「本当に、彩奈はいい子だね」
自分を褒めているはずの言葉が、私の心を蝕むようになったのはいつからだろう。
鏡に映る自分に洗剤を吹きつけ、湿った雑巾で乱暴にぬぐう。鏡がきれいになっても、私の心は曇ったままだ。
放課後のトイレ掃除を命じられたのは、同じクラスの派手な女子グループだった。遅刻や校則違反のメイクなど、小さな罪を積み重ね、生活指導の教師によって罰として命じられていた。そのことをすっかり忘れ、帰宅前に女子トイレに入った私を派手な女子たちは見逃さなかった。
バイトがある。彼氏と約束がある。家族が病気だから早く帰らないと。
嘘か本当か分からない放課後の予定を口々に言いあう女子たち。その会話に私は入っていないが、私の耳に入るように話しているのが、背中越しにも伝わる。
私は耐え切れず振り返り、女子たちに声をかける。
「私やっとくよ」
「ほんとに!? マジ助かる!」
女子たちは安堵と喜びを隠そうともせずに、キャッキャと騒ぐ。
変わってくれと頼んだわけでも、変われと強要したわけでもない。あくまでも私から申し出があったからトイレ掃除を変わった。その口実が、女子たちは欲しかったのだ。
掃除道具をそのままに、特に急ぐ様子もなくトイレを後にする女子たちと入れ違うように同じクラスの杉本真理が入ってきた。
「なんで山田さんが掃除してんの」
「まぁ、いろいろと」
曖昧に答えると、杉本さんは鏡の前で髪を整え、そのまま鏡越しに私に視線を向ける。
「ほんと、山田さんっていい子だね」
じゃ、とトイレから出ていく杉本さんに、私はなにも言えなかった。
深夜2時すぎ。
ベッドから起き上がり、事前に準備していたコートを羽織る。部屋を出ると、隣の部屋からお母さんの寝息がかすかに聞こえた。私は息をひそめ、玄関をゆっくりと閉じる。
足を踏み出すたびに、秋の夜風が身体を冷ます。散歩のルートは特に決まっていない。眠たくなるか、朝日が昇るまで私はひたすら歩き続ける。いつしかそれが私の日課になった。
──ほんと、山田さんっていい子だね。
「杉本さんの言うとおり、私はいい子だよ」
常に他人の顔色を伺い、機嫌を取ろうと動いてしまう自分は。
「私は、みんなにとって都合がいい子なんだよ」
私はカーブミラーに向かって、放課後に言えなかった言葉を返す。そこに杉本さんの姿はなく、歪んだ自分が映っているだけだった。
自分の気持ちに蓋をして、誰に対してもいい顔をしてしまう自分。
日和見主義で、その場の流れに身を委ねてしまう自分。
そんな自分が、私は嫌いだ。
自分のことを嫌いだと思うたびに、私は眠れなくなった。学校に行くことが、明日を迎えるのが、憂鬱でたまらなかった。
「このまま朝が来なければいいのに」
河川敷に腰掛け、私は子どもじみた願いを口にすると、数年前に亡くなったおばあちゃんの顔が頭に浮かんだ。
鼻が高く、深いしわが刻み込まれたおばあちゃんは絵本や漫画に出てくる魔女によく似ていた。シンデレラに魔法をかける魔女ではなく、白雪姫に毒りんごを食べさせる、そんな魔女にそっくりだった。
『おばあちゃんって、魔女なの?』
小さかった私は恐る恐るおばあちゃんに正体を尋ねた。すると。
『そうだよ。私は魔女だよ』
目を見開く私に向かって、おばあちゃんはなにも持っていないことをアピールするように両手をひらひらと見せて、そのまま左手をぎゅっと閉じる。
『ここから、飴が出てきたらすごいと思わない?』
おばあちゃんは特別なことを教えるように声を潜めてそういうと、これでいいか、とペン立てから一本のボールペンを手に取る。ボールペンでゆっくりと宙に円を描き、ペン先で拳にそっと触れる。
『飴よ。でてこい』
拳がゆっくりと開かれると、花柄の包装紙に包まれた飴玉が出てきた。
今にして思えば簡単な、子ども騙しの手品だったのだろう。だけど、子どもだった私にとって、それは間違いなく本物の魔法だった。
『すごい! 私も魔法使いたい!』
『彩奈にはまだ早いよ』
『えー。じゃあどうやったら魔法が使えるの?』
『魔法を使うのに特別な道具も呪文もいらないよ。ただ強く念じて、そして……』
私は落ちていた木の棒を杖に見立て、おばあちゃんのように宙に円を描く。
「時よ止まれ」
…………。
…………。
なにやってんだろ、私。
杖を投げ捨てスマホで時刻を確認すると三時十七分と表示されていた。そろそろ帰ろうと立ち上がると、違和感を覚えた。
静かすぎる。私はしばらく耳を澄ましたが、先ほどまで聞こえていたはずの川の流れる音も、対岸へとかかる道路橋を走る運送トラックのエンジン音も、昼夜問わず稼働し続けている工場から響きわたる金属音も、なにも聞こえなかった。
私は落ち着かない気持ちのまま、ユーチューブを開き、最初に表示された動画をタップした。かなり前にチャンネル登録したまま、最近は試聴していなかったユーチューバーがあの頃と変わらないヘンテコな挨拶をしている。
よかった、耳がおかしくなったわけではないらしい。私は安堵しつつ、動画を停止すると画面の左上に小さく表示された時刻が目に止まった。
三時十七分。
ついさっき、五分前くらいも同じ時間だったはずなのに。スマホが壊れた? でも、動画は再生できているし、そのほかの機能にも異常は見当たらない。ただ、時計だけが止まって……。
その可能性に気づいた瞬間、私は息をのんだ。もしかして。
「時間が、止まってる……?」
自分を褒めているはずの言葉が、私の心を蝕むようになったのはいつからだろう。
鏡に映る自分に洗剤を吹きつけ、湿った雑巾で乱暴にぬぐう。鏡がきれいになっても、私の心は曇ったままだ。
放課後のトイレ掃除を命じられたのは、同じクラスの派手な女子グループだった。遅刻や校則違反のメイクなど、小さな罪を積み重ね、生活指導の教師によって罰として命じられていた。そのことをすっかり忘れ、帰宅前に女子トイレに入った私を派手な女子たちは見逃さなかった。
バイトがある。彼氏と約束がある。家族が病気だから早く帰らないと。
嘘か本当か分からない放課後の予定を口々に言いあう女子たち。その会話に私は入っていないが、私の耳に入るように話しているのが、背中越しにも伝わる。
私は耐え切れず振り返り、女子たちに声をかける。
「私やっとくよ」
「ほんとに!? マジ助かる!」
女子たちは安堵と喜びを隠そうともせずに、キャッキャと騒ぐ。
変わってくれと頼んだわけでも、変われと強要したわけでもない。あくまでも私から申し出があったからトイレ掃除を変わった。その口実が、女子たちは欲しかったのだ。
掃除道具をそのままに、特に急ぐ様子もなくトイレを後にする女子たちと入れ違うように同じクラスの杉本真理が入ってきた。
「なんで山田さんが掃除してんの」
「まぁ、いろいろと」
曖昧に答えると、杉本さんは鏡の前で髪を整え、そのまま鏡越しに私に視線を向ける。
「ほんと、山田さんっていい子だね」
じゃ、とトイレから出ていく杉本さんに、私はなにも言えなかった。
深夜2時すぎ。
ベッドから起き上がり、事前に準備していたコートを羽織る。部屋を出ると、隣の部屋からお母さんの寝息がかすかに聞こえた。私は息をひそめ、玄関をゆっくりと閉じる。
足を踏み出すたびに、秋の夜風が身体を冷ます。散歩のルートは特に決まっていない。眠たくなるか、朝日が昇るまで私はひたすら歩き続ける。いつしかそれが私の日課になった。
──ほんと、山田さんっていい子だね。
「杉本さんの言うとおり、私はいい子だよ」
常に他人の顔色を伺い、機嫌を取ろうと動いてしまう自分は。
「私は、みんなにとって都合がいい子なんだよ」
私はカーブミラーに向かって、放課後に言えなかった言葉を返す。そこに杉本さんの姿はなく、歪んだ自分が映っているだけだった。
自分の気持ちに蓋をして、誰に対してもいい顔をしてしまう自分。
日和見主義で、その場の流れに身を委ねてしまう自分。
そんな自分が、私は嫌いだ。
自分のことを嫌いだと思うたびに、私は眠れなくなった。学校に行くことが、明日を迎えるのが、憂鬱でたまらなかった。
「このまま朝が来なければいいのに」
河川敷に腰掛け、私は子どもじみた願いを口にすると、数年前に亡くなったおばあちゃんの顔が頭に浮かんだ。
鼻が高く、深いしわが刻み込まれたおばあちゃんは絵本や漫画に出てくる魔女によく似ていた。シンデレラに魔法をかける魔女ではなく、白雪姫に毒りんごを食べさせる、そんな魔女にそっくりだった。
『おばあちゃんって、魔女なの?』
小さかった私は恐る恐るおばあちゃんに正体を尋ねた。すると。
『そうだよ。私は魔女だよ』
目を見開く私に向かって、おばあちゃんはなにも持っていないことをアピールするように両手をひらひらと見せて、そのまま左手をぎゅっと閉じる。
『ここから、飴が出てきたらすごいと思わない?』
おばあちゃんは特別なことを教えるように声を潜めてそういうと、これでいいか、とペン立てから一本のボールペンを手に取る。ボールペンでゆっくりと宙に円を描き、ペン先で拳にそっと触れる。
『飴よ。でてこい』
拳がゆっくりと開かれると、花柄の包装紙に包まれた飴玉が出てきた。
今にして思えば簡単な、子ども騙しの手品だったのだろう。だけど、子どもだった私にとって、それは間違いなく本物の魔法だった。
『すごい! 私も魔法使いたい!』
『彩奈にはまだ早いよ』
『えー。じゃあどうやったら魔法が使えるの?』
『魔法を使うのに特別な道具も呪文もいらないよ。ただ強く念じて、そして……』
私は落ちていた木の棒を杖に見立て、おばあちゃんのように宙に円を描く。
「時よ止まれ」
…………。
…………。
なにやってんだろ、私。
杖を投げ捨てスマホで時刻を確認すると三時十七分と表示されていた。そろそろ帰ろうと立ち上がると、違和感を覚えた。
静かすぎる。私はしばらく耳を澄ましたが、先ほどまで聞こえていたはずの川の流れる音も、対岸へとかかる道路橋を走る運送トラックのエンジン音も、昼夜問わず稼働し続けている工場から響きわたる金属音も、なにも聞こえなかった。
私は落ち着かない気持ちのまま、ユーチューブを開き、最初に表示された動画をタップした。かなり前にチャンネル登録したまま、最近は試聴していなかったユーチューバーがあの頃と変わらないヘンテコな挨拶をしている。
よかった、耳がおかしくなったわけではないらしい。私は安堵しつつ、動画を停止すると画面の左上に小さく表示された時刻が目に止まった。
三時十七分。
ついさっき、五分前くらいも同じ時間だったはずなのに。スマホが壊れた? でも、動画は再生できているし、そのほかの機能にも異常は見当たらない。ただ、時計だけが止まって……。
その可能性に気づいた瞬間、私は息をのんだ。もしかして。
「時間が、止まってる……?」



