雪華大学に入学して一ヶ月以上が過ぎた。
僕が通っているキャンパスは獣医学部専用の場所だ。比較的都心にアクセスが良く利便性もあるため一人暮らしをしている学生にとってはとてもいい環境。
このキャンパス一番の特徴と言ってもいいのがキャンパス内を動物が学生と同じように過ごしていることだった。
鳥や猫がキャンパス内にいることはどこの大学にもあることだが、ここでは牛や馬、鶏、犬などが見られる。
流石に牛や馬は監督者が付き添わなければキャンパス内を自由に動くことはできないが鳥や犬、猫はここは自分の縄張りであると言わんばかりの態度で闊歩していた。
オープンキャンパスで雪華大学を訪れた際にその情景を目の当たりにし、第一志望を定めた。先輩や教授の話を聞いていると僕と同じ理由で入学を志した学生は多いという。
動物好きな学生が多いこの大学内で動物たちはアイドルのように扱われていた。
午前中の講義を終えて中庭の横を通ろうとした時だった。
「こたろーこっち向いて! かわいい!」
中庭に設置されたベンチに座っている女子学生がキャンパス内にいる保護犬こたろうに夢中になっていた。
こたろうは写真を撮られたり撫でくりまわされても嫌な顔ひとつせずファンサをしている。
「僕もこたろーに触りたいな......」
けれど中庭で一人でいる女子学生に話しかけるのはいかがなものか。
悩みながらその様子を見つめていると視線に気がついたらしい女子学生が僕の方をチラリと見た。思いの外しっかり目を合わせてしまったことが恥ずかしかったのかすぐに視線を外されてしまう。
けれど今までこたろうをキャンパス内で見かけても講義と講義の間だったりしてタイミングが合わなかったのでこのチャンスは逃したくないと思った。
「あの、すみません。このワンちゃんってこたろーですよね? 僕は獣医学科一年の古川というんですが、一緒に撫でても大丈夫ですか?」
「......大丈夫です。というか私にわざわざ許可を取る必要はありません。それに私も獣医学科の一年生です。敬語は使わなくてもいいですよ」
こたろうを触っていたのは女子学生は獣医学科1年生の三谷優香と名乗った。
先ほど『こたろーこっち向いてー! かわいい!』と言っていた人と同一人物とは思えないくらいツンとしている。
なんだか地元にいた時可愛がっていた近所の猫のことを思い出した。飼い主の許可を得て何度か触らせてもらっていたのだが一向に慣れてくれなかった。
そのことを考えると僕がアパートで飼っている大福は本当に人懐っこい猫なのだと実感する。
「こたろー初めまして。僕は古川京介と言います。触ってもいい?」
するとこたろう自らが寄ってきて服の匂いを嗅いでくれた。大福を飼っているからか警戒し過ぎている様子もない。
横でしゃがみ目線を合わせるとクリっとしたつぶらな瞳がよく見えた。整えられた少し硬めの毛が心地いい。顎の下あたりを触っていると気持ちよさそうにしている。
「ここがいいのか、こたろー」
こたろうのツボポイントを発見しそこをめいいっぱい撫でてやる。三谷さんはその様子をベンチに座りながら眺めていた。途中で一緒に触らないかと誘ったが首を振って断られてしまった。
その後もこたろうのことを触ったり、一緒に中庭を走ったりしていると聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「あれ古川くんがいる。すごい偶然」
しっとりとした声の主は丁嵐先輩だった。いつもキャンパス内で見かける時はブランド服をおしゃれに着こなしているため、ジャージ姿を見るのは初めてだった。
けれどさすがは色男。ジャージを着ていても芋っぽくなっていない。服の印象は着る人によって変わるというけれど本当にその通りだ。鼓動が少しだけ変則的な動きをした。
「こんにちは、丁嵐先輩。中庭に何か用事でもあるんですか?」
「まあね。俺は古川くんと一緒に遊んでいるこたろーを探しにきたんだ」
こたろうを見ると丁嵐先輩を見つけてハアハア息を吐き短いしっぽをパタパタさせて嬉しそうにしている。
「こたろーは丁嵐先輩が好きなんだ」
「いつも餌をあげているのが俺だからっていうのもあるんだろうけど。こたろうはうちの研究して預かってる保護犬だからさ。今日はシャンプーをする日なんだ」
僕たちがいる方に歩いてきた丁嵐先輩は三谷さんに話しかけた。
「こんにちは。君も古川くんと同じ一年生?」
「はい、そうです。......失礼します」
そう言って頭を下げ三谷さんは去っていった。
「なんかマイペースな人だったね」
「そうですね」
静かな波のような人だと思った。意地悪な人ではないと思うが引き際はしっかりと決めているタイプ。
「こたろー行くよ」
丁嵐先輩の一言でこたろうは僕の手の中から離れて先輩の方へ嬉しそうに走って行った。手の中にあった温もりが消えてしまって少し寂しい。
「古川くんってこの後暇?」
「そうですね。今日の午後の授業は教授の都合で休校になったので」
「じゃあさ、俺と一緒に研究室まで来ない?」
もう少しの間こたろうと一緒にいられるかもしれないという嬉しさと部外者である自分が勝手に研究室にお邪魔してもいいのだろうかという葛藤がせめぎ合っている。
「今日は御宝と一緒にこたろーのシャンプをする予定だったんだけど来られなくなっちゃってさ、他に一緒にやってくれる人を探してたんだ。嫌じゃなければ一緒にどう」
「! 行きます!」
御宝先輩の代わりのお手伝いとしてなら行っても迷惑にはならないだろう。研究室にも興味があったためこんな機会を得ることができて願ったり叶ったりだ。
「早速行こうか」
丁嵐先輩がこたろうを抱えて歩いていく。僕もベンチに置いていたリュックサックを背負って後に続いた。
......
丁嵐先輩とこたろうと共にキャンパスの奥にある研究室に到着した。
先輩の後に続いて中に入るとテーブルの上には様々な実験器具が置かれていた。日頃から学生たちが教授と共に研究を重ねている跡を感じる。
「俺が所属している研究室では動物由来の病原体に関する研究をしているんだ。この動物の病原体はどこから来たのか、どんな作用をもたらすのか、治療するにはどんなことが求められているのか、とかね」
「すごいですね」
口から出てきたのは陳腐な言葉だった。こんな感想小学生でも言える。
けれどそうとしか言い表すことしか今の僕にはできなかった。動物が好きで獣医師になりたいと中学生の頃から思ってきたが本格的に学び始めたのは大学に入学してからだ。加えて一年生の一学期では高校の学習を基礎とした応用部分を学んでおり専門性が高い学びには到達できていない。
たった三年、されど三年。先輩たちは僕よりもたくさんの経験を積んでいてその成果がこの場所に詰められているのかと思うと感情が昂った。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。俺はこたろーのシャンプーの準備してくるからここで待ってて」
僕はこたろうを抱えながら先輩が戻ってくるまで研究室の中を見ていた。
......
「こたろー、大丈夫だからな。シャワーは怖いものじゃない」
僕と丁嵐先輩は研究室に備え付けられているシャワー室でこたろうを洗っていた。僕がシャワーを嫌がるこたろうを抑える係で丁嵐先輩はシャンプーをする係である。
こたろうは先輩が大学二年生の時に教授が保護した犬でその日は大雨が降っていたらしい。こたろうがシャワーを嫌がる理由はそこにあるのではないかという。
できるだけシャワーの音が聞こえないように耳を閉じて安心できるように声をかけながら撫でた。
これは一人で洗うことは難しい。俺に小さなシャワー室の中に男二人と犬一匹でいるため少しでも動けば壁に当たってしまうほどだ。
「わ、水!」
なんとか洗うことに成功したが次は体をブルブルと動かして水を飛ばした。こたろうを抑えていた僕はその水を被ってしまい上半身がびしょ濡れになった。
驚いた拍子にこたろうを抑えていた手を離してしまった。いつの間にかタオルを持っていた先輩が素早く捕まえる。
「結構濡れちゃったな。俺の着替えを貸すからシャワー浴びてきて」
濡れた服を研究室にあったビニール袋に入れて、貸してくれたスエットに袖を通した。
シャワー室から出てくるとこたろうは先輩に毛を乾かしてもらっておりご機嫌な様子だった。
「シャワーで暴れていたのが嘘みたいですね」
「だろ? こたろうはドライヤーされるのは好きなんだよな。シャワーももう少し慣れてくれたら嬉しいんだけど」
その言葉を理解したのかこたろうは丁嵐先輩がいる方向とは逆の場所に視線を向けた。
「それは無理みたいですね」
「だな」
こたろうのあまりにも嫌そうな顔に思わず笑ってしまう。
(本当に嫌いなんだろうな)
中庭に丁嵐先輩がやってきた時は嬉しそうに尻尾を振っていたのに。
先輩を見ると困ったように笑っていた。仕方ないな、可愛いから許すけどと言うように。
普段の色っぽくて誰もが魅了されてしまいそうな姿も素敵だと思うが、今のように表情を崩して笑っている方が彼の核心的な部分に近いんだろうか。
一見子どもっぽくも見えるその姿に視線を奪われて離せない。
「? どうかした?」
僕の視線に気づいた丁嵐先輩は不思議そうに言った。
「......いえ、なんでもありません」
「そう。こたろーのシャンプーも終わったし今日は帰るか」
親切で大学内の有名人で大人っぽいけれど時々見せる笑顔が魅力的な丁嵐先輩。
先輩のことをもっと知りたいと頭の中がいっぱいになる。
『あんまり心を開かない方がいい。......あいつ女遊びが激しいプレイボーイだからさ』
カフェテリアで御宝先輩に言われた言葉が蘇ってきた。
それは僕と丁嵐先輩の関係を深めていく上で何か重要な意味を持つだろうか。あまり重視しても仕方がないことのように思えた。
まず大切なのは避けることではない知ることだ。その後に重要なことかどうかは判断すればいい。
心惹かれる彼のそばで。
......
「先輩この問いのこの部分なんですけど、どうしてこの式になるのかわからなくて」
「あーこの部分ね。これはこの解法を使うからこうなる」
「確かに! ありがとうございます」
僕と丁嵐先輩は勉強会を続けていた。
先輩が大福と会うことが勉強会をする上での見返り(教えてもらいっぱなしは心苦しいので僕が設定させてもらった)なのでほとんど僕の部屋で行っている。
「そういえば大学生活はどう? もう慣れた?」
「はい、おかげさまです。入学したばかりの時より心のゆとりも増えました」
「よかった。初めて会った時は古川くん、部屋の前で泣きべそ書いてたもん。お前も嬉しいよな、大福ー?」
勉強の時間を終え先輩は大福と戯れていた。先輩が部屋にやってきた時からいつ構ってくれるのかとそわそわしている様子が視界に入っていたので二人が楽しそうにしているのは僕としても嬉しい。
「古川くんは他県から来たんだよね。もうこの辺りは見てまわったりしたの?」
「それが入学してから勉強だったり、大福の世話だったりが重なって散策とか、遊びに行ったりとかはしたことないんですよね」
僕たちが住んでいるアパートの近くには映画館や博物館、その他商業施設が集まっている。アパートに入居する前に周辺地域については調べていたので知識としては知っていた。
あまり口に出したくはないが大学内の友人が誘える距離に住んでいないところも大きな要因ではある。
「マジで? ......大学生って意外と忙しいからね。それも無理ないか」
容量が良くないことは自覚している。
「今度の日曜日空けておいてよ」
「え?」
「俺と一緒に出かけよう。ちょうど見たい映画があってさ、もちろん古川くんが良ければだけど」
願っても見ない提案だった。
「はい。行きたいです」
「よかった。詳しい予定はチャットで決めよう。楽しみだね」
そう言って丁嵐先輩が笑った。また心臓が不規則に動いた。
......
数日後、約束の日曜日がやってきた。丁嵐先輩とは顔を合わせることは多いけれど二人で外出するのは今回が初めてだ。
洗面台の前に立って髪型を確認する。よく見ると後頭部に小さな寝癖ができていて慌てて治した。洋服もクローゼットの中から引っ張り出して吟味をした。
今日一緒に出かける相手は丁嵐先輩だ。彼はいつもおしゃれな洋服に身を包んでいておまけに容姿端麗。ダサい服で行っては申し訳ない上に肩身も狭くなる。
大学入学前に母と一緒に買いに行った、ちょっと特別な日用の服を選んだ。
「準備完了。言ってくるね大福」
僕が出かけるとわかった大福が玄関まで一緒に来てくれる。
「本当に可愛すぎる」
天使だ、大福。僕が喜ぶツボを押さえているかのように献身的だ。天才猫様。なんだか名残惜しくて頭やお尻を撫でる。
すると部屋のチャイムが鳴らされた。
「時間が来ちゃった」
大福をもうひと撫だけして、部屋を出る。扉の前で待っていたのは丁嵐先輩だった。
「大福との出かけのハグはもういい?」
「聞こえてたんですか」
「うん。玄関でやってたらそりゃあもう」
恥ずかしいような大福との時間はとても大切だから仕方ないことと開き直る気持ちもあるような。
「大福は古川くんにこれでもかってくらい愛されてていいね」
「大福以上に可愛い猫なんていませんからね! それに丁嵐先輩も大福に夢中じゃないですか」
「可愛いからしょうがないよ」
話は大福は可愛いと言うことで集結した。
アパートを出て映画館までの道を歩いていく。キャンパス以外の世界が広がっていて新鮮だ。
「なんかこんな風に古川くんと歩くの新鮮だね」
「僕も同じこと思ってました」
大きな通りに出ると一気に人が一気に増えた。休日であるため親子連れや学生であろう人たちが目立つ。
「はぐれないように近くに寄って」
先輩は僕の肩を持った。何か言う暇もない。
(距離近い)
これは彼にとって普通のことなのだろうか。
疑問が浮かんだがすぐに納得がいった。カフェテリアでもあれだけの生徒からの注目を浴びていたのだ。同性や異性と関わる機会は他の人よりは多いだろう。
人混みを過ぎると先輩は自然と肩から手を離した。
「すごい人の数でしたね」
「そうだね」
僕は気恥ずかしくなって早口で言った。先輩に動じているような様子はなかった。
その後はしばらく大学や大学内にいる動物たちの話をしていた。研究室にはこたろうのように保護された動物がいることが多いや他学年合同の実習が組まれており人脈を広げることができるいい機会だなどだ。
「今日はこの"ビターモラトリアム”っていう映画を見るんですよね」
「そう。完全に俺の趣味なんだけど、本当にこれでいいの?」
「はい。それに僕も先輩の好きなものについて知りたいです」
「古川くん、そう言う言葉はいろいろな誤解を生むんだよ......」
「僕変なこと言ってましたか」
「いや、やっぱり古川くんはそのままでいて」
丁嵐先輩が見ることを提案してくれた映画は"ビターモラトリアム”といういわゆる青春恋愛映画だ。
主人公は将来ミュージシャンになりたいと夢見る男子大学生。バンドの仲間と一緒にライブハウスに出るなど活動しているがなかなか目が出ずにいた。そんな日々の中、ある土砂降りの日に傘もささずに立ち尽くしていた女子高校生に出会う。悶々とした日々を過ごしていくことに悩んでいた二人はいつしか恋人関係になるが......。といったあらすじだ。
館内に入るとスクリーンにいくつかの映画の広告が流れ映画が始まった。
映画後半に差し掛かってきたところで、主人公とヒロインのすれ違いの場面が訪れる。
『俺たちは目指している場所が違うんだ。だからもう一緒にはいられない』
『でも支え合うことはできるでしょう。今までだってそうしてきたよね』
『無理、限界なんだ。いずれ間違いに気づいて別れてしまう瞬間がきっと来る。それが少し早まっただけだ』
同じ苦しさを共有し一心同体として過ごしてきた彼らが別れの選択をする決断をした場面では館内あちこちから鼻を啜る音が聞こえた。
ふと先輩はこの場面をどう捉えているのだろうか。気になってしまいそっと横目で様子を確認した。
「......」
頬に一筋の涙が伝っていた。声を発さずにただそれだけだった。
それ以上黙って見ているのは失礼だと思い視線をスクリーンに戻した。
......
「映画面白かったです!」
「俺も。原作小説読んでて内容知ってたけどやっぱ映像化するとまた違った味が出るんだよね。古川くんも気に入ってくれてよかった」
「あの映画原作があるんですか?」
「そう、俺の部屋にあるけど読む?」
「ぜひ」
映画が終わり映画館から出てきた丁嵐先輩はいつも通りだった。
「それに、映画に出てきたワンちゃんがこたろーそっくりでしたよね」
「そうだね。原作にも犬は出てくるけど詳細は書いてなかったはず。俺たちとしてはそこも楽しめるところだったね」
彼はそれも知っていて僕を誘ってくれたんだろう。まさか青春ラブストーリーで保護犬が活躍するシーンがあるだなんて想像していなかった。
「この後はカフェに寄って帰ろう。若い夫婦がやっているカフェなんだけど雰囲気が良くて、出てくるスイーツもコーヒーも絶品なんだ」
到着した先のカフェは古民家風の作りで内装もアンティークな雰囲気でまとめられていた。静かなBGMと共に落ち着いた雰囲気が流れている。
注文したチーズケーキとカフェオレは絶品で食べ終わってしまう時には勿体無いと感じてしまった。
「このカフェには何度か来たことがあるんですか?」
「うん、御宝と本城、それに他の人とも何度か。俺も最初はこの場所を知らなかったんだけど、大学入りたての時に教えてもらってね。すっかり常連になっちゃった」
先輩のお気に入りの店というわけだ。
「先輩の好きなお店を知ることなできて嬉しいです」
「古川くん、それ素で言ってる?」
「何か変でしたか」
「いいや、純粋な後輩に当てられたなって思っただけ」
先輩の言葉の真意を測ることはできなかったが、嫌だと思っているような表情ではなかったので、そうですかと返答する。
注文したチョコレートケーキを頬張りつつ彼は言った。
「古川くんはさ、さっきの映画の二人の結末についてどう思った?」
「ビターモラトリアムの二人ですか」
「そう。俺誰かと映画を見にいく習慣とかないからさ、作品についての意見とか交換したことないんだ。だから聞いて見たいと思って」
「難しいですね」
彼らが出した別れると言う選択は、ある人にとっては正しくて、またある人にとっては間違いだとされるものだったと思う。
何が正解ということはなくて、現実には別れたという事実が残るだけなのだ。
「僕は別れるという選択をした彼らのことを想像上でしか解釈できません。そこに関してはなんとも言えないんですが、たどり着くまでの過程が彼ららしくて、悩んで、迷って、でも二人がこれから幸せになるために決めたことは素直にいいことだと言えると思います」
「それが古川くんの感想なんだ」
「はい、でも意見がぐちゃぐちゃでわかりづらいですね」
「いいや、それでいいんだと思うよ。目でわかることは結果しかない。けれどその過程に意味を見出すことができるのは俺たち見物者でしかないから」
カフェを出る時には日が傾いていて空に朱が滲んでいた。昼過ぎに一緒に出かけ映画と美味しいスイーツを堪能した。久しぶりに外で思いきり楽しむことができた休日だった。
アパートの部屋や室内施設に行き大福と遊ぶことも、もちろん楽しい。だがこんな休日もいい。
「本取ってくるから部屋の前で待ってて」
先輩のことを待ちながら今日の出来事を思い出していると、部屋の中からドタンバタンと何か物が落ちた音がした。
「先輩大丈夫ですか!?」
扉の前から声をかけても応答がない。中で何があったのだろうか。様子を確かめたいがここで待つように言われている。
(いいや、そんなこと思っている場合じゃない)
「先輩失礼します」
初めて入った先輩の部屋は玄関から先の部屋が見えないように仕切りが置いてあった。
勝手に入ってしまったのは忍びないが緊急事態だ。
「先輩大丈夫ですか」
仕切りの前で呼びかける。
「いたあ、古川くん入ってきちゃったんだ。ごめん、本を取ろうとしたら他の本がつられて落ちてきて頭に当たっただけ」
丁嵐先輩が顔をしかめて頭をさすりながら仕切りの後ろから出てきた。
(だけということはないと思う)
部屋の外にまで聞こえてくるほどの物音がしたのだ。
「本を取ろうとしてぶつけたんですよね? 僕片付けるの手伝います」
「気を使わなくて大丈夫だよ。俺の不注意が原因だし」
「それなら僕が“ビターモラトリアム”の原作小説を借りたいって言ったことも一つの原因ですよね」
「本当に大丈夫だから」
「でも......」
頭をぶつけたと言っていたことも心配だ。ひどければこぶになっているかもしれない。一歩踏み出すと床に落ちていたプリントに足を滑らせた。
「わっ」
「危ない!」
体制が崩れた僕の体を先輩が受け止めてくれる。しかし咄嗟のことでバランスが崩れそのまま尻餅をついた。
「!?」
とても近い距離に瞳がある。唇には柔らかい感覚があった。じんわりと状況を理解する。
(先輩とキスしてる)
この状況をどうすればいい。鼓動が早くなり、全身が脈打ったようだ。体が驚いたからなんて理由では説明がつかない。
早く離れなければいけないのに、もっとこの時間が続いてくれるように願っている自分がいる。
(僕、先輩のことが好きだ)
大学の先輩後輩だけじゃなく、ただのお隣さんだけじゃない。もっと近くにいられる存在になりたい。
それを先輩に許される関係になりたい。
悪いことをしている気分になった。先輩が同じ気持ちであるはずがないのだ。ただの先輩と後輩の関係。
それでも今だけは、そばにいたい。
先に丁嵐先輩が動いた。
「ごめん、古川くんはもう帰って」
「ですが」
「本当に大丈夫。帰って。あとさっきのことは忘れていいから」
「え」
背中を押されるようにして部屋を出た。
受け取るはずだった映画の原作小説を置き去りにしたまま。



