「時よ止まれ!」
道路橋の下で、畳んだ傘で宙に円を描く。すると、鳴り続けていた雨音がぴたりと止まり、空を見上げると無数の雨粒が落ちることなく、空中で静止していた。やはり、杖は棒状であればなんでもいいのか。
初めて時を止めた日から数日、私は散歩中に魔法について調べていた。わかったことは、魔法は私が解くか、私が眠るまで効力が続くということ。時を止めている間に生物に触れると、その生物の時が動き出すということ。(これは静止している野良猫に触れた途端、急に動き出したことで偶然発見した)そして、魔法には杖がいるということ。しかし、棒状であれば木の棒でも傘でも、なんでもいいということだ。そういえばおばあちゃんも、魔法を使うのに特別な道具も呪文もいらないと言っていたっけ。
私はおばあちゃんを真似して、拳をぎゅっと握り再び傘で円を描く。
「飴よ出てこい」
ゆっくりと拳を開くが、そこにはなにもなかった。ほかの魔法も試してみたが、うまくいかなかった。ほうきで空を飛ぼうとしたが数センチしか浮かべなかったし、アニメの見よう見まねで魔方陣を描き、精霊を呼び出そうとしてみたがムニュムニュとした気持ちの悪いなにかが出てきて慌てて踏みつぶした。
そもそも私は高所恐怖症だし、生き物も猫以外はあまり好きじゃない。
おばあちゃんの言うとおり、魔法を使うためには強く念じることが大事なのかもしれない。空中に浮かんだままの雨粒を指で弾きながら、そんなことを考えていた。
翌朝。洗濯物を干し、二人分の弁当を作り終えると、瓶底メガネをかけたお母さんがリビングにやってきた。普段はウエディングプランナーとしてたくさんの結婚式を成功させ、女手一つで私を育てるバリバリのキャリアウーマンなのだが、よれよれのスウェットに半纏をまとい、寒い寒いと身体を縮こませているお母さんは、思い出の中のおばあちゃんよりも年老いて見える。
私は砂利のようなインスタントコーヒーの顆粒に熱湯を注ぎ、カップをお母さんの前に置く。
「おばあちゃんって、どんな人だった?」
急にどうしたの、とお母さんはカップにスプーンを差してかき回す。コーヒーのほろ苦い香りが湯気とともに立ち昇る。
「なんとなく」
「そうねー。不思議な人だったよ」
「不思議? どんな風に?」
もしかしてお母さんもおばあちゃんが魔女ってこと知ってる?
しかし、そんな私の予想とは違い、お母さんはコーヒーを一口すするとゆっくりと首をふった。
「それがね、あんまり覚えてないの。おばあちゃんとどこに行ったとか、どんな話をしたとか。ほら。そういうところも不思議でしょ?」
そういってお母さんは笑った。それはお母さんの記憶力の問題では、と思ったが言わないでおく。すると、今度はお母さんが私に尋ねてきた。
「最近どう? 学校楽しい?」
「ちょっと前よりは」
相変わらず、私はみんなにいい顔をしてしまうし、そんな自分を好きになれない。しかし、時が止まった世界で過ごす間は、私は息がしやすいと感じていた。誰もいない、私だけの世界がある。その事実が、私の心をちょっとだけ強くしていた。
「そう。ならよかった。でも、時間大丈夫?」
右斜め上に視線をうつすお母さん。私はお母さんの視線の先へ顔をあげると、壁時計の長針はいつも私が家を出る時間を五分も過ぎた時刻を示していた。
「やばっ!」
いたずらっぽく笑うお母さんを尻目に、私はお弁当箱をカバンに押し込み、どたどたと玄関を飛び出した。
夜のうちに雨は止み、秋晴れの朝日に目を眩ませながら団地の階段を一つ飛ばしで降りていく。本当なら時を止めたいけど日中は魔法を使わない。なぜなら。
「あら彩奈ちゃん」
「お、おはようござ……」
虎柄の服を着た一つ下の階に住む林さんは突然私の腕をグンとひっぱり、声を潜めて話しだす。
「ねぇ聞いた? 向かいの棟の山本さん。旦那さんがリストラされたらしいわよ。最近よく昼間に見かけるから、そうかなと思ってたのよ」
「へ、へぇ……」
「それに斜め下に住む星野さん。中学生の息子さんが不登校ですって。大変よね~」
「大変ですねぇ‥…」
それから林さんはうわさ話を好きなだけ話すと満足したのか早く学校に行きなさいよ、と言って階段を上っていった。林さんの姿が見えなくなった瞬間、私はとてつもない徒労感に襲われ、身体中の空気が抜けるほどの大きなため息をついた。
これが日中に魔法を使わない理由だ。もし魔法を使うところを林さんに見つかりでもすれば、次の日には団地中に「山田さんの娘は頭がおかしくなった」と言いふらされるだろう。それだけは絶対に避けなけれ……。
「って、こんなことしてる場合じゃないって!」
自分が遅刻しそうだという現実を思い出し、私は慌てて階段を駆け下りた。
走る勢いそのままに、改札に定期を叩くように押しつけて通過すると、すでにホームではあと数分で電車の到着を知らせるアナウンスが鳴っていた。
「よかった……、ぎりぎり間に合った」
私は胸を抑えて乱れた呼吸を整える。間に合ったといっても、駅から学校まではまた走らなければならない。私はよろよろと乗り込み口に立ち、カバンから水筒を取り出しほうじ茶を流し込む。いつもは同じ制服を着た学生たちでにぎわうホームだが、遅刻ギリギリの便に乗るのは私だけらしい。すると、少し離れたところに立つ他校の制服を着た男子の姿が目に入った。
あの子も遅刻しそうなのかな、と勝手に仲間意識を覚えながら水筒に蓋をするために目を離した瞬間、けたたましい警笛が鳴り響く。驚きふり向くと、先ほどまでホームに立っていた男子が線路へと落ちていた。先頭車両はすでにホームに進入しているが、男子は落下の衝撃で身体を強く打ちつけたらしく、うまく立ち上がれずにいる。急ブレーキの摩擦音が耳をつんざく。しかし、電車は減速しきれず男子めがけて突き進む。そのとき、私はとっさに水筒で宙に円を描き、叫んだ。
「時よ止まれ!」
その瞬間、騒がしかった音のすべてが消え、世界は止まった。私はおそるおそる近づくと、男子の目と鼻の先で電車は止まっており、私は安堵してその場にへなへなと座り込んだ。
さて、ここからどうしたものか。線路から出そうと男子に触れると、男子は動き出し私の正体がバレてしまう。しかし、このままなにもせずに時間を進めてしまえば、男子は電車に轢かれてしまう。
ためらいこそしたが、迷いはなかった。私は線路に降り立ち、目をぎゅっと閉じ身体を硬直させている男子の肩に触れる。すると男子はゆっくりと目を開け、となりに立つ私に気づくと、弾かれたように立ち上がる。
「だれ? っていうかなに? 俺死んだの?」
「死んでないよ。私が時間を止めたから」
時間を止めた、と聞こえた言葉をそのまま口にすると、男子は「そっか」と立ち上がる。
「時間っていつまで止められるの?」
「え」
「このまま学校の近くまで歩かない?」
「飲み込み早いね」
「まぁ、こんな状況だからさ」
そういうと、男子はホームに上がろうとせずそのまま線路の上を歩き出す。
「え、線路歩くの?」
「そのほうがまっすぐ次の駅まで行けるじゃん。それに前から線路の上歩いてみたかったんだよね」
くせっ毛を揺らしながらずんずんと先を行く男子は自分のことを岡崎遼太郎と名乗った。高校二年生で私の同級生だった。
「山田さんは、生まれた時から魔法が使えるの?」
「いや、魔法が使えるようになったのは最近。それに時を止める以外は全然ダメで」
「時を止めるって割とすごいことだと思うけど」
時が止まった世界では風が吹かないため、雲は流れず、形を変えず、ずっとそこにあり続ける。子どもが描いた絵のような空を岡崎くんは見上げる。
「でも、いいな。ここなら誰の目も気にしなくてもいいんだ」
岡崎くんは胸が膨らむほど空気を吸い、ゆっくりと吐きだす。
「それって最高だね」
岡崎くんの語尾が弾んでいる。あまりにも楽し気で、私を羨ましそうに思う発言に、私は逡巡しながらも口を開いた。
「じゃあ、また時を止めたら岡崎くんを動けるようにしようか?」
まただ。時が止まった世界は私だけの世界であり、だからこそ私の心のよりどころなのに、こんな提案をしてしまう。さっき知り合ったばかりの人に、私はどうしていい顔しようとしてしまうんだろう。自分から言っておきながら後悔していると、岡崎くんは静かに首をふった。
「ありがとう。でも大丈夫」
「え、なんで」
「ここは山田さんの居場所でしょ?」
「私の、居場所……」
岡崎くんの言葉が私の心を吹き抜ける。ただ、誰かに私の気持ちを理解してもらえたことが嬉しくて、気づいた時には先を歩く岡崎くんの袖をつかんでいた。
「いいの。一人じゃつまらないから」
思わず口をついた子どもじみた言い訳。恥ずかしくて、照れくさくて、驚く岡崎くんを置き去りに歩きだす。しかし、線路はかなり歩きにくく途中でなんども躓いた。
道路橋の下で、畳んだ傘で宙に円を描く。すると、鳴り続けていた雨音がぴたりと止まり、空を見上げると無数の雨粒が落ちることなく、空中で静止していた。やはり、杖は棒状であればなんでもいいのか。
初めて時を止めた日から数日、私は散歩中に魔法について調べていた。わかったことは、魔法は私が解くか、私が眠るまで効力が続くということ。時を止めている間に生物に触れると、その生物の時が動き出すということ。(これは静止している野良猫に触れた途端、急に動き出したことで偶然発見した)そして、魔法には杖がいるということ。しかし、棒状であれば木の棒でも傘でも、なんでもいいということだ。そういえばおばあちゃんも、魔法を使うのに特別な道具も呪文もいらないと言っていたっけ。
私はおばあちゃんを真似して、拳をぎゅっと握り再び傘で円を描く。
「飴よ出てこい」
ゆっくりと拳を開くが、そこにはなにもなかった。ほかの魔法も試してみたが、うまくいかなかった。ほうきで空を飛ぼうとしたが数センチしか浮かべなかったし、アニメの見よう見まねで魔方陣を描き、精霊を呼び出そうとしてみたがムニュムニュとした気持ちの悪いなにかが出てきて慌てて踏みつぶした。
そもそも私は高所恐怖症だし、生き物も猫以外はあまり好きじゃない。
おばあちゃんの言うとおり、魔法を使うためには強く念じることが大事なのかもしれない。空中に浮かんだままの雨粒を指で弾きながら、そんなことを考えていた。
翌朝。洗濯物を干し、二人分の弁当を作り終えると、瓶底メガネをかけたお母さんがリビングにやってきた。普段はウエディングプランナーとしてたくさんの結婚式を成功させ、女手一つで私を育てるバリバリのキャリアウーマンなのだが、よれよれのスウェットに半纏をまとい、寒い寒いと身体を縮こませているお母さんは、思い出の中のおばあちゃんよりも年老いて見える。
私は砂利のようなインスタントコーヒーの顆粒に熱湯を注ぎ、カップをお母さんの前に置く。
「おばあちゃんって、どんな人だった?」
急にどうしたの、とお母さんはカップにスプーンを差してかき回す。コーヒーのほろ苦い香りが湯気とともに立ち昇る。
「なんとなく」
「そうねー。不思議な人だったよ」
「不思議? どんな風に?」
もしかしてお母さんもおばあちゃんが魔女ってこと知ってる?
しかし、そんな私の予想とは違い、お母さんはコーヒーを一口すするとゆっくりと首をふった。
「それがね、あんまり覚えてないの。おばあちゃんとどこに行ったとか、どんな話をしたとか。ほら。そういうところも不思議でしょ?」
そういってお母さんは笑った。それはお母さんの記憶力の問題では、と思ったが言わないでおく。すると、今度はお母さんが私に尋ねてきた。
「最近どう? 学校楽しい?」
「ちょっと前よりは」
相変わらず、私はみんなにいい顔をしてしまうし、そんな自分を好きになれない。しかし、時が止まった世界で過ごす間は、私は息がしやすいと感じていた。誰もいない、私だけの世界がある。その事実が、私の心をちょっとだけ強くしていた。
「そう。ならよかった。でも、時間大丈夫?」
右斜め上に視線をうつすお母さん。私はお母さんの視線の先へ顔をあげると、壁時計の長針はいつも私が家を出る時間を五分も過ぎた時刻を示していた。
「やばっ!」
いたずらっぽく笑うお母さんを尻目に、私はお弁当箱をカバンに押し込み、どたどたと玄関を飛び出した。
夜のうちに雨は止み、秋晴れの朝日に目を眩ませながら団地の階段を一つ飛ばしで降りていく。本当なら時を止めたいけど日中は魔法を使わない。なぜなら。
「あら彩奈ちゃん」
「お、おはようござ……」
虎柄の服を着た一つ下の階に住む林さんは突然私の腕をグンとひっぱり、声を潜めて話しだす。
「ねぇ聞いた? 向かいの棟の山本さん。旦那さんがリストラされたらしいわよ。最近よく昼間に見かけるから、そうかなと思ってたのよ」
「へ、へぇ……」
「それに斜め下に住む星野さん。中学生の息子さんが不登校ですって。大変よね~」
「大変ですねぇ‥…」
それから林さんはうわさ話を好きなだけ話すと満足したのか早く学校に行きなさいよ、と言って階段を上っていった。林さんの姿が見えなくなった瞬間、私はとてつもない徒労感に襲われ、身体中の空気が抜けるほどの大きなため息をついた。
これが日中に魔法を使わない理由だ。もし魔法を使うところを林さんに見つかりでもすれば、次の日には団地中に「山田さんの娘は頭がおかしくなった」と言いふらされるだろう。それだけは絶対に避けなけれ……。
「って、こんなことしてる場合じゃないって!」
自分が遅刻しそうだという現実を思い出し、私は慌てて階段を駆け下りた。
走る勢いそのままに、改札に定期を叩くように押しつけて通過すると、すでにホームではあと数分で電車の到着を知らせるアナウンスが鳴っていた。
「よかった……、ぎりぎり間に合った」
私は胸を抑えて乱れた呼吸を整える。間に合ったといっても、駅から学校まではまた走らなければならない。私はよろよろと乗り込み口に立ち、カバンから水筒を取り出しほうじ茶を流し込む。いつもは同じ制服を着た学生たちでにぎわうホームだが、遅刻ギリギリの便に乗るのは私だけらしい。すると、少し離れたところに立つ他校の制服を着た男子の姿が目に入った。
あの子も遅刻しそうなのかな、と勝手に仲間意識を覚えながら水筒に蓋をするために目を離した瞬間、けたたましい警笛が鳴り響く。驚きふり向くと、先ほどまでホームに立っていた男子が線路へと落ちていた。先頭車両はすでにホームに進入しているが、男子は落下の衝撃で身体を強く打ちつけたらしく、うまく立ち上がれずにいる。急ブレーキの摩擦音が耳をつんざく。しかし、電車は減速しきれず男子めがけて突き進む。そのとき、私はとっさに水筒で宙に円を描き、叫んだ。
「時よ止まれ!」
その瞬間、騒がしかった音のすべてが消え、世界は止まった。私はおそるおそる近づくと、男子の目と鼻の先で電車は止まっており、私は安堵してその場にへなへなと座り込んだ。
さて、ここからどうしたものか。線路から出そうと男子に触れると、男子は動き出し私の正体がバレてしまう。しかし、このままなにもせずに時間を進めてしまえば、男子は電車に轢かれてしまう。
ためらいこそしたが、迷いはなかった。私は線路に降り立ち、目をぎゅっと閉じ身体を硬直させている男子の肩に触れる。すると男子はゆっくりと目を開け、となりに立つ私に気づくと、弾かれたように立ち上がる。
「だれ? っていうかなに? 俺死んだの?」
「死んでないよ。私が時間を止めたから」
時間を止めた、と聞こえた言葉をそのまま口にすると、男子は「そっか」と立ち上がる。
「時間っていつまで止められるの?」
「え」
「このまま学校の近くまで歩かない?」
「飲み込み早いね」
「まぁ、こんな状況だからさ」
そういうと、男子はホームに上がろうとせずそのまま線路の上を歩き出す。
「え、線路歩くの?」
「そのほうがまっすぐ次の駅まで行けるじゃん。それに前から線路の上歩いてみたかったんだよね」
くせっ毛を揺らしながらずんずんと先を行く男子は自分のことを岡崎遼太郎と名乗った。高校二年生で私の同級生だった。
「山田さんは、生まれた時から魔法が使えるの?」
「いや、魔法が使えるようになったのは最近。それに時を止める以外は全然ダメで」
「時を止めるって割とすごいことだと思うけど」
時が止まった世界では風が吹かないため、雲は流れず、形を変えず、ずっとそこにあり続ける。子どもが描いた絵のような空を岡崎くんは見上げる。
「でも、いいな。ここなら誰の目も気にしなくてもいいんだ」
岡崎くんは胸が膨らむほど空気を吸い、ゆっくりと吐きだす。
「それって最高だね」
岡崎くんの語尾が弾んでいる。あまりにも楽し気で、私を羨ましそうに思う発言に、私は逡巡しながらも口を開いた。
「じゃあ、また時を止めたら岡崎くんを動けるようにしようか?」
まただ。時が止まった世界は私だけの世界であり、だからこそ私の心のよりどころなのに、こんな提案をしてしまう。さっき知り合ったばかりの人に、私はどうしていい顔しようとしてしまうんだろう。自分から言っておきながら後悔していると、岡崎くんは静かに首をふった。
「ありがとう。でも大丈夫」
「え、なんで」
「ここは山田さんの居場所でしょ?」
「私の、居場所……」
岡崎くんの言葉が私の心を吹き抜ける。ただ、誰かに私の気持ちを理解してもらえたことが嬉しくて、気づいた時には先を歩く岡崎くんの袖をつかんでいた。
「いいの。一人じゃつまらないから」
思わず口をついた子どもじみた言い訳。恥ずかしくて、照れくさくて、驚く岡崎くんを置き去りに歩きだす。しかし、線路はかなり歩きにくく途中でなんども躓いた。



