夏休みに入った。体調を崩さないように暑さ対策は万全である。
 講義は行われていないが、僕はキャンパスに足を運んでいた。道中で同期の芳賀潮(はがうしお)と会い講義室へ向かっている。
 理由は二週間後に行われるインターンシップの顔合わせをするためだ。一年生は講義内のプログラムとして組み込まれているため参加必須だが二、三年生は任意参加である。

「古川、熱中症で倒れたって聞いたけど大丈夫か」
「大丈夫。軽いものだったし。芳賀も油断しない方がいいよ」
「俺は大丈夫。フットボールやってるから体力だけはあるから」

 入学した頃よりも少し逞しくなった腕を叩く。
 
「そういう慢心が体調不良を引き起こすんだ。芳賀も古川くんも気をつけろよ」
「本城先輩!」

 スポーツウェアを着ている。相変わらず体育会系。

「そうすっね、気をつけます」
「素直」

 学内のフットボールサークルに所属している二人は順調に関係を築いているようだ。春に勉強の質問をできるような先輩が欲しいと(なげ)いていた芳賀も次第に言わなくなった。本城先輩に質問をしに行っているようだ。二人とも多忙だがその隙間をぬってやっているらしい。

「本城先輩もインターンシップに参加するんですか」
「おう、一、二年生の時に参加していたからその流れで。今までの経験上だと三年生が一番実践的なことを任せてもらえるからな。経験を積むいい機会だ」

 丁嵐先輩も以前同じように言っていたことを思い出した。
 学年が上がるごとに演習の機会が多くなり、夏に行われるインターンシップは学んだことを実演するいい機会だと。

(そういえば、丁嵐先輩はこのインターンに参加するのかな)

 聞きそびれたまま今日を迎えた。
 
「古川は動物病院希望で用紙を提出したんだよな」
「うん、希望が通ってればいいんだけど。芳賀は畜産農家を希望してたよね」
「そ、俺のじいちゃんとばあちゃん家が畜産やっててさ、牛乳の乳搾りとかのやつ。たまに牛の子どもが生まれるときに獣医師の人が手伝いに来てたんだ。その場の獣医師の人がカッコよくてさ。命を預かる仕事を責任を持ってしているんだなって」
「じゃあ芳賀はその人に憧れて獣医学部に入ったんだ」
「そういうこと」

 自分の将来について語る芳賀はとても格好良く見えた。目を輝かせながら夢を話す姿は論文の内容の素晴らしさを語る丁嵐先輩と重なる部分がある。
 
「ちなみに俺も畜産農家希望。もしかしたら芳賀と同じ班かもな」
「マジっすか。余計にインターンが楽しみです!」
「後輩にいい姿見せられるように俺も頑張んなきゃな」

 講義室に着き、出入り口で院生助手からインターシップの班割プリントを受け取る。受け取った生徒は自分の名前が書かれた班の場所に行き顔合わせを行うようにと指示された。
 芳賀と本城先輩は案の定同じ班に割り当てられていた。よっしゃとなかなか大きな声で発してしまった芳賀は院生助手から軽く注意を受けていた。
 俺の名前もすぐに見つかった。

「古川も丁嵐先輩と一緒じゃん」
「うん、そうみたい」

 平静を装っているが、内心かなり舞い上がっている。アパートの隣に住み恋人とはいえ、予定を合わせて会う約束をしない限り会うことはほとんどできない。
 現在、大福は実家に預けていて講義もない。夏休みが明けるまで先輩と会うことは難しいのかもしれないと落ち込んでいたのでこれ以上ない幸運だ。

「お互い、いい経験になるといいね」
「おう、また熱中症で倒れんなよ」
「気をつけるよ。芳賀もはしゃいで先輩に怒られるなよ」

 言葉を交わして割り当ての座席に向かった。もうすでに僕以外の班員は揃っているようだった。

「遅くなってしまいすみません。僕は一年の古川恭介です」
「まだ開始時間まで余裕があるから遅くないよ、古川くん」

 丁嵐先輩はすでに座席に座っていた。
 
「先輩と同じ班でびっくりしました」
「でしょ? 驚かせたいと思って黙ってたんだ」
「事前に知ってたんですか!」
「教授の手伝いをたまにしていてさ、その時に教えてもらったんだ」

 悪戯が成功したと言わんばかりの笑顔だ。

(でも好き)

 先輩と恋人関係になってからというもの、彼のことが今までの数倍格好よく見えた。元から大人っぽい雰囲気で綺麗めな服を着こなす彼は憧れの対象だ。ただそれ以上に魅了されてしまう。
 現実世界にスマホアプリのエフェクトがかかったみたいにキラキラして見えるのだ。
 
「それではインターン班の顔合わせを始めていきましょうか」

 チャイムが鳴り丁嵐先輩が発言した。

 (気を引き締めろ僕)

 先輩の前で醜態(しゅうたい)(さら)したくない。恋に夢中になる高校生ではないのだ。彼の顔をじっと見つめていたくなる気持ちをグッと抑えて集中する。

「では始めに自己紹介からしましょう。俺は三年の丁嵐蒼樹です。みんなよりも長く在学している身なのでわからないことがあれば頼ってください。よろしくお願いします」

 そのまま二年生、一年生と順番に挨拶を行なった。班のリーダーは年長者の丁嵐先輩が勤めることになった。
 所属する班の人数は僕を含めて五人。三年生の丁嵐先輩、二年生の木築先輩、一年生の三谷さん、そして僕だ。
 三谷さんとは以前保護犬のこたろうと中庭で遊んで以来同じ講義で顔を合わせる際には会釈をする顔見知りになっていた。

「三谷さん、よろしく。同じ一年生がいてくれて心強いな」
「......はい、こちらこそよろしくお願いします。あと、その」
「?」
「以前カカオを助けてくれて、ありがとう」

 三谷さんは小さな声でそう言って(わず)かに頭を下げた。
 カカオとは以前大福と一緒に公園に行った時に出会ったラブラドール・レトリバーだ。ペット同伴入院可能の病院を運営する三谷治彦先生に飼われている。

(三谷、ということは三谷先生の妹さん?)

 以前三谷先生とどこかで会ったことがある気がしていたのはこのためか。二人は兄妹だったんだ。

「いいえ、カカオは元気?」
「はい。先日実家から兄の病院に行った際も体の上に飛び乗られました」

 無表情な三谷さんの家に元気いっぱいのカカオが飛び乗っている様子を想像した。テンションの差がうまく噛み合っていなくて側から見れば不思議な空間が広がっていると思うかもしれないと思った。

「はいはい、親睦を深めるのもいいけど今日のノルマを達成してからにしてね。それではインターンシップまでの予定を決めていきましょう」

 丁嵐先輩からの静止が入り、僕と三谷さんは顔合わせの場に意識を戻した。

「丁嵐先輩プリントをもらってきました」
「ありがとう木築さん」

 二年生の木築先輩は眼鏡をかけ髪をポニーテールにしている。おしゃれが好きのようで彼女に似合うアレンジされた服を身につけている。

「プリントを見てもらうとインターン先が設定してくれた日程や持ち物など基本事項が色々と書いてある。細かいところは個人で確認してもらうとして、今は班全員で決めないといけないところから始めたいと思う」
 
 プリントの一番上に記載されていたインターンシップ先の名前を確認する。

「え?」
「何か変なところでもあった?」
「そうではないんですが、インターン先の名前を見て驚いただけです」

『花村病院』この病院は三谷治彦先生が勤めているペット同伴入院可能の病院。加えて雪華大学獣医学部のOBかつ三谷さんのお兄さんだ。

「確かに俺たちにとってはそうかもね」

 ともあれ事前に提出した希望の通りに動物病院へ行くことができる。とてもありがたい話だ。
 インターンまでの事前学習の内容と日程、当日はどこに集合しどのような動きをするのか丁嵐先輩と木築先輩を中心に話し合った。

「じゃあ今日はこの辺で。また事前学習をする時に集まろう。連絡先を各自交換して、わからないことがあったら都度聞くように」
「お疲れ様です」

 インターンシップの事前準備の段階でかなりやることが多そうだ。事前学習に準備、インターン先から提示されたマニュアルに目を通すなど課題は山積みだ。

「古川くんも何か困ったことがあったら連絡して。うちに直接きてくれても構わないけど」
「二人は家が近いんですか」

 木築先輩が食い入るように聞いた。
 
「うん、アパートの部屋が同じなんだ」
「すごい偶然ですね。では事前学習は男女で分かれた方が効率がいいかもしれません。私と三谷さんは同じ学生マンションに入居していおりまして、都合がつけやすいんです。一年生の二人は今回が初めてのインターンですから先輩と二人でやった方が効率もいいでしょう」

 木築先輩の意見に他三人が同意の意を(しめ)した。大学生はサークル、バイト、課題など何かと忙しい。予定が合いやすい相手がいるのならばそれが一番だ。学習の進行状況についてはこまめに連絡をとりつつ行おうと話が帰結し解散した。

(先輩と二人で事前学習......!)

 嬉しいような緊張してしまうような。舞い上がってしまいそうな機会に心が躍った。

......

「ふう、一応これでまとまったかな」

 一人きりの部屋に独り言が溶けた。
 テーブルに置いたスマホがブブブと振動した。画面を見ると母からの連絡だった。内容は大福の近況報告と写真だった。

「可愛い、大福。会いたいよーー!」

 大学に入学してから大福と二人で生活をしてきて、一人になるのは初めてだった。大福の足音や鳴き声、ちょっとクセのある寝息が無くなり寂しさが(つの)る日々。
 写真の中の大福は母から高級なおやつを与えられ嬉しそうに頬張っている。

「最高かよ」

 インターンシップが終われば僕も帰省する予定だ。それまでは母から送られてくる大福の写真をお守りにして頑張ろう。
 作業していたパソコンの画面にはインターンシップの事前学習の資料が写されている。これを二人で学習を行う前に丁嵐先輩に送信することになっていた。
 文章を作り添付をして送信ボタンを押した。
 するまたスマホが振動する。
 今度の相手は丁嵐先輩だった。

『メール見たよ。お疲れ様。今日の夜は空いてる?』

(既読はや)
 
『お疲れ様です。空いてます』
『じゃあ今日の夜事前学習の内容をブラッシュアップしようか。できるだけ学習内容を詰めておきたいから』
『わかりました。僕の部屋に先輩がくる形で大丈夫ですか』

 勉強会を行う時には大福と遊ぶことも兼ねていたので、集まる際には僕の部屋が多かったからだ。

『いや、今日は俺の部屋でやろうと思う。本とか資料とかもあるから。部屋は綺麗だから安心して』
『わかりました。19時ごろに伺います』
『よろしく!』

 時計を見ると19時まであと2時間ほどある。
 もう少しだけ勉強をして、風呂に入っておこう。室内にいるとはいえ汗をかいているだろうから。
 丁嵐先輩と一緒に飲む飲み物を近所のスーパーで買ってくるのもいいかもしれない。
 パソコン作業をしていて凝り固まった背中を伸ばした。頑張ろう、好きな人と会える予定ができただけでこんなにも前向きになれる。

 ......

 19時、丁嵐先輩と事前学習をするために手土産を持って部屋に向かった。インターホンをならすと扉の向こうから返事が聞こえてきた。

「はーい。古川くん?」
「はい。古川です」
「鍵空いてるからそのまま入ってきていいよ」

 インターホンを鳴らした相手が僕ではなかったらどうしたのだろう。住んでいるのが男とはいえ少し不用心だ。

「失礼します」

 開けて入ると部屋が整然な状態だった。以前来た時のように論文は散乱していない。

「ごめんごめん、扉開けてあげられなくて。さっきまで研究室に行ってて汗かいてたんだ。流石に流そうと思ってシャワー浴びてたんだ」
「なっ!?」

 現れた先輩は上半身裸で服を着ていなかった。白いタオルで濡れている髪を拭いている。
 普段は服で隠れている腹筋部分は(たくま)しく形作られている。
 イケメンは風呂上がりでも整っているのだ。
 
「先輩、服は」
「ごめんごめん。いきなり先輩の半裸に出くわすのはきついよな」

 確かにきついが先輩の言っているような意味ではない。

(好きな人の体を見て動揺しないはずがないでしょ)

 直視できない間に先輩はスエットを着た。

「じゃあ事前学習のブラッシュアップをしようか。ここに座って」
「ありがとうございます。飲み物買ってきました」
「マジで? しかもサイダーじゃん。暑い時には炭酸に限るよね」
「そうですね。僕も好きです」

 カーペットの上に座りテーブルにパソコンや資料を並べていく。

「どこから始めるのがいいかな。少しずつ内容の補足をしていくでもいいし、何か質問があればそこから始めてもいい」
「では質問から始めさせてください」
「いいね、意欲的。さすが将来獣医師を目指してるだけある」
「ありがとうございます」
「うん。......かわいい」

 付け足されたような可愛いの一言に耳が反応する。

「かわいくはないですよ、僕は男です」
「好きな人はかわいく見えるものなんだよ」
「なっ!?」
 
 先輩はさらっと僕だったら恥ずかしくなってしまうようなことを言ってくる。

「そうですか」

 否定をすることも、かといって肯定することも違うような気がして小さい声でそれだけをつぶやいた。
 
「そうだよ、そういうもんなの」

 頭を撫でられた。規則正しく音を刻んでいた心臓が跳ねる。普段よりも比較的真面目に言うから尚更敏感になる。

(鎮まれ)

 なんて簡単な頭の構造なんだ。好きな人に触れてもらえるとすぐに気持ちが舞い上がってしまう。けれどそれが誰かを好きになるということなんだろう。

「わかりました。ではここの専門用語の意味が調べてもよくわからなくて」
「ああこれは......」

 切り替えて事前学習をスタートさせた。

「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。たくさん質問してくれたおかげでいい復習の機会になった」

 時計の針は22時を指している。同じ体制で長時間いたせいで体が凝っていた。
 
「僕は自分の無知加減を見に染みて実感しているところです」
「まだまだたくさん吸収できるものがあるってことだよ。悪いように思い込みすぎないでね」

 彼にとっては何気ない一言かもしれないが、心強い大切な言葉として羽のように溜まっていく。
 おやすみなさいと挨拶を交わして部屋に戻る。一人きりの部屋に戻ると、静まり返っておりまた寂しさが襲ってきた。

「早く寝よう」

 頭を少々使いすぎたのかもしれない。疲れている時、人は物事を敏感に感じすぎる。足早に寝支度を済ませた。
 壁からトントンと音がした。気のせいかと思ったがまだ聞こえてくる。

「先輩?」

 先輩の部屋の壁を同じように叩いてくる。同じリズムで音が返ってきた。この壁の向こうには先輩がいる。それだけで寂しさが(やわ)らいだ。

 ......

 インターンシップのための買い出しを行った帰り道、そういえば丁嵐先輩と一緒に行ったカフェがあることに気がついた。
若い夫婦が営んでいるアンティークを基調としたカフェでケーキや飲み物がとてもおいしかったことを思い出す。

 扉を開くとドアベルが鳴る。
 カウンターからいらっしゃいませと落ち着いた二人の声が出迎えてくれた。

「サイダーとレモンケーキを一つお願いします」
「かしこまりました」

 案内された席はカウンター席。テーブル席はほとんど埋まっており、次二人以上の客が来た場合を想定しているのだろう。
 カウンター席からはコーヒーを入れている様子やケーキを準備している様子を見ることができ、待ち時間も退屈することがない。するとまた扉が開いた。

「こんにちはー、席空いてます?」
「ご案内はカウンター席になりますがよろしいですか?」
「はい。大丈夫です」

 隣の席にお客さんが座る。

(絶えずお客さんが来るんだなあ)

 出てくる品が美味しいのだ、当然である。

「あれ、古川くんだ」

 隣に座ったのは獣医学科の御宝先輩だった。
 
「? 御宝先輩。……右頬にある赤い手形はなんですか」
「これはさっきまで彼女だった人につけられたやつ」
「プレイボーイだと言っていたのは本当なんですね」
「信じてなかったの?」
「正直半信半疑でした」

 カフェにやってきた彼は赤く腫れた頬なんて存在していないかのように、笑った。
 ちょっと掴めないところがある人で悪い人ではないと思っているが、真偽ははっきりしない。

「すみません、アイスコーヒー一杯お願いします」
「かしこまりました」

 御宝先輩が注文すると同時に僕が注文したソーダとレモンケーキがやってきた。

「古川くんはこのお店は初めて?」
「二回目です。一回目は丁嵐先輩と来ました。御宝先輩や本城先輩と一緒に来ていたとおっしゃっていましたよ」
「そうなんだ。他には何か聞いた?」
「特にはないですね」

 質問が多い。何か聞き出したいことでもあるのだろうか。
 レモンケーキをひとかけら口に入れるとほのかな酸味が口いっぱいに広がった。舌触りのいい柔らかいクリームがするりと入り込む。

「そっか、まだ言ってないのか」

 独り言のように呟くが、僕に向けて話していることがなんとなく伝わってきた。

「ちゃんと言ってもらわないと僕はわかりませんよ」
「ごめんごめん。......そろそろ一年生はインターンがあるよね、古川くんはどこに行くの」
「......花村病院です」

 話を聞いているのか聞いていないのか、彼は僕の言葉に応じなかった。そして質問をしてきた。

「じゃあさ、三谷先生って知ってる?」
「はい、僕たちの先輩だと聞きました。実際にお会いしたこともあります」
「丁嵐も一緒にいた?」
「はい。僕が熱中症で倒れた時に」
「マジか......」

 御宝先輩の声色には驚きと遅かったかというような諦めが混じっていた。

「その時三谷先生何か言ってた?」
「いいえ、何も。一体どうしたんです、回りくどいような言い方をして」
「ううんとね、ちょっと問題がさあるんだよ」
「教えていただけないのなら丁嵐先輩にこのことを話します」
「それは困るなあ」

 悩んでいる時、先輩が注文していたアイスコーヒーが届いた。待ち侘びていたこのようにすぐにストローを使って飲み始める。そして意を結したように言った。

「丁嵐と三谷先生はさ、昔付き合っていたんだよ」
「え?」
「でも途中ですれ違いみたいなのが起こって、破局。年が離れているっていうのもあったみたいだけど、当時の丁嵐がかなり参っていてさ、友達としては心配なんだ」

 混乱だ。御宝先輩といるといつも振り回されている気がする。

「このカフェも丁嵐が三谷先生に教えてもらったって言ってて、俺と本城に教えてくれたんだ」

 好きな人の元恋人。

「古川くんは丁嵐が好きだろう。だから言っておきたかった」
「どうしてそれを教えてくれたんですか」
「言ったでしょ? 大事な友達だからだよ」

 少なくとも御宝先輩は悪い人ではないのだろう。
 三谷先生が丁嵐先輩の元恋人。その事実が僕の心の中に重くのし掛かるのを感じた

 ......

 
「準備完了」
 
 今日からインターンシップが始まる。リュックサックの中に事前資料、パソコン、飲み物、前日にコンビニで買ってきた昼食を入れた。昨日の夜も実習への好奇心と緊張が高まって上手く寝付くことができなかった。
 インターン先である花村病院へ現地集合だ。初めてのインターンシップ、不安な気持ちを拭うことはできないが、できる限り吸収しよう。
 そして今日から一週間から始まる実習が何事もなく終わってほしい。現実はそう上手く回っていかないとわかっているけれど。

 集合時刻になり今回の実習メンバーが揃った。参加する学生は丁嵐先輩、木築先輩、三谷さんと僕を入れて4人だ。
 
「おはようございます。今日からインターンシップ頑張りましょう」
「はい。事前学習もバッチリです! ね、三谷さん」
「そうですね、木築先輩が熱心に教えてくださったのでより発見が多かったように思います」
「三谷さん嬉しいこと言ってくれるじゃん。古川くんはどうだった、丁嵐先輩との事前学習」
「僕の質問にたくさん答えてきただきました。補足の説明とかも入れていただいたりしていて。さすが三年生だなって」
「ちょっと、古川くん褒め過ぎ。照れる」
「二人は本当に仲がいいんですね」

 班の中で木築先輩はムードメーカー的存在だ。三谷さんは感情が表情に出ないが態度から彼女を慕っていることがわかる。
 グループチャットや電話でのやり取りを重ねていくうちに敬語が抜け、より頼りやすい雰囲気を作り出してくれている。

「本日からお世話になります。雪華大学獣医学部獣医学科のインターン班です。開院前の貴重なお時間を割いてくださりありがとうございます」

 今回のインターンのアドバイザーである三谷先生に班員全員で挨拶をするところから実習が始まった。

「雪華大学獣医学部のみなさんですね。一週間よろしくお願いします」

 院長先生から話は伺っていますと三谷先生は言った。
 早速診察スペースに案内される。患者さんがいない病院へはきたことがなかったので新鮮。足音がリノリウムを通して反響する。

「花村病院では、患者さまがペット同伴で入院ができる数少ない病院の一つです。私はそんなペットたちが患者さまと健康に過ごすことができるように診察やサポートを行っています」

 説明をしてくれている三谷先生は大人として遥か遠くの存在のように感じた。
 その後もナースステーション、レストラン、売店、一般病棟と繋がっている通路など様々な場所に案内された。
 待合室へ行く途中先頭を歩いていた三谷先生が立ち止まった。
 
「おっと」
「ハアハア」

 先生の足元を見ると、茶色のラブラドール・レトリバーがいることがわかった。

「カカオ!」

 カカオは三谷先生が飼っている犬で、この病院内で自由に動いている。
 以前僕が大福と公園で散歩をしている時に出会っているのだ。

「私が飼っているカカオです。見慣れない若い学生さんたちがいらっしゃっているので気になっているみたいです。よろしければみなさん触ってあげてください」

 三谷先生がカカオに触ることを許可してくれたおかげでふわふわな毛並みを体験できた。毛の中に指を通すと体温を感じることができ、癒やされた。
 
「それでは皆さん、もうまもなく開院時間です。カカオとはまた会えると思いますから、診察室へ戻りましょう」
 
 開院時間、ペット同伴で入院を希望している患者さんが続々とやってくる。
 診察室へは患者さんと付き添いの方、そして同伴希望のペットたちが入室する仕組みだ。
 三谷先生が診察をして丁嵐先輩が助手、他の三人はバインダーを片手に患者さんの状況とペットの状況、さらに看護師さんの指示を記録している。
 
 気がついたことといえば、三谷先生の難しい単語や知識だけでは養えない観察眼があることだった。患者さんの病状やそれによりペット同伴が許可できるかどうかを適切に素早く判断していく。
 加えてペットが怯えないように検査を行なっていくのだ。
 三谷先生はまだ30代で獣医師の免許を取得した後、医師免許を取得したとなると異例のスピードで試験を突破していることになる。病院に勤務するようになったとしても一人で診察を任されるようになるには時間がかかる。

(将来僕もこんなふうに動物を助けられる獣医師になりたい)

 獣医師になることを志し始めたのは中学生の時だ。授業の中で将来の設計図を書こうという課題が出た。
 幼い頃から動物に興味を持っていたため、なんとなくの理由で獣医師になると記入をした。その後も獣医師になると書いたことが心に残り、それを目指して勉強を続けた。
 獣医師になることが目標として決定づけられた出来事が起きたのは中学校を卒業して高校生一年生になった秋。前期末テストを終え帰宅していた途中にダンボールに入った捨て猫を発見したことがきっかけだった。その時見つけた捨て猫が大福だ。現在の様子からは想像ができないほど痩せており、固形物は食べることができなかった。捨て猫ゆえに警戒心が強く触ることすらできない日々が続いた。
 街の動物病院へ連れて行き、治療を受けさせ、トレーニングを行う日々。担当の獣医師は大福が人間に心を開いてくれるように辛抱強く治療を行ってくれたおかげでだんだんと体に肉がつき、健康を取り戻していった。それを間近で見ていて将来は傷ついた動物を助ける獣医師になると決心したのだ。

......

 インターンシップ1日目の午前が終了し、今はお昼休憩中だ。学生用に用意していただいた休憩室で交代で昼食を食べている。
 丁嵐先輩と三谷さんは三谷先生の診察室に残った。

「まだ午前中だけしかいないけれどやっぱり現場は大変だね」
「ですね。僕は三谷先生の診察を見てまだまだ理解しきれないことが多かったです」
「私も! 去年のインターンシップで行ったところは保護犬の施設だったからまた勝手が違うし」
「でもいろいろなことを知れて楽しいです」
「だね」

 会話もそこそこにして昼食をできるだけ素早く済ませる。交代の時間まであまり時間はないから。

......

「あの、すみません。ちょっとよろしいかしら」
「どうされましたか」

 カカオと共にいると体の小さなおばあさんが声をかけてきた。顔に皺が刻まれており、パヤパヤとした白髪はたんぽぽの綿毛のようだ。

「そのワンちゃんはあなたの犬なの?」

 カカオを指差しながら尋ねる。彼女は犬が好きなのか僕の方をチラリとも見ない。笑い皺が濃くなり、頬を緩ませている。

「違うんです。このワンちゃんはカカオと言うんですが、三谷先生が飼っているワンちゃんなんですよ」
「あら、そう。三谷先生なんて聞いたことがないわあ」

 三谷先生は動物同伴入院可能病棟に勤めているため会ったことがないとは考えにくい。彼女の言動に少し違和感を覚えた。

「あたしもねえ、昔はワンちゃんを飼っていたんですよ。ちょうどあたしの髪の毛みたいにふわふわで白いこなの。でももういないのよ」

 おばあさんは悲しげに目を伏せた。

「だからね、この病院に入院できて嬉しいの。毎日ワンちゃんや猫ちゃんたちを見られるから」
「それは素敵ですね。僕も動物が大好きなので毎日会えて嬉しいです」
「あたしと同じね」

 じゃあ、病室に戻るね、と言っておばあさんは歩いて行った。
 
「あれ?」

 おばあさんの後ろを歩く小さな白い犬を発見した。犬種はおそらくポメラニアンだ。

(ふわふわで白いこって、まさか)

 僕が亡くなった犬の亡霊を見ているわけではない。なぜならそのポメラニアンの影が床に映し出されているからだ。

「どうかしましたか、古川くん」
「わあ!」

 もしかしたら亡霊を見てしまったのではないかと少なからず思っていた時に突然声をかけられた。
 大きな声を出してしまった僕を見て三谷先生が顔をしかめる。

「院内ではお静かにしてください」
「申し訳ありません」

 全面的に僕が悪いのですぐに謝る。

「先ほど、昔白い犬を飼っていたというおばあさんとお話をしていたんです。その方が病室へ戻られる際の後ろに白いポメラニアンがいて、どうしてだろうと考えていました」
「その方はおそらく寺田さんでしょう。私のことを知らないと言っていませんでしたか?」

 三谷先生は心が読めるのだろうか、その通りだ。

「彼女は私が担当している患者さんで、認知症なのです。古川くんが見たという犬は寺田さんが飼っているおもちくんでしょう」

 つまり犬の亡霊ではないと言うことに安堵する。と同時におばあさん......寺田さんの後を小さな足で追いかけるおもちを思い出した。
 このままでは二人がかわいそうだ。寺田さんもおもちくんも生きているのに。

「寺田さんにおもちくんは生きているよって伝えにいきたいです」
「それは担当医として許可できません」
「どうしてですか。このままでは二人とも悲しい思いをしたまま終わってしまいます」
「それ以上に問題が......ではこれは古川くんへの課題です。どうして私が反対をしているのかをインターンシップ中考えておいてください」

 そろそろ診療室は向かいますと言って去っていった。
 しかし一日経っても答えは出ないままだった。寺田さんは認知症でおもちくんが亡くなってしまったと思っている。だが実際はおもちくんは生きており寺田さんのすぐ近くで生活をしているのだ。
 事実を伝えることができればおもちくんのことを思い出して受け入れることができるかもしれない。

「あら学生さん、こんにちは今日も茶色のワンちゃんと一緒なのね」

 寺田さんは僕のことを覚えているようですれ違う時にはいつも挨拶をしてくれる。それはカカオと一緒にいる時だけなので、第一印象のまま僕の立ち位置が固定されていると予想できた。

「はい、寺田さんもお元気なようでよかったです」
「ええ、あたしは元気よ。今日はこの白いワンちゃんも一緒なの」

 白いワンちゃんとはおもちのことだ。おもちは嬉しそうに黒い瞳を輝かせている。

「おもちくんと一緒でいいですね」
「? おもちは亡くなったうちの犬の名前よ、このワンちゃんではないの」
「ですがこのこはおもちくんですよ。首輪にも名前があります」
「でもおもちではないのよ、違う......。おもちは......。もう、変なことを言わないでちょうだいっ!」

 通常の穏やかな雰囲気とは全く違う怒りを含んだ声に驚かされる。眼球が仕切りに動き、混乱しているのだと気がついた時にはもう遅かった。

(これが三谷先生が言っていたそれ以上の問題なんだ)

「どうされました!?」

 声を聞きつけた看護師さんがやってくる。

「あの、僕が寺田さんにおもちくんの話をしてしまったんです」
「わかりました。古川くんはこの場を離れてください。これ以上寺田さんを混乱させられません。三谷先生を呼びます」

 これは三谷先生の助言を消化せず、独断で突っ走った責任だ。大事なのは患者さんとペットたちがどうすれば快適に過ごすことができるかどうかを考えることだったんだ。

「この度は申し訳ありませんでした」
「謝るべきは私ではありませんよ。寺田さんに謝る......と言いたいところですが彼女の認知症はかなり症状が進んでいるのです。次会う時にはきょうのできごとは忘れていると思います。謝ればまた混乱させるだけです」
「では僕はどうすれば、いいでしょうか」
「いつも通り彼女と話をすることです。何も変わらずに接することが今できることですよ」
 
 大切だったのは二人がかわいそうだという僕の気持ちではない。
 最善のために何をするべきか考えることが重要だったんだ。

「以後気をつけます。振る舞いも見直します」
「お願いしますね。考えましょう、その場に何が必要で何をするべきなのかを」

 励ますようにそっと肩を叩かれる。驚くほど優しい手つきに涙が出そうになった。