その日の夜。朝に交換した連絡先から送られた住所を見ながら住宅街をさまよっていると、オレンジ屋根の一軒家の前に立つ岡崎くんを見つけた。
岡崎くんはぼんやりと夜空を見上げていたのだろう。白く染まった息が消えることなく空中に浮かんでいた。今はまだ夜の九時すぎ。家を出てお母さんや林さんにバレないよう、また警察に補導されないように自分の部屋で時を止めてきた。
私が岡崎くんの肩に触れると、岡崎くんの時間が動き出す。岡崎くんは私に気づくと、言葉にならない短い悲鳴をあげ、数歩退く。
「そんなに驚かなくても」
「いやびっくりするでしょ。俺からすれば、急に現れたみたいなものだからさ」
そう言うと岡崎くんは待ってて、と駐車場へ向かい、原付を押してもどってきた。年季が入った銀色の原付は中古で買ったものらしい。岡崎くんは原付にまたがると、ハンドルにひっかけていたヘルメットを私に差し出す。
「ちょっとまって。これからどこに行くの? それに原付で二人乗りってダメじゃない?」
「そう固いこと言わずに。山田さんは真面目だね」
真面目。それは私が『いい子』の次に言われたくない言葉だった。真面目といえば聞こえはいいが、それはノリが悪い、面白みがないと言われているのと同義だ。
私はいい子でも、真面目でもない!
私はムキになり、ヘルメットをかぶると岡崎くんのうしろにまたがった。
「いいね」
そういって岡崎くんは鍵を差し込み、キックペダルを強く踏む。原付が走り出すと身体がスピードに慣れず後ろにぐんと引っ張られるようで、私はあわてて岡崎くんの背中にしがみつく。
「腕回して。そのほうが安定するから」
「でも……、きゃっ!」
私はためらっていると、岡崎くんはハンドルを左右に揺らし、わざと蛇行しはじめる。私はとっさに岡崎くんの腰に腕を回して耐えていると、原付は再び直進に戻った。
「危ないじゃん!」
「ごめんって! でも、これで安定したでしょ!」
そういって笑う岡崎くんは本当に楽しそうで。なんだか怒るのも馬鹿らしくなって。私は時が止まった世界で初めて風を感じた。岡崎くんの背中越しに感じる風は冷たいはずなのに、暖かい気がした。
しばらくして着いたのは郊外にポツンとある子ども向けの遊園地だった。出入口に巻かれたチェーンをくぐって園内へ入ると『入場チケットを忘れずに』と書かれたプラカードを持たされ、メガホンを首からかけられたマスコットキャラクターの像が一人寂しく待ち構えていた。
ほかにもメリーゴーランドや観覧車など、日中はキラキラと輝いている遊具たちも、常設されている外灯の薄い明かりに照らされ、なんだかホラーな印象だ。しかし、岡崎くんは目を輝かせてあたりを見わたしている。
「夜の遊園地って一回来てみたかったんだよね。山田さんは夜の遊園地って来たことある?」
「ううん。私、遊園地自体初めて」
「え!? 子どもの頃とか来なかった?」
「うちお父さんいなくて。お母さんは仕事忙しかったから」
結婚式は基本的に週末や祝日に行われる。そのためウエディングプランナーであるお母さんが週末に家にいることはほとんどなかった。遊具やシャッターが閉じた売店を見わたしていると、日中のにぎやかな遊園地が思い浮かぶ。無邪気に遊ぶ子ども。そして、そんな子どもの手を引く両親の姿も。
週末に家族と過ごす同級生が羨ましくなかったと言えば噓になる。でも、そんなお母さんに不満を伝えたことはない。だって、そんなことを言ってもお母さんを困らせるだけだし、お母さんは私のために働いてくれているんだから。だから……。
「山田さんはそうやってずっと我慢してきたんだね」
いつのまにかメリーゴーランドの白馬にまたがった岡崎くんがぽつりとつぶやく。
「我慢ってわけじゃ……。そんな家庭、どこにでもあるでしょ」
「ほかの人は関係ないよ。それにここには俺と山田さんしかいなんだよ?」
その瞬間、さっきまで思い浮かんでいた架空の家族も、にぎわいも消えた。ここは時が止まった世界。音のない世界。そんな中で、岡崎くんの言葉だけが確かに私の耳に届いた。
「言いたいこと言えばいいよ」
岡崎くんの声が、言葉が、私の心に触れる。いつも本当に言いたいことに蓋をして、自分の気持ちを無視して、誰かにとって都合がいい子になってしまう私の心に。
「本当は、お母さんと一緒にもっと遊びたかった」
今さら言ったってどうしようもないことだ。でも、口にしてみると背負っていた荷物をおろした時のように身体がふわっと軽くなるのを感じた。
「もっと」
「授業参観にも来てほしかったし、運動会にも来てほしかった!」
「いいね」
気分が上がった私はとっさにマスコットキャラクターの首にかかったメガホンを奪い、お腹の底から声を張り上げる。
「あと、家事サボりすぎ! お弁当くらい自分でつくれー!」
叫びすぎて喉がチクチクと痛む。でもその痛みすら嬉しかった。私にまとわりつく『いい子』の殻を少しだけ破れた気がして。
「すっきりした?」
「うん。ありがと」
そういって私はメリーゴーランドに触れる。すると、メリーゴーランドの時が動き出し、目が眩むほどの照明とメルヘンな音楽とともに岡崎くんを乗せた白馬は上下に揺れながら回りだした。
「ちょっと、いきなり動かさないでよ!」
慌てて白馬にしがみつく岡崎くんを見て、私はお腹をかかえて笑った。
それから私たちは毎晩のように時が止まった世界で遊んだ。東京ドームでキャッチボールをしたり、閉館した映画館で映画を観たり、駅前で選挙演説している立候補からマイクを借りてストリートミュージシャンごっこをしたり。
いつもくたくたになるまで遊ぶからか、布団に入るとすぐに眠れるようになり深夜に散歩をすることはなくなった。
「そろそろ遼太郎は寝たかな」
私は布団の中でいつから遼太郎のことを名前で呼ぶようになったか考えていた。が、結局思い出すよりも先にまぶたがずしりと重くなり、私は襲い掛かる睡魔に白旗をあげるように布団に深く潜る。布団の中の暖かさは遼太郎の背中から感じるものと似ている。安心するような、心がほぐれるような、そんな感じと。
ずっと、このままがいいな。
遠のく意識の中で秒針の音がかすかに聞こえた。
岡崎くんはぼんやりと夜空を見上げていたのだろう。白く染まった息が消えることなく空中に浮かんでいた。今はまだ夜の九時すぎ。家を出てお母さんや林さんにバレないよう、また警察に補導されないように自分の部屋で時を止めてきた。
私が岡崎くんの肩に触れると、岡崎くんの時間が動き出す。岡崎くんは私に気づくと、言葉にならない短い悲鳴をあげ、数歩退く。
「そんなに驚かなくても」
「いやびっくりするでしょ。俺からすれば、急に現れたみたいなものだからさ」
そう言うと岡崎くんは待ってて、と駐車場へ向かい、原付を押してもどってきた。年季が入った銀色の原付は中古で買ったものらしい。岡崎くんは原付にまたがると、ハンドルにひっかけていたヘルメットを私に差し出す。
「ちょっとまって。これからどこに行くの? それに原付で二人乗りってダメじゃない?」
「そう固いこと言わずに。山田さんは真面目だね」
真面目。それは私が『いい子』の次に言われたくない言葉だった。真面目といえば聞こえはいいが、それはノリが悪い、面白みがないと言われているのと同義だ。
私はいい子でも、真面目でもない!
私はムキになり、ヘルメットをかぶると岡崎くんのうしろにまたがった。
「いいね」
そういって岡崎くんは鍵を差し込み、キックペダルを強く踏む。原付が走り出すと身体がスピードに慣れず後ろにぐんと引っ張られるようで、私はあわてて岡崎くんの背中にしがみつく。
「腕回して。そのほうが安定するから」
「でも……、きゃっ!」
私はためらっていると、岡崎くんはハンドルを左右に揺らし、わざと蛇行しはじめる。私はとっさに岡崎くんの腰に腕を回して耐えていると、原付は再び直進に戻った。
「危ないじゃん!」
「ごめんって! でも、これで安定したでしょ!」
そういって笑う岡崎くんは本当に楽しそうで。なんだか怒るのも馬鹿らしくなって。私は時が止まった世界で初めて風を感じた。岡崎くんの背中越しに感じる風は冷たいはずなのに、暖かい気がした。
しばらくして着いたのは郊外にポツンとある子ども向けの遊園地だった。出入口に巻かれたチェーンをくぐって園内へ入ると『入場チケットを忘れずに』と書かれたプラカードを持たされ、メガホンを首からかけられたマスコットキャラクターの像が一人寂しく待ち構えていた。
ほかにもメリーゴーランドや観覧車など、日中はキラキラと輝いている遊具たちも、常設されている外灯の薄い明かりに照らされ、なんだかホラーな印象だ。しかし、岡崎くんは目を輝かせてあたりを見わたしている。
「夜の遊園地って一回来てみたかったんだよね。山田さんは夜の遊園地って来たことある?」
「ううん。私、遊園地自体初めて」
「え!? 子どもの頃とか来なかった?」
「うちお父さんいなくて。お母さんは仕事忙しかったから」
結婚式は基本的に週末や祝日に行われる。そのためウエディングプランナーであるお母さんが週末に家にいることはほとんどなかった。遊具やシャッターが閉じた売店を見わたしていると、日中のにぎやかな遊園地が思い浮かぶ。無邪気に遊ぶ子ども。そして、そんな子どもの手を引く両親の姿も。
週末に家族と過ごす同級生が羨ましくなかったと言えば噓になる。でも、そんなお母さんに不満を伝えたことはない。だって、そんなことを言ってもお母さんを困らせるだけだし、お母さんは私のために働いてくれているんだから。だから……。
「山田さんはそうやってずっと我慢してきたんだね」
いつのまにかメリーゴーランドの白馬にまたがった岡崎くんがぽつりとつぶやく。
「我慢ってわけじゃ……。そんな家庭、どこにでもあるでしょ」
「ほかの人は関係ないよ。それにここには俺と山田さんしかいなんだよ?」
その瞬間、さっきまで思い浮かんでいた架空の家族も、にぎわいも消えた。ここは時が止まった世界。音のない世界。そんな中で、岡崎くんの言葉だけが確かに私の耳に届いた。
「言いたいこと言えばいいよ」
岡崎くんの声が、言葉が、私の心に触れる。いつも本当に言いたいことに蓋をして、自分の気持ちを無視して、誰かにとって都合がいい子になってしまう私の心に。
「本当は、お母さんと一緒にもっと遊びたかった」
今さら言ったってどうしようもないことだ。でも、口にしてみると背負っていた荷物をおろした時のように身体がふわっと軽くなるのを感じた。
「もっと」
「授業参観にも来てほしかったし、運動会にも来てほしかった!」
「いいね」
気分が上がった私はとっさにマスコットキャラクターの首にかかったメガホンを奪い、お腹の底から声を張り上げる。
「あと、家事サボりすぎ! お弁当くらい自分でつくれー!」
叫びすぎて喉がチクチクと痛む。でもその痛みすら嬉しかった。私にまとわりつく『いい子』の殻を少しだけ破れた気がして。
「すっきりした?」
「うん。ありがと」
そういって私はメリーゴーランドに触れる。すると、メリーゴーランドの時が動き出し、目が眩むほどの照明とメルヘンな音楽とともに岡崎くんを乗せた白馬は上下に揺れながら回りだした。
「ちょっと、いきなり動かさないでよ!」
慌てて白馬にしがみつく岡崎くんを見て、私はお腹をかかえて笑った。
それから私たちは毎晩のように時が止まった世界で遊んだ。東京ドームでキャッチボールをしたり、閉館した映画館で映画を観たり、駅前で選挙演説している立候補からマイクを借りてストリートミュージシャンごっこをしたり。
いつもくたくたになるまで遊ぶからか、布団に入るとすぐに眠れるようになり深夜に散歩をすることはなくなった。
「そろそろ遼太郎は寝たかな」
私は布団の中でいつから遼太郎のことを名前で呼ぶようになったか考えていた。が、結局思い出すよりも先にまぶたがずしりと重くなり、私は襲い掛かる睡魔に白旗をあげるように布団に深く潜る。布団の中の暖かさは遼太郎の背中から感じるものと似ている。安心するような、心がほぐれるような、そんな感じと。
ずっと、このままがいいな。
遠のく意識の中で秒針の音がかすかに聞こえた。



