春一番が吹くと、待ってましたと言わんばかりに植物たちがいっせいに芽吹きだす。電車を降りると、駅のロータリーには並木桜の花弁が降り注ぎ、一面に桜のじゅうたんを敷いていた。その光景に目を奪われていると、通りすがりの誰かの言葉が耳に入った。
 「すごいきれい。まるで魔法みたい!」
 もうすぐ四月になる。なにごともなく進級できるとは、少し前の自分からは想像がつかなかった。正確に言えば四か月前の自分からは。
 冬ごろ、俺を取り巻く世界は一変した。
 俺をいじめていた主犯格のやつは親の都合で突然転校し、そのほかのやつらは俺をいじめることに飽きたのか、絡んでくることはなくなった。
 環境が変わったのは学校だけじゃない。これまで出来の良い弟ばかりをかわいがっていた両親が俺を気にかけるようになった。最初は戸惑いもあったし、今までのことを許せない気持ちもあったが、それでも小さいころのように四人で食卓を囲めることがなにより嬉しかった。
 俺は今、まちがいなく幸せだ。
 なのに。
 それは決まって夜にやってくる。もどかしいような、切ないような。とにかく胸のあたりがじんじんと痛くなるこの感じは冬の頃からずっとあった。それでもその正体にたどり着けないまま今に至る。
 「俺はなにかを忘れてる? なにを忘れてる? そもそも忘れているのか?」
 思考のるつぼに落ち、俺はやけになってベッドに倒れこむ。すると、ドアがノックされ返事をするよりも先に弟が顔をのぞかせる。
 「兄ちゃん暇? 暇だよね? かわいい弟のためにアイス買ってきてよ」
 相変わらずの弟に俺はしっし、と手を払う。
 「かわいくないし、アイスは買わないし、ノックしろ。自分で買いに行け」
 「コンビニまで遠いんだもん。原付でさっと行ってきてよ」
 「原付か」
 冬の間は乗っていなかったせいですっかり存在を忘れていた。その一瞬のすきに弟はよろしく、と言葉を置いてひょいと去ってしまった。弟のパシリは癪だが、久々に原付に乗るのも悪くない。俺は上着を羽織り、原付の鍵を手に家を出た。

 あの頃はよく原付に乗っていたな、と俺はヘッドライトをそっと撫でる。走行距離六万キロ。地球一周半は走っている中古の原付は今日も月明かりに照らされ鈍く輝いている。
 秋の夜とよく似た、涼しさと寒さが混じる春の夜。肌を撫でる夜風の感触もあの頃とかわらない。なのに、やはりなにかが足りない気がする。そのとき。
 「あぶなっ!」
 道路の真ん中に空き缶が転がっているのに気付き、俺はあわててハンドルを切る。車体が大きく傾き、その傾きを修正するために逆にハンドルを切る。それを何度か繰り返し、蛇行運転ののちになんとか体制を元に戻すことができた。俺はとっさに振り返る。
 「彩奈! 大丈夫!?」
 しかし、そこには誰もいない。当たり前だ。俺は一人で原付に乗っている。そもそも原付は。
 ──それに、原付で二人乗りってダメじゃない?
 「彩奈……?」
 その名前を口にした瞬間、封を切ったように今まで忘れていた記憶が溢れ出す。時が止まった世界で夜の遊園地に行ったこと。いろんな場所で遊んだこと。そして、一緒に原付に乗っていた時間。
 俺は来た道をUターンし、アクセルグリップを強く握る。
 「俺、なんで忘れてたんだ!?」
 あの頃と同じ気温、風、乗り心地。
 ただ一つ足りなかったのは、背中に感じる彩奈の暖かさだった。

 団地の階段を駆け上がり、息を整えながら目的の部屋のインターホンを押す。時が止まった世界で、俺はなんどか彩奈を団地の近くまで送ったことがあった。そのとき彩奈が言っていたのが、たしかこの部屋番号だった、はず……。
 不安がよぎる中、内側で鍵が開く音がして扉が開くと四十代くらいの女性がでてきた。目の形が彩奈にそっくりで、この人が彩奈のお母さんだとすぐに気づいた。
 「はい」
 「彩奈さんいますか!?」
 「は? 誰ですか?」
 「俺は彩奈の友だちで……」
 「いや、彩奈が誰? 私の名前ゆかりなんだけど……」
 「失礼します!」
 「ちょ、ちょっと!?」
 彩奈のお母さんを押し切り、俺は無理やり部屋に入ると廊下に置かれたゴミ袋に躓いた。ほかにも机の上は書類や郵便物が山のように積まれており、ソファや床に洗濯物が散乱している。あふれる生活感。なのに、どこにも彩奈がいた痕跡が見当たらない。
 魔法の代償は人の記憶のはずだ。
 しかし、この部屋を見るに記憶じゃなくて彩奈の存在自体が消えている。
 「どうして……」
 「あんた強盗? 警察呼ぶよ!」
 靴ベラを振り上げながら彩奈のお母さんはじりじりと俺ににじりよる。そのとき。
 「ん?」
 なにか懐かしさを覚える匂いが鼻をかすめる。子どもの頃に落ち葉を集めて焼き芋をしたときに嗅いだ、この匂い……。俺は匂いの元をたどって顔を向けると、コンロの上のフライパンから白い煙がもくもくと立ち込めているのに気づいた。
 「焦げてる!?」
 「あぁ!?」
 彩奈のお母さんは慌ててフライパンを取り上げ、コンロの火を止める。
 「また失敗だ」
 そういってお皿に盛られたのは、真っ黒に焦げたなにかだった。
 「それって」
 「卵焼きだよ。文句ある?」
 「いえ、ぜんぜん……」
 彩奈のお母さんはやれやれと蛇口をひねり、フライパンに水を当てる。じゅわぁと水が蒸発する音がして、彩奈のお母さんはそのままフライパンをシンクに置いた。
 「私料理ダメなんだよね。そのレシピ通りに作っても卵焼きが上手に作れないの」
 彩奈のお母さんの目線の先には冷蔵庫に貼られた付箋があった。そこには卵焼きの作り方が分かりやすく書かれていた。この文字。この書き方。間違いない。
 「彩奈だ。これを書いたのが、彩奈です!」
 「はぁ?」
 そのとき、彩奈が言っていた言葉がよみがえる。
 ──私、おばあちゃんの家に行って魔法について調べてきたの。
 そうだ。そこに行けば、彩奈を探しだす手がかりがあるはずだ。
 俺は彩奈のお母さんに向かって思いきり頭を下げる。
 「彩奈のおばあちゃん、あなたのお母さんが住んでいた家の場所を教えてください」
 「あなた、さっきからなにを……、あれ?」
 彩奈のお母さんのほほにすーっと雫が垂れる。彩奈のお母さんは呆然としたまま、滑るように落ちる水滴を指で掬う。
 「なんで私、泣いてるんだろ」
 指先についた涙を見て、彩奈のお母さんはようやく自分が涙を流していることに気がついた。彩奈のお母さんは椅子に座り、肘をついて頭をかかえる。
 「意味わかんない。仕事のしすぎで疲れてんのかな。そもそも私、なんのために仕事してたんだっけ。誰のために……」
 彩奈のお母さんはおもむろに近くにあった付箋にペンを走らせると、めくって俺の前に差し出した。
 「これ、母の家の住所。言っとくけど金目のものなんかないから」
 「ありがとうございます!」
 私なにやってんだろ、とつぶやく彩奈のお母さんの表情はどこかすっきりとしていた。
 「彩奈って子に会ったら伝えて。またあなたの卵焼きが食べたいって」
 「はい!」
 俺は玄関で靴をはき替え、リビングにいる彩奈のお母さんに向かって伝える。
 「彩奈も言ってました。家事サボるなって!」
 「ちょっと、なにそれ!?」
 彩奈のお母さんのツッコミを背に受けながら、俺は部屋を飛び出した。

 「くそっ! 車が邪魔すぎる!」
 時が止まった世界での運転に慣れてしまったせいか、目の前を走る車も、信号機も、なにもかもがうっとうしい。俺は逸る気持ちをそのままにアクセルグリップを強く握り、車と車の間をすり抜けるように進む。すると、サイドミラーに赤いランプが映った。
 「そこの原付、スピード違反! 止まりなさい!」
 拡声器が轟き、サイレンを鳴らしながらパトカーが近づいてくる。
 「やばっ!?」
 でも、またいつ彩奈のことを忘れてしまうか分からない今、警察に捕まっている場合じゃない! 俺はとっさにハンドルを切って歩道に乗り上げ、パトカーが入れない小道へと突入する。
 「うわっ!?」
 小道と思われた道は急斜面の階段だった。原付はがたがたと揺れながら階段を滑るように進む。俺は転倒しないように必死にハンドルを握りながら、位置情報アプリで現在の場所を確認する。よし、このまま下に行けば、大通りへと合流できる。
 「待ってろ! 彩奈!」
 しかし、大通りに飛び出た瞬間、視界が光に包まれた。
 やば……。
 激しく鳴り響く大型トラックのクラクションとブレーキ音。ハンドルを切っても、ブレーキを引いても、もうどうにかできる距離じゃない。
 そういえば、彩奈と初めて会った時も、こんなシチュエーションだったな。
 しかし、走馬灯がめぐる間もなくトラックはもう目の前まで差し迫っていた。そのとき。
 「時よ、止まれ!」
 どこからか懐かしい声が聞こえた。必死で、一生懸命な、大好きな人の声が。