ここは時が止まった世界。
 鳥は羽搏くことなく羽を広げたまま空に浮き、波止場に打ちつける水しぶきはその形をとどめたまま凍ったようにそこにあり続け、落としたコップは砕けることなく地面スレスレで停止している。
 雲は流れず、陽は落ちず、月は満ちることも欠けることもない。
 ここは時が止まった世界。
 そして。
 私が作り出した、私だけの世界。
 ……の、はずだった。
 私の世界はあの日から一変した。
 電車に轢かれそうになった遼太郎を偶然助けた、あの日から。
 そして今、同じようにトラックに轢かれそうになっている遼太郎を前に、ためらいも迷いもありながら私はそっと手を伸ばす。時間が動き出した遼太郎は道路に飛び出した勢いのまま、原付から転がり落ちる。
 「彩奈……?」
 ズレたヘルメットをもどしながらつぶやく遼太郎に、私はため息が漏れる。
 「なにしてんの」
 「彩奈を探してたんだよ」
 「なんで」
 「なんでって……。会いたかったから」
 遼太郎の言葉が私の心を震えさせる。おもむろに遼太郎に手を伸ばしそうになるが、私は自分の決心を思い出し、静かに腕をおろす。
 「彩奈のお母さんに会ってきた。なんで彩奈の存在自体が消えてるんだよ」
 「……遼太郎を幸せにする魔法をかける時に混ざっちゃったんだと思う」
 「混ざる?」
 「私の、この世界からいなくなりたいって想いが」
 魔法を使うためには強く念じることが大事だと、おばあちゃんは言っていた。
 それに、あの頃の私の魔法は完璧ではなかったのだと思う。その証拠に、私が存在しない世界で遼太郎は私のことを思い出してしまっている。だから。
 「なにしてんの」
 私は手に持った魔法の杖を空へと掲げる。
 「魔力として記憶を消費させるんじゃなくて、今度はちゃんと記憶を消す魔法をかける」
 「やめろっ!」
 私に手を伸ばす遼太郎に対し、私は杖を向ける。
 「動かないで」
 遼太郎の足元に魔方陣が現れ、中から鎖が飛び出し遼太郎の身体を縛る。
 「もうすっかり魔女だな」
 「そうだよ。私は魔女。みんなから忘れられる運命なんだよ。だから」
 私は杖で再び、宙に円を描く。
 「私のことを忘れて」
 そして、幸せになって。
 しかし。
 「あれ、魔法かけた?」
 遼太郎に変化は現れない。私はもう一度杖で円を描く。魔法は確かにかかっているはずなのに、遼太郎は今も私のことを認識できている。
 「どうして……」
 「それが、彩奈の本心なんじゃない?」
 戸惑う私を置いて、遼太郎は腑に落ちた様子でつぶやく。あいかわらず、遼太郎はのみこみが早い。
 「私の、本心?」
 「本当は俺に忘れてほしくないんじゃない?」
 「違う! 私は……」
 自分のことを話そうとすると、泣きそうになってしまうのはなぜだろう。目の奥がぐっと熱くなるのを必死にこらえていると、先に遼太郎が口を開いた。
 「初めて俺と会った日のこと、覚えてる?」
 「うん。遼太郎が線路に落ちて、轢かれそうになってて。ちょうど今みたいに」
 「シチュエーションは今と同じ。けど、中身が違うんだ」
 遼太郎の目に少しの迷いが宿っていた。
 「どういうこと?」
 息を吸う音。吐く音。喉が鳴る音。瞬きの音。血管の中を血が流れる音。
 時間が止まった静寂の中で、私と遼太郎から発せられた音だけが重なり響きあう。
 少しの沈黙の後、遼太郎は静かに言葉を紡ぐ。
 「あの日、俺は死ぬつもりだったんだよ」
 「……え?」
 「学校でいじめられて、家で無視されて。それが毎日。次の日も、その次の日もずっと。本当に時間が止まったみたいな感覚だった。これが一生続くのかって思ったら、いっそこのまま飛び降りちゃえば楽になれるかなって。でも、気がついたら本当に時間が止まってて、彩奈と出会った」
 遼太郎の告白に、私は息をするのも忘れていた。あれが事故じゃなくて、飛び降りだったなんて。だって、遼太郎はそんなことをするような人じゃ……。
 戸惑う私に、遼太郎は眉をあげて自分自身の顔を指さす。
 「時間が止まった世界で彩奈と過ごす間、俺ってちょっとかっこよくなかった?」
 「……は?」
 意味不明な発言に混乱していた思考が停止し、無意識に脳内で遼太郎と過ごした日々が流れ出す。
 私を乗せて原付を運転する遼太郎のうなじ越しの顔。私の心を軽くしてくれた遼太郎の言葉たち。思い返していると、原付のサイドミラーに映る自分の頬が赤くなっているのに気づき、私はうつむきながら呟く。
 「まぁ。多少は……」
 「多少かよ」
 遼太郎が笑い、つられて私も頬がゆるむ。どこかすっきりとした表情の遼太郎を見て、私は今やっと、遼太郎は背負っていた荷物をおろすことができたのだろうと察した。
 「本当は知られるのが怖かったんだ。本当の自分は弱いやつだって。だから、そういうキャラを演じてた。でも、彩奈と一緒にいるうちに素の自分が出てて……、うーん、なにが言いたいかっていうと」
 遼太郎は私の前に立ち、柔らかく微笑む。
 「俺は十分幸せだったよ。彩奈と出会えたから。彩奈と一緒だったから。だからもう、彩奈のことを忘れたくない。これが俺の、本当の気持ち」
 気がつけば私は泣いていた。拭っても拭っても、涙があふれて止まらない。
 遼太郎はいつも私が欲しい言葉をくれる。遼太郎の方が魔法使いなんじゃないかと思えてくるほどだ。
 「彩奈の、本当の気持ちを教えて」
 「私の、本当の気持ち……」
 昔から、本当の気持ちを誰かに伝えるのが怖かった。否定されたくなくて、嫌われたくなくて。
 だから他人の顔色ばかりを窺って、みんなにいい顔をして。そうして長い間、押し殺し、無視し続け、心の奥の方に隠れてしまった私の本当の気持ちに、私はそっと触れる。
 「私は、遼太郎と一緒にいたい。ずっと、ずっと一緒に……」
 瞬間、私の視界は真っ暗になった。息苦しくて、暖かくて。少しして自分は今、遼太郎に抱きしめられていると気づいた。
 あぁ、そうか。
 私はずっと、誰かに抱きしめてほしかったんだ。
 初めて自分の本当の気持ちを言葉にして、私が本当に望んでいたことを知った。
 私は否定されるのが嫌だった。嫌われたくなかった。
 でもそれは同時に、誰かに愛されたかったんだ。
 私は遼太郎を背中に腕を回し、遼太郎を抱きしめる。これまで背中越しだった遼太郎の温もりを正面に感じ、私はまだ信じられない気持ちだった。
 まるで、魔法にかけられたみたいだ。
 そのとき、おばあちゃんの言葉の続きを思いだした。
 ──魔法を使うのに特別な道具も呪文もいらない。ただ強く念じて言葉にするの。
 思うだけじゃダメ。自分の想いは言葉にするの。それが魔法の秘訣よ。
 おばあちゃんはずっと前から、私に大切なことを教えてくれていたんだね。
 ごめんねおばあちゃん。
 でも、もう大丈夫だから。
 おばあちゃんの魔法の杖に語り掛けると、魔法の杖は私の手から離れ、空に大きな円を描いた。