『ねぇちはやくん!わたしといっしょに絵を描こうよ!』
千颯がこの町にやって来たあの日、少し俯く千颯を見て声をかけたの。
絵を描くのが好きだったから、絵を描いてる間は何もかも忘れて夢中になれるから…
きっと千颯も忘れられるよって。
私が教えてあげる、きっと楽しくて夢中になっちゃうからー…
****
「千颯、コンテストの絵描けた?」
「まだ」
「今週提出だよ、描けそ?」
「そうゆう咲茉は描けたのかよ」
「あとちょっと」
美術部の活動は週3回、あとは基本自由でコンテストに出す絵さえ完成させられたら来ても来なくてもいい。
でも暇だから毎日来ちゃう、こうしてキャンバスに向かってる時間は何より好きな時間だから。
美術室で千颯と向き合って絵を描く、目の前のキャンバスで顔は見えないけど筆のこすれる音を聞きながら千颯を感じて。
今日は自由参加の日だから私たちしかいないしね。
「そいうえば進路希望の提出もうすぐだよね」
「明後日だな」
「そんなに早く決められなくない?まだ全然先のことなのに」
「来年受験だぞ、全然先じゃねぇよ」
もう来年…か、来年の私はどうしてるんだろ?来年もたぶん絵を描いてる、かな?
そんな未来しか見えない、そんな未来がいい。
筆に絵の具をつけて塗っていく。色を重ねたり、水で薄めたり、丁寧にゆっくりと。
一瞬息が止まりそうになる、この瞬間が私は好き。
何もかも忘れて無になる瞬間、夢中になれる瞬間が…
「千颯は決まってるの?」
「ん?」
「進路!」
「あー…決まってない」
自分がどうなりたいか、なんてみんなそんなもの…
どうやって決めるんだろう?決めていいのかな?自分のことなんだから自分で決めるのがあたりまえなんだけど…不安になるばっかりだ。
だけど、もしかして叶うなら…
「私は絵の大学か専門学校に行きたいんだよね」
「咲茉は決まってるのかよ」
「夢ね、夢!もっと絵描きたいし、絵を仕事にしたなぁ~って」
画材の香りが立ち込めるこの教室で、こんなことを言うのは簡単で。
「でも、ちょっと勇気ないじゃん」
これだけでいいのかなって、好きなだけでいいのかなって。
進路を聞かれるたびに迷ってしまう、みんなこれで一生が決まるみたいな言い方をするから。
「ねぇ千颯も一緒に行かない!?」
ふと思いつきで、何気なく言ってみた。不安だった気持ちを晴らすみたいに。
「一緒のところ行こうよ!千颯も絵描くの好きじゃん!上手いし、千颯なら絶対受かるし!」
「いいよ」
「即答!?」
「おぅ」
ひょこっとキャンバスから顔をのぞかせて千颯の方を見た。真剣な顔をして向き合っていた千颯だったけど顔を出した私の方を見てふっと笑った。
「じゃあ絶対だよ!」
ほら、変わった。不安だった気持ちが消えていくの、千颯がいれば変わる。
急に勇気が湧いてくるみたいに楽しみになった。
これからが、未来が、一気に光に照らされた気がして。私ってば単純すぎる。
もう一度キャンバスと向かい合って前を向く、筆を持ったまま次はどこを塗ろうかなって考えながら。
「…大学と専門学校だったらどっちがいいかなぁ?千颯はどっちがいいと思う?」
「どっちでもいい」
「そこもっと意見ないの?」
「いいよ、どこでも」
いいのか、いや私が言ったんだけどさ。
一緒のところ行こうよって、でもどこでもいいって…
「こうして描けたら、どこでもいい」
……。
あ、そっか。そうだね、そうだよね。
私も、この先もこうしていられるならどこでもいいよ。
ずっと絵を描きたい、いつかそれで認められる日が来ますように…
なんてね。
だって千颯がいたら心強いし。
****
「ただいま」
玄関のドアを開けたらキッチンの方から“おかえり~”って声が返って来た。
いい匂いがする、今日はシチューかな。お母さんの作るビーフシチューはおいしいからね。
「……。」
ローファーを脱いでスリッパに履き替えると目の前に飛び込んでくるのは飛行機の絵。私が小学生の頃描いた絵が額縁に飾ってある、まるでお出迎えしてくれるみたいに。
「これいつまで飾る気なんだろ」
橋本咲茉、小学2年生。金賞。
地元の絵のコンテストに応募して賞を取った私の絵。
いつ見ても堂々として、我ながらよく描けたなぁって懐かしい思いにふける。
わざわざこんな額縁に入れるくらいなんだからお母さんも張り切ってたな。地元のコンテストだけど新聞に名前も載ったもんね。
これはまだ千颯と会う前の絵。
「もうご飯だから着替えて来なさいよ」
ダイニングの方へ向かうと今日はやっぱりシチューだった。テーブルにはサラダとパンも置いてあって急にお腹が空いてきた。
「うん、すぐ行ってくる」
階段を上がって自分の部屋へ、制服からテキトーな服に着替えてもう1度ダイニングへ向かった。
シチューも並べられた自分の席に座る。今日もお父さんは仕事で遅くなるっぽい、だからお母さんと2人向き合って手を合わせた。
スプーンですくってひとくち。うん、おいしい。
おかわりしよ、食べ終わる前からそう決めてふたくちめをスプーンですくった。
「咲茉、進路希望調査は出したの?」
「あ…まだ出してない」
「どうするか決めたの?とりあえず短大でも大学でも出といた方がいいから、お父さんも言ってたし」
「……。」
お父さんはそれなりの大学を出て今はサラリーマンをしてる。お母さんは大学へは行かず高校を卒業して就職した。そんな話を何度も聞かされた。
だから私にはとりあえず大学へ行ってほしいらしい。それも普通の、いや普通ってわかんないけど。
「私…、美大に行きたいんだけど」
ぼんやりと思いながらも言えなかったことを初めてお母さんの前で言ってみた。ずっと思っていたけど勇気がなくて口にできなかったっていうか、でも今日なら今ならいえる気がして。
「美大?美大なんか行って何するの?」
これは普通じゃないらしい、専門学校はダメって言われるかなって美大って言ったのに。
「絵の勉強がしたいの、もっと勉強してもっと描いてそれでっ」
「それからどうするの?」
「え?」
お母さんがはぁっと息を吐いた。食べようとしたシチューも口に入れないでそのまま手をおろして。
「絵の世界なんて成功するのはほんの一握りなんだからやめときなさい」
だからずっと言えなかったのに。やっぱり言わせてもらえないんだ。
「普通の大学にしなさい」
だから普通ってなに?絵を学びたいのは普通じゃないの?
私の夢は叶える努力さえさせてもらえないんだ。
私の未来はどう作っていけばいいんだろう、わからないよ。
****
「ってお母さんに言わた」
「だろうな、現実的じゃねぇからな」
次の日、美術室で千颯に話したらこれも即答された。しかも私の方を見向きもしないでずっとキャンバスに向かって塗ってるし。
「昨日はいいよって言ったじゃん!千颯も行くって!」
「言ったけど、そんな甘くない世界ってことはわかってるだろ」
「…。」
そんなの…私だってわかってるよ。わかってるから言えなかったんだもん。
だけどそれでも絵が好きだから、描くことをやめられないからもっと目指したいんだもん。
「…って本気で思ってるんだけどなぁ」
窓際で頬杖をつきながら外を見てふぅーっと息を吐く。
1階の美術室はちっとも景色はよくないけど、しかも校舎奥にあるから見えるのは裏山だけ。空気は澄んでるか、なんとなくそう感じる。
「俺も思ってるよ」
千颯が塗り終えたのか筆を洗うバケツ、筆洗に筆を浸けた。真っ直ぐ絵の方を見て真剣な眼差しで。
「咲茉が行くなら俺も行く、本気で」
その瞳のまま私の方を見るから。
「本気でって」
思わずくすって笑っちゃった。
千颯だけだもん、そんなこと言ってくれるの。千颯だけだよ。
「つーか描けたのか?全然描いてないじゃん」
「できたよ!完成した!」
窓からタタッと移動して絵の前に立った。
コンテストに向けて毎日少しずつ描いた作品、ちょーっと書き直したりもしたけどやっと完成した。一生懸命向き合って描いたおかげでいい絵になったと思うし、自分で言うのもあれだけど。
「今年こそは賞を取るんだ」
出来上がった絵を上から下に、下から上にじーっと見てコクンと頷いた。
そしたらきっとお母さんも認めてくれる。進むことができると思うんだ。
「千颯も描けた?」
「あぁ、あとちょっと」
「じゃあできたら見せてもらお!」
完成した絵をそのままにもう1枚画用紙を持ってきた。棚から余っていた画板を持って来て画用紙を挟んで、筆箱から鉛筆を取り出して手に持った。
「まだ描くのか?」
「うん、まだ部活中だし!」
今日は美術部の活動日だから私たち以外も参加してる、だけど絵なんて基本個人活動だからね各々好きなように自分のペースで描くのが部活動で。それ見て先生もうんうんって満足気だもん。
「千颯は今年も賞取れそう~?去年取ってたじゃん、特別賞!」
「あんなの偶然だよ」
「いやいや、すごいよ」
真っ白な画用紙を見るのはぐわーってテンションが上がる。
何を描こうかなってワクワクして最初に描き始めるこのひと描きがたまんないよね。何もかも自分で描ける気がするから。
「俺は咲茉のがよかったと思うけど」
「でも私何も選ばれてないし」
「じゃあ審査員のセンスがねぇ」
「え、審査員ディスり!?自分賞もらってるのに!」
私は高校に入ってまだ一度も賞を取ったことがない。
それでも毎日描くのが楽しくて、ここへ来てる。絶対次こそは!って思いながら。
「あの色使いをわかってねぇんだよ、色選びと塗り方があざやかで繊細な表現してんのに」
「ありがとう、そんなに言ってくれて」
「構図だって視点が独特だし、そんな描き方もあるんだって発見になるしあれで賞取れないとか」
「褒めすぎだからそれ、逆に恥ずかしい」
そう言ってくれるのは嬉しいけど、そこまで言われるとなんていうか…
「本気で思ってるんだよ」
……。
本当に千颯だけ。
千颯はいつも私を見てくれるよね。
だから楽しいの、こうしていられる時間が好きなの。
やっぱりまだ先のことは考えたくないかも。
千颯とこうして絵を描いていたい。
うっとおしいすべてを忘れて、絵を描いていたい。
部活が終わったら一緒に帰る、どーせ家はお隣さんだからね帰るところほとんど同じだもんね。
まだ明るい夕方6時を過ぎたところ、お腹空いたねなんて話して今日って宿題何があったっけ?って思い返してそんな他愛もないことを喋りながら家に帰る。
千颯とは小学生の頃からこんな感じ、千颯がここに来てからずっと…
「おかえり」
「あーっ、千鶴ママ!ただいま~!」
「咲茉ちゃんおかえり、千颯も」
「ただいま」
千颯の家の前に来ると千鶴ママがちょうど買い物から帰って来たところに居合わせた。手にはエコバッグを持って、家の中に入るところだった。
「持つよ、母さん」
それにサッと手を伸ばして千鶴ママからエコバッグを持っていく。
すごいナチュラルだ、たぶんいつもしてるんだろうなぁって思わせるくらい自然だった。じゃあっと私に言うと、そのまま家の中に入って行った。
うん、すっごいナチュラル!
「咲茉ちゃん、いつもありがとうね」
「え?」
千颯が中に入って行くのを確認して千鶴ママが私の方を見たから。
「咲茉ちゃんのおかげ、千颯がこの町に馴染めたのも毎日楽しそうなのも」
千颯がここへ来たのは小学校3年生の頃、お父さんと離婚して千鶴ママとここへやって来た。千颯のおばあちゃんが住んでるこの町に。
「内気な子だったから心配してたんだけど、咲茉ちゃんが声をかけてくれたから」
今もあの頃も絵を描くのが好きだった私は一緒に絵を描こうって誘ったの。絵を描くのに言葉はいらないし、喋らなくても一緒んに遊べるからって…
いつも下を向いていた千颯が気になってたから。
「咲茉ちゃんのおかげね、ありがとうね」
知らない町に来た千颯も怖かったと思うんだ。
でも私は嬉しかったの、千颯が来てくれたこと。
今もずっと嬉しいよ。
だから顔を上げて、私と一緒にー…
「次の授業物理かよだりぃな」
って喋ったら喋ったらで案外口悪いとは思わなかったけど。
「眠くなるよなー、何言ってるか全然わかんねぇし」
それは私もわからないから同意。
午後の授業が始まるお昼休み、開けた窓から顔を出して風に当たっていた。2階にある教室は美術室より景色はいい、ほとんどグラウンドだけど。
「すでに超眠い」
ふぁーっと千颯があくびをした。窓に背を向けてもたれながら、そんな横顔を見てた。
「ねぇ今日も部活行く?もうコンテストに出すやつ描き終わっちゃったけど」
「行くよ」
私が見てたのに気づいた千颯がこっちを向いた。だから目が合ってしまって。
「行くだろ、咲茉も」
少し恥ずかしくなっちゃった。
「行く!」
ふって、笑うから。私を見て笑うから。
こそばゆい気持ちになって。
「ねぇ千颯」
「ん-」
「絵描くの楽しい?」
「楽しい」
春風が気持ちいい。
「咲茉は?」
まだ先のことなんてわからないけど、私には絵がある。好きなものがある。
「私もめーっちゃ楽しい!」
千颯がいる。
だから今日も描いて、それでよかった。
それがよかった。
飾られた千颯の絵を見るまでは。
「咲茉っ!」
あれから数ヶ月、コンテストの結果出た。
認められたくて、進みたくて、必死になって描いた絵の答えが出た。
「千颯…」
私のもとへ駆け寄って来た。
ぼぉーっと絵を見つめる私のもとへ…部活の一環としてコンテストに出した絵は学校に飾られる。
もれなく全員飾られてその下に名前が貼られる、受賞した賞と一緒に。
井上千颯、最優秀賞。
1番優れた人に贈られる賞が千颯の名前の隣に書いてあった。
「咲茉っ」
「千颯、すごいね今年も賞取ってるじゃん」
「あのっ」
「しかも1番すごい賞!すごいね!」
「咲茉…っ」
「千颯はすごいよ…」
私の名前の隣には何も書いていない。
私は、今年も落選だ。
「ごめん、今日は帰るね!部活休むからテキトーに言っといてよ!」
「咲茉っ」
あぁ、今年もダメだった。
今年も私はダメだった。
私ってどうして絵を描きたいんだっけ?
どうして描いてるんだっけ?わからなくなっちゃったな。
****
「咲茉、進路はどうするか決めたの?」
「……。」
お風呂から出て2階へ行こうとして階段を一段上ったとこだった。
そーいえば春にちょっと都会の美大を書いて出したらお母さんに怒られて先生も困ってたなぁ。あれはあれで本気で書いたのに即却下されちゃって、でもまだ2年生の始めだからもう少し視野を広げて考えてみようって諭された。
あれからもう冬…そろそろ本気で考え始めないと、いけないのかな。
「美大なんてやめてね、もっと現実的なこと考えて決めなさいよ」
そんなのもうわかってるよ、何度も聞いた。
それに私はもうー…
「千颯くんは海外行くみたいね」
テキトーに返事をして階段を上がって行こうと思った足が止まった。
え?千颯が海外…?
「何それっ」
階段を下りてお母さんを追いかけた。
そんな話知らない、そんなの聞いてない…っ
千颯が海外なんて…!
「こないだのコンテストで賞取ったから留学の話が来てるって千鶴さんが言ってたわよ。千颯くんのこと凄く評価してくれた教授がいたみたいでね、ぜひうちの学校にって」
……。
そんなこと全然知らなかった。そんなことになってたなんて、千颯なんにも言ってなかったじゃん。
「凄いわね千早くん、才能あったのね」
そんなこと私には全然…
****
次の日の朝はとっても寒かった。息を吐けば白く舞って、頬が冷たく凍てついて、12月ってそんな季節だっけな。
「おはよ、咲茉」
「千颯…、おはよう」
それなのに千颯は変わらなくて、いつものように家の前で待っていた。
お隣さんだから、学校だって一緒だから、いつもこうして並んで歩いて…こんなに一緒にいたのにそんな話1つも聞いたことがなかった。
「今日さみぃな、2限目体育とか萎えるし」
「……。」
「マラソンだぞ、なんで冬ってマラソンなんだろうな誰だよ考えたやつ」
「…。」
「咲茉、聞いてんの?」
足が止まってしまう。見たくもないのに足元ばかり見てしまって…きゅっと制服のスカートを掴んだ。
「…聞いてないよ」
「聞いとけよ、隣で喋ってんだから」
「聞いてない!千颯が海外行くなんて聞いてない!」
「…っ」
無理にでも顔を上げた。
こんなに寒いのに目元が熱くて、少しでも瞳が揺れたら涙がこぼれそうだった。
「海外…行くとか、私聞いてないんだけど。そんな話、いつの間に…」
あ、やばい。下を見たらやばい。
上を見なきゃ、でも千早颯の顔を見たら…
「行かねぇよ、海外なんか」
俯きそうになった、でもその言葉にピクリと止まってしまって。
「俺は咲茉と美大に行く」
「ちょっと何言って…っ」
「咲茉が言ったんだろ」
“ねぇ千颯も一緒に行かない!?”
夢を見てた、漠然とした夢だった。
まだなんでもできると思ってた、あの頃は。
「…言ったけど…でもちょっと現実的じゃなかったかなーって、もっとちゃんと考えた方がよくない?将来って大事じゃん、そんなテキトーに」
「本気じゃなかったのかよ!」
グッと刺さる、胸をえぐって来るみたいに突き上げられた。
本気、だった。
確かに私の気持ちはそうだった。
だけど今は覚えがないくらい、私そんなこと言ってた?
「じゃあ…千颯は海外行かないの?」
「行かない」
「たくさん勉強できるんだよ、もっといろんなことできるし学べるしここにいたら知らないこといっぱいあって…」
「それでも行かない」
千颯の目は真っ直ぐだった。
瞬きもしないで迷いのない瞳は力強く私を見ている。私の方がどうにかなってしまいそうなくらい。
「千颯、絵描くの好きなんでしょ?」
“絵描くの楽しい?”
“楽しい”
きっと千颯もそうなんだと思ってた。
おんなじなんだと思ってた。
いつも一緒にいたから。
「俺は絵なんかどうでもいい、咲茉といれたらそれでいい」
いつも一緒だったから…
前に立って私だけを見てる、逸らすことなく貫くような瞳に息を飲んだ。その眼差しが、痛くて。
「どうして…」
必死に堪えていたのに。寒さで誤魔化せたらいいのにって思ってたのに。
次に声を発しったらこぼれてしまうから。
「そんなこと言うの?」
一度こぼれた涙は次から次へと溢れてくるだけで止まることを知らないのにね。
私の涙を見て少しだけ千颯が驚いたような顔をした。真っ直ぐ前を見ていた瞳が大きくなって、顔がゆがんで…でもそれ以上は見られなくて。
「咲茉…っ!」
走り出してしまったから、その場から逃げるみたいに駆け出した。
流れてくる涙も気にしないで、冷たい風のせいで赤くなる頬の上を流れる涙を流し続けた。
走って、走って、息が切れるほどに全力で…
「…っ」
苦しくて、胸が痛い。詰まる声が邪魔をして息がうまくできない、ひっくひっくと小刻みに震えることしかできない。
こんなことしかできないの、私には。
千颯、なんでそんなこと言ったの?
どうして言えたの?
そんなこと言わないでよ。
私といれたらいいだなんて、簡単に言わないでよ。
「なんで…っ」
学校へ行くつもりだったのに、気づけば全然違うところに来ていた。ただ無我夢中で走って来たからいつもは来ないようなとこまで来てしまっていた。
でも周りを見る気にもなれない。
はぁはぁと乱れる息で揺れる体を必死に保って、それでも涙は止まらなかった。
本当は私わかってたの。
もう気づいてた、自分のことだもん知ってたよ。
知ってたの…
私に才能なんかない。
そんなのとっくの昔にわかってた。
小学生の頃みたいに夢中に描けないの。
何を描いたらいいかわからないの。
ただ描くのが楽しくて何でも描けるって信じてたあの頃の私はどこへ行ったんだろう?
もう忘れちゃった。
私、何もなくなっちゃった。
****
「咲茉、あんた最近部活は?帰って来るの早くない?」
「んー…もう引退したよ」
「そうなの?まだ2年生じゃない」
「でももうすぐ受験生だし、文化部はもうみんな引退してるよ」
なんて、息を吐くように嘘をついた。
実際は高校3年生の夏とか秋とかそれぐらいまである、美術部は春のコンテストの結果が出た頃が引退の時期だし。
本当だったら、絵を描いてる時だ。高校最後のコンテストに向けて必死にキャンバスに向かってる頃だ。本当、ならね。
でも描けなくて、何も浮かんでこなくて、鉛筆を持つのをやめた。あんなに好きだったのに、絵を描いてる間は何もかも忘れられた大好きな時間だったのに…
今は絵を描くことを忘れちゃった。
楽しくなくて、暗闇みたいで、
ずっと隣にいた千颯にも会えなくて。
「あ、おはよう咲茉ちゃん」
「千鶴ママ…おはよう」
うわ、気まずいっ。
家を出たら会ってしまった…
お隣さんだからこんなこともあるんだけど、いつもは全然気にしないけどこの時間は会いたくなかった。この時間に植木鉢の水やりしてるんだ。
「今日早いのね、今千颯呼んでくるから待ってて」
「あ、大丈夫!お構いなく、全然…っ」
これはわざとだから、千颯に会いたくなくてわざと先に家を出てる。
もうずっとこんな日々だった。
千颯だってわかってるはずだよ、私が避けてたこと…
「あ、そうだ咲茉ちゃん…千颯から何か聞いてない?」
持っていたジョウロを置いて家のドアを開けようと伸ばした手を止めて振り返った。
「何かって…何を?」
「留学のこと、聞いてないかな?」
留学…海外へ行く話だ。でも何も聞いてないどころか、話してないから。
「こないだ先生から電話があって考え直せませんか?って言われちゃって…」
「あー、千颯行かないって言ってたもんね」
「咲茉ちゃんは聞いてたの?」
「え…?」
千鶴ママが目を丸くした、千鶴ママは何も知らなかったみたいで。
「やっぱり咲茉ちゃんには言ってたのね」
「…っ」
「私には何も言わないから」
言ってなかったんだ、千鶴ママに。いや、それは言うべきでしょ大事な話なんだから何黙ってるの。
「全部勝手に決めて勝手に断っちゃうんだから…、千颯のことだけど私のことでもあるのに」
「……。」
「行きたくないのよね、千颯は」
千颯は本当に行かないつもりなんだ。
行かなくていいんだ…千颯はそれで、千颯にとってそんなものなのかな?千颯は本当に…
「行きたくないのはいいの、それは千颯が決めることだし生活が変わるのは不安もあるからまた新しい生活になると悩むこともあると思うし…」
思い出すから、千颯がここへ来た日のことを。まだ幼かった私たちが出会った日のことを。
「でも毎日絵を描いてるの」
「え…?」
「学校でも描いてるのに家でもずーっと描いてて一生懸命なのよ」
千鶴ママが微笑んだ。
きっと千颯のことを思って。思い出して、千颯が絵を描く姿に思いを馳せた。
「せっかく好きなこと見つけて、やりたいことが出来たのに…そんな簡単に決めていいのかなって私は思ってるんだけどね」
なに、それ…そうなんじゃん。やっぱりそうなんでしょ。
そんなにも満たしてる、千颯は。
千颯のことを満たしてる。
それなのに…
“俺は絵なんかどうでもいい、咲茉といれたらそれでいい”
どうしてそんなことが言えたの。
言わないでよ、言わないで…
千颯!
居ても立っても居られなくて家に飛び込んだ。
千颯の家に、千鶴ママが私の表情を見て驚くような顔をしたけど“どうぞ”って言ってくれたから家の中に乗り込むみたいに玄関から飛び込んで千颯の部屋がある2階まで駆け上がった。
階段を上がるたびに込み上げる思いが胸を締め付ける、ぎゅっと抑え込まれたような感覚に胸が熱くなって。きっと千颯の顔を見たらもう我慢ができない。
「千颯…っ」
瞳からこぼれ落ちる涙がポタッと床に落ちた。
「咲茉!?なんだよっ、ちょ…まだ支度してっ」
勢いよくドアを開けたら制服のブレザーを羽織った千颯が焦ったようにボタンを留めていた。
この部屋もよく遊びに来てた。何度もここで一緒に絵を描いたよね。
2人で1枚の画用紙に絵を描いたこともあったし、見たことない色を探そうって絵の具を混ぜたり…あ、絵の具をこぼして千鶴ママに怒られたこともあったね。
そんな毎日だった。
楽しかったよね。
全部私の大好きな瞬間だった。
千颯もそう、思ってた?
「千颯、絵好きなんでしょ?」
声が震える、涙で滲んでうまく千颯の顔が見られない。
「留学なんで行かないの?」
「…咲茉」
「ねぇ本当にちゃんと考えた?将来って大事なことだよ、もっとちゃんと考えなきゃ…千颯のことなんだからっ」
次から次へとこぼれてくる涙を拭って、振り絞るみたいに声を出して。
ねぇ千颯、本当は行ってほしくない。
ずっとここにいてほしい、私の隣にいてほしい。
「俺は咲茉がっ」
「好きだよ、千颯のこと」
「…っ」
だけど、それは私のわがままだから。
「千颯のことが好き」
あの日、一緒に絵を描き始めた時からずっと。
「千颯とね…、絵を描いてる時が1番好きだったの」
千颯と一緒にいて楽しかった。
「楽しくて、ずっとこんな時間が続けばいいのになぁっていっつも思ってた」
毎日飽きもせず一緒にいていろんな話をして笑い合って、千颯のことを思えば涙が止まらなくなるくらい千颯のことが好きだよ。
「離れたくないよ、そばにいてほしい…っ」
だからできることならこの先も、千颯と一緒に絵を描きたい。千颯が隣にいない未来はこの先の進路よりも考えられないよ。
「じゃあっ」
「でも千颯には才能があるから!」
私のために捨てたらもったいない、そんなこと言わないで。
千颯と目を合わせた。
本当は笑いたかったんだけど、どうしても上手くは笑えなくてぎこちなかったと思う。
「俺は…」
あと少し、少しだけこの涙を許して。
「咲茉があの日誘ってくれて嬉しかった、いきなりここに来ることになってすげぇ嫌だったけど咲茉がいたから…だから、咲茉より大事なもんなんかねーんだよ」
「千颯…」
「咲茉といたい…っ、そばにいるし隣にいる!だから…っ」
初めて聞いた、ずっと一緒にいたけどこんなこと聞いたことなかった。
今すごく嬉しい、心が躍りだしそうなくらい嬉しい。
「俺は咲茉の方が大事だ、絵を描くことより留学することよりっ」
「私が嫌なの!」
だけどそんな千颯のことが羨ましくて、だからちょっとだけ千颯といるのが苦しくなる。
もし、もしね?
あの日、私が誘わなかったらどうなってたのかな?
千颯に一緒に絵を描こうって言わなかったら…
千颯は絵を知らないままだった?
誘わなきゃよかったのかな…
なんて、そんなこと絶対に思いたくないから。
「千颯は大丈夫だよ」
手を伸ばして千颯の制服を掴んだ。
少しだけ下を向いてしまった、どうしても涙は止められなくて下を向いたらもっと溢れてくることはわかってたんだけど。
「千颯…っ」
声が震える。体が震える。ポロポロこぼれ落ちる涙が邪魔で仕方ない。
「私っ」
本当は、私も行きたい。
千颯と一緒に行きたい。
もっと私に絵が描けたら、お母さんを納得させられる才能があったら、私の未来は違ったかもしれない。
でもそんなの夢でしかないから。
現実はそうじゃない、夢ばっか見てられないし羨ましく思っててもしょうがないの。
だからせめて…
「私、千颯のこと応援してるから」
背中を押させてよ、千颯。
「千颯ならもうどこへ行っても大丈夫だよ」
ぎゅーっと千颯の制服を握る、力が入っちゃってしわになっちゃうねごめんね。
「私は…ここにいる、ずっと千颯のこと見てるここから見てるから…っ」
これは別れじゃないよ、だから離れてもいいの。
そばにいなくても、隣にいなくても、私は千颯のこと…
「咲茉!」
腕を引っ張られ抱き寄せられた。
とんっと千颯の胸に体が触れて、腕の中に閉じ込められた。耳元で千颯の吐息を感じる。
「咲茉のことが好きだ、ずっと好きだった」
男の子に抱きしめられたのなんか初めてだ。
ドキドキして胸が苦しい、でも愛しい。苦しいのに愛しいってそんなことあるんだね。
「…だけど、絵を描くことも好きだ」
「うん」
「でもそれを教えてくれたのは咲茉だから」
「うん…」
いいんだよ、それで。それでいいの。
「絵が描きたい」
それは千颯の未来だから。千颯が好きなように思い描いていい。
「でも絶対に離さねぇよ、そばにいなくても離さない」
「そんなのできる?」
「できるよ」
「本当かなぁ」
ふふって笑っちゃった。
千颯が真剣に言うから、耳元で聞く千颯の声がすーっと体の中に入って来る。
千颯の背中に手を回してぎゅっと抱きしめた。
離したくない、このままいたい。
でも私たち、大人にならなきゃいけないから。
それが未来だから。
「それでいつか咲茉を描く」
「風景画しか描いたことないのに?描いてくれるんだ?」
「おぉ描いてやるよ」
「あ、でも将来はプレミアがつくかもね!みんな描いてほしいって思うかも!」
「咲茉しかか描ねぇよ」
千颯の腕がほどけて少しだけ上を向いた。目を合わせて微笑み合って。
「私だけでいいんだ?」
「咲茉がいいんだよ」
「何それ、告白じゃん」
「ばーか、プロポーズだよ」
目を閉じた。
そっと近づくから、唇に千颯の温度を感じて夢を見てるみたいに。
もう絵はやめる、描けなくてもいい。
私に新しい夢ができたよ。
「いってらっしゃい、千颯」
ずっと千颯の絵を見ていたい、千颯のそばで。
****
「咲茉、受験票持ったの!?」
「持ったよ」
「しっかりね、落ち着いて!ちゃんとやったら出来るからね!」
「お母さんが落ち着きなよ」
ぐるんっとマフラーを巻いてコートを羽織った。スニーカーを履いて、玄関にある鏡で身だしなみをチェックする。
よし、大丈夫!寝ぐせもない!
「じゃあ行ってくるね」
「がんばってね」
「うん」
不安そうな顔をするお母さんをよそに私は案外余裕だった。
まぁまだわからないんだけど、受かる自信があるかって言われたら別なんだけどちょっとだけワクワクしてたの。この一歩で何かが変わるように思えてたから。
「じゃあいってきます!」
ドアを開ける、大きく踏み出して。
大学は経済学部を選んだ。正直まだやりたいことは浮かんでないけど、視野を広く!って言われたから世の中の経済を学んでおこうかなって。これが私の未来に繋がるように。
-ブブッ
あ、LINEだ。
コートのポケットからスマホを取り出して画面を開いた。
えっと、誰から…
“咲茉がんばれ”
「……。」
少し早く千颯は飛び立って行った。今は遠く海を越えた土地で1人がんばってるらしい。
だから…
うん、がんばるよ私も。
大丈夫、いつも想ってるから。
―シュッ
あ、また来た!
今度は写真…?
“あと賞取った”
「いや、ついでに送って来ないでよ!?」
……。
こーゆうとこ本当千颯だな、なんでそんなに軽い感じで言ってくるの…
また賞取ったってすごいことでしょ!?
すごいことなんだからもっとこう…やったぜ!みたいに言えないのかな。
言わないだろうな、言う気もなさそうだもん。そんなところが千颯ぽくていいんだけど。
だってすごく…
「すてきな絵!」
こんなの私には描けないもん。
だけどもう羨ましくないよ。
なんなら誇らしいね、そんな千颯がいることが。
いつか私の絵を描いてくれる日を、楽しみに待ってる。
その時には私も自分の未来を描いてるから。
千颯がこの町にやって来たあの日、少し俯く千颯を見て声をかけたの。
絵を描くのが好きだったから、絵を描いてる間は何もかも忘れて夢中になれるから…
きっと千颯も忘れられるよって。
私が教えてあげる、きっと楽しくて夢中になっちゃうからー…
****
「千颯、コンテストの絵描けた?」
「まだ」
「今週提出だよ、描けそ?」
「そうゆう咲茉は描けたのかよ」
「あとちょっと」
美術部の活動は週3回、あとは基本自由でコンテストに出す絵さえ完成させられたら来ても来なくてもいい。
でも暇だから毎日来ちゃう、こうしてキャンバスに向かってる時間は何より好きな時間だから。
美術室で千颯と向き合って絵を描く、目の前のキャンバスで顔は見えないけど筆のこすれる音を聞きながら千颯を感じて。
今日は自由参加の日だから私たちしかいないしね。
「そいうえば進路希望の提出もうすぐだよね」
「明後日だな」
「そんなに早く決められなくない?まだ全然先のことなのに」
「来年受験だぞ、全然先じゃねぇよ」
もう来年…か、来年の私はどうしてるんだろ?来年もたぶん絵を描いてる、かな?
そんな未来しか見えない、そんな未来がいい。
筆に絵の具をつけて塗っていく。色を重ねたり、水で薄めたり、丁寧にゆっくりと。
一瞬息が止まりそうになる、この瞬間が私は好き。
何もかも忘れて無になる瞬間、夢中になれる瞬間が…
「千颯は決まってるの?」
「ん?」
「進路!」
「あー…決まってない」
自分がどうなりたいか、なんてみんなそんなもの…
どうやって決めるんだろう?決めていいのかな?自分のことなんだから自分で決めるのがあたりまえなんだけど…不安になるばっかりだ。
だけど、もしかして叶うなら…
「私は絵の大学か専門学校に行きたいんだよね」
「咲茉は決まってるのかよ」
「夢ね、夢!もっと絵描きたいし、絵を仕事にしたなぁ~って」
画材の香りが立ち込めるこの教室で、こんなことを言うのは簡単で。
「でも、ちょっと勇気ないじゃん」
これだけでいいのかなって、好きなだけでいいのかなって。
進路を聞かれるたびに迷ってしまう、みんなこれで一生が決まるみたいな言い方をするから。
「ねぇ千颯も一緒に行かない!?」
ふと思いつきで、何気なく言ってみた。不安だった気持ちを晴らすみたいに。
「一緒のところ行こうよ!千颯も絵描くの好きじゃん!上手いし、千颯なら絶対受かるし!」
「いいよ」
「即答!?」
「おぅ」
ひょこっとキャンバスから顔をのぞかせて千颯の方を見た。真剣な顔をして向き合っていた千颯だったけど顔を出した私の方を見てふっと笑った。
「じゃあ絶対だよ!」
ほら、変わった。不安だった気持ちが消えていくの、千颯がいれば変わる。
急に勇気が湧いてくるみたいに楽しみになった。
これからが、未来が、一気に光に照らされた気がして。私ってば単純すぎる。
もう一度キャンバスと向かい合って前を向く、筆を持ったまま次はどこを塗ろうかなって考えながら。
「…大学と専門学校だったらどっちがいいかなぁ?千颯はどっちがいいと思う?」
「どっちでもいい」
「そこもっと意見ないの?」
「いいよ、どこでも」
いいのか、いや私が言ったんだけどさ。
一緒のところ行こうよって、でもどこでもいいって…
「こうして描けたら、どこでもいい」
……。
あ、そっか。そうだね、そうだよね。
私も、この先もこうしていられるならどこでもいいよ。
ずっと絵を描きたい、いつかそれで認められる日が来ますように…
なんてね。
だって千颯がいたら心強いし。
****
「ただいま」
玄関のドアを開けたらキッチンの方から“おかえり~”って声が返って来た。
いい匂いがする、今日はシチューかな。お母さんの作るビーフシチューはおいしいからね。
「……。」
ローファーを脱いでスリッパに履き替えると目の前に飛び込んでくるのは飛行機の絵。私が小学生の頃描いた絵が額縁に飾ってある、まるでお出迎えしてくれるみたいに。
「これいつまで飾る気なんだろ」
橋本咲茉、小学2年生。金賞。
地元の絵のコンテストに応募して賞を取った私の絵。
いつ見ても堂々として、我ながらよく描けたなぁって懐かしい思いにふける。
わざわざこんな額縁に入れるくらいなんだからお母さんも張り切ってたな。地元のコンテストだけど新聞に名前も載ったもんね。
これはまだ千颯と会う前の絵。
「もうご飯だから着替えて来なさいよ」
ダイニングの方へ向かうと今日はやっぱりシチューだった。テーブルにはサラダとパンも置いてあって急にお腹が空いてきた。
「うん、すぐ行ってくる」
階段を上がって自分の部屋へ、制服からテキトーな服に着替えてもう1度ダイニングへ向かった。
シチューも並べられた自分の席に座る。今日もお父さんは仕事で遅くなるっぽい、だからお母さんと2人向き合って手を合わせた。
スプーンですくってひとくち。うん、おいしい。
おかわりしよ、食べ終わる前からそう決めてふたくちめをスプーンですくった。
「咲茉、進路希望調査は出したの?」
「あ…まだ出してない」
「どうするか決めたの?とりあえず短大でも大学でも出といた方がいいから、お父さんも言ってたし」
「……。」
お父さんはそれなりの大学を出て今はサラリーマンをしてる。お母さんは大学へは行かず高校を卒業して就職した。そんな話を何度も聞かされた。
だから私にはとりあえず大学へ行ってほしいらしい。それも普通の、いや普通ってわかんないけど。
「私…、美大に行きたいんだけど」
ぼんやりと思いながらも言えなかったことを初めてお母さんの前で言ってみた。ずっと思っていたけど勇気がなくて口にできなかったっていうか、でも今日なら今ならいえる気がして。
「美大?美大なんか行って何するの?」
これは普通じゃないらしい、専門学校はダメって言われるかなって美大って言ったのに。
「絵の勉強がしたいの、もっと勉強してもっと描いてそれでっ」
「それからどうするの?」
「え?」
お母さんがはぁっと息を吐いた。食べようとしたシチューも口に入れないでそのまま手をおろして。
「絵の世界なんて成功するのはほんの一握りなんだからやめときなさい」
だからずっと言えなかったのに。やっぱり言わせてもらえないんだ。
「普通の大学にしなさい」
だから普通ってなに?絵を学びたいのは普通じゃないの?
私の夢は叶える努力さえさせてもらえないんだ。
私の未来はどう作っていけばいいんだろう、わからないよ。
****
「ってお母さんに言わた」
「だろうな、現実的じゃねぇからな」
次の日、美術室で千颯に話したらこれも即答された。しかも私の方を見向きもしないでずっとキャンバスに向かって塗ってるし。
「昨日はいいよって言ったじゃん!千颯も行くって!」
「言ったけど、そんな甘くない世界ってことはわかってるだろ」
「…。」
そんなの…私だってわかってるよ。わかってるから言えなかったんだもん。
だけどそれでも絵が好きだから、描くことをやめられないからもっと目指したいんだもん。
「…って本気で思ってるんだけどなぁ」
窓際で頬杖をつきながら外を見てふぅーっと息を吐く。
1階の美術室はちっとも景色はよくないけど、しかも校舎奥にあるから見えるのは裏山だけ。空気は澄んでるか、なんとなくそう感じる。
「俺も思ってるよ」
千颯が塗り終えたのか筆を洗うバケツ、筆洗に筆を浸けた。真っ直ぐ絵の方を見て真剣な眼差しで。
「咲茉が行くなら俺も行く、本気で」
その瞳のまま私の方を見るから。
「本気でって」
思わずくすって笑っちゃった。
千颯だけだもん、そんなこと言ってくれるの。千颯だけだよ。
「つーか描けたのか?全然描いてないじゃん」
「できたよ!完成した!」
窓からタタッと移動して絵の前に立った。
コンテストに向けて毎日少しずつ描いた作品、ちょーっと書き直したりもしたけどやっと完成した。一生懸命向き合って描いたおかげでいい絵になったと思うし、自分で言うのもあれだけど。
「今年こそは賞を取るんだ」
出来上がった絵を上から下に、下から上にじーっと見てコクンと頷いた。
そしたらきっとお母さんも認めてくれる。進むことができると思うんだ。
「千颯も描けた?」
「あぁ、あとちょっと」
「じゃあできたら見せてもらお!」
完成した絵をそのままにもう1枚画用紙を持ってきた。棚から余っていた画板を持って来て画用紙を挟んで、筆箱から鉛筆を取り出して手に持った。
「まだ描くのか?」
「うん、まだ部活中だし!」
今日は美術部の活動日だから私たち以外も参加してる、だけど絵なんて基本個人活動だからね各々好きなように自分のペースで描くのが部活動で。それ見て先生もうんうんって満足気だもん。
「千颯は今年も賞取れそう~?去年取ってたじゃん、特別賞!」
「あんなの偶然だよ」
「いやいや、すごいよ」
真っ白な画用紙を見るのはぐわーってテンションが上がる。
何を描こうかなってワクワクして最初に描き始めるこのひと描きがたまんないよね。何もかも自分で描ける気がするから。
「俺は咲茉のがよかったと思うけど」
「でも私何も選ばれてないし」
「じゃあ審査員のセンスがねぇ」
「え、審査員ディスり!?自分賞もらってるのに!」
私は高校に入ってまだ一度も賞を取ったことがない。
それでも毎日描くのが楽しくて、ここへ来てる。絶対次こそは!って思いながら。
「あの色使いをわかってねぇんだよ、色選びと塗り方があざやかで繊細な表現してんのに」
「ありがとう、そんなに言ってくれて」
「構図だって視点が独特だし、そんな描き方もあるんだって発見になるしあれで賞取れないとか」
「褒めすぎだからそれ、逆に恥ずかしい」
そう言ってくれるのは嬉しいけど、そこまで言われるとなんていうか…
「本気で思ってるんだよ」
……。
本当に千颯だけ。
千颯はいつも私を見てくれるよね。
だから楽しいの、こうしていられる時間が好きなの。
やっぱりまだ先のことは考えたくないかも。
千颯とこうして絵を描いていたい。
うっとおしいすべてを忘れて、絵を描いていたい。
部活が終わったら一緒に帰る、どーせ家はお隣さんだからね帰るところほとんど同じだもんね。
まだ明るい夕方6時を過ぎたところ、お腹空いたねなんて話して今日って宿題何があったっけ?って思い返してそんな他愛もないことを喋りながら家に帰る。
千颯とは小学生の頃からこんな感じ、千颯がここに来てからずっと…
「おかえり」
「あーっ、千鶴ママ!ただいま~!」
「咲茉ちゃんおかえり、千颯も」
「ただいま」
千颯の家の前に来ると千鶴ママがちょうど買い物から帰って来たところに居合わせた。手にはエコバッグを持って、家の中に入るところだった。
「持つよ、母さん」
それにサッと手を伸ばして千鶴ママからエコバッグを持っていく。
すごいナチュラルだ、たぶんいつもしてるんだろうなぁって思わせるくらい自然だった。じゃあっと私に言うと、そのまま家の中に入って行った。
うん、すっごいナチュラル!
「咲茉ちゃん、いつもありがとうね」
「え?」
千颯が中に入って行くのを確認して千鶴ママが私の方を見たから。
「咲茉ちゃんのおかげ、千颯がこの町に馴染めたのも毎日楽しそうなのも」
千颯がここへ来たのは小学校3年生の頃、お父さんと離婚して千鶴ママとここへやって来た。千颯のおばあちゃんが住んでるこの町に。
「内気な子だったから心配してたんだけど、咲茉ちゃんが声をかけてくれたから」
今もあの頃も絵を描くのが好きだった私は一緒に絵を描こうって誘ったの。絵を描くのに言葉はいらないし、喋らなくても一緒んに遊べるからって…
いつも下を向いていた千颯が気になってたから。
「咲茉ちゃんのおかげね、ありがとうね」
知らない町に来た千颯も怖かったと思うんだ。
でも私は嬉しかったの、千颯が来てくれたこと。
今もずっと嬉しいよ。
だから顔を上げて、私と一緒にー…
「次の授業物理かよだりぃな」
って喋ったら喋ったらで案外口悪いとは思わなかったけど。
「眠くなるよなー、何言ってるか全然わかんねぇし」
それは私もわからないから同意。
午後の授業が始まるお昼休み、開けた窓から顔を出して風に当たっていた。2階にある教室は美術室より景色はいい、ほとんどグラウンドだけど。
「すでに超眠い」
ふぁーっと千颯があくびをした。窓に背を向けてもたれながら、そんな横顔を見てた。
「ねぇ今日も部活行く?もうコンテストに出すやつ描き終わっちゃったけど」
「行くよ」
私が見てたのに気づいた千颯がこっちを向いた。だから目が合ってしまって。
「行くだろ、咲茉も」
少し恥ずかしくなっちゃった。
「行く!」
ふって、笑うから。私を見て笑うから。
こそばゆい気持ちになって。
「ねぇ千颯」
「ん-」
「絵描くの楽しい?」
「楽しい」
春風が気持ちいい。
「咲茉は?」
まだ先のことなんてわからないけど、私には絵がある。好きなものがある。
「私もめーっちゃ楽しい!」
千颯がいる。
だから今日も描いて、それでよかった。
それがよかった。
飾られた千颯の絵を見るまでは。
「咲茉っ!」
あれから数ヶ月、コンテストの結果出た。
認められたくて、進みたくて、必死になって描いた絵の答えが出た。
「千颯…」
私のもとへ駆け寄って来た。
ぼぉーっと絵を見つめる私のもとへ…部活の一環としてコンテストに出した絵は学校に飾られる。
もれなく全員飾られてその下に名前が貼られる、受賞した賞と一緒に。
井上千颯、最優秀賞。
1番優れた人に贈られる賞が千颯の名前の隣に書いてあった。
「咲茉っ」
「千颯、すごいね今年も賞取ってるじゃん」
「あのっ」
「しかも1番すごい賞!すごいね!」
「咲茉…っ」
「千颯はすごいよ…」
私の名前の隣には何も書いていない。
私は、今年も落選だ。
「ごめん、今日は帰るね!部活休むからテキトーに言っといてよ!」
「咲茉っ」
あぁ、今年もダメだった。
今年も私はダメだった。
私ってどうして絵を描きたいんだっけ?
どうして描いてるんだっけ?わからなくなっちゃったな。
****
「咲茉、進路はどうするか決めたの?」
「……。」
お風呂から出て2階へ行こうとして階段を一段上ったとこだった。
そーいえば春にちょっと都会の美大を書いて出したらお母さんに怒られて先生も困ってたなぁ。あれはあれで本気で書いたのに即却下されちゃって、でもまだ2年生の始めだからもう少し視野を広げて考えてみようって諭された。
あれからもう冬…そろそろ本気で考え始めないと、いけないのかな。
「美大なんてやめてね、もっと現実的なこと考えて決めなさいよ」
そんなのもうわかってるよ、何度も聞いた。
それに私はもうー…
「千颯くんは海外行くみたいね」
テキトーに返事をして階段を上がって行こうと思った足が止まった。
え?千颯が海外…?
「何それっ」
階段を下りてお母さんを追いかけた。
そんな話知らない、そんなの聞いてない…っ
千颯が海外なんて…!
「こないだのコンテストで賞取ったから留学の話が来てるって千鶴さんが言ってたわよ。千颯くんのこと凄く評価してくれた教授がいたみたいでね、ぜひうちの学校にって」
……。
そんなこと全然知らなかった。そんなことになってたなんて、千颯なんにも言ってなかったじゃん。
「凄いわね千早くん、才能あったのね」
そんなこと私には全然…
****
次の日の朝はとっても寒かった。息を吐けば白く舞って、頬が冷たく凍てついて、12月ってそんな季節だっけな。
「おはよ、咲茉」
「千颯…、おはよう」
それなのに千颯は変わらなくて、いつものように家の前で待っていた。
お隣さんだから、学校だって一緒だから、いつもこうして並んで歩いて…こんなに一緒にいたのにそんな話1つも聞いたことがなかった。
「今日さみぃな、2限目体育とか萎えるし」
「……。」
「マラソンだぞ、なんで冬ってマラソンなんだろうな誰だよ考えたやつ」
「…。」
「咲茉、聞いてんの?」
足が止まってしまう。見たくもないのに足元ばかり見てしまって…きゅっと制服のスカートを掴んだ。
「…聞いてないよ」
「聞いとけよ、隣で喋ってんだから」
「聞いてない!千颯が海外行くなんて聞いてない!」
「…っ」
無理にでも顔を上げた。
こんなに寒いのに目元が熱くて、少しでも瞳が揺れたら涙がこぼれそうだった。
「海外…行くとか、私聞いてないんだけど。そんな話、いつの間に…」
あ、やばい。下を見たらやばい。
上を見なきゃ、でも千早颯の顔を見たら…
「行かねぇよ、海外なんか」
俯きそうになった、でもその言葉にピクリと止まってしまって。
「俺は咲茉と美大に行く」
「ちょっと何言って…っ」
「咲茉が言ったんだろ」
“ねぇ千颯も一緒に行かない!?”
夢を見てた、漠然とした夢だった。
まだなんでもできると思ってた、あの頃は。
「…言ったけど…でもちょっと現実的じゃなかったかなーって、もっとちゃんと考えた方がよくない?将来って大事じゃん、そんなテキトーに」
「本気じゃなかったのかよ!」
グッと刺さる、胸をえぐって来るみたいに突き上げられた。
本気、だった。
確かに私の気持ちはそうだった。
だけど今は覚えがないくらい、私そんなこと言ってた?
「じゃあ…千颯は海外行かないの?」
「行かない」
「たくさん勉強できるんだよ、もっといろんなことできるし学べるしここにいたら知らないこといっぱいあって…」
「それでも行かない」
千颯の目は真っ直ぐだった。
瞬きもしないで迷いのない瞳は力強く私を見ている。私の方がどうにかなってしまいそうなくらい。
「千颯、絵描くの好きなんでしょ?」
“絵描くの楽しい?”
“楽しい”
きっと千颯もそうなんだと思ってた。
おんなじなんだと思ってた。
いつも一緒にいたから。
「俺は絵なんかどうでもいい、咲茉といれたらそれでいい」
いつも一緒だったから…
前に立って私だけを見てる、逸らすことなく貫くような瞳に息を飲んだ。その眼差しが、痛くて。
「どうして…」
必死に堪えていたのに。寒さで誤魔化せたらいいのにって思ってたのに。
次に声を発しったらこぼれてしまうから。
「そんなこと言うの?」
一度こぼれた涙は次から次へと溢れてくるだけで止まることを知らないのにね。
私の涙を見て少しだけ千颯が驚いたような顔をした。真っ直ぐ前を見ていた瞳が大きくなって、顔がゆがんで…でもそれ以上は見られなくて。
「咲茉…っ!」
走り出してしまったから、その場から逃げるみたいに駆け出した。
流れてくる涙も気にしないで、冷たい風のせいで赤くなる頬の上を流れる涙を流し続けた。
走って、走って、息が切れるほどに全力で…
「…っ」
苦しくて、胸が痛い。詰まる声が邪魔をして息がうまくできない、ひっくひっくと小刻みに震えることしかできない。
こんなことしかできないの、私には。
千颯、なんでそんなこと言ったの?
どうして言えたの?
そんなこと言わないでよ。
私といれたらいいだなんて、簡単に言わないでよ。
「なんで…っ」
学校へ行くつもりだったのに、気づけば全然違うところに来ていた。ただ無我夢中で走って来たからいつもは来ないようなとこまで来てしまっていた。
でも周りを見る気にもなれない。
はぁはぁと乱れる息で揺れる体を必死に保って、それでも涙は止まらなかった。
本当は私わかってたの。
もう気づいてた、自分のことだもん知ってたよ。
知ってたの…
私に才能なんかない。
そんなのとっくの昔にわかってた。
小学生の頃みたいに夢中に描けないの。
何を描いたらいいかわからないの。
ただ描くのが楽しくて何でも描けるって信じてたあの頃の私はどこへ行ったんだろう?
もう忘れちゃった。
私、何もなくなっちゃった。
****
「咲茉、あんた最近部活は?帰って来るの早くない?」
「んー…もう引退したよ」
「そうなの?まだ2年生じゃない」
「でももうすぐ受験生だし、文化部はもうみんな引退してるよ」
なんて、息を吐くように嘘をついた。
実際は高校3年生の夏とか秋とかそれぐらいまである、美術部は春のコンテストの結果が出た頃が引退の時期だし。
本当だったら、絵を描いてる時だ。高校最後のコンテストに向けて必死にキャンバスに向かってる頃だ。本当、ならね。
でも描けなくて、何も浮かんでこなくて、鉛筆を持つのをやめた。あんなに好きだったのに、絵を描いてる間は何もかも忘れられた大好きな時間だったのに…
今は絵を描くことを忘れちゃった。
楽しくなくて、暗闇みたいで、
ずっと隣にいた千颯にも会えなくて。
「あ、おはよう咲茉ちゃん」
「千鶴ママ…おはよう」
うわ、気まずいっ。
家を出たら会ってしまった…
お隣さんだからこんなこともあるんだけど、いつもは全然気にしないけどこの時間は会いたくなかった。この時間に植木鉢の水やりしてるんだ。
「今日早いのね、今千颯呼んでくるから待ってて」
「あ、大丈夫!お構いなく、全然…っ」
これはわざとだから、千颯に会いたくなくてわざと先に家を出てる。
もうずっとこんな日々だった。
千颯だってわかってるはずだよ、私が避けてたこと…
「あ、そうだ咲茉ちゃん…千颯から何か聞いてない?」
持っていたジョウロを置いて家のドアを開けようと伸ばした手を止めて振り返った。
「何かって…何を?」
「留学のこと、聞いてないかな?」
留学…海外へ行く話だ。でも何も聞いてないどころか、話してないから。
「こないだ先生から電話があって考え直せませんか?って言われちゃって…」
「あー、千颯行かないって言ってたもんね」
「咲茉ちゃんは聞いてたの?」
「え…?」
千鶴ママが目を丸くした、千鶴ママは何も知らなかったみたいで。
「やっぱり咲茉ちゃんには言ってたのね」
「…っ」
「私には何も言わないから」
言ってなかったんだ、千鶴ママに。いや、それは言うべきでしょ大事な話なんだから何黙ってるの。
「全部勝手に決めて勝手に断っちゃうんだから…、千颯のことだけど私のことでもあるのに」
「……。」
「行きたくないのよね、千颯は」
千颯は本当に行かないつもりなんだ。
行かなくていいんだ…千颯はそれで、千颯にとってそんなものなのかな?千颯は本当に…
「行きたくないのはいいの、それは千颯が決めることだし生活が変わるのは不安もあるからまた新しい生活になると悩むこともあると思うし…」
思い出すから、千颯がここへ来た日のことを。まだ幼かった私たちが出会った日のことを。
「でも毎日絵を描いてるの」
「え…?」
「学校でも描いてるのに家でもずーっと描いてて一生懸命なのよ」
千鶴ママが微笑んだ。
きっと千颯のことを思って。思い出して、千颯が絵を描く姿に思いを馳せた。
「せっかく好きなこと見つけて、やりたいことが出来たのに…そんな簡単に決めていいのかなって私は思ってるんだけどね」
なに、それ…そうなんじゃん。やっぱりそうなんでしょ。
そんなにも満たしてる、千颯は。
千颯のことを満たしてる。
それなのに…
“俺は絵なんかどうでもいい、咲茉といれたらそれでいい”
どうしてそんなことが言えたの。
言わないでよ、言わないで…
千颯!
居ても立っても居られなくて家に飛び込んだ。
千颯の家に、千鶴ママが私の表情を見て驚くような顔をしたけど“どうぞ”って言ってくれたから家の中に乗り込むみたいに玄関から飛び込んで千颯の部屋がある2階まで駆け上がった。
階段を上がるたびに込み上げる思いが胸を締め付ける、ぎゅっと抑え込まれたような感覚に胸が熱くなって。きっと千颯の顔を見たらもう我慢ができない。
「千颯…っ」
瞳からこぼれ落ちる涙がポタッと床に落ちた。
「咲茉!?なんだよっ、ちょ…まだ支度してっ」
勢いよくドアを開けたら制服のブレザーを羽織った千颯が焦ったようにボタンを留めていた。
この部屋もよく遊びに来てた。何度もここで一緒に絵を描いたよね。
2人で1枚の画用紙に絵を描いたこともあったし、見たことない色を探そうって絵の具を混ぜたり…あ、絵の具をこぼして千鶴ママに怒られたこともあったね。
そんな毎日だった。
楽しかったよね。
全部私の大好きな瞬間だった。
千颯もそう、思ってた?
「千颯、絵好きなんでしょ?」
声が震える、涙で滲んでうまく千颯の顔が見られない。
「留学なんで行かないの?」
「…咲茉」
「ねぇ本当にちゃんと考えた?将来って大事なことだよ、もっとちゃんと考えなきゃ…千颯のことなんだからっ」
次から次へとこぼれてくる涙を拭って、振り絞るみたいに声を出して。
ねぇ千颯、本当は行ってほしくない。
ずっとここにいてほしい、私の隣にいてほしい。
「俺は咲茉がっ」
「好きだよ、千颯のこと」
「…っ」
だけど、それは私のわがままだから。
「千颯のことが好き」
あの日、一緒に絵を描き始めた時からずっと。
「千颯とね…、絵を描いてる時が1番好きだったの」
千颯と一緒にいて楽しかった。
「楽しくて、ずっとこんな時間が続けばいいのになぁっていっつも思ってた」
毎日飽きもせず一緒にいていろんな話をして笑い合って、千颯のことを思えば涙が止まらなくなるくらい千颯のことが好きだよ。
「離れたくないよ、そばにいてほしい…っ」
だからできることならこの先も、千颯と一緒に絵を描きたい。千颯が隣にいない未来はこの先の進路よりも考えられないよ。
「じゃあっ」
「でも千颯には才能があるから!」
私のために捨てたらもったいない、そんなこと言わないで。
千颯と目を合わせた。
本当は笑いたかったんだけど、どうしても上手くは笑えなくてぎこちなかったと思う。
「俺は…」
あと少し、少しだけこの涙を許して。
「咲茉があの日誘ってくれて嬉しかった、いきなりここに来ることになってすげぇ嫌だったけど咲茉がいたから…だから、咲茉より大事なもんなんかねーんだよ」
「千颯…」
「咲茉といたい…っ、そばにいるし隣にいる!だから…っ」
初めて聞いた、ずっと一緒にいたけどこんなこと聞いたことなかった。
今すごく嬉しい、心が躍りだしそうなくらい嬉しい。
「俺は咲茉の方が大事だ、絵を描くことより留学することよりっ」
「私が嫌なの!」
だけどそんな千颯のことが羨ましくて、だからちょっとだけ千颯といるのが苦しくなる。
もし、もしね?
あの日、私が誘わなかったらどうなってたのかな?
千颯に一緒に絵を描こうって言わなかったら…
千颯は絵を知らないままだった?
誘わなきゃよかったのかな…
なんて、そんなこと絶対に思いたくないから。
「千颯は大丈夫だよ」
手を伸ばして千颯の制服を掴んだ。
少しだけ下を向いてしまった、どうしても涙は止められなくて下を向いたらもっと溢れてくることはわかってたんだけど。
「千颯…っ」
声が震える。体が震える。ポロポロこぼれ落ちる涙が邪魔で仕方ない。
「私っ」
本当は、私も行きたい。
千颯と一緒に行きたい。
もっと私に絵が描けたら、お母さんを納得させられる才能があったら、私の未来は違ったかもしれない。
でもそんなの夢でしかないから。
現実はそうじゃない、夢ばっか見てられないし羨ましく思っててもしょうがないの。
だからせめて…
「私、千颯のこと応援してるから」
背中を押させてよ、千颯。
「千颯ならもうどこへ行っても大丈夫だよ」
ぎゅーっと千颯の制服を握る、力が入っちゃってしわになっちゃうねごめんね。
「私は…ここにいる、ずっと千颯のこと見てるここから見てるから…っ」
これは別れじゃないよ、だから離れてもいいの。
そばにいなくても、隣にいなくても、私は千颯のこと…
「咲茉!」
腕を引っ張られ抱き寄せられた。
とんっと千颯の胸に体が触れて、腕の中に閉じ込められた。耳元で千颯の吐息を感じる。
「咲茉のことが好きだ、ずっと好きだった」
男の子に抱きしめられたのなんか初めてだ。
ドキドキして胸が苦しい、でも愛しい。苦しいのに愛しいってそんなことあるんだね。
「…だけど、絵を描くことも好きだ」
「うん」
「でもそれを教えてくれたのは咲茉だから」
「うん…」
いいんだよ、それで。それでいいの。
「絵が描きたい」
それは千颯の未来だから。千颯が好きなように思い描いていい。
「でも絶対に離さねぇよ、そばにいなくても離さない」
「そんなのできる?」
「できるよ」
「本当かなぁ」
ふふって笑っちゃった。
千颯が真剣に言うから、耳元で聞く千颯の声がすーっと体の中に入って来る。
千颯の背中に手を回してぎゅっと抱きしめた。
離したくない、このままいたい。
でも私たち、大人にならなきゃいけないから。
それが未来だから。
「それでいつか咲茉を描く」
「風景画しか描いたことないのに?描いてくれるんだ?」
「おぉ描いてやるよ」
「あ、でも将来はプレミアがつくかもね!みんな描いてほしいって思うかも!」
「咲茉しかか描ねぇよ」
千颯の腕がほどけて少しだけ上を向いた。目を合わせて微笑み合って。
「私だけでいいんだ?」
「咲茉がいいんだよ」
「何それ、告白じゃん」
「ばーか、プロポーズだよ」
目を閉じた。
そっと近づくから、唇に千颯の温度を感じて夢を見てるみたいに。
もう絵はやめる、描けなくてもいい。
私に新しい夢ができたよ。
「いってらっしゃい、千颯」
ずっと千颯の絵を見ていたい、千颯のそばで。
****
「咲茉、受験票持ったの!?」
「持ったよ」
「しっかりね、落ち着いて!ちゃんとやったら出来るからね!」
「お母さんが落ち着きなよ」
ぐるんっとマフラーを巻いてコートを羽織った。スニーカーを履いて、玄関にある鏡で身だしなみをチェックする。
よし、大丈夫!寝ぐせもない!
「じゃあ行ってくるね」
「がんばってね」
「うん」
不安そうな顔をするお母さんをよそに私は案外余裕だった。
まぁまだわからないんだけど、受かる自信があるかって言われたら別なんだけどちょっとだけワクワクしてたの。この一歩で何かが変わるように思えてたから。
「じゃあいってきます!」
ドアを開ける、大きく踏み出して。
大学は経済学部を選んだ。正直まだやりたいことは浮かんでないけど、視野を広く!って言われたから世の中の経済を学んでおこうかなって。これが私の未来に繋がるように。
-ブブッ
あ、LINEだ。
コートのポケットからスマホを取り出して画面を開いた。
えっと、誰から…
“咲茉がんばれ”
「……。」
少し早く千颯は飛び立って行った。今は遠く海を越えた土地で1人がんばってるらしい。
だから…
うん、がんばるよ私も。
大丈夫、いつも想ってるから。
―シュッ
あ、また来た!
今度は写真…?
“あと賞取った”
「いや、ついでに送って来ないでよ!?」
……。
こーゆうとこ本当千颯だな、なんでそんなに軽い感じで言ってくるの…
また賞取ったってすごいことでしょ!?
すごいことなんだからもっとこう…やったぜ!みたいに言えないのかな。
言わないだろうな、言う気もなさそうだもん。そんなところが千颯ぽくていいんだけど。
だってすごく…
「すてきな絵!」
こんなの私には描けないもん。
だけどもう羨ましくないよ。
なんなら誇らしいね、そんな千颯がいることが。
いつか私の絵を描いてくれる日を、楽しみに待ってる。
その時には私も自分の未来を描いてるから。



