「新入生の皆さん、入学おめでとうございます」
今年大学に入学する新入生のために貸し切られた大きな会場に学長の声が響いた。着慣れないスーツを身に纏った学生たちは背筋を伸ばして学長の言葉に必死に耳を傾けていた。
僕、古川京介も例に漏れずそのうちの一人である。ここまで緊張感が漂っているのは僕たちが合格した学部が獣医学部だからだろう。国内では学部の設置が少なく、それに伴って倍率が他の学部よりも高い。
中学生の頃から獣医学部獣医学科を目指していた僕は必死に勉強をして現役で合格を果たした。
他の新入生たちも同じような境遇なのだろう。そのため気の抜けたやる気のない学生は見当たらなかった。
「この大学では皆さんが真剣に勉学に励み、切磋琢磨しあうことができる環境を提供いたします。皆さんの門出が素晴らしいものでありますように」
学長の最後の一言で入学式は無事に締めくくられた。
......
「ただいまー」
入学式を終え、帰宅をした。『おかえり』と返ってくる言葉はない。実家を出て一人暮らしを始めたためだ。
昨日までは母が新居の片付け兼入学式を見届けるために滞在していたがつい先ほど駅で別れ、実家へ戻って行った。
初めての一人暮らしで寂しさも感じるけれど自分だけの城を得たような気分にもなった。独り立ちの一歩みたいだな、と思う。
それに加えて僕は一人暮らしをするが部屋にひとりきりというわけではない。
靴を脱いでいるとキイと部屋へ続く扉が開けられる音がする。
「大福、お迎えに来てくれたのかー!」
出迎えてくれたのは僕が高校生の頃に公園に捨てられていたのを発見して引き取ったオス猫で、名前は大福と言う。由来は黒のマダラ模様で口元に黒豆みたいなほくろがついていることから。
引き取った時は警戒心が強く世話をすることに苦労したが現在はすっかり家猫が板について帰宅した家族を出迎えてくれるまでに成長した。
初めて飼った猫である大福と離れたくなくて一人暮らしの部屋はペット可の物件を探した。小さなアパートだがリノベ物件でしっかりとした造りをしており動物を飼っていても快適に過ごすことができる。
この部屋に引っ越してきて数日経つが大きな動物の鳴き声は聞こえてこない。
とてもいい部屋を見つけられたことにとても満足している。
「あーかわいい、大福」
大福の毛がつかないうちにグレーのスエットに着替えて、大福の匂いを堪能する。というか吸っている。
いつものことなので大福少しのうちならじっとしてくれる。しかし長い間堪能していると嫌がって近寄ってくれなくなってしまうので、ほどほどで終わらせるのだ。
大福を解放して入学式で受け取ってきた履修要覧や今後の予定が書かれたプリントを見返す。一年生は座学が多く、主な実習は2年生から行われるようだ。入学前から大まかなカリキュラムを知ってはいたものの、専門的な科目が多く授業についていけるだろうかと、漠然とした不安がやってくる。
「だめだめ、弱気になったら」
想像して不安になってしまうのが僕の悪い癖だ。何事もやってみないとわからない、受験だってなんとか乗り越えられたじゃなか。そう心の中で言い聞かせて、大福に餌をあげ夕食をとり、お風呂に入って入学式の疲れを癒すために早々に眠りについた。
......
嫌な予感ほど的中しやすい、とは誰が言い出した言葉だろうか。
今までの人生の中でこの言葉の意味をこれほど理解したことはない。
「講義についていくのが大変すぎる......」
現在は2限で僕は空きコマ。講義用のテキストと配布されたプリントを片手にカフェテリアの一席に座った。
大学の講義は高校の授業と比べて難易度がぐんと上がる。それは自分でも理解していたはずだ。
けれど現実は想像のさらに先を行く。大学に入学してから1ヶ月余り、課題と講義に追われる毎日だ。
「お、古川がいる。おーい、やさぐれ大学生、どうしたよ」
話しかけてきたのは同じく獣医学部獣医学科一年生の背賀潮だ。獣医学部は他学部と比べて募集している学生の数が少なく、同学年のほとんどが顔見知りという状態。背賀とは必修の講義がいくつか被っており大学に入学して初めてできた友人なのだ。
「お疲れ、背賀。僕は講義についていくのに必死で疲れているよ」
「俺も、俺も。正直ここまできついと思ってなかったっつーか。夢のキャンパスライフはどこへ行ったのかって感じ。受験生と変わりのない生活を送ってる」
「そうだよね、現実を思い知らされている真っ最中」
「高校生の時にここのオーキャンに来た時は、大学生たちがみんなキラキラして見えたのにな」
「今は全員が灰色のオーラを身にまとっているようにしか見えない」
「それはお前がそうだからだろ!」
僕の言葉に笑いながら背賀は隣の席に腰掛けてきた。彼も僕と同じように大量の配布プリントを持っている。
「このプリントを次の講義までに仕上げてこいだってさ。マジ、無理ゲー」
「でもやるしかないんだよ、僕たちは」
「だよなー!」
3限の講義に向けて課題を済ませ予習もしておかなければ。本来なら事前に家で課題は済ませておきたいと思っているがいかんせん時間がなく、課題は半分までしか終わっていない。
芳賀も同じような状況らしく少し会話をした後、2限の講義終了時間まで課題と勉強を続けた。
......
「今日の講義も疲れたー!」
4限の講義が終了し帰路に着く。日はほとんど落ちかけていて辺りの住宅からは夕飯のいい香りがしてきた。
その香りにそそのかされて腹がぐぅーと音を立てた。周囲に人がちらほらいるので聞かれていたら恥ずかしいなと思いつつコンビニに寄り夕飯を買った。
コンビニ飯は健康に良くないと思いつつも時間がないからと頼ってしまう。もっとも時間があったとしても料理下手な僕はいずれ頼ってしまっていたと思うけれど。
アパートも到着し、部屋に入るためにリュックの中から鍵を取り出そうと手を入れた。
部屋の鍵はいつもリュックのいちばん手前のポケットに入れているのだがそこにはなかった。もしかしたらリュックの底に落ちてしまったのかもしれないと思い、教科書などの中身を出して鍵を探す。鍵には見つけやすいように鈴がついている猫のストラップをつけていた。
だがどこにも見当たらない。今朝部屋を出る時に戸締りはしたため、鍵を閉め忘れたということはない。
つまりどこかへ落としてきたのだ。
「どうしよう」
自分一人だけであれば一晩どこか別の場所に泊まり、翌日鍵を探すことは簡単だ。
けれど部屋の中には大福がいる。大事な大福を一晩でも一匹で部屋に残しておくことはできない。
背中に冷や汗が垂れた。
「大学に落とし物として届いてないか確認してみよう」
大学のホームページから管理課への電話番号を確認し、スマホで連絡を入れる。
しかし無情にも流れてきたのは自動音声だった。すでに就業時間は過ぎており、用事がある人は明日再び連絡をするようにとアナウンスがあった。
時間が経過するにすれて焦りが募っていく。
どうしよう、この時にも大福は自分の帰りを心細く待っているかもしれない。そう思うとやりきれなくなった。
「どうしよう」
大学が忙しいからと注意力散漫になり、部屋の鍵を無くしてしまうなんて。ポンコツ加減に呆れてしまう。しまいには目尻に涙が滲んできた。
泣いても事態は解決しない。けれど慣れない環境の中での一人暮らしと忙しい大学生生活で疲れが溜まっていた。
灰色のコンクリートに水滴が丸い影を作っていく。
その時アパートの階段を登りこちらの方へ近づいてくる足音が聞こえた。慌てて涙を拭う。できるだけ顔を見られないようにフードをかぶって顔を隠した。
「君、ここで立ったまま何してんの」
下から上がってきたであろう足音の持ち主がしっとりとした低い声でそう言った。焦る心をそっと鎮めてくれるような落ち着いた声だった。
このまま顔を隠したままでは失礼だと思いフードをとった。
僕に声をかけてくれた男性は少し髪が長くて前髪をセンター分けにしており、ゆるいけれどだらしなくないセットアップのスエットを着ていた。肩にはブランドのロゴが入ったトートバックがかけられている。
色男という言葉がぴったりな風貌でこういう人が女性にモテるのだろう。
「す、すみません。こんなところに立っていて邪魔ですよね。僕すぐにどきますから......」
「いや、大丈夫。俺の部屋君が立っている部屋の手前の部屋に住んでるから。さっきも言ったけどそこで立ったままどうしたの。この部屋の人に用事があるとか?」
「違います。あ、えっと、用はあるんですけど、ここは僕の部屋で。鍵を無くしてしまって」
「ねえ、その鍵ってもしかしてこれ?」
チャリンという音と共に声の主が出したのは猫のストラップがついた僕の部屋の鍵だった。
「それです! 僕の部屋の鍵!」
「そっかよかった。今朝この廊下に落ちてたんだよね。このアパートの人じゃない誰かに取られたらまずいと思ってひとまず拾って、後で大家さんに渡しに行くつもりだったんだけど......そっかよかった持ち主が見つかって」
そして彼は念の為と言って僕の学生証と表札の名字を確認した後、鍵を渡してくれた。
「本当にありがとうございます!」
「いえいえ、鍵を拾ったのは偶然だから」
「今度何かお礼をさせてください。僕、古川京介と言います」
「俺は丁嵐蒼樹。今回のことは気にしないでいいから」
「でも何か......」
「いーのいーの。こういう時はお言葉に甘えておくものだよ。それに今日どうしても部屋に帰りたかったみたいだし。泣きべそかいてたでしょ」
「見ていたんですか、恥ずかしい」
丁嵐さんはそう言った後何かひらめいたように、口にした。
「じゃあさ今日どうしても部屋に入りたかった理由を教えてよ。それで今回の鍵の件はチャラってことで」
「それだけでいいんですか?」
「それだけっていうか、俺が聞きたがっているのは立派な個人情報だよ。ちゃんと警戒しなさいね」
「え? た、確かに......」
丁嵐さんのいうことはもっともなことだと思った。僕と彼はつい先ほど出会った、赤の他人ではないけれどほとんど素性を知らない人同士。
けれど不審者であればここまで親切に忠告はしてくれないだろう。僕は彼を信用することに決めた。
「それでは丁嵐さんを信用してお話ししたいと思います。今日帰りたかった理由は、僕が猫を飼っているからです。オスの雑種で大福って名前なんです。僕、今まで大福に丸一日留守番とかさせたことなくて、心配で。どうしても帰りたかったんです」
「そっかー。あのさ、さっきの付け足すようで悪いんだけど、俺にもその猫に合わせてよ。お願い」
「か、構いませんけど」
丁嵐さんに手を合わせてお願いされ少し驚いた。
大福は元野良猫だが人懐っこい。初対面の人に対しても物怖じしない。きっと彼に合わせても大丈夫だろう。
「マジで!? 俺、猫好きなんだ」
端正な顔がくしゃりとする。
このアパートはペットの飼育が許可されている物件で住人も動物好きな人が多いと入居前に大家さんから聞いた。彼もそのうちの一人のようだ。
僕のこれまでの経験上、動物に関する話題はペットを飼っているもしくは興味がある女子くらいとしか話すことができなかった。
獣医学部に合格して芳賀のように動物に興味がある男子と出会うことができたがそれは大学内での話だ。
だから普段の生活の中で動物、ましてや猫が好きな人と出会うことができて嬉しい。
丁嵐さんに拾ってもらった鍵で部屋の扉を開ける。彼に断ってまず僕だけで部屋の中に入り大福の様子を確認した。
大福はお気に入りの猫用クッションの上で毛繕いをしていた。いつもと変わらない様子に安堵する。
ただいまと声をかけ少し固い毛を撫でた後、再び玄関へ向かった。
「丁嵐さんどうぞ、入ってください」
扉を開けるとちょうど丁嵐さんが部屋から出てくるところだった。
「ありがとう。今、部屋に荷物置いてきたとこ。手も石鹸でちゃんと洗ってきたよ」
大福に会う準備は万端というわけだ。家族以外で初めて部屋に人を招き入れるということもあって少し緊張する。
「お邪魔しまーす」
丁嵐さんが僕の部屋に入ると猫用クッションの上でくつろいでいた大福の耳がピンと立った。見知らぬ人の声に反応しているのだろう。
僕は床に座りながら大福が興奮しすぎないようにそっと持ち上げてそっと撫でた。
「大福ー、今日は隣の部屋の丁嵐さんが来てくれたよ。僕が鍵を無くしていたところを助けてくれた人。丁嵐さんは猫が好きで大福に会いって言ってくれたんだ」
「大福、初めまして。俺は隣の部屋の丁嵐です」
丁嵐さんは僕と同じように床に腰を下ろし腕の中にいる大福に挨拶をした。
大福は彼を観察するようにじっと見つめた後、にゃーんと鳴いて僕の腕の中から抜け出し膝にすりっと頭を擦り付けた。
「うわ、かわいー」
「大福は人懐っこいんです。そのまま撫でてもらっても大丈夫です」
「本当に!? 嬉しいな。大福ー、俺が触ってもいい?」
その言葉に了承するかのように大福はまたにゃーんと鳴いた。
感極まった様子の丁嵐さんはそっと大福の背を撫でた。人の体温に反応した大福は彼の手のひらに体を委ねる。
元野良猫であることをすっかり忘れてしまっているのか安心した様子を見せている。
丁嵐さんも猫好きとあって、猫が触られて喜ぶツボを押さえているように見えた。
「こんなに人懐っこい猫には初めて会ったよ」
大福を撫でながら丁嵐さんは言った。
僕も彼の意見には賛成だった。今まで知り合いの人が飼っている猫に会ったことはあるが猫の習性ゆえに警戒心が強く、一度会っただけではあまり心を開いてくれる様子はなかった。
「そうですよね、初めて会った人には大抵驚かれるんです。大福は元野良猫なんですけどね。そんなことが信じられないくらい人好きで」
「元野良猫!? 本当に人懐っこいんだね、大福は。みんなに可愛がられて嬉しいんだな」
大福は丁嵐さんに撫でられて気持ちよさそうだ。僕は丁嵐さんに出す用のお茶を準備している。大福の夕ご飯も皿の上に盛り付けた。
「丁嵐さん、お茶でもどうぞ。改めまして今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。お礼は今こうしてもらってるし、俺も大福に会わせてくれてありがとうって感じだよ」
部屋に置かれているローテーブルにお茶の入ったコップを置き、大福のご飯はペットゲージの中に入れた。
ご飯を見るや否や丁嵐さんの手の中から抜け出し、ガツガツと食べ始める。ご飯には目がないのだ。
「ねえ古川くんてさ、雪華大学の獣医学部の獣医学科生なんだよね?」
「はいそうです」
先ほど名前を確認する時に見せた学生証に書いてあるのを見ていたのだろう。
「もしかしてあの荷物がパンパンに詰まっていそうなリュックの中は課題でいっぱいだったりする?」
「その通りです......」
「やっぱり! 実は俺も雪華大獣医学部獣医学科の学生なんだよ。今年は三年生。うちの学部って1年生の初めから課題がめっちゃ多いんだよなー」
まさか丁嵐さんも獣医学部の生徒だったとは。
思いもよらない話を聞いて脳内に一瞬邪な考えが浮かんだ。
(課題を見てもらいたい、あわよくば内容を解説もお願いしたい)
すぐにその考えを打ち消す。今日の鍵の件でもお世話になったのにさらにお願いまでしてしまうのは申し訳ない。でもせっかく会えた上級生に課題や授業の相談をしたい。相反する気持ちがせめぎ合い、数分後1つの答えを出した。
「あの丁嵐さん、これは僕からの無理を承知でのお願いです。今僕は大学の授業と課題で手いっぱいで、できればお時間がある時に課題を見ていただいたり、内容の解説をしていただきたいです。もちろんお礼はなんでもします」
僕は丁嵐さんに頭を下げた。大学生になったのだから勉強や課題の管理は自分で行うことは当たり前だろう。これは恥を忍んでのお願いだ。
夕ご飯を食べ終えた大福とおもちゃで遊んでいた丁嵐先輩は僕の言葉を聞いて手を止めた。
「古川くん、そんなに改まらなくても大丈夫だよ。俺もそのつもりでさっき大学と学部の名前を確認したし。そこまで意地悪じゃない。うちの大学は上級生と下級生のつながりが強いんだ。俺が一年の時も先輩たちにお世話になった。お礼は......大福に合わせてくれる機会を得ることでお願いしようかな」
丁嵐さんの言葉がみことばのように聞こえてくる。まさに救世主。
「お願いします! これからよろしくお願います」
「こちらこそ。じゃあ今からそこのリュックに入っている課題を片付けちゃおっか」
「はい!」
願ってもみなかった提案に自然と声に力が入った。
憧れの大学に入学してから早一ヶ月。課題と授業に追われる毎日を過ごしていた僕の前に丁嵐さんというイケメンで頼れる隣人が登場した。
......
いつもの空きコマ、僕と芳賀はカフェテリアに集まって課題を片手に談笑していた。
「で、その丁嵐さんという上級生に勉強を見てもらってるってわけね」
「そうなんだ。説明がわかりやすくて、授業の内容も前より理解しやすくなってきた」
「いーな。俺もそんな先輩が欲しい」
丁嵐さんに関する話を聞いた芳賀は手元にある課題を見ながら遠い目をした。
「獣医学部は上級生と下級生のつながりが強いって言ってたから、芳賀も知り合いの先輩にわからないところ教えてもらったら? 確かフットボールサークルに入ってたよね」
「うーん、サークル終わった後は先輩たちも疲れて直帰してるしサークルの時に聞くのは難しいと思う」
「サークル前に教えてくださいって頼んでみるとか」
「......今は耐えてどうしようもなくなったら頼んでみることにする」
その後二人で課題を進めているとカフェテリア内がざわめき始めた。今は午前中の講義が行われているのでよほどのことがない限り騒がしくなることはない。
「何かあったのかな」
カフェテリア中の視線が集まっている出入り口の方を見た。
人の影に隠れてはっきりと確認することはできなかった。
「なんかキラキラしてる人たちがいる」
「芳賀見えるの」
「俺の席からだとこの隙間から少し見える。古川もこっち来て見てみろよ」
芳賀に手招きをされ彼の近くに行き人の隙間をぬって様子を伺った。
確かに芳賀の言う通りキラキラした3人組がいた。
キラキラと言っても物理的にではなく存在自体が、と言う感じだ。周りを囲んでいる生徒たちと比べて背が高く、遠くから見ても顔が整っていることがわかった。
「あの人たちかっこいいな。特にあの真ん中にいるセンター分けの人なんか特に。着てるのもハイブラの新作だ。えぐ」
「そうだね」
芳賀の言葉にそれだけしか返せなかった。彼も口にしていたセンター分けの人に見覚えがあり、どこかで会った人だったかと思い出していたからだ。
すると入り口付近に固まっていた人の波が動き始めた。
「あの3人こっちの方に来る」
少し興奮気味に芳賀が言った。
僕はだんだんとその3人組の姿が明確になるにつれて、先ほど抱いた印象に納得した。
「あの3人のうちの一人、僕の知り合いの人だ」
「マジで? あのキラキラした上級生と?」
「芳賀、それどういう意味」
「いや雲の上の存在すぎるだろ、特に顔面偏差値とか。他意はない!」
思ったことを素直に伝えられるのが彼のいいところであり、ちょっとして欠点でもある。悪意がないことはわかったので何も言わないでおく。
その間にも3人組を取り巻く人の波はだんだんと近づいてくる。
「やっぱり古川くんだ。友達と勉強中?」
僕たちがいる方に歩いてきていた三人組のうちの一人ーー丁嵐蒼樹先輩は色気のある顔を少し緩ませて微笑んだ。
課題や講義の内容でわからなかったところを説明してもらうのは僕の部屋でやっているため、きっちりとした外向きの格好をしているのを見るのは初めてだ。
いつものゆるいセットアップのスエットを着ている時でさえかっこいいと思っていたのに、破壊力が全く違う。
「そうです。2限は空きコマなので、同期の芳賀と一緒に勉強してました」
変に緊張して声が震えそうになる。
高校生の時、学校外で友人と会ってしまった時と同じようななんとも言えない居心地の悪さを感じた。まるでのぞいてはいけない新たな一面を偶然目撃してしまったような。
一方で僕の正面の席に座っていた芳賀は先ほどかっこいいと評していた先輩たちが目の前にやってきたこともあり口をパクパクさせて放心状態だった。
「そっか、二人とも真面目だね。こっちの二人は御宝と本城。どっちも俺の同期で獣医学部の三年生」
「初めまして、獣医学部獣医学科の御宝です。古川くんの話は丁嵐から聞いているよ」
「それな、隣の部屋に猫を飼っている一年が引っ越してきたとか言って。俺は本城、二人と同じ獣医学科の3年生」
丁嵐先輩と一緒にいた二人は獣医学部獣医学科所属の御宝と本庄と名乗った。
御宝先輩は金縁眼鏡をかけた大人しく繊細そうな人で、本庄先輩は日に焼けていて体育会系の人という印象を受けた。
「獣医学科一年の古川です。丁嵐先輩にはいつもお世話になっています。お二人ともよろしくお願いします」
「同じく獣医学科一年の芳賀です。よろしくお願いします」
キラキラした上級生に話しかけられて僕と芳賀は緊張していた。
「よろしく! しっかし丁嵐が後輩の面倒を見てるなんて意外だと思ったけど、素直そうないい子だな。これは助けたくもなる」
「本城、変な言い方するなよ。俺が面倒見が良くないみたいだろ」
「事実だろ! 後輩の前だからっていい顔すんな」
「してないし」
本庄先輩がからかって、丁嵐先輩がそれに対して拗ねている。同期の前だと丁嵐先輩は僕の前よりも幼くなるようだ。
二人のやりとりは珍しくないのか御宝先輩は呆れたような、またかというような表情で見ていた。
「ほらそこ二人、俺たちを置いてきぼりにするなよ。それに俺たち3人は昼に教授の研究室に呼ばれてるだろ。購買によってもう行かないと」
「そうだった、忘れてたわ」
「もうそろそろ時間か。......それじゃ古川くん、また勉強会でね」
丁嵐先輩たちは昼休みに用事があるようでもう向かわなければいけないようだ。
三人はカフェテリアに来た時と同じように学生たちに視線を向けられながら去っていく。
しかしカフェテリアを出る直前、御宝先輩が何かを思い出したかのように僕たちの席まで戻ってきた。
「そうだった、俺古川くんに伝えておきたいことがあったんだ」
早歩きでやってきた彼はそう言った。そして僕だけに聞こえるように耳元で囁いた。
「丁嵐はさ、みんなに人当たりがいいんだ。それはいいことのように聞こえるかもしれないけど、特定の特別な人を作らないってことでもある。あんまり心を開かない方がいい。......あいつ女遊びが激しいプレイボーイだからさ」
「!?」
それだけ言うと御宝先輩は何事もなかったように、じゃあね、と言ってカフェテリアを出て行った。
「どうしたんだろうな、御宝先輩。古川なんか言われてたけど、何言われたんだ?」
芳賀が不思議そうに聞いてきた。申し訳ないけれどその問いには答えられなかった。
(丁嵐先輩がプレイボーイ? それに友達に対してあんな言い方、ある?)
疑問がたくさん浮かんできては消え、午後の授業はまともに集中せることができなかった。
今年大学に入学する新入生のために貸し切られた大きな会場に学長の声が響いた。着慣れないスーツを身に纏った学生たちは背筋を伸ばして学長の言葉に必死に耳を傾けていた。
僕、古川京介も例に漏れずそのうちの一人である。ここまで緊張感が漂っているのは僕たちが合格した学部が獣医学部だからだろう。国内では学部の設置が少なく、それに伴って倍率が他の学部よりも高い。
中学生の頃から獣医学部獣医学科を目指していた僕は必死に勉強をして現役で合格を果たした。
他の新入生たちも同じような境遇なのだろう。そのため気の抜けたやる気のない学生は見当たらなかった。
「この大学では皆さんが真剣に勉学に励み、切磋琢磨しあうことができる環境を提供いたします。皆さんの門出が素晴らしいものでありますように」
学長の最後の一言で入学式は無事に締めくくられた。
......
「ただいまー」
入学式を終え、帰宅をした。『おかえり』と返ってくる言葉はない。実家を出て一人暮らしを始めたためだ。
昨日までは母が新居の片付け兼入学式を見届けるために滞在していたがつい先ほど駅で別れ、実家へ戻って行った。
初めての一人暮らしで寂しさも感じるけれど自分だけの城を得たような気分にもなった。独り立ちの一歩みたいだな、と思う。
それに加えて僕は一人暮らしをするが部屋にひとりきりというわけではない。
靴を脱いでいるとキイと部屋へ続く扉が開けられる音がする。
「大福、お迎えに来てくれたのかー!」
出迎えてくれたのは僕が高校生の頃に公園に捨てられていたのを発見して引き取ったオス猫で、名前は大福と言う。由来は黒のマダラ模様で口元に黒豆みたいなほくろがついていることから。
引き取った時は警戒心が強く世話をすることに苦労したが現在はすっかり家猫が板について帰宅した家族を出迎えてくれるまでに成長した。
初めて飼った猫である大福と離れたくなくて一人暮らしの部屋はペット可の物件を探した。小さなアパートだがリノベ物件でしっかりとした造りをしており動物を飼っていても快適に過ごすことができる。
この部屋に引っ越してきて数日経つが大きな動物の鳴き声は聞こえてこない。
とてもいい部屋を見つけられたことにとても満足している。
「あーかわいい、大福」
大福の毛がつかないうちにグレーのスエットに着替えて、大福の匂いを堪能する。というか吸っている。
いつものことなので大福少しのうちならじっとしてくれる。しかし長い間堪能していると嫌がって近寄ってくれなくなってしまうので、ほどほどで終わらせるのだ。
大福を解放して入学式で受け取ってきた履修要覧や今後の予定が書かれたプリントを見返す。一年生は座学が多く、主な実習は2年生から行われるようだ。入学前から大まかなカリキュラムを知ってはいたものの、専門的な科目が多く授業についていけるだろうかと、漠然とした不安がやってくる。
「だめだめ、弱気になったら」
想像して不安になってしまうのが僕の悪い癖だ。何事もやってみないとわからない、受験だってなんとか乗り越えられたじゃなか。そう心の中で言い聞かせて、大福に餌をあげ夕食をとり、お風呂に入って入学式の疲れを癒すために早々に眠りについた。
......
嫌な予感ほど的中しやすい、とは誰が言い出した言葉だろうか。
今までの人生の中でこの言葉の意味をこれほど理解したことはない。
「講義についていくのが大変すぎる......」
現在は2限で僕は空きコマ。講義用のテキストと配布されたプリントを片手にカフェテリアの一席に座った。
大学の講義は高校の授業と比べて難易度がぐんと上がる。それは自分でも理解していたはずだ。
けれど現実は想像のさらに先を行く。大学に入学してから1ヶ月余り、課題と講義に追われる毎日だ。
「お、古川がいる。おーい、やさぐれ大学生、どうしたよ」
話しかけてきたのは同じく獣医学部獣医学科一年生の背賀潮だ。獣医学部は他学部と比べて募集している学生の数が少なく、同学年のほとんどが顔見知りという状態。背賀とは必修の講義がいくつか被っており大学に入学して初めてできた友人なのだ。
「お疲れ、背賀。僕は講義についていくのに必死で疲れているよ」
「俺も、俺も。正直ここまできついと思ってなかったっつーか。夢のキャンパスライフはどこへ行ったのかって感じ。受験生と変わりのない生活を送ってる」
「そうだよね、現実を思い知らされている真っ最中」
「高校生の時にここのオーキャンに来た時は、大学生たちがみんなキラキラして見えたのにな」
「今は全員が灰色のオーラを身にまとっているようにしか見えない」
「それはお前がそうだからだろ!」
僕の言葉に笑いながら背賀は隣の席に腰掛けてきた。彼も僕と同じように大量の配布プリントを持っている。
「このプリントを次の講義までに仕上げてこいだってさ。マジ、無理ゲー」
「でもやるしかないんだよ、僕たちは」
「だよなー!」
3限の講義に向けて課題を済ませ予習もしておかなければ。本来なら事前に家で課題は済ませておきたいと思っているがいかんせん時間がなく、課題は半分までしか終わっていない。
芳賀も同じような状況らしく少し会話をした後、2限の講義終了時間まで課題と勉強を続けた。
......
「今日の講義も疲れたー!」
4限の講義が終了し帰路に着く。日はほとんど落ちかけていて辺りの住宅からは夕飯のいい香りがしてきた。
その香りにそそのかされて腹がぐぅーと音を立てた。周囲に人がちらほらいるので聞かれていたら恥ずかしいなと思いつつコンビニに寄り夕飯を買った。
コンビニ飯は健康に良くないと思いつつも時間がないからと頼ってしまう。もっとも時間があったとしても料理下手な僕はいずれ頼ってしまっていたと思うけれど。
アパートも到着し、部屋に入るためにリュックの中から鍵を取り出そうと手を入れた。
部屋の鍵はいつもリュックのいちばん手前のポケットに入れているのだがそこにはなかった。もしかしたらリュックの底に落ちてしまったのかもしれないと思い、教科書などの中身を出して鍵を探す。鍵には見つけやすいように鈴がついている猫のストラップをつけていた。
だがどこにも見当たらない。今朝部屋を出る時に戸締りはしたため、鍵を閉め忘れたということはない。
つまりどこかへ落としてきたのだ。
「どうしよう」
自分一人だけであれば一晩どこか別の場所に泊まり、翌日鍵を探すことは簡単だ。
けれど部屋の中には大福がいる。大事な大福を一晩でも一匹で部屋に残しておくことはできない。
背中に冷や汗が垂れた。
「大学に落とし物として届いてないか確認してみよう」
大学のホームページから管理課への電話番号を確認し、スマホで連絡を入れる。
しかし無情にも流れてきたのは自動音声だった。すでに就業時間は過ぎており、用事がある人は明日再び連絡をするようにとアナウンスがあった。
時間が経過するにすれて焦りが募っていく。
どうしよう、この時にも大福は自分の帰りを心細く待っているかもしれない。そう思うとやりきれなくなった。
「どうしよう」
大学が忙しいからと注意力散漫になり、部屋の鍵を無くしてしまうなんて。ポンコツ加減に呆れてしまう。しまいには目尻に涙が滲んできた。
泣いても事態は解決しない。けれど慣れない環境の中での一人暮らしと忙しい大学生生活で疲れが溜まっていた。
灰色のコンクリートに水滴が丸い影を作っていく。
その時アパートの階段を登りこちらの方へ近づいてくる足音が聞こえた。慌てて涙を拭う。できるだけ顔を見られないようにフードをかぶって顔を隠した。
「君、ここで立ったまま何してんの」
下から上がってきたであろう足音の持ち主がしっとりとした低い声でそう言った。焦る心をそっと鎮めてくれるような落ち着いた声だった。
このまま顔を隠したままでは失礼だと思いフードをとった。
僕に声をかけてくれた男性は少し髪が長くて前髪をセンター分けにしており、ゆるいけれどだらしなくないセットアップのスエットを着ていた。肩にはブランドのロゴが入ったトートバックがかけられている。
色男という言葉がぴったりな風貌でこういう人が女性にモテるのだろう。
「す、すみません。こんなところに立っていて邪魔ですよね。僕すぐにどきますから......」
「いや、大丈夫。俺の部屋君が立っている部屋の手前の部屋に住んでるから。さっきも言ったけどそこで立ったままどうしたの。この部屋の人に用事があるとか?」
「違います。あ、えっと、用はあるんですけど、ここは僕の部屋で。鍵を無くしてしまって」
「ねえ、その鍵ってもしかしてこれ?」
チャリンという音と共に声の主が出したのは猫のストラップがついた僕の部屋の鍵だった。
「それです! 僕の部屋の鍵!」
「そっかよかった。今朝この廊下に落ちてたんだよね。このアパートの人じゃない誰かに取られたらまずいと思ってひとまず拾って、後で大家さんに渡しに行くつもりだったんだけど......そっかよかった持ち主が見つかって」
そして彼は念の為と言って僕の学生証と表札の名字を確認した後、鍵を渡してくれた。
「本当にありがとうございます!」
「いえいえ、鍵を拾ったのは偶然だから」
「今度何かお礼をさせてください。僕、古川京介と言います」
「俺は丁嵐蒼樹。今回のことは気にしないでいいから」
「でも何か......」
「いーのいーの。こういう時はお言葉に甘えておくものだよ。それに今日どうしても部屋に帰りたかったみたいだし。泣きべそかいてたでしょ」
「見ていたんですか、恥ずかしい」
丁嵐さんはそう言った後何かひらめいたように、口にした。
「じゃあさ今日どうしても部屋に入りたかった理由を教えてよ。それで今回の鍵の件はチャラってことで」
「それだけでいいんですか?」
「それだけっていうか、俺が聞きたがっているのは立派な個人情報だよ。ちゃんと警戒しなさいね」
「え? た、確かに......」
丁嵐さんのいうことはもっともなことだと思った。僕と彼はつい先ほど出会った、赤の他人ではないけれどほとんど素性を知らない人同士。
けれど不審者であればここまで親切に忠告はしてくれないだろう。僕は彼を信用することに決めた。
「それでは丁嵐さんを信用してお話ししたいと思います。今日帰りたかった理由は、僕が猫を飼っているからです。オスの雑種で大福って名前なんです。僕、今まで大福に丸一日留守番とかさせたことなくて、心配で。どうしても帰りたかったんです」
「そっかー。あのさ、さっきの付け足すようで悪いんだけど、俺にもその猫に合わせてよ。お願い」
「か、構いませんけど」
丁嵐さんに手を合わせてお願いされ少し驚いた。
大福は元野良猫だが人懐っこい。初対面の人に対しても物怖じしない。きっと彼に合わせても大丈夫だろう。
「マジで!? 俺、猫好きなんだ」
端正な顔がくしゃりとする。
このアパートはペットの飼育が許可されている物件で住人も動物好きな人が多いと入居前に大家さんから聞いた。彼もそのうちの一人のようだ。
僕のこれまでの経験上、動物に関する話題はペットを飼っているもしくは興味がある女子くらいとしか話すことができなかった。
獣医学部に合格して芳賀のように動物に興味がある男子と出会うことができたがそれは大学内での話だ。
だから普段の生活の中で動物、ましてや猫が好きな人と出会うことができて嬉しい。
丁嵐さんに拾ってもらった鍵で部屋の扉を開ける。彼に断ってまず僕だけで部屋の中に入り大福の様子を確認した。
大福はお気に入りの猫用クッションの上で毛繕いをしていた。いつもと変わらない様子に安堵する。
ただいまと声をかけ少し固い毛を撫でた後、再び玄関へ向かった。
「丁嵐さんどうぞ、入ってください」
扉を開けるとちょうど丁嵐さんが部屋から出てくるところだった。
「ありがとう。今、部屋に荷物置いてきたとこ。手も石鹸でちゃんと洗ってきたよ」
大福に会う準備は万端というわけだ。家族以外で初めて部屋に人を招き入れるということもあって少し緊張する。
「お邪魔しまーす」
丁嵐さんが僕の部屋に入ると猫用クッションの上でくつろいでいた大福の耳がピンと立った。見知らぬ人の声に反応しているのだろう。
僕は床に座りながら大福が興奮しすぎないようにそっと持ち上げてそっと撫でた。
「大福ー、今日は隣の部屋の丁嵐さんが来てくれたよ。僕が鍵を無くしていたところを助けてくれた人。丁嵐さんは猫が好きで大福に会いって言ってくれたんだ」
「大福、初めまして。俺は隣の部屋の丁嵐です」
丁嵐さんは僕と同じように床に腰を下ろし腕の中にいる大福に挨拶をした。
大福は彼を観察するようにじっと見つめた後、にゃーんと鳴いて僕の腕の中から抜け出し膝にすりっと頭を擦り付けた。
「うわ、かわいー」
「大福は人懐っこいんです。そのまま撫でてもらっても大丈夫です」
「本当に!? 嬉しいな。大福ー、俺が触ってもいい?」
その言葉に了承するかのように大福はまたにゃーんと鳴いた。
感極まった様子の丁嵐さんはそっと大福の背を撫でた。人の体温に反応した大福は彼の手のひらに体を委ねる。
元野良猫であることをすっかり忘れてしまっているのか安心した様子を見せている。
丁嵐さんも猫好きとあって、猫が触られて喜ぶツボを押さえているように見えた。
「こんなに人懐っこい猫には初めて会ったよ」
大福を撫でながら丁嵐さんは言った。
僕も彼の意見には賛成だった。今まで知り合いの人が飼っている猫に会ったことはあるが猫の習性ゆえに警戒心が強く、一度会っただけではあまり心を開いてくれる様子はなかった。
「そうですよね、初めて会った人には大抵驚かれるんです。大福は元野良猫なんですけどね。そんなことが信じられないくらい人好きで」
「元野良猫!? 本当に人懐っこいんだね、大福は。みんなに可愛がられて嬉しいんだな」
大福は丁嵐さんに撫でられて気持ちよさそうだ。僕は丁嵐さんに出す用のお茶を準備している。大福の夕ご飯も皿の上に盛り付けた。
「丁嵐さん、お茶でもどうぞ。改めまして今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。お礼は今こうしてもらってるし、俺も大福に会わせてくれてありがとうって感じだよ」
部屋に置かれているローテーブルにお茶の入ったコップを置き、大福のご飯はペットゲージの中に入れた。
ご飯を見るや否や丁嵐さんの手の中から抜け出し、ガツガツと食べ始める。ご飯には目がないのだ。
「ねえ古川くんてさ、雪華大学の獣医学部の獣医学科生なんだよね?」
「はいそうです」
先ほど名前を確認する時に見せた学生証に書いてあるのを見ていたのだろう。
「もしかしてあの荷物がパンパンに詰まっていそうなリュックの中は課題でいっぱいだったりする?」
「その通りです......」
「やっぱり! 実は俺も雪華大獣医学部獣医学科の学生なんだよ。今年は三年生。うちの学部って1年生の初めから課題がめっちゃ多いんだよなー」
まさか丁嵐さんも獣医学部の生徒だったとは。
思いもよらない話を聞いて脳内に一瞬邪な考えが浮かんだ。
(課題を見てもらいたい、あわよくば内容を解説もお願いしたい)
すぐにその考えを打ち消す。今日の鍵の件でもお世話になったのにさらにお願いまでしてしまうのは申し訳ない。でもせっかく会えた上級生に課題や授業の相談をしたい。相反する気持ちがせめぎ合い、数分後1つの答えを出した。
「あの丁嵐さん、これは僕からの無理を承知でのお願いです。今僕は大学の授業と課題で手いっぱいで、できればお時間がある時に課題を見ていただいたり、内容の解説をしていただきたいです。もちろんお礼はなんでもします」
僕は丁嵐さんに頭を下げた。大学生になったのだから勉強や課題の管理は自分で行うことは当たり前だろう。これは恥を忍んでのお願いだ。
夕ご飯を食べ終えた大福とおもちゃで遊んでいた丁嵐先輩は僕の言葉を聞いて手を止めた。
「古川くん、そんなに改まらなくても大丈夫だよ。俺もそのつもりでさっき大学と学部の名前を確認したし。そこまで意地悪じゃない。うちの大学は上級生と下級生のつながりが強いんだ。俺が一年の時も先輩たちにお世話になった。お礼は......大福に合わせてくれる機会を得ることでお願いしようかな」
丁嵐さんの言葉がみことばのように聞こえてくる。まさに救世主。
「お願いします! これからよろしくお願います」
「こちらこそ。じゃあ今からそこのリュックに入っている課題を片付けちゃおっか」
「はい!」
願ってもみなかった提案に自然と声に力が入った。
憧れの大学に入学してから早一ヶ月。課題と授業に追われる毎日を過ごしていた僕の前に丁嵐さんというイケメンで頼れる隣人が登場した。
......
いつもの空きコマ、僕と芳賀はカフェテリアに集まって課題を片手に談笑していた。
「で、その丁嵐さんという上級生に勉強を見てもらってるってわけね」
「そうなんだ。説明がわかりやすくて、授業の内容も前より理解しやすくなってきた」
「いーな。俺もそんな先輩が欲しい」
丁嵐さんに関する話を聞いた芳賀は手元にある課題を見ながら遠い目をした。
「獣医学部は上級生と下級生のつながりが強いって言ってたから、芳賀も知り合いの先輩にわからないところ教えてもらったら? 確かフットボールサークルに入ってたよね」
「うーん、サークル終わった後は先輩たちも疲れて直帰してるしサークルの時に聞くのは難しいと思う」
「サークル前に教えてくださいって頼んでみるとか」
「......今は耐えてどうしようもなくなったら頼んでみることにする」
その後二人で課題を進めているとカフェテリア内がざわめき始めた。今は午前中の講義が行われているのでよほどのことがない限り騒がしくなることはない。
「何かあったのかな」
カフェテリア中の視線が集まっている出入り口の方を見た。
人の影に隠れてはっきりと確認することはできなかった。
「なんかキラキラしてる人たちがいる」
「芳賀見えるの」
「俺の席からだとこの隙間から少し見える。古川もこっち来て見てみろよ」
芳賀に手招きをされ彼の近くに行き人の隙間をぬって様子を伺った。
確かに芳賀の言う通りキラキラした3人組がいた。
キラキラと言っても物理的にではなく存在自体が、と言う感じだ。周りを囲んでいる生徒たちと比べて背が高く、遠くから見ても顔が整っていることがわかった。
「あの人たちかっこいいな。特にあの真ん中にいるセンター分けの人なんか特に。着てるのもハイブラの新作だ。えぐ」
「そうだね」
芳賀の言葉にそれだけしか返せなかった。彼も口にしていたセンター分けの人に見覚えがあり、どこかで会った人だったかと思い出していたからだ。
すると入り口付近に固まっていた人の波が動き始めた。
「あの3人こっちの方に来る」
少し興奮気味に芳賀が言った。
僕はだんだんとその3人組の姿が明確になるにつれて、先ほど抱いた印象に納得した。
「あの3人のうちの一人、僕の知り合いの人だ」
「マジで? あのキラキラした上級生と?」
「芳賀、それどういう意味」
「いや雲の上の存在すぎるだろ、特に顔面偏差値とか。他意はない!」
思ったことを素直に伝えられるのが彼のいいところであり、ちょっとして欠点でもある。悪意がないことはわかったので何も言わないでおく。
その間にも3人組を取り巻く人の波はだんだんと近づいてくる。
「やっぱり古川くんだ。友達と勉強中?」
僕たちがいる方に歩いてきていた三人組のうちの一人ーー丁嵐蒼樹先輩は色気のある顔を少し緩ませて微笑んだ。
課題や講義の内容でわからなかったところを説明してもらうのは僕の部屋でやっているため、きっちりとした外向きの格好をしているのを見るのは初めてだ。
いつものゆるいセットアップのスエットを着ている時でさえかっこいいと思っていたのに、破壊力が全く違う。
「そうです。2限は空きコマなので、同期の芳賀と一緒に勉強してました」
変に緊張して声が震えそうになる。
高校生の時、学校外で友人と会ってしまった時と同じようななんとも言えない居心地の悪さを感じた。まるでのぞいてはいけない新たな一面を偶然目撃してしまったような。
一方で僕の正面の席に座っていた芳賀は先ほどかっこいいと評していた先輩たちが目の前にやってきたこともあり口をパクパクさせて放心状態だった。
「そっか、二人とも真面目だね。こっちの二人は御宝と本城。どっちも俺の同期で獣医学部の三年生」
「初めまして、獣医学部獣医学科の御宝です。古川くんの話は丁嵐から聞いているよ」
「それな、隣の部屋に猫を飼っている一年が引っ越してきたとか言って。俺は本城、二人と同じ獣医学科の3年生」
丁嵐先輩と一緒にいた二人は獣医学部獣医学科所属の御宝と本庄と名乗った。
御宝先輩は金縁眼鏡をかけた大人しく繊細そうな人で、本庄先輩は日に焼けていて体育会系の人という印象を受けた。
「獣医学科一年の古川です。丁嵐先輩にはいつもお世話になっています。お二人ともよろしくお願いします」
「同じく獣医学科一年の芳賀です。よろしくお願いします」
キラキラした上級生に話しかけられて僕と芳賀は緊張していた。
「よろしく! しっかし丁嵐が後輩の面倒を見てるなんて意外だと思ったけど、素直そうないい子だな。これは助けたくもなる」
「本城、変な言い方するなよ。俺が面倒見が良くないみたいだろ」
「事実だろ! 後輩の前だからっていい顔すんな」
「してないし」
本庄先輩がからかって、丁嵐先輩がそれに対して拗ねている。同期の前だと丁嵐先輩は僕の前よりも幼くなるようだ。
二人のやりとりは珍しくないのか御宝先輩は呆れたような、またかというような表情で見ていた。
「ほらそこ二人、俺たちを置いてきぼりにするなよ。それに俺たち3人は昼に教授の研究室に呼ばれてるだろ。購買によってもう行かないと」
「そうだった、忘れてたわ」
「もうそろそろ時間か。......それじゃ古川くん、また勉強会でね」
丁嵐先輩たちは昼休みに用事があるようでもう向かわなければいけないようだ。
三人はカフェテリアに来た時と同じように学生たちに視線を向けられながら去っていく。
しかしカフェテリアを出る直前、御宝先輩が何かを思い出したかのように僕たちの席まで戻ってきた。
「そうだった、俺古川くんに伝えておきたいことがあったんだ」
早歩きでやってきた彼はそう言った。そして僕だけに聞こえるように耳元で囁いた。
「丁嵐はさ、みんなに人当たりがいいんだ。それはいいことのように聞こえるかもしれないけど、特定の特別な人を作らないってことでもある。あんまり心を開かない方がいい。......あいつ女遊びが激しいプレイボーイだからさ」
「!?」
それだけ言うと御宝先輩は何事もなかったように、じゃあね、と言ってカフェテリアを出て行った。
「どうしたんだろうな、御宝先輩。古川なんか言われてたけど、何言われたんだ?」
芳賀が不思議そうに聞いてきた。申し訳ないけれどその問いには答えられなかった。
(丁嵐先輩がプレイボーイ? それに友達に対してあんな言い方、ある?)
疑問がたくさん浮かんできては消え、午後の授業はまともに集中せることができなかった。



