私を殺めた16歳

 
「離婚した。……親権、お母さんなんだ。」
 それを聞いた時、ただただしまったと思った。それと同時に一切、そんなそぶりを見せていなかった絢乃に気づけなかったことに後悔した。
 つまらない社会史の時間。板書も大してなく、小太りした社会史担当の声だけが響く教室。(前原)は、対角線にいる絢乃に目をやった。はっきりとした輪郭に、細身の体。鼻筋の通った綺麗な鼻。絢乃が動くたび、耳の高さで括られた黒髪が横に靡く。
 ……でも、今思えば違和感は確かに合ったんじゃないかと思う。
 年齢が上がっていくに連れて周りへ向ける姿勢が変わるのは普通だ。でも、俺の記憶にある絢乃は、控えめに笑う女の子なんかじゃなかった。笑う時は腹を抱えて笑って、絢乃から笑かせにいくこともあった。それに対して今は完全に受け身だ。小中高でずっと一緒、しかもご近所の幼なじみだからわかる。よくお互いの家にも遊びに行った仲だ。
 ……まぁ、こう思い始めたのも絢乃が打ち明けてからなんだけど。
 一人で過去の面影に浸りながら空を見上げた。窓越しの空は青々しくて本格的な夏が始まりかけていた。
 今こうやって改めて考えてみれば、大きく変わってる。簡単に言うと大人びてる。絢乃……大丈夫かな。でも、本人が大丈夫って言ってたし……どのみち、深掘りするのは違うよな。
 ……あの時大人びた絢乃の表情が一瞬昔の健気な表情になったのは俺の思い違いなんだろうか。助けて、って本当は思ってるとしたら……。どのみち、俺に出来ることないよな。



「ただいまー。」
 学校から帰ってきて、靴を脱ぐ。すると、向かいの洗面所から姉ちゃんが出てきた。
「おかえり。ご飯できてるってさ。さっさと着替えてきな、って。」
「姉ちゃん……。一応俺思春期の男なんだけど。家の中を下着で移動するのやめてくれない?」
 姉ちゃんがいる家はみんなこうなのだろうか。メスゴリラめ。

「風呂上がったよー。」
 頭にタオルをかけたまま、俺はリビングのソファに座った。いつだって姉ちゃんはソファを占領している。そして、俺も座るわけだから、結局このソファに座るのは俺と姉ちゃんばっかり。
「姉ちゃん、チャンネル変えていいー?」
「んー。」
 曖昧に返事をする姉ちゃんは今、スマホに夢中そうだ。今のうちにチャンネル変えよ。
「たく、いつまでたっても果穂はスマホばっか。学校に行かないなら家の家事くらいしてほしいわ。」
 嫌味を吐くような母さんの声がキッチンから聞こえた。
「うるさいな。私のも色々あんの。お母さんだって専業主婦でしょ?なら家事するのは当たり前じゃなーい?」
「じゃああんたはなんなのよ。」
「は?お年頃のJK。」
「どの口が言ってるんだか。母さん、お風呂入ってくるからね。」
「さよなら〜」
「仲悪いなぁ〜。」
 やれやれと思いながらチャンネルをあさくった。姉ちゃんと母さんは仲が悪い。……ようで悪くない気もする。でも、こんな嫌味の言い合いみたいなやりとりは日常茶飯事だ。
 俺は、チラリと姉ちゃんの方を見た。
「何。」
「スマホ見てんのによく気づくね……」
 怖いよ。スマホ見ながらお母さんと言い合って、俺のちょっとした動きも見抜いて。……で、さっきまではテレビも見てたんでしょ?ながらの長良じゃん。JK恐るべし。
 ……姉ちゃんをJKと言っていいのかは俺もわかないけど。
「スマホ依存症舐めんなー。瞬きしながら本読むくらい容易いわ。」
「依存症を誇らしく思ってる奴、そんないないよ……」
 俺の姉ちゃんは不登校だ。理由は知らない。教えてくれなかった。高校2年に入ってから不登校になった。同じ高校っていうのもあって、先輩に聞けば何かわかるかもなんだけど、本人から聞けないのに、他人から聞くのもなんか癪で踏み出せなかった。
 単位とかどうすんの、ってお母さんから責められても、留年でいい、と。むしろ、退学でも構わない、と。俺の家は裕福でもないから、高校に行かないのならすぐ中退させると思ってたけど、母さんと父さんは何故かさせなかった。
 世間からは不出来な娘、って言われてるけど、姉ちゃんは気にも留めていなかった。俺らの中でも、姉ちゃんと俺を比べるような雰囲気にもならなかった。不登校で不出来だとしても、ちゃんと家族であり、果穂だということは変わらないって考えになったからだ。
 ……俺は、そんな姉ちゃんが不思議で。どこか頼ってしまう。基本、無気力だからある意味告げ口されないし、誰にも言えない悩みだって何回か相談してきた。……だから。
「ねぇ、絢乃のことなんだけどさ」
「んー。」
 スマホをスクロールし続ける姉ちゃんの横でとうとう口にした。
「両親離婚したって知ってる?」
「そうなの?知らない。」
 ケロッとした反応に少し拍子抜けした。
「え、それだけ?!」
「うん。今時、離婚とかありきたりなんじゃない?」
「そう……なのか?」
 今時離婚って普通なのか?確かに、シングルっていう言葉は耳にするようになったけど……。
「離婚って辛いものなんじゃないの?」
「人それぞれなんじゃない?DVされてたりしたら当たり前の選択だし、心から喜んで選択したのなら、それを憐れむのは違うでしょ。」
「そうなのか……。でもさ、明らかに辛そうだったら?」
「しつこいわねー。なに、あんた絢乃ちゃんのこと好きなの?」
「・・・。」
 姉ちゃんがこっちを向いた。スマホから画面を離した。なのに、リビングには沈黙が流れた。
「は、はぁ?!!!!!!」
「うっさ。」
 思わず大きな声が出てしまった。ソファの上に立ち上がり、姉ちゃんを見下ろした。
「違うわ!」
「へ〜。本当は?」
「違う!!今、真剣な話をしてんの!!」
「はいはい。」
 ガチでこのマウンテンメスゴリラは……。そういうのじゃなくて!!
 好き……、だとしても、そうじゃなくても、絢乃は俺の幼なじみだ。そして、姉ちゃんにも打ち明けてないことを俺に打ち明けてくれた。それに応えたいと思うのは普通だろ。絢乃は好きの前に家族も同然だ。
「わかんないんだよ。」
 手の施しようのないもどかしさに俺はぐったりと天井を見上げた。何かしてやりたい。困ってるのなら、聞いてやりたい。でも、俺はそんなん得意じゃないから……。
「いつも笑顔でいるけど、昔と違って、心から笑えてるように思えないんだ。何か抱えてるように思えて仕方ない。」
「っ……。」
 その言葉に、姉ちゃんは初めて黙り込んだ。どうしたのかと姉ちゃんの方を見るとスマホをスクロールする手が止まってた。長い髪で姉ちゃんの顔が見えない。え、また俺何かした?
「あんた、それ無理に聞くなよ。絢乃ちゃん壊れるよ。」
「え……。」
 いつもの無気力な姉ちゃんはどこへ行ったのか、声が重く、鋭くなった。スマホを置いて、こちらに向き直った。こんな姉ちゃんの姿なんか見たことなくて、動揺しか出なかった。そして、姉ちゃんの圧で言いたかった言葉も喉の奥で詰まった。
「壊れるって……」
「自分を守るために、誰にも言わない悩みもあんの。生きるために、吐き出したい悩みも、閉まっておかなくちゃいけない事もあるの。絢乃ちゃんは、それを理解できてるからそうしてる。いわば、裸を覗かれるのと一緒。」
「でもっ……」
「痣があったら隠したがる。それは誰でも同じでしょう?」
 姉ちゃんが、俺の両肩を掴んだ。歳の差が2歳しか変わらないのに、なんで俺はこんなに姉ちゃんと違うんだろう。姉ちゃんの言葉はいつも、正しい言葉ばっかりだった。でも……、なら……。
「……なら、俺はどうしたらいいの?」
「隣にいてあげて。何も言わず、いるだけでいい。そして、打ち明けられた時、全力で味方でいてあげて。」
「わ、わかった……」
 姉ちゃんの鋭い視線が突き刺さる。頷くしかできなかった。……姉ちゃんはどうしていつもそんな正解に辿り着けるの。なんでいつも俺は不正解なの?
「正解……。」
「ん?」
「こらー、家族同士の接触は流石に認めてないわよー。思春期同士で盛んないでちょうだーい。」
「わっ、」
「は?きも。」
 ちょうどいいタイミングで、母さんが風呂から上がってきた。姉ちゃんはいつもの姉ちゃんに戻り、俺は突き飛ばされた。
「いってーよ!突き飛ばすやつがあるかぁー!」



 暗い部屋に電気をつける。そのまま、(果穂)はベットへダイブした。その衝撃でスマホがデコにあたり、負傷した。
「いった〜……。」
 流石に今のは痛かった。デコをさすりながらスマホをスクロール。
「……絢乃ちゃん。」
 最近、連絡がなかったと思ったらそんなことが起きてたんだ。
 SNSは世の中の闇だ。SNSを見てたら、家庭事情の愚痴を書いてる人がたくさんいる。創作の話も多くはないけれど、大半は離婚してよかった、とプラスに捉える人が多い。……でも、絢乃ちゃんは純粋だから心配だ。

【「え……、キモ。果穂、そういう節あったんだ……」】

「……。」
 私には逃げ込める場所があった。そして、あんな親だけど、親の人間性に恵まれた。だから私は壊れないでいたけど……。
 いまだに不登校になった原因の夢を見る。事実なんだ。自分を守るために秘密を隠す方法があるってことも。でも、いつかは踏み出したくなって、打ち明けてしまう。
 絢乃ちゃんは恵まれていますように。
 離婚、か……。親権はきっと、お母さんの方だろうな。お母さんのもとで暮らすのなら、心配はあんまりいらないだろう。でも、優しいから、あの人自身も心配ではあるけど。……親子揃って優しい、かぁ。辛いねぇ。……世の中で優しいが通用するのは、義務教育まで。ましてや、絢乃ちゃんのような純粋ないい子は、傷つくことが増えるだけだ。あの父には、多分権利なんてない……。
「っ……」
 そこまで思ってハッとした。親権は母親、父親はあれで……。
 私たち、倉上家と前原家はみんな含めて仲が良かった。でも、倉上家の父親が少し変わっていたのは覚えている。私を含めて、世間では理想的な家族である倉上家の歪さは子供からず感じ取っていたんだと思う。
「絢乃ちゃんが……、私と同じ目に会いませんように。」
 静かに瞼は落ちていった。