卵液を熱したフライパンに流し込むと、じゅわぁと音を立ててみるみるうちに固まっていく。私は菜箸でフライパンから卵をはがし、手首をひねって卵を折りたたむ。それを何度か繰り返し、ふっくらとした黄金色の卵焼きが完成した。包丁で一口サイズにカットし、一切れつまみ食いするとふわふわの歯ごたえに卵のコクと砂糖の甘味、そして隠し味のめんつゆの塩味が口いっぱいに広がる。
「これでよし」
そのほかの総菜とともに弁当箱につめて蓋をし、その上に卵焼きのレシピを書いた付箋を貼った。私がいなくても卵焼きを食べられるように。
廊下で耳を澄ますとお母さんの部屋からはまだ寝息が聞こえる。私は起こさないようにそっと靴を履き替え、玄関に手をかける。
「ばいばい。お母さん」
季節はすっかり冬めいており、朝陽が凍った空気をきらきらと輝かせる。通いなれた通学路をいつもよりゆっくり歩く。すれ違う小学生たち。電線に止まった雀の群れ。春を待つ桜の木。それらすべてを私は目に焼き付ける。
駅に着くころにはいつも乗る便はすでに発車しており、ホームに学生の影はなかった。奥へ進むとベンチに座る制服姿の遼太郎を見つけ、私はとなりへ腰掛ける。
「また遅刻?」
「ちがうよ。遼太郎に用があったの」
「それ夜じゃダメなやつ?」
「うん。ダメななつ」
「……俺と一緒にいたら学校の奴らに絡まれるかもよ?」
遼太郎は自嘲気味につぶやく。自身のふがいなさを、情けなさを嗤うように。私は静かに首を振り、遼太郎を見つめる。
「大丈夫だよ。もう、遼太郎は大丈夫」
「どういう意味?」
「私、おばあちゃんの家に行って魔法について調べてきたの。なにから説明すればいいかな……」
私はおばあちゃんの魔導書に書かれていた魔法に関する知識を頭に浮かべる。
「まず魔女狩りって知ってる?」
「魔女って疑われた人が拷問されたり、火あぶりにされたりしたやつのこと?」
「そう」
「魔法は万物のもつエネルギーを魔力に変えて使う。昔は火や水や植物、そういう自然の中にあるエネルギーが使われていたけど、魔女狩りによって魔女や、魔女と疑われたそうじゃない人も、みんな殺されてしまった。だから魔女は、魔女狩りから逃れるために魔力へと変換するエネルギー源を『人の記憶』に置き換えたの」
「なるほど。魔法を使えば使うほど、人々は魔女の存在を忘れるってことか」
「あいかわらずのみこみが早いね」
得意げな遼太郎から顔を反らし、私は自身の足元を見つめる。
「私のお母さん、おばあちゃんの記憶がほとんどないの。きっとおばあちゃんが魔法を使いすぎたから。でも、私はおばあちゃんのことを覚えてる。なんでだと思う?」
おばあちゃんの家を訪れたあの日から、私はずっとおばあちゃんの『許して』の意味を考えていた。お母さんに対してはきっと、ともに過ごした記憶を失わせてしまったことへの謝罪。そして私に対しては。
「おばあちゃんは、私に魔法を受け継いでほしかったんだと思う」
これまで積み重ねてきた魔法の歴史を絶やさないために、私に魔女としての使命を与えたことへの懺悔だ。
「そんなのわからないじゃん」
「そうだね。そう書いていたわけじゃないし、聞いたわけでもない。でもね、きっとそうなんだよ」
私は内ポケットから一本の杖を取り出す。おばあちゃんの部屋にあった魔法の杖だ。杖を握るとあの日、私に魔法を見せてくれたおばあちゃんの笑顔が脳裏に浮かぶ。
私はその笑顔に報いたい。おばあちゃんの期待に応えたい。おばあちゃんに自分のことを『こんな私』なんて思わないでほしい。だから。
「だから私、魔女になるよ。今日はその報告。……宣言、かな?」
「ちょっとまってよ。今の話だと、彩奈が魔法を使うごとにみんなは彩奈のことを忘れちゃうってことでしょ? でも、俺は彩奈のこと覚え……」
目を見開き固まる遼太郎に私は頬を緩める。
「やっぱり察しがいいね」
「俺が、彩奈との待ち合わせ時間を忘れていたのって……」
「うん。遼太郎は時間を忘れていたんじゃない。私と約束したこと自体を忘れていたの」
「そんなこと……」
信じられないのか、信じたくないのか。遼太郎は頭を掻きながらうなだれる。少しすると、遼太郎はぼそりと呟いた。
「魔女になるって、本気?」
「本気だよ」
「……魔女なんかやめなよ。食べていけないよ」
「なにそれ」
そのとき、遼太郎は杖を握る私の手に、そっと手を重ねる。
「もう魔法も使わないで。時間を止めなくてもさ、また二人でどこか行こうよ」
手のひらから伝わる遼太郎の体温に、遼太郎の優しい言葉に、私は何度救われただろう。だからこそ、私は魔女になると決めたんだ。
「私、いつも人の顔色伺って、誰に対してもいい顔して。そんな自分が嫌だった。でも、誰かのために動いているとき、ちょっとだけ安心するんだ。自分はここにいていいって許されているみたいで」
「…………」
「私はずっと理由が欲しかったんだと思う。私が生きる理由が」
「生きる理由って」
私が立ち上がると、遼太郎の手はするりと離れる。
「好きな人の幸せを願うこと」
呆然と私を見上げる遼太郎の顔がおかしくて、たまらなく愛おしくて、私の目の奥を熱くさせる。私は空を見上げ必死に涙をこらえる。
たとえ忘れられても、最後は笑顔でいたいから。
「彩奈!」
私が今からやることに気づいた遼太郎は慌てて私に手を伸ばす。
言いたいことはたくさんある。一緒にやりたかったことも。二人で行きたかったところも。私はそれらすべての願いを、魔法に込める。
「遼太郎。幸せになって」
杖を空に掲げ円を描く。瞬間、私の腕をつかんだ遼太郎は弾かれたように私から手を離す。
「わ、ご、ごめんなさい……。俺、なんで掴んでたんだろう」
「……私がこけそうになったから。ありがとう」
私の説明が腑に落ちないのか、遼太郎は首をかしげたままじっと私を見つめる。そのとき、ホームに電車が滑り込んできた。ため息をつくように電車のドアが一斉に開く。
「あの、どこかで会いましたっけ?」
私は胸を痛みを堪えて、声が震えてしまわないように気をつけながら答える。
「さぁ。初めて会いましたけど」
「そう、ですか」
発車のチャイムが鳴り、遼太郎は慌てて電車に飛び乗る。遠のく遼太郎の背中を見ていると、ふいに二人で行った遊園地を思い出した。
──言いたいこと言えばいいよ。
遼太郎に促されるまま、私は口を開く。
「好きだよ。遼太郎」
それを口にした途端、視界が滲んで、頬を伝う涙が次々と零れ落ちてくる。遼太郎のことを考えるだけで胸の奥が痛くて、遼太郎の名前を呼ぶだけで心が軋んで仕方がない。
私はやりたいことをやったはずなのに。
これが私の生きる理由のはずなのに。
それでも、涙は止まらなかった。
「これでよし」
そのほかの総菜とともに弁当箱につめて蓋をし、その上に卵焼きのレシピを書いた付箋を貼った。私がいなくても卵焼きを食べられるように。
廊下で耳を澄ますとお母さんの部屋からはまだ寝息が聞こえる。私は起こさないようにそっと靴を履き替え、玄関に手をかける。
「ばいばい。お母さん」
季節はすっかり冬めいており、朝陽が凍った空気をきらきらと輝かせる。通いなれた通学路をいつもよりゆっくり歩く。すれ違う小学生たち。電線に止まった雀の群れ。春を待つ桜の木。それらすべてを私は目に焼き付ける。
駅に着くころにはいつも乗る便はすでに発車しており、ホームに学生の影はなかった。奥へ進むとベンチに座る制服姿の遼太郎を見つけ、私はとなりへ腰掛ける。
「また遅刻?」
「ちがうよ。遼太郎に用があったの」
「それ夜じゃダメなやつ?」
「うん。ダメななつ」
「……俺と一緒にいたら学校の奴らに絡まれるかもよ?」
遼太郎は自嘲気味につぶやく。自身のふがいなさを、情けなさを嗤うように。私は静かに首を振り、遼太郎を見つめる。
「大丈夫だよ。もう、遼太郎は大丈夫」
「どういう意味?」
「私、おばあちゃんの家に行って魔法について調べてきたの。なにから説明すればいいかな……」
私はおばあちゃんの魔導書に書かれていた魔法に関する知識を頭に浮かべる。
「まず魔女狩りって知ってる?」
「魔女って疑われた人が拷問されたり、火あぶりにされたりしたやつのこと?」
「そう」
「魔法は万物のもつエネルギーを魔力に変えて使う。昔は火や水や植物、そういう自然の中にあるエネルギーが使われていたけど、魔女狩りによって魔女や、魔女と疑われたそうじゃない人も、みんな殺されてしまった。だから魔女は、魔女狩りから逃れるために魔力へと変換するエネルギー源を『人の記憶』に置き換えたの」
「なるほど。魔法を使えば使うほど、人々は魔女の存在を忘れるってことか」
「あいかわらずのみこみが早いね」
得意げな遼太郎から顔を反らし、私は自身の足元を見つめる。
「私のお母さん、おばあちゃんの記憶がほとんどないの。きっとおばあちゃんが魔法を使いすぎたから。でも、私はおばあちゃんのことを覚えてる。なんでだと思う?」
おばあちゃんの家を訪れたあの日から、私はずっとおばあちゃんの『許して』の意味を考えていた。お母さんに対してはきっと、ともに過ごした記憶を失わせてしまったことへの謝罪。そして私に対しては。
「おばあちゃんは、私に魔法を受け継いでほしかったんだと思う」
これまで積み重ねてきた魔法の歴史を絶やさないために、私に魔女としての使命を与えたことへの懺悔だ。
「そんなのわからないじゃん」
「そうだね。そう書いていたわけじゃないし、聞いたわけでもない。でもね、きっとそうなんだよ」
私は内ポケットから一本の杖を取り出す。おばあちゃんの部屋にあった魔法の杖だ。杖を握るとあの日、私に魔法を見せてくれたおばあちゃんの笑顔が脳裏に浮かぶ。
私はその笑顔に報いたい。おばあちゃんの期待に応えたい。おばあちゃんに自分のことを『こんな私』なんて思わないでほしい。だから。
「だから私、魔女になるよ。今日はその報告。……宣言、かな?」
「ちょっとまってよ。今の話だと、彩奈が魔法を使うごとにみんなは彩奈のことを忘れちゃうってことでしょ? でも、俺は彩奈のこと覚え……」
目を見開き固まる遼太郎に私は頬を緩める。
「やっぱり察しがいいね」
「俺が、彩奈との待ち合わせ時間を忘れていたのって……」
「うん。遼太郎は時間を忘れていたんじゃない。私と約束したこと自体を忘れていたの」
「そんなこと……」
信じられないのか、信じたくないのか。遼太郎は頭を掻きながらうなだれる。少しすると、遼太郎はぼそりと呟いた。
「魔女になるって、本気?」
「本気だよ」
「……魔女なんかやめなよ。食べていけないよ」
「なにそれ」
そのとき、遼太郎は杖を握る私の手に、そっと手を重ねる。
「もう魔法も使わないで。時間を止めなくてもさ、また二人でどこか行こうよ」
手のひらから伝わる遼太郎の体温に、遼太郎の優しい言葉に、私は何度救われただろう。だからこそ、私は魔女になると決めたんだ。
「私、いつも人の顔色伺って、誰に対してもいい顔して。そんな自分が嫌だった。でも、誰かのために動いているとき、ちょっとだけ安心するんだ。自分はここにいていいって許されているみたいで」
「…………」
「私はずっと理由が欲しかったんだと思う。私が生きる理由が」
「生きる理由って」
私が立ち上がると、遼太郎の手はするりと離れる。
「好きな人の幸せを願うこと」
呆然と私を見上げる遼太郎の顔がおかしくて、たまらなく愛おしくて、私の目の奥を熱くさせる。私は空を見上げ必死に涙をこらえる。
たとえ忘れられても、最後は笑顔でいたいから。
「彩奈!」
私が今からやることに気づいた遼太郎は慌てて私に手を伸ばす。
言いたいことはたくさんある。一緒にやりたかったことも。二人で行きたかったところも。私はそれらすべての願いを、魔法に込める。
「遼太郎。幸せになって」
杖を空に掲げ円を描く。瞬間、私の腕をつかんだ遼太郎は弾かれたように私から手を離す。
「わ、ご、ごめんなさい……。俺、なんで掴んでたんだろう」
「……私がこけそうになったから。ありがとう」
私の説明が腑に落ちないのか、遼太郎は首をかしげたままじっと私を見つめる。そのとき、ホームに電車が滑り込んできた。ため息をつくように電車のドアが一斉に開く。
「あの、どこかで会いましたっけ?」
私は胸を痛みを堪えて、声が震えてしまわないように気をつけながら答える。
「さぁ。初めて会いましたけど」
「そう、ですか」
発車のチャイムが鳴り、遼太郎は慌てて電車に飛び乗る。遠のく遼太郎の背中を見ていると、ふいに二人で行った遊園地を思い出した。
──言いたいこと言えばいいよ。
遼太郎に促されるまま、私は口を開く。
「好きだよ。遼太郎」
それを口にした途端、視界が滲んで、頬を伝う涙が次々と零れ落ちてくる。遼太郎のことを考えるだけで胸の奥が痛くて、遼太郎の名前を呼ぶだけで心が軋んで仕方がない。
私はやりたいことをやったはずなのに。
これが私の生きる理由のはずなのに。
それでも、涙は止まらなかった。



