患者さんの数はいつもとほとんど変わらない。
 今までは診察室には入り三谷先生の診療を見学してきたが昨日からは受付で見学を行なっている。病院にやってきた患者さんたちと一番初めに接する場所であり、将来獣医師になることを考えているならばいい経験になるだろうという三谷先生の判断だ。
 受付の方々は次々とやってくる患者さんへの対応に追われているため、事務的な指導のために何かを話すことは少ない。しかし手が空いた時にはどんな患者さんは気をつけた方がいいかということや、対応のコツを教えてくれる。

「みなさんお疲れ様です」
「お疲れ様です」

 昼過ぎ、三谷先生が受付にやってきた。昼時ということもあり診療の時間ではないので顔を見せに来てくださったのだ。

「受付での見学はどうですか?」
「診察室での見学もとても勉強になりましたが、受付ではまた違った発見があり、貴重な体験をさせていただいています」
「それはよかったです。インターンももう少しで終了ですから、あともう少し気を引き締めて頑張りましょうね」

 穏やかに笑いながら三谷先生は言った。先生はいつも穏やかで、もしかしたら光属性の人間なのではないかと疑っている。

「えー、学生さんたちもういなくなっちゃうんですか。若い人たちが後ろで立っていると患者さんたちも大したことはできないので、助かっていたんですけどねえ」
「松島さん、あまりそういうことは言わないでください。言うなら休憩室でお願いします」
「あら、これは先生失礼しました」

 先生と受付の松島さんの会話はすでに信頼関係が構築されていることが予想できた。

「三谷先生、受付に遊びに来たわけではないですよね。午後の診療が始まってしまいますよ」

 三谷先生と一緒にやってきていた丁嵐先輩が本来の目的を忘れていると忠告をする。
 
「そうでした。すみませんが古川くん、私たちと一緒に来てくれませんか?」
「僕ですか?」
「はい。先ほど診療室に置いていた扇風機が故障してしまったんです。予備の扇風機をこれから取りに行くのですが少し重いので男手をお借りしたいのです」
「わかりました。一緒に行きます」

 受付を出て3人で向かった場所は小さな倉庫だった。三谷先生が持ってきた鍵で扉を開けると埃っぽい空気が出てくる。
 設置されてスチールラックにはダンボールが敷き詰められており、予備の扇風機を探し出そのでさえ一苦労しそうだ。
 マスクを装着し、倉庫の中に入る。数分後三谷先生が予備の扇風機を見つけた。

「このスチールラックの一番上にありますね」

 彼が指差す先に視線を向けると確かに、マジックペンで予備扇風機と書かれたダンボールが置いてることがわかった。
 脚立を使わなければ届かない場所に置いてあった。

「丁嵐くんと古川くんは脚立を支えていてください。私がダンボールを取ります」
「わかりました」

 先輩と脚立を挟み込むように立ち両手で支えた。三谷先生は慎重にダンボールを持った。少し重いと言っていたが大丈夫だろうか。

「下ろします」
「ダンボールを抱えながら降りると危険なので、途中で俺にダンボールを渡してください」
「わかりました」

 三谷先生は腕を少しだけ腕を振るわせながら丁嵐先輩にダンボールを手渡した。無事に床に置くことができ安心する。

「よかった」

 三谷先生が脚立を降りようとしたその時だった。最後の一段に差し掛かった時に足が滑ったのだ。

「危ない!」

 支えようにも両手が脚立を抑えるために塞がっており不可能だった。
 
「......助かりました」

 間一髪のところで丁嵐先輩が体勢の崩れた三谷先生を支えた。

「気をつけてください。あなた鈍臭いんですから。勉強以外のことはからっきしでしょ」
「お恥ずかしい。古川くんも驚かせてしまいましたね」
「はい。三谷先生が無事でよかったです」

 先輩の話し方がいつもと異なっていることに嫌でも気がついてしまった。
 二人は元恋人だったのだ。隣に立っていると大人な雰囲気を感じる。
 彼らが恋人同士だった時どんなやりとりをしていたのだろうか。アパートに行って同じ時間を過ごしていたのだろうか。
 今はそんなことを考えている場合ではないのに、気持ちが後ろ向きになる。

 プルルと無線音がなった。

「お二人とも扇風機の問題もありますが、受付でトラブルが起きているのだとか。急行します」

 僕と丁嵐先輩もそれについていく。先輩は途中で扇風機を診察室に持っていくために別れた。
 場所は受付だ。到着する頃には小さな人だかりができており、その中心の方から早口で何かを話している女性の声が聞こえた。

「早く医師(せんせい)を呼んでください!」
「現在、無線で呼び出しを行なっておりますのでお待ちください。現在は最低限の措置を講じております」
「それでは駄目なんです! この犬は......おもちは入院している母の心の支えなんですよ!」
 
 女性が声を上げている横で受付の松島さんが真っ白なポメラニアンの呼吸や心拍を測ってる。

「すみません通してください。獣医師の三谷です」
「三谷先生......! 寺田さんのところのおもちくんが急に倒れてしまって現在経過を確認しています」
「わかりました、状況を歩きながら教えてください。診察台へ運びます」

 先生は状況を瞬時に把握し、指示を出す。脚立から降りる際に足を滑らせていた人とは違う人と思ってしまうくらいの緊張感が含まれる。大切な命を預かっているという自覚の表れなのだろう。

「あなたは寺田さんの娘さんでいらっしゃいますね。私は獣医師の三谷です。おもちくんの状態を調べるために今から診察をさせていただきます、よろしいですか」
「はい、よろしくお願いします」

 先ほど感情的になっていた様子とは打って変わってしおらしい様子で返答した。

「それでは向かいます」

 動物専用の担架を看護師さんと丁嵐先輩が持ってきて迅速に運んでいった。
 僕は何もできずにただその様子を眺めているだけだった。
 
「はあ」

 おもちが運ばれていく様子をその場で見届けていた女性ーー寺田さんは止めていた何かを吐き出すように長く息をはいた。彼女はおもちの飼い主であるおばあさんの娘さんだ。
 青い顔をして明らかに疲弊している様子だった。

「大丈夫ですか。あちらで座って休みましょう」
「はい、ありがとうございます」
 
 昼の休診時間だったこともあり、おもちが運ばれていった後は待合室に人はほとんど残っていなかった。木築先輩と三谷さんは交代制の昼休憩に行っており学生は僕一人だけが残った。

「気分は少し落ち着かれましたか」
「はい。......すみません、先程はお見苦しい態度をとってしまいました。後で先生と受付の人に謝りに行かなくちゃ」

 なんと声を掛ければいいかわからなかった。大丈夫ですよ、気にしないでくださいと言うことも、彼女の言葉を全て肯定することも最適ではないと感じた。

「おもちは私たちの大事な家族なんです。あの子が子犬だった頃から一緒にいて、母にとても懐いているんです。母の病気もおもちと一緒にいれば少しは辛くなくなるのかなと思って同伴入院をしています」
 
 ペットは飼い主にとって大事な家族の一員だ。僕にとっては大福が当てはまる。
 もし大福が急に倒れたりしてしまったら冷静でいられるかはわからない。けれど動物たちも人間と同じでずっと健康でいられるとは限らないのだ。

「先生がきっとおもちくんを助けてくれますよ。信じましょう」
「......そうですね、今は信じるしかない。母にはまだ伝えないでおいてもらってもいいですか。今言っても動揺させてしまうだけですから」
「わかりました。伝えておきます」

 獣医学部獣医学科の学生だがまだ一年生。学びも少なく、寺田さんを安心させてあげられるような言葉は何も言えなかった。
 もう少し知識や経験があれば、違ったのだろう。三谷先生、丁嵐先輩、木築先輩、三谷さんはどんな言葉をかけるだろうか。

 その後昼休憩のために寺田さんの付き添いを木築先輩と三谷さんと交代をした。彼女たちは気晴らしに病院の敷地内を散歩すると言っていた。受付に寺田さんのお母さんにはまだおもちくんのことは伝えないでほしいと看護師さんに伝えてほしいと伝言をする。
 休憩室の扉を開けると丁嵐先輩はいなかった。三谷先生とおもちくんの状態を確認しているのだろう。結局扉が開けられることはなく休憩時間は終了した。

 待合室へ戻る途中で三谷先生と丁嵐先輩と遭遇した。予想していた以上に早い時間でおもちくんの診療が終わったのだ。

「三谷先生、先輩お疲れ様です。おもちくんの様子はどうなったんでしょうか」
「あまり詳しくは言えませんが、大丈夫とだけ言っておきますよ」
「そうですか、それはよかったです」

 先生の返答にほっと胸を撫で下ろした。
 
「ね、丁嵐くんもそう思うでしょう」
「はい。......俺、昼休憩に行ってきます」

 先輩はおもちを担架で運んでいく前よりも疲れた様子だ。まるで魂が抜けたよう。それほど深刻な事態だったということだろうか。
 だが三谷先生は何か面白いものを見ているかのように目を細めていた。

「彼、疲れていますね。私が質問攻めにしたので無理もないですが」
「質問攻め、ですか」
「はい、大学三年生ともなればより専門的な知識を学ぶようになりますから、順に説明を求めたのです。彼もまだまだですね」

 穏やかな笑顔のはずだが、いつもとは異なり黒い影を含んでいるように見える。
 よく考えてみれば彼はミツヤ総合病院の御曹司でありながら、系列病院ではない花村病院で医師をしている人なのだ。熱意が誰もよりも高く、指導が厳しいと簡単に予想ができる。

「私は今から寺田さんへおもちくんの状態を説明しに行きます」
「では僕も」
「それは古川くんの仕事ではないでしょう。受付で見学のはずです」

 穏やかな言い方のようだが鋭い言葉だ。
 思い出すのはインターンシップ二日目の出来事。

「......失礼しました。受付に行ってきます」

 三谷先生の言葉は正しい。気を引き締めろ。今自分がするべきことは何か考えるのだ。
 感情を優先するのではなく、冷静な判断で現場を見ることを意識する。それはこのインターンシップでの見学において三谷先生から学んだことの一つだった。

 ......
「一週間、お世話になりました」
 
 一週間のインターンシップが終わりを迎えた。初めてのインターンシップで緊張したり、トラブルがあったりしたが学びの多い一週間だった。
 
「インターンシップお疲れ様でした。これからも大学生活を頑張ってください。OBのうちの一人として応援しています」

 班員全員でお礼を言い、インターンシップ中にお世話になった職員の方々にも挨拶をしてまわった。

「古川くん、少しお時間いいですか」
「はい」

 全て終了し花村病院を出ようとした時に三谷先生に呼び止められた。

「古川くんにお礼を言いたいという方がいるんです」
「お礼?」

 待合室へ行くと、寺田さんが座っていた。

「学生さん!」

 昨日倒れたおもちくんの飼い主だ。三谷先生からおもちくんは寺田さんの入院しているお母様がこっそり必要以上の餌を与えていたことによる体調不良を引き起こしていたと教えてもらった。
 その場にいた僕にも詳細を話してもよいと許可を下さったおかげで知ることができたのだ。

「おもちくん、元気になって何よりです」
「おかげさまで。母には今後餌を勝手に与えないようにと釘を刺しておきました。それとありがとうございました」

  ありがとうとは、相手に感謝を伝える時に使う言葉だ。どうして寺田さんが感謝を伝えているのかわからなかった。

「あの時は本当におもちが死んでしまうんじゃないかって不安だったんだんです。でもそんな時に普通な対応をしてくれた。あの場で大丈夫ですよ、なんて軽い言葉を言われていたらそれこそ私は傷ついていたと思います。だからありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます。そう言っていだけて嬉しいです」

 その後寺田さんは子どものお迎えがあるからと帰っていった。

「寺田さんは古川くんに感謝を直接言いたいと待っていらしたんです」
「でも僕は何も言えませんでした。それに寺田のおばあさんとおもちくんのことだって......」
「医師でない者からの言葉の方が響くこともあります。あの場でどう返答をするべきなのかきちんと考えて発言をした古川くん成果ですよ」

 何も言葉を紡げないでいる僕を見かねて三谷先生がそういえばと話を続けた。

「丁嵐くんと古川くんは恋人同士だとか。関係は順調ですか」
「え!?」
「丁嵐くんから聞きました。彼からは定期的に勉強についての質問が送られてくるのでその流れで」

 知られていたのか。三谷先生と丁嵐先輩は元恋人同士。御宝先輩によれば別れた後に丁嵐先輩は相当落ち込んでいたらしいのだ。恋人としては複雑な心境。

「丁嵐先輩とは、順調だと思います。大福のこともとても可愛がってくれていますよ」
「そうですか、それは素敵ですね。私と彼は昔付き合っていたという話は聞きましたか?」
「えええ、まあ聞きましたけど......」

(そんな話急にぶっ込んでくるんだ!?)

 どう返せばいい。気まずい話題だ。
 先生と先輩が二人でいると若干もやつきます。扇風機を取りにいった時なんてそりゃあもう。とでも言えばいいのか。
 返答できずにいると耐えかねたようにふっと彼は笑った。

 「すみません。彼とはもう先輩と後輩かつ友人の関係性しか残っていません。連絡のたびに古川くんとの惚気を聞かせれているのでちょっとからかいたくなっただけです」
「急なからかいは心臓に悪すぎます」
「ははっすみません」
「三谷先生は穏やかそうに見えて、案外そうではないですよね」
「そうですね。妹にも見た目とのギャップがすごいと言われます」
 
 それではと言って先生は事務室へ向かって行った。
 さまざまな出来事があったインターンシップ。たくさんの経験をして1つ成長できた気がした。
 ......