教えてください、丁嵐先輩


 「はあ」

 ため息をつくとキャットタワーに登ってくつろいでいた大福が心配そうに近づいてきた。

「ありがとう、大福」

 悩み事があっても大福を撫でていれば多少は緩和されるが今回はそうもいかなかった。

「僕なんであんなことしちゃったんだろう」

 先日の丁嵐先輩の態度を思い返すと自己嫌悪しか出てこない。
 僕がしつこ過ぎたせいだろうか、先輩が大丈夫だと言っているにも関わらずに。
 加えて事故だがキスまでしてしまった。

「このまま疎遠になっちゃたらどうしよう」

 入学したてで鍵を無くして焦っていた時に助けてくれた。その後も勉強を見てもらったり、大学の内部事情を教えてもらったりした。
 大人っぽい見た目とは裏腹な砕けた話し方や時々見せる笑顔が素敵で、大学での勉強に一生懸命な人。
 そして僕の好きな人だ。
 これからもっと先輩のことを知っていきたいと思っていた。

(僕先輩にしてもらってばっかりだ)

 寄りかかってばかりの後輩が気に入らない態度をとってきたとしたら、怒るのも頷ける。おまけに男同士でキスだなんて。

(気持ち悪いって思われたかも)

 考えただけでショックだ。
 まだ先輩としてキスの感覚が残っている。初めてのキスだったが不思議と気持ち悪さはなかった。むしろ、もっと。
 
 先輩の部屋へ行った後にチャットでメッセージを送って数日が経つ。未読の記号がついたままだ。

「大学に行く準備をしなくちゃ」

 悩んでいてもいなくても夜は来て朝を迎える。こんなに有綱気持ちになるのは大学を入学して以来初めてのことだった。
 大福は僕の布団の中に入ってきて一緒に眠った。

 ......

 どうすれば先輩との仲を修復することができるだろうか。一緒に出かけた日からずっと考えているが答えは出なかった。
 1限目の講義が始める前に座席に座って悶々をしていると芳賀がやってきて隣の席に座った。

「おはよ、古川最近元気ないけどなんかあったのか?」
「芳賀。それが......」

 一連の出来事を芳賀に話すと彼は腕を組み、途中まで難しい顔をして聞いていたがキスのくだりになった途端に飲んでいたお茶を吹き出しかけていた。

「......それは互いに悪いんじゃないか。まあキスをされたら驚くのは当たり前だと思うけど」
「男にキスされたなんてキモいよね......」
「いやそういうわけじゃなくて! 男だろうが女だろうが急にキスされたら驚くのは当たり前だろう」
「でも」
「考えすぎんな、どうせ悪い方向に考え込んじまうんだから」

 そのまま講義が始まった。
 講義を受けた後芳賀が言った。

「なあ、あの後考えてたんだけど。やっぱり直接聞いたほうがいいんじゃない?」
「でもメッセージ返ってこないし」
「先輩も何を送ればいいのかわからないだけかもしれないだろ。直接会って聞いてみようぜ。俺連絡してみる」

 芳賀が連絡したというのは本城先輩だった。二人はフットボールサークルに所属している。カフェテリアで初めて話した後連絡を交換して、仲を深めたそうだ。
 丁嵐先輩、御宝先輩、本城先輩はとっている講義の被りが多いらしく、三人で行動していると以前聞いた。

「先輩たちこの後講義が入ってるんだって。お昼は空いてるみたい」
「でも」
「ウジウジしてないで行くぞ」
「芳賀の毛の生えた心臓を見習いたい」
「そんなこと言ってる間に足を動かせよ」

 僕たちは先輩たちと待ち合わせしているカフェテリアに行って席をとるために移動した。時間になるまで課題と勉強をした。

 ......

 昼休み、先輩たちがカフェテリアにやってきた。相変わらず学生たちの注目を集めており視線が気になる。
 以前の状況を思い出しできるだけ端にある席に座っていたのだがほとんど効果はないようだった。
 先輩たちが席に着くと芳賀は首を傾げた。

「あれ、丁嵐先輩はどうしたんですか」
「今日は来てないんだよなー。俺と御宝も連絡してるんだけど既読すらつかない」
「今までこんなことなかったんだけどね」
「まあ、寝過ごしてるんだろ」
 
 本庄先輩はスマホを確認しながら行った。御宝先輩も不思議そうにしている。

「で、俺たちに何か用? 急に連絡が来てびっくりした」
「俺用事じゃないんです。古川が丁嵐先輩と喧嘩して連絡も来ないらしいんです。これは直接聞かないと思いまして」
「なるほど。丁嵐と古川くんが揉め事ね。でも本人に聞こうにもいないし」
「すみません。お忙しい中来ていただいたのに」
「気にしなくていいよ。後輩の面倒を見るのも先輩の特権だから」

 そして本城先輩と御宝先輩に事の経緯を話した。

「それは丁嵐が悪いな」
「俺もそう思う」
 話をした後はじめに本城先輩が言いい、御宝先輩はそれに賛同した。

「まず前提として古川くんは本が落ちてきて負傷したであろう丁嵐を心配していたんだろ。それなのに急に強い口調で言葉をぶつけるてくるのは完全にあいつの落ち度だ。落ち込むべきは丁嵐の方だよ。その後に起こったことは完全に事故だろ」

「まあともかく丁嵐に直接聞いてみないとわかんないな。あんまり心配しなくていいよ。多分あいつは......」
「本城、これ以上は言わないほうがいい」

 御宝の忠告に本城先輩は頷いた。
 
「そうだった。ごめん友達と言ってもプライベートなことは言えないからさ。直接聞いてみたほうがいいよ」
「僕に会ってくれるでしょうか」

 すると誰かのスマホの着信音がなった。

「ごめん、俺だ」

 鳴ったのは御宝先輩の携帯だ。通知を見ながら少し眉を顰めて次の瞬間に緩んだ。
 
「大丈夫。俺たちは連絡がつかないけど検討はついた」
「丁嵐先輩から連絡が来たんですか」
「いいや違うけど。似たようなものかな」

 含みのある言い方だ。先ほど本城先輩が言っていた、プライベートなことと何か関係があるのだろうか。
 芳賀も同じことを思ったようで二人で顔を見合わせた。

「ともかく、丁嵐の部屋に行ってみなよ。二人は隣の部屋に住んでるんだよね。大丈夫あいつが怒ってることはないって保証するからさ」
「わかりました。今日の講義が終わったら行ってみようと思います」

 忙しい中急に来てくれたことにお礼を言って3時限目の講義室に向かおうということになった。
 
 カフェテリアを出ていく時に御宝先輩を呼び止めた。

「御宝先輩、少しだけお話いいですか」
「いいよ、まだ時間があるから。......この前とは逆だね」

 他の人には聞かせることができない秘密の話。
 御宝先輩はカフェテリアで初めて会った時に丁嵐先輩に対して

 『あんまり心を開かない方がいい。......あいつ女遊びが激しいプレイボーイだからさ』

 と耳打ちをしてきた。その言葉がずっと心の奥にひっかかっていた。

「先輩が言った言葉の意味をずっと考えていました。プレイボーイっていうのは本当なのか、距離を置いたほうがいいのかとか色々。でも僕が接してきて見た丁嵐先輩は動物のことが好きで後輩に優しくしてくれる人でした。だから警告をしてきただいたところ申し訳ないのですが、受け入れることはできません」
「そっか。色々考えていてくれたんだね」

 御宝先輩の様子はいつもと変わらない。そして顎に手を当てて考える素振りをした。

「申し訳ないって言っていたけれど、多分思ってないよね。不満が漏れ出ているよ」
「そ、そんなことは......」

 図星を突かれた。彼の言葉に不満を持っていたことが事実だったからだ。
 僕の中で友人という存在は日常生活の中で近しい存在で、けれど節度を保つことが必要だと思う。大切にしたい友人であるほど言葉や行動に注意を配るべきだ。
 丁嵐先輩と御宝先輩、本城先輩がキャンパス内で一緒に行動することが多い理由はとっている講義が被っているからだと以前聞いたが、それだけではないはずだ。
 少なくとも彼らは友人であり、仲間であるはず。にも関わらず丁嵐先輩を悪くいうような言葉遣いをしたことが理解できなかったのだ。

 「ふふ、君嘘が下手だね」

 愉快そうに笑った。繊細な雰囲気がたち消えてその奥から別の何かが現れた。
 途端に御宝先輩の言葉の中に小さな罠が仕込まれているような気さえしてきた。相手にいつ罠にかかったのかさえ気づかせず、もし気づいた時にはもう遅い。

「俺はさ、真面目な子が好きなんだよね。丁嵐に古川くんの話を聞いて面白そーだと思って言ってみただけだったんだけど。想像していた以上に悩んでいたみたいだね」
「つ、つまり丁嵐先輩がプレイボーイだなんだって話は......」
「嘘、嘘。あいつあんな見た目だけど恋愛話はほとんど聞いたことがないし。逆にプレイボーイなのは俺? みたいな」
「え、ええ」

 脳内の処理が追いつかないとはこのことだ。
 話の概要としては、丁嵐先輩はプレイボーイではなくてむしろ恋愛の話はほとんどない。一方で御宝先輩の方が当てはまっている。

「もっと話聞いてみたい?」

 黙って考え込んでいると彼は追い打ちをかけるように聞いてきた。

「いえ、僕にはまだ理解しきれない世界の話なのでいつかうかがいます」
「本当に真面目だね。その判断が正しいよ」
「おいお前ら何喋ってるんだ。置いていくぞ」

 僕と御宝先輩がいないことに気がついた本城先輩と芳賀がカフェテリアまで戻ってきた。

「ごめん。可愛い後輩とちょっとお話を」
「お話? あ、またよからぬことを吹き込んでいたんじゃないだろうな」
「せいかーい」

 本城先輩は御宝先輩の回答を聞いて頭を抱えた。

「ごめん、俺と丁嵐も真面目なやつを揶揄うのはやめろって言っているんだけど悪癖なのかなおらなくてさ」
「実害はなかったので大丈夫です」
 
 御宝先輩が本城先輩に小突かれている。

「痛いよ、やめて。馬鹿力」
「お前が悪いことをしなければこんなことにはならないんだ。どうして問題を起こそうとする」
「問題は起こしてない。実害はなかったって古川くんも言っているだろ」
()()はな」

 とても不思議な気分だ。三つ年上の先輩たちのやりとりを見ているはずなのに親近感が湧いた。
 高校にいたとしたら高校一年生と三年生の関係だ。僕が高校一年生の時は三年生の先輩たちがとても大人なように感じていた。
 けれどそれは少し思い込みすぎていたのかもしれない。どれだけ遠く離れた存在と感じていたとしても一面しか知らないからそう思うのだろうか。

「後で御宝にはちゃんと言っておくから。丁嵐の部屋に行ったらちゃんと大学来いよって言っておいてくれ」
「わかりました」

「古川くん、俺と丁嵐はちゃんと友達だから。......大事にしてねあいつのこと」

 先輩たちは嵐のように去っていった。本城先輩について戻ってきた芳賀は、『何があってこうなってんの?』と不思議そうに口にした。

 ......

 帰宅途中の学生の声の声がやけに大きく聞こえた。こんなに緊張して扉の前に立つのは、丁嵐先輩と初めて出会った日以来だ。あの時は鍵を無くしてしまった体の芯が冷えていくような小さな絶望が入り混じっていた。今回は絶望こそないが、代わりに他の感情が紛れ込んでいた。
 御宝先輩と本城先輩には大丈夫だと背中を押されたが、それでも緊張はやわらがない。

「よし、行こう」

 尻込みしている自分の心に活を入れる。丁嵐先輩の部屋のチャイムを鳴らした。
 僕だけしかいない廊下に音が吸い込まれていく。少し時間を置いても部屋の中から物音は聞こえてこなかった。

(今はいないのかな......)

 次の瞬間ガタッと音がして部屋の扉が開いた。

「......はい。何か用事ですか」
「......」

 言葉を発することができなかった理由は緊張しすぎていたからではない。
 人は驚きすぎると声が出なくなるというのは迷信ではなかったようだ。
 声色から部屋から出てきた人物は丁嵐先輩で間違いない。しかしそれ以外はまるっきり違っていた。
 いつもセンター分けされている髪の毛はノーセットで寝癖がついたまま。さらに眼鏡をかけており普段はコンタクトレンズをつけていたのだと初めて気がついた。ボソボソと小さな声で話すことも今までにないことだ。

「? 間違いなら俺はこれで」

 前髪で視界がはっきりしていないのか目の前にいるのが僕ということに気がついていない。
 
「ち、違います! 僕です、古川です!」
「ふるかわ......古川くん!? こんな格好最悪なんですけど......」
 
 名乗ってからようやく気がついたらしい丁嵐先輩は慌てていた。ジャージのポケットにつけてあったヘアピンで前髪を止めると素顔が現れる。眼鏡の奥にある目の下には大きな隈ができていた。

(いつものかっこよくてスマートな先輩とは違う人みたいだ)

「今日は先輩と話がしたくてきました。先日は僕の振る舞いがしつこくて先輩に不快な思いをさせてしまって、すいませんでした」
 
 玄関前で頭を下げる。

「でもこのまま関係を終わらせたくなくて連絡もつかないのに押しかけてしまいました」
「え? それは古川くんは悪くなくて」

 そして先輩はスエットのポケットからスマホを取り出した。ブルーライトが目に染みているようで目を細めながら画面を見つめる。

「本当だ、連絡来てる。他の人からも。メッセージの返信くらいは今までできていたんだけど」

 つまり連絡が未読のまま返信が数日返ってこなかったのは僕だけではなかったらしい。少し緊張がほぐれた。

「ひとまず、中に入ろうか。ずっと外で話すには迷惑になってしまうだろうし」
「入っても大丈夫なんですか」

 思い返してみれば部屋に入ろうとしたところで帰って欲しいと言われて先輩に背中を押される形で玄関を出たのだ。

「うんいいよ。この姿を見られたら隠すものない」

 隠すものがないとはなんだろう。先輩の後に続いて意を決して部屋へ入った。
 まず初めに仕切りが現れる。

「どうぞ」

 半透明の仕切りの奥に進むと思いもよらない光景が広がっていた。
 見渡す限りプリントの山。それぞれの束がクリップで止められているがそれでも収拾がつくかどうかは怪しいところだ。
 部屋の行動としては右手に本棚とテレビ台、左手にはベッドと簡易ソファが置かれている。その間に座高の低い円卓あった。
 そのどれもが紙に埋もれてしまい座る場所さえ見当たらない。

「ごめんね、これを見せたくなかったんだ。古川くんと一緒に映画に行った日はここまで酷くなかったんでけど論文を色々なところに置きっぱなしにしていて、整理ができていなかったから」

 本棚から“ビターモラトリアム”の小説を取り出す時に他の本がつられて落ちてきたのは偶然ではなかったようだ。
 足元に落ちていたプリントの束を1つ拾い上げた。表紙には『近代獣医学』と書かれており中にはびっしりと文字が書かれていた。

「先輩、これって論文ですよね」
「そう。俺の高校生の時からの趣味で、新しい論文が発表されるとついつい色々なことを後回しにして読んじゃうんだ。親とかには気をつけろって言われてるんだけど制御できなくて」

(つまりここに落ちているプリントの束全部が論文......?)

 少しページを開いただけでマーカが引かれ、調べたことや疑問点のメモが書かれていることがわかった。付箋もびっしりとつけられている。
 僕が今拾ったものは日本語で書かれているがその横に落ちているものは英語で書かれていることが目視できた。

「そうなんですね。でもどうして隠そうなんて思ったんですか。僕そこまで気にしませんよ」

 むしろ獣医学部に通う学生として先輩が獣医学への興味関心が強いことはとてもすごいと思う。
 加えて僕は、愛猫の大福が家にやってきてからは部屋の整理を徹底するようになったが定期テストや部活動の大会、学校行事などイベントが重なった時などはそこまで手が回らずお世辞にも綺麗とは思えないような部屋が出来上がっていた。
 高校時代に友人の部屋へ遊びに行った際も机の上にはぐしゃぐしゃのプリント、ベッドの上には週刊少年誌が放り出されていた。
 男の部屋はそんなものだろう。

「先輩の見栄ってやつだよ。古川くんは俺のことを尊敬してくれてるっぽいし、勉強会でも俺が教える立場で。だから格好悪いところは見せたくなかったんだ。それに論文を読み出すと日常生活がおざなりになるもの自己管理ができていないみたいで恥ずかしかった」

 そう言う先輩はほんのり赤く頬を攻めており、いつもより少し幼く感じた。

「それに......キスだってあんな展開でしたくなかった」

 キスしたくなかった。先輩の言葉が心の奥深くに突き刺さる。同じ気持ちではなかったというだけでこんなにも苦しい。

「そ、そうですよね」

 なんとかそれだけを発する。嘘でも、忘れてくださいなんて言葉は言えなかった。

「古川くんはどう思った?」

 残酷な質問だ。おそらく、あのキスは事故だから互いになかったことにしましょう、と言うことが正解なのだろう。
 けれど、先輩のことが好きだから、そんな言葉は口にしたくなかった。

「僕は......」

 なんと返答することができれば先輩と後輩としてこれからもいることができるだろうか。
 いやもうすでに先輩と後輩の関係だけでは我慢できなくなっている時点で関係は破綻している。

「ごめん、意地悪な質問だった。このことはお互いに忘れよう」
 
 先輩にとっては忘れてしまいたい出来事なんだ。僕にとっては忘れたくない幸せな瞬間だったけれど。
 視界が歪んで目の端々から涙がこぼれ落ちる。床に散らばっていたプリント用紙に丸い跡をつけた。

「古川くん、どうして泣いているの」

  涙をこぼしていることに気がついた先輩は心配そうに眉を下げて、頬に伝う涙を(ぬぐ)ってくれた。
 急に泣き始めた変な後輩にも優しくしてくれるんだ。好きな気持ちが溢れて止められなくなる。
 
「すみません、あの、僕は先輩のことが好き、なんです......」

 言うつもりはなかった。先輩にとって僕は後輩でそれ以上でもそれ以下でもない。わかっていただろう。
 涙止まれ。服の裾を両手で痛いくらいに握りしめる。
 すると彼は僕の手をそっと包むように握った。
 
「泣き止んでよ。俺も好きだよ」
「へあ?」

 涙が引っ込んだ。耳を疑いたくなるような言葉が聞こえた気がする。
 
「今、なんて言ったんですか」
「俺も古川くんのことが好きだって言ったの」
「でもさっきキスしたくなかったっていいっていたじゃないですか」
「あれは、ちゃんと付き合ってもいない状況でキスしたのが悔しかったから言ったんだ」

 泣き腫らした僕の顔を少し見つめた後、背中に手を回した。温かい長い腕に抱きしめられた。

「泣かせてごめん、好きだよ。俺と付き合ってください」
「はい」

 声が震えないように、けれど彼にちゃんと聞こえるように返事をした。
 そっとキスをした。これは事故ではない正真正銘両思いのキスだ。角度を変えて何度も何度も。

「先輩ストップです......!」
「どうして? もっとしていたいのに」
「先輩は経験がたくさんあるかもしれませんが、僕は初心者なんです」
「俺だってたくさん経験があるわけじゃないよ。好きな子とキスしただけ」

 そこ言葉に嬉しくなって小さく笑うと先輩もつられたように笑う。
 その瞳が今までとは違う熱を持っていて、僕を好きでいてくれているのだと感じた。

「笑ってくれてよかった。泣いてるって気がついた時にはどうしようかと思ったよ。焦ったー」
「先輩もそんなこと思うんですね。なんだか意外でした」
「俺だって普通の大学生だから。落胆した......?」

 先輩の口から普通の大学生という単語が出てくることが少し不思議だ。さらにしょんぼりとした空気が伝わってきてよりそう思った。

(ちょっと、可愛いかも)
 
「どうしてにやにやしてるの」
「いや、なんだか親近感が湧くなと思っただけです」
「今まで俺のことどう思っていたんだ」
「かっこよくてスマートな頼れる先輩ですかね」
「俺のプライドのためにも理想の先輩像を崩したくなかったんだ。でももう知られたから意味ないけど」
「今だってかっこよくてスマートな頼れる先輩だと思ってますよ」
「本当に? それだけ? 僕の彼氏っていう項目は追加してくれないの?」
「ズルイですよ。ないわけないじゃないですか」
「ふふ、ありがとう」

 完全に先輩のペースに乗せられている。
 気を誤魔化そうと、どんな論文が落ちているのだろうかと床を見た。目に留まったものがあった。

「『動物保護の目的とその役割について』......」
「その論文がどうかした?」
「いいえ、特に変なところがあると思ったわけではないんですけど、この()()()()って単語を見てこたろーを思い出しまして。動物保護についてもっと知りたいなって思ったんです」
「さすが、古川くん。勉強熱心だね。この論文を書いた教授は色々と本を出しているよ。大学の図書館にも入っていると思う。今度探してみたらいいんじゃないかな」
「そうしてみます! 先輩は本当に色々なことを知っていますよね」
「論文を読み漁っていたら自然とね。それに俺が知っていることなんてまだまだほんの一部だよ。研究室の先輩や教授と話していると知らない知識を吸収できて勉強になる」

 楽しそうに目をきらきらさせながら話す。丁嵐先輩は論文を読むことが好きで、新しい学びを得ることに喜びを感じるようだ。
 目の当たりにしてなんだか嬉しくなった。雪華大学に入学するまでは獣医学について話したり知識を共有できる人は周囲にいなかった。けれどこのアパートに大福と引っ越しをしてきて、丁嵐先輩と出会い、同期の芳賀たちと大学生活を共にするようになって、こういう世界も広がっているのだと実感できた。

「僕丁嵐先輩がアパートのお隣さんでよかったです」
「きゅ、急にどうしたの」
「僕は中学生の頃から獣医師になりたくて勉強をしてきたんですが、周りには同じくらいの熱量で話せる友達がいなくて。でも大学に入ってから丁嵐先輩や同期たちと出会って同じ目標に向かって進む仲間がいるんだって実感できました。今先輩の部屋にお邪魔させていただいてさらにそう思っているところです。一番身近にいる人が動物や獣医学が好きな人で恵まれているなって」
「褒められるとなんか照れる。論文は俺が好きで読んでいるだけだし」
「そこがいいんですよ。自分が好きなものを同じくらいの熱量で好きでいる人に出会うなんて奇跡みたいなものじゃないですか」
「奇跡。古川くんはロマンチストだ」
「揶揄わないでくださいよ。僕は本気です」
「ごめんごめん」

 すると部屋の中でスマホの着信音が鳴った。先輩の服のポケットが振動している。
 ポケットからスマホを取り出し画面をタップすると大きな声が聞こえてきた。

『丁嵐! 生きてる!?」
「大丈夫。てか声デカすぎ」
『ごめんごめん。生存確認をするならできるだけ声を張り上げないとと思って』
「そんな配慮はいらない」

 スピーカーにしていないにも関わらず僕がいる方にまで聞こえてきた声の主は本城先輩だ。外にいるのか時々風の音がノイズのように混じっている。

『今、俺と御宝でこたろーと他の犬たちを散歩させててその休憩中なんだけどさ。古川くんが丁嵐の部屋に行くって言ってたから気になって連絡したわけ。十中八九論文を読みふけっているんだろうけど。学会が新しい論文を発表したって御宝が言ってたし』

 カフェテリアで御宝先輩のスマホに来た通知は新作の論文が数日前に発表されたというものだったのだ。
 
「それはどーも。古川くんならうちに来ているから」
『それはよかった! 結構落ち込んでたみたいだからさ。御宝なんてちょっかいかけてたみたいだし』
「は? あいつまた......。ちょっと変わって」
 
 本城先輩の声が聞こえなくなり御宝先輩が通話を代わったのだとわかった。丁嵐先輩は難しい顔をしながら話をしている。

「プレイボーイ? また変な嘘を。人をからかうのもいい加減にして。......うん、まあそうだけど」

 話は続いていき次第に難しい顔が解けていった。最後には

「わかった。でももうこんなことはするなよ」
 
 通話が終わるとふうとため息をついた。

「電話、どうでしたか」
「どうもこうも、ごめんね。御宝が変なこと言ったみたいで。悪いやつじゃないんだけどさ。難しいかもしれないけど」
「色々な友達の形があるんだなと思いました。咀嚼(そしゃく)には時間がかかりそうですが。それに先輩のことはちゃんと友達だとおっしゃていましたから」
「心が広くてありがたい」

 ずっと立っているのは寝不足の体には(こた)えるようで論文の束を避けて一人がけのソファに座った。
 古川くんも論文をどこかに避けて座っていよと言われた。

「その前に片付けをしましょう。このままでは生活が回らないでしょう」
「後で俺がやるから大丈夫」
「では僕が片付けます。重要そうなのは捨てないでおきますね。今までの勉強会のお礼の延長線だと思っていてください」
「それは先輩や彼氏としてのプライドが傷つく」
「少しでもいいので一緒にやりましょう」
「つら......」

 先輩はだるそうにしながらソファから立ち上がった。二人で床、ソファ、ベッドに散らばった論文を拾い集めていく。
 付箋がつけられマーカーがたくさん引かれたそれらは先輩にとって大切な宝物なのだろうと思った。
 論文が部屋の床を埋め尽くしていたものの二人で掃除をすると早く終わった。
 
「古川くん、帰る前にこれ」
「“ビターモラトリアム”の原作小説!」
「この前貸せなかったから、今回は持ってってよ。面白いからぜひ」
「はい、ありがとうございます」
「それと今回はごめんね」
「いいえ、僕の方こそ踏み込み過ぎた部分があって反省していたので申し訳なかったです。論文が読み終わったらまた僕の部屋にも遊びに来てくださいね。大福と一緒に待っています」
「ありがとう、じゃあまた」

 先輩の部屋を出てしまうのが名残惜しい。

「もう少し、先輩の部屋にいてはダメですか」
「ぐっかわいい! でもダメ、今日は」
「部屋が汚いのは気にしませんよ」
「それも一つの要因ではあるけど。......このままここにいたら襲っちゃうよ?」
「!?」

 色気をムンムンに放ちながら言った。
 襲うとは、誰が何を。

「そうですね、今日は部屋に戻ります」
「そうして」

 玄関へ行き扉を開けた。

「待って、忘れ物があったんだった」

 振り返るとキスをされた。

「また来てね。好きだよ、お休み」
 
 心臓が跳ね上がった。今日だけで何度好きだと言われたかわからない。むず痒くて、幸せな気持ちになる。

「僕も、好きです。おやすみなさい」

 これ以上先輩といると心臓発作が起きて倒れそうなので早足で退散した。
 部屋に帰ると大福が玄関で待っていてくれた。外から物音がしたためだろう。

「大福ただいま。お出迎えができて本当に賢いな」

 リュックサックを床に置いて大福を抱きしめる。ふわふわの毛の中に顔を(うず)めると甘美なる猫吸いを堪能した。
 ああ、可愛い。ああ。神様ありがとう。大好き、大福。
 緊張して疲れた心と体に猫吸いはよく効いた。

「仲直りができてよかった。それにまさか恋人になれるなんて」

 髪の毛がノーセットの先輩が出てきた時は驚いたが彼の別の一面を知ることができて嬉しかった。
 夢の中にいる気分だ。先輩と両思いになってキスをして、一生分の幸せを捧げてしまったのではないか。
 ふわふわした心地のまま瞼を閉じた。