大学に入学してから早いもので梅雨が過ぎた。と同時に前期テストが終了した。大学入学後行われた初めてのテストがったが日々の課題や丁嵐先輩との勉強会での成果が発揮されてうまく乗り越えることができたと思う。
今は中庭で丁嵐先輩の到着を待っている最中だ。
『中庭に着きました』
『了解! 暑くないところで待ってて』
些細なチャットのやり取りでも心がおどる。
先輩と恋人同士になり浮かれていたのも束の間、定期テストの準備で忙しくなってしまったのでゆっくり話すのは久しぶりだ。
それまでは勉強会や大福を愛でる先輩と後輩としての関係は築けていたと思うが、ひねくれた言い方をしてしまえばそれだけだった。
だが先輩が論文オタクで読み始めると熱中してしまい他のことには手がつけられなくなるということを知った。新たな関係になってからは後輩という立ち位置にいるだけでは知らなかったことを知れたりする。
「三谷さん、こんにちは」
「こんにちは」
木陰に設置されているベンチへ向かうと先客がいた。同期の三谷優香だ。
以前丁嵐先輩が所属している研究室で保護をしている犬こたろうと一緒に遊んだことがある。その時はそっけない態度だったが、同じ講義に出席している時に話をして今では日常会話をするくらいの仲にまで進展した。
「今日はこたろーいないんだね」
「暑いから、外に出したままにしておくのは健康に悪いんですよ。今日は屋内で他のことたち遊んでいます」
三谷さんは動物保護を行うサークルに所属している。そのためキャンパス内の保護動物について詳しいのだ。
「よく考えればそうだよね、残念」
「今日じゃなくても会えますから。古川くんはどうして中庭へきたんですか」
「丁嵐先輩と待ち合わせをしているんだ」
「そうですか、それでは私は失礼しますね。これからサークルがあるので」
「頑張ってね、また講義で」
三谷さんは将来動物保護を目的とする仕事につきたいと言っていた。将来街の獣医師になりたいと思っている僕とは異なる目標があるのだ。同じ学部学科に所属していても目標地点は異なる。
「お疲れ様、はいこれ」
頬に冷たい飲み物が触れる。火照った頬がだんだんと冷たくたり気持ちが良かった。
新たに知ったことといえば、先輩は恋人に甘いということだった。
「ありがとうございます。お疲れ様です、丁嵐先輩」
「お疲れ様。テストはどうだった? レポートはほとんど終わったって聞いたけど」
「テストは多分うまくいったと思います。レポートは言語文化がまだ残ってるんですけど見直しをすれば提出できるので」
「すご。俺は提出期限が先のレポートはまだ手をつけていないものもあるし、ちょっとやばい」
「一年生と三年生の勉強では難易度が違うのでしょうがないんじゃないですか」
「ポジティブに考えれば、そうとも取れる」
ベンチに座った先輩は手に持っていたカフェオレを飲み干した。
「午後はレポートやるかー。終わりが見えない」
「論文を読んでレポートに手がつけられなかったっていうのはやめた方がいいですよ」
「手厳しい言葉。でも今は本当にヤバいから論文は見ないよ」
「では後で大福と一緒に部屋に遊びに行きますね」
「やった。久しぶりの大福だ」
変化したことといえば僕が大福と一緒に先輩の部屋に遊びに行くようになったことだ。以前は僕の部屋でばかり勉強会をしていたが今では互いの部屋を行き来するようになっている。
こういうところも先輩との距離が縮まったことを証明していた。
「楽しみですね」
「うん。そうだ、この前雑貨屋に行った時、大福に似合いそうな服を見つけて買ったんだ」
「また、買ってくださったんですか」
「そう。これなんだけどさ」
体を近づけてスマホの画面を差し出した。肩と肩が触れて夏服の薄い布から体温が近づく。このベンチが設置されている場所は木陰で涼しいはずだがそこだけ熱を持ち始めた。
(ち、近い)
先輩の距離感が近いのだ。初めはあまり気にしていなかったが、会うたびに距離が物理的にも近づいている。
近づかれるたびに心臓が跳ね上がってしまい、寿命が日々縮まっているのではないかと思っている。
(でももう少し近づきたい)
距離が近い、それはわかっている。もう少し離れた方がいいのではと思う反面もっと近づきたいとも思っていることを自覚した。
駄目だ。このままでは平静を失ってしまう。平常心平常心と唱えながら落ち着かせて答えた。
「可愛いですね」
先輩が買ったというのは猫用のスイカの着ぐるみだった。夏仕様ということなのだろう。
こんな風にして先輩は大福の洋服やおもちゃを買ってきてくれる。僕の部屋には引っ越した直後よりも大福グッズが増えていた。
「でしょ。この姿の大福を見るためにレポートがんばろ。古川くんは3限に講義があるよね。俺帰る前に図書館寄りたいからこの辺で。また後でね」
「はい、また」
先輩は重い腰を上げて図書館への道を歩いていく。うなじが隠れそうなくらいに伸びた髪の毛をハーフアップにしている。小さく結ばれた髪は歩くたびに揺れていた。
「僕も午後の講義頑張ろう」
テスト期間中ということもありほとんどの講義が行われていない。次の講義である『学外研修Ⅰ』は夏休みの間に行われるインターンシップの説明があるため開講されるのだ。
大学に入学してから初めてのインターンシップ。一年生はほとんど見学するようなものだと聞いているが実務の場に行くことができるため今から楽しみにしているのだ。
......
日曜の昼下がり、大福と一緒にアパート近くにある公園に来ていた。ペット同伴可能な場所を調べたのだ。
「待ってよ大福」
猫用のリードを身につけた大福が僕を引っ張っていく。
先日まで一学期末テストがあり大福とあまり一緒に遊ぶことができなかったのでやってきた。木陰がいくつか点在しており休憩できるスペースもあり、水分補給を交えながら遊んでいた。
「すごい力だね」
実家にいた頃はある程度の頻度で公園に言っていたが、大学に入学してからは行けていなかった。大福が新しい環境になれるまでは様子を見ていたが、随分とくつろげるようになってきたためやってきたのである。
「それにしばらく大福とはお別れだし」
先日行われた『学外研修Ⅰ』のインターンシップの説明会において、インターシップは獣医学部獣医学科所属の一から三年生の合同班で行われ一週間を予定していると担当教授が話していた。
インターンシップ先によってはアパートに帰ることができない可能性がある。また僕自身初めてのインターンシップということもあってどんな予定になるか見当もつかなかった。
もし大福のお世話が疎かになってしまってはいけないと思い実家で預かってもらうことにしたのだ。
(実家に久しぶりに戻れるんだ。嬉しいよねきっと)
大福はそうだったとしても、大福ロスに耐えられる気がしなかった。想像するだけで寂しい。
だからできるだけ大福との思い出を増やすために遊びにきたのだ。
「大福それは食べちゃ駄目だよ」
大福はありとあらゆるものに興味津々だった。特に道端に生えている草を仕切りに嗅いでは口に含もうとする。
飼い主としては外にあるものはどんなウイルスがあるか分からないのでやめてほしいのだが。
「先輩が来るまでここで待っていようか」
今日は一緒に公園で大福と散歩をすると約束していた。
公園に設置されているベンチで飲み物を飲みながら一息つく。大福にはアパートから持ってきた専用の給水ボトルを与えた。
久しぶりに外に出て興奮して疲れた様子の大福は僕の隣で大人しくしている。
公園には多くのペット連れが訪れており、見ているだけで癒される空間だ。
するとポケットに入れていたスマホが振動した。画面に表示されていたのは、丁嵐先輩、の文字だ。
「大福、丁嵐先輩今から来るって」
大福があたらしの響きに反応する。
「そう、丁嵐先輩。楽しみだね大福」
答えるようににゃーんと鳴いた。
丁嵐先輩が会うたびに、可愛い、賢いと褒めるのですっかり大福は先輩に懐いていた。今では名前を言うだけで反応するようになった。
大学に直接レポートを出しに行くと言っていた先輩は後から合流することになっていた。
「すっかり夏だなあ」
今年の春雪華大学に入学してから早数ヶ月、環境が目まぐるしく変化して全力で走っているような感覚だった。
慣れない一人暮らしや難易度が上がった勉強内容、キャンパス内にいるたくさんの動物と過ごす日々は自分を成長させてくれたと実感する。
「わん!」
公園を吹き抜ける風にあたりながらこれまでの大学生活を振り返っていると意識を現実に引き戻すような声が聞こえた。
「ワンちゃん?」
足元に見たことのない大型犬が座っていた。つぶらな瞳が特徴的な茶色の犬はラブラドール・レトリバーであると推測できた。周囲を見ても買う主らしき人は見当たらない。公園内で逸れてしまったのだろうか、それともどこかの民家から脱走してきたのだろうか。リードをしていないことからもその可能性が高い。
「こんにちは、僕は古川京介。ちょっと触るよ、ごめんね」
ラブラドール・レトリバーを怖がらせないようにそっと触る。首輪がかけられていることを確認すると何か文字が書かれていないか確認をした。飼い犬の場合は首輪に名前や連絡先が書かれている場合があるからだ。
「やっぱり書いてあった」
首輪にはローマ字で『KAKAO』と名前が彫られて飼い主の電話番号が書かれていた。
「君はカカオっていうんだね。どこからきたのかな、とりあえず飼い主の方に連絡してみるからね」
カカオはハアハアと舌を出して体内の熱を逃すパンティングをしているためすぐに突発的に動き出すということはなさそうだ。
スマホに電話番号を打ち込んだ。プルルルと呼び出し音が数回鳴ると電話をとる音がした。
「はい、三谷です。すみません今はセールスのお話はちょっと」
「急なお電話申し訳ありません。僕は古川京介と言います。カカオちゃんの飼い主の方でいらっしゃいますか? 今〇〇公園でカカオちゃんが一匹でいるところを保護したのですか」
「本当ですか!? そうです。僕がカカオの飼い主です。〇〇公園ですね、すぐに向かいます!」
その後詳しく居場所を伝えて電話を切った。電話に出たのは焦った声色の男性だった。カカオがいなくなってしまい探していたのだろう。
するとカカオがピンと長い耳を立てて電話口から聞こえた飼い主の声に反応していた。
「待って!」
興奮したカカオが走ってどこかへ行ってしまいそうになる。このままでは広い公園内で利用者たちに紛れ込んで見失ってしまうかもしれない。公園内にいてくれるならまだマシだ。
この公園のすぐそばには大きな道路が隣接している。
(もしその道路にカカオが飛び足してしまったとしたら)
最悪の場合事故になる。それだけは避けなければいけない。将来獣医師になることを目指す人間として、動物が健康で安全に暮らすことができるようにするためになんでもしてあげたい。
「ごめんね、大福」
ベンチの上でくつろいでいた大福を抱き上げて、走った。
カカオは足が速い。だが先ほどまでパンティングをしていたことを考えるとすぐに体力が切れるはずだ。
走ると夏の暑さが身に染みる。大福も抱き抱えながらであれば尚更だった。息切れをしていて片腹が痛い。足を止めるわけにはいかないのだ。
「捕まえた!」
公園を出る間際にカカオに追いつくことができた。
「よかった。......急に走ったら駄目だよ。大福、大人しく着いてきてくれてありがとう」
大福を地面に下ろすと小さくあくびをして毛繕いを始めた。肝の座り方が飼い主とは別次元。
「すみません。カカオを保護してくださった方ですか」
息を整えていると男性が声をかけてきた。
「カカオちゃんの、飼い主の、三谷さんですか」
「そうです、私は三谷治彦と言います。私の不注意でご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございません。この度は本当にありがとうございました」
三谷さんは深々と頭を下げた。眼鏡をかけていてチェック柄のシャツを着ている素朴な若い人だった。
「いえ、僕は、迷惑、だなんて。カカオちゃんが、無事に、飼い主の方が、見つかって、よかった、です」
「何かお礼をさせてください。......ところで大丈夫ですか。息が切れているようですが。もしかしてうちのカカオが何か」
「いいえ。あ、いやその」
大福を抱えながらカカオを追いかけるのはなかなか疲れた。立ち止まってから時間が経過しているが呼吸が整わない。
(なんか頭がぼーっとしてきたかも)
「古川さん!?」
大丈夫ですかと三谷さんの声がする。視界が歪んで足が震えた。気持ちが悪くてお腹が痛い。今朝起きた時に体調の異変はなかったはずだ。
ここは公園で公共の場だ。立ち上がらないといけないのに、ままならない。
(ちょっと無理かも)
耳鳴りがひどい、唇もうまく動かない。
......
心地よい風が全身に当たっている。熱を持っていたはずの頭はすっきりとしていて快適だった。もう気持ち悪くはないし、お腹も痛くはない。
あの体調の悪さは夢だったのか。今まで生きてきた中で類を見ない具合の悪さだった。まさか立つことができないほどとは。
そういえば大福とカカオはどうしたのだろう。そもその公園へ行った後にどうやってアパートまで帰ってきたんだ。
思い出そう。大福と公園に行って、丁嵐先輩と待ち合わせをしていた。ベンチで休んでいる時にカカオを見つけて飼い主の三谷さんと会った。
......三谷、みつや。どこかで聞いたことがある名字だ。でもあの顔に見覚えはない。
頬が何やら冷たい、というか濡れている。
(まさか水溜まりの上に寝てるとか?)
馬鹿げた妄想はすぐに打ち消した。そんなはずはない。
そうだ、三谷さんと会ってその後の記憶がないのだ。
「じゃあここどこ......」
目を開けると見慣れない天井があった。少なくともアパートの僕の部屋ではないことは確かだ。
頬を濡らしていた何かが次は耳の方へ動いた。
「くすぐったい」
頭を動かすと、つぶらな瞳がこちらを見ていた。
「なんだ、カカオか」
僕の頬や耳を舐めていたのはカカオだったようだ。寝ていたベッドは白いカーテンで周りを仕切られていてまるで学校の保健室にあるベッドのようだった。全身に当たっていた風は扇風機によるものだ。
「目が覚めた?」
仕切りの外側から入ってきたのは丁嵐先輩だ。
「え、先輩? どうして。それとここはどこでしょうか」
「ここは近くの病院。古川くんは熱中症で倒れたんだよ」
左腕に点滴が繋がれ固定されている。
「古川くんたちと合流するために公園に来てみたらちょっとした騒ぎになってるから驚いた」
「それはご迷惑をおかけしました」
また仕切りが動いて三谷治彦さんが入ってきた。公園で会った時とは印象が異なった。羽織っている白衣のせいだろうか。
「よかった、目が覚めたんですね。具合は大丈夫ですか。ここは私が務めている花村総合病院です。僭越ながら運ばせていただきました。丁嵐くんのお知り合いと聞きまして。古川くんは軽い熱中症で倒れたんです」
丁嵐先輩の後ろから現れた三谷さんにコップで飲料を渡された。
「経口補水液です。飲んでください」
正直あまり飲みたい気分ではなかったが軽度の熱中症だったと聞いて喉に流し込んだ。
「お気遣いありがとうございます」
「とんでもないです。元はと言えば私がカカオから目を離してしまったことが原因ですから。恩人に対して何かお返しをしたいのです」
カカオは三谷先生と病院の敷地内で散歩をしている時に販売車の匂いにつられて脱走してしまったそうだ。大型犬ということもあり力が強く引っ張られた時に転んでしまった。頬や手に絆創膏が貼られている。
「ではもう少し休んでいってもいいですか。起きたばかりで体調に不安があるので。それと大福は今どこにいますか」
「いくらでも休んでいただいて構いません。大福くんはナースステーションで手の空いている看護師の方に面倒を見ていただいています。ナースステーションにいるだけでも優遇した措置なのであまり口外はしないでくださいね。ですが古川さんは丁嵐くんと同じ雪華大学の学生さんと聞いたので心配はしていないのです」
「そうですか、わかりました。この病院は動物の出入りが可能なんですね」
「はい、まだ手探りではありますがね。おっと呼ばれてしまいました。席を外します。丁嵐くん、よろしくお願いしますね。行くよ、カカオ」
「りょーかいです」
三谷先生は急患がやってきたとの連絡を受け出ていった。カカオも一緒についていき、部屋の中には丁嵐先輩と僕だけが残されている。
「三谷先生と丁嵐先輩はお知り合いなんですか」
二人のやりとりを少し見ただけだが、初対面同士の会話としては軽いもののような気がする。
「そうだね。三谷さんとは高校生の頃からの知り合いなんだ。進路を決めかねていた時に相談に乗ってもらったりもした。先輩と後輩ってところかな。雪華大学を卒業していて俺たちの先輩。そんであの有名なミツヤ動物病院の御曹司だ」
「そうだったんですね」
三谷動物病院とは国内にある有名な動物病院のうちの1つだ。その病院の御曹司ともなれば順風満帆な獣医師生活が保障されている。だがここは花村病院で当然だがミツヤ病院ではない。
「けれど、三谷先生は別の病院に勤務しているんですね」
「そう、実家と三谷さんの方針が相入れなくなったらしい。そのまま下積みをして若くして病院の専門医。すごいとしか言いようがないね」
言葉遣いが綺麗て礼儀正しい三谷先生は心のうちに情熱を秘めているのだろう。
「そんなことよりもう少し横になっていた方がいいよ。三谷さんもそう言っていたし」
「はい」
促されるままにベッドに横になる。頭にはまだ気だるさが残っていた。
「頑張っていたから疲れが出てたのかもね。暑かったから余計に」
「以後気をつけます」
「そうしてください。恋人に心配させないで」
恋人、恋人。心の中で反芻し噛み締める。
丁嵐先輩はパイプ椅子に座った。何をするわけでもなく僕の様子を眺めている。
気恥ずかしくなり、冴えない頭で話題を探した。
「あの質問してもいいですか」
「どうぞ」
「花村病院のことなんですが、動物が出入りできる病院があることを初めて知ったので何か知っていることがあれば教えていただきたくて」
基本一般的な病院ではペットを筆頭とする動物は入ることができない。動物が保菌しているウイルスに感染してしまったり、毛などによるアレルギー反応が出てしまう可能性などを考えると妥当な判断だ。
患者を守り治療する場においてリスクは最小限に抑えるべきなのだから。
「古川くんは勉強熱心だなあ。まあ、ベッドの上で寝転がっているだけじゃ暇だろうから簡潔に話すね」
花村病院は一般患者を受け入れる病棟の他にペット同伴可能な病棟を併設させている。両方の病棟を行き来することにリスクは伴うが、機械などを導入し細心の注意を払いながら運営を行っているそうだ。病棟に入ることができるのはいくつかの検査を通過したペットのみ。それを時間をかけて行う。だからカカオは僕が寝ていたベッドの付近にいることができても大福は入ることができなかったのだ。
「もちろん学会の一部の人たちからは色々と言われているみたいだけど。それでもこの病院はペットと暮らしている人たちにとって大きな意味を持つって三谷さんたちは考えているみたい。実際にペットがそばにいることで回復が促進された事例もあるからね」
人と動物が共に生きていく中で自分たちに何ができるのかを常に考えなければならない。
とある講義の中で担当教授が言っていた言葉を思い出した。将来獣医師になる人もそうでない人も等しく考えてほしいと。
「すごい方なんですね、三谷先生は」
「そうだね。そのために獣医学部を卒業した後に医学部に入り直したりしていたし」
「えげつないですね」
獣医学部は他学部よりも倍率が高く難易度も上がる。ただでさえ医学部は敷居が高いのだ。途方もない努力を積み重ねられるほど、志が高い人なんだ。
そこで丁嵐先輩が一つあくびをした。
レポートを提出しなければいけないと言っていたからそのせいだろう。先輩は提出物をギリギリまで貯めておくタイプだと知ったのはつい最近だ。
「先輩、大丈夫ですか」
「うん、ちょっと眠いけど」
「レポートは計画的に進めておくことをお勧めします」
「うげ、一年生に注意されて先輩としてのプライドが傷ついた」
「プライドを守るために今後は注意した方がいいですよ」
レポートの話をすると端正な顔が見るからに歪んだ。子どもっぽいその表情に視線が惹きつけられる。
「眠いなら一緒に寝ますか?」
「え?」
何を言っているんだ。いきなりこんなことを言って、変だと思われた。頭に気だるさが残っているせいだと思いたい。
(先輩も驚いて固まっているし)
どうこの場を回収しよう。
すみません、間違えました。
これは駄目だ。さらに変な誤解を生み出す可能性がある。
「じゃあお邪魔しようかな」
考え込んでいると予想もしていなかった返答が返ってきた。
「いや、無理しないでくださいね」
「? 一緒に寝るのはやっぱり嫌? 恋人同士だからいいよね」
「そういうわけでは。それに三谷先生が戻ってきたら驚かれると思います」
「すぐには戻ってこないよ。俺も眠いしちょっとだけね。......俺と一緒に寝るのは嫌?」
しおらしく悲しげな声で問いかけられる。
駄目なわけがない。好きな人のお願いを無碍にできるほど冷淡な人間ではないのだ。
「そんなわけないじゃないですか。どうぞ」
白いシーツを持ち上げて先輩が隣に寝転がる。病院のベッドは男二人で寝転がるには狭い。
肩だけじゃない、全身の距離が近い。自分が招いたこの事態の重要性に今更ながら慌てた。
(近い、それにいい匂いもする)
暑くて汗をかいているはずなのに先輩からは柑橘系のいい香りがした。対して僕はどうだろう。公園でカカオを追いかけて全力疾走をして全身が汗だくだ。
変な匂いとは思われたくない。できるだけ先輩に近づかないようにベッドの端に寄った。
「あの先輩やっぱり同じベッドというのはちょっと」
「大丈夫だって。俺と古川くんの仲だし」
「でも、心臓の音がうるさいかもしれないですし」
「嬉しいよ、むしろ聞かせて」
先輩が僕の体を引き寄せる。
「本当だ、すごい心臓の音」
「! やっぱり一緒に寝るのはなしです」
「ごめんごめん、倒れたばかりだからもう少し寝ていないと。大福のためにもね」
「......はい」
背中から腕を回させれ、心臓が暴れている。
(熱中症の時よりも体が熱い)
体がむずむずとして離れたい反面、もっとそばにいたいと思う。
その腕の中でもっと強く抱きしめてほしいとか、触れていてほしいとか。自分勝手な気持ちが溢れてくる。
「先輩やっぱり」
やはり一緒に寝るのはマズイと言おうとすると、耳元から寝息が聞こえてきた。ゆっくりと体の向きを変えて正面で向き合うかたちになる。目元には隈がありレポート書くことによる疲れが溜まっていたとわかった。
初めて近くで見た丁嵐先輩の顔はやはり整っていて、毛穴も見当たらない。長いまつ毛は芸術品のように揃えられている。
(僕、先輩のことが好きだ)
大学の先輩後輩だけじゃなく、ただのお隣さんだけじゃない。もっと近くにいられる存在になったんだ。素敵な人の隣にいることができるんだ。
力が抜けている先輩の手をそっと握る。そのまま目を閉じた。
......
その後戻ってきた三谷先生に起こされた。丁嵐先輩と一緒に寝ているところを見られ慌てたが、先生はお二人は仲がいいんですねと大人な対応をされた。
その後診察をしてもらい熱中症の症状は改善したと診断された。
「本日はありがとうございました、お会計はいくらでしょうか」
「会計は必要ありません。恩返しだと思ってください。私の方で精算しておきますから」
「......ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
こういう時に相手の気持ちを無碍にしてしまわない方がいいだろう。
出入り口へ向かうと看護師さんに抱かれた大福が待っていた。
「大福! 待っててくれたんだ。大福の面倒を見てくださりありがとうございます」
「いいえ、私たちも癒されました。大福くんは人懐っこいですね」
「はい。僕の愛猫なんです」
腕を広げると大福は看護師さんの腕を抜け出して飛び込んできた。ゴロごと喉を鳴らしてくれる。
「心配してくれてありがとうね」
病院の出入り口までついてくてくれた三谷先生と看護師さんに挨拶をして帰路についた。
最後に先生に、雪華大学でのお勉強頑張ってくださいね、と言ってもらった。
「古川くんはこの後何か予定あったりする?」
「大福のご飯を買いに行って、その後はアパートに帰るだけですね」
「じゃあさ、今日の夜一緒にご飯食べない? 俺の部屋でよければだけど。実家から大量の野菜が届いたから鍋でもどうかと思って」
「ぜひ! 夏の鍋もいいですよね」
「うん。自分でも気がつかないうちに体が冷えていたりするから予防にもなるし」
熱中症で倒れた僕を労っての提案だろう。気遣いを感じて、嬉しさが込み上げてくる。
「古川くん、大福のこと抱っこしてもいい?」
「? 大丈夫ですよ」
大福は丁嵐先輩に懐いているため嫌がる心配はない。
(でもどうして急に抱っこしたいなんて言い出したんだろう)
結論は大福が可愛いから。先輩はレポートを書きおわり疲れて寝ていたがまだ疲れが取れていないのだろう。
大福を抱っこすることで癒しを得ることができ、心身ともに回復するというわけだ。
両腕で抱っこしていた大福を先輩に受け渡す。彼は大福を片手で抱き抱えた。
「手、出してよ」
もう片方の空いている手を僕の方に差し出す。
その手の意味が理解できずにいると先輩が言い直した。
「手を繋ぎたいから、出してって言ってる」
ようやく真意に気がついた。先輩の頬がほんのり赤くなっている。
僕が大福を抱っこして両手が塞がっていたため、先輩が抱っこすることを提案したのだ。
「はい」
「うん」
右手を差し出すと、僕よりも大きな手に包まれる。男同士だからすっぽりというわけにはいかないが、先輩の方が逞しいのは確かだ。
丁嵐先輩の手は暖かくて幸せを共有しているような気分になった。



